『偽聖女』として追放された薬草師、辺境の森で神薬を作ります ~魔力過多で苦しむ氷の辺境伯様を癒していたら、なぜか溺愛されています~

とびぃ

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第5章:唯一の『神薬』

5-1:鉛のケース

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小屋の中は、竈(かまど)の炎の揺らめきとは裏腹に、氷点下の空気に支配されていた。
嵐の音は、頑丈に塞いだ扉と壁のおかげで遠のいている。だが、それ以上に恐ろしい静寂が、この小さな空間を満たしていた。
「はぁ、っ、はぁ」
ベッドの上で横たわるカイラスの呼吸音だけが、不気味に響く。
それは、高熱に浮かされた者の荒い息遣いでありながら、吐き出される息そのものが、周囲の水分を凍らせていた。
彼の体から漏れ出す、制御不能な魔力が空気を震わせる「ピシ、ピシ」という凍結音が、小屋の壁を、床を、ゆっくりと白く霜で覆っていく。
竈の炎が、この小屋の唯一の熱源だった。だが、その炎の暖気さえも、カイラスが放つ絶対零度の魔力に触れた瞬間、勢いを失い、まるで目に見えない壁に阻まれているかのように、彼の手前で冷気へと変わる。
ルシルが吐き出す白い息は、竈の光に照らされ、キラキラと輝く氷の結晶となって床に落ちた。
(寒い。空気が、死んでいくようだわ)
ルシルは、目の前で倒れているカイラスを見据えた。その瞳に、もはや嵐の夜の恐怖や怯えはない。
一人の薬草師として、未だかつて誰も治癒せしめたことのない難病『魔力過多症』。
その、生きた症例が、目の前にある。
彼女の指先は、先ほど彼をここまで引きずってきた際に負った凍傷で、感覚が麻痺し、赤黒く腫れ上がっていた。だが、その痛みさえも、ルシルの思考を鈍らせることはない。
(この人を助けられるのは、世界でわたくしだけ)
その確信は、傲慢から来るものではない。冷徹な、薬草師としての事実確認だった。
市販のポーションに含まれる「不純物」が、高純度の魔力を持つ者にとって「毒」として作用する。王宮の書庫で読んだ、禁書扱いの一文だ。
ならば、答えは一つ。
不純物を一切含まない、純度百分の一の『神聖原液』以外に、彼を救う術はない。
そして、それを精製できるのは、王宮が『偽聖女』として追放した、ルシルただ一人。
(ジェラルド殿下も、アデリーナも、何も知らなかった)
ルシルは、かつての婚約者と異母妹の顔を思い浮かべた。
彼らが「地味で陰気な薬草いじり」と蔑んだこの技術こそが、王国最強の魔術師の命を繋ぐ、唯一の鍵だった。
(あなたたちが棄てた力で、わたくしは、あなたたちが束になっても救えない命を救う)
それは、復讐心とは異なる、純粋な研究者としての矜持だった。
ルシルは、凍傷の痛みを堪え、ゆっくりと立ち上がった。
向かったのは、自ら組み上げた薬草の乾燥棚。その一番奥、最も光が届かず、乾燥した空気が澱む、最重要区画。
彼女は、束ねた『忌避の香草』の束を脇にずらした。そこには、小屋の壁の石を一つだけくり抜いて作った、小さな隠し戸棚があった。
その奥に、それは鎮座していた。
小さな、鉛のケース。
王宮の工房から持ち出すことが許された、唯一の「私物」。『神聖原液』のあまりの魔力純度ゆえに、この鉛の容器でしか運搬と保管ができなかった、彼女の仕事道具の一つだ。
ずしり、と重い。
その重みは、鉛の物理的な重さだけではない。この中に眠る「力」の重みだった。
ルシルは、その冷たい感触を確かめるように、両手でケースを包み込むと、カイラスの元へ戻った。
ベッドのそばに膝をつき、改めてカイラスの顔を見る。
彫刻のように整った顔立ちは、今は苦痛に歪み、銀色の髪は汗と雨で濡れそぼり、額に張り付いている。唇は青紫に変色し、そこから漏れる息が、周囲の空気を凍らせ続けている。
(このままでは、夜明けまでもたない)
一刻の猶予もなかった。
ルシルは、震える指先に意識を集中させた。
鉛のケースの、精巧な留め金を外す。
厳重な蓋を、ゆっくりと、持ち上げた。
瞬間、小屋の中の空気が変わった。
スゥッ、と。
まるで、真冬の密室に、春一番の空気が流れ込んできたかのような、清浄な魔力の奔流。
それまで小屋を支配していた、カイラスの荒々しく、死を振りまく氷の魔力が、目に見えて狼狽えた。
「ピシ、ピシ」と鳴り続けていた凍結音が、一瞬、完全に止んだ。
カイラスの魔力が、この新たに出現した「力」を明確な脅威とみなし、怯え、後ずさったのだ。
それは「匂い」ですらなかった。
薬草の青臭さも、土の匂いもない。
ただ、ひたすらに純粋な「生命力」そのものの芳香。夜明けの朝靄、雨上がりの新緑、生まれたての赤子の産声。そういった、世界に存在するあらゆる「始まり」の力を凝縮したような、清冽な魔力が、小さなケースから溢れ出した。
竈の炎が、その清浄な魔力に呼応した。
カイラスの冷気によって消えかかっていた炎が、まるで最高級の魔導燃料を注がれたかのように、ぼうっ、と音を立てて燃え上がった。
炎の色は、赤から、純粋な青白い光へと変わる。
小屋の中が、一瞬、真昼のように照らし出された。
その光の中心、鉛のケースの中に納められていたのは、指先ほどの大きさの、小さな、小さなガラス瓶。
その中に、たった数滴だけ。
まるで、夕暮れの空の一番美しい瞬間だけを切り取って閉じ込めたかのような、透き通った琥珀色の液体が入っていた。
それは、自ら淡い光を放っていた。
カイラスの魔力が放つ、人を寄せ付けない冷たい光ではない。
命を育む、太陽のような、温かい光。
これこそが、ルシルの知識と技術の結晶。
王宮で精製していた『星涙草』の原液ではない。
この嘆きの森で発見した、奇跡のSランク薬草『月影草』の魔力鎮静作用。
そして、あの清流が育んだ、汚染を知らない生命力。
その二つを、ルシルの完璧な魔力制御技術によって、不純物ゼロで融合させた、彼女だけの最高傑作。
『神薬』と呼ぶ以外に、言葉が見つからなかった。
ルシルは、そのガラス瓶を、まるで赤子を扱うかのように、慎重に、慎重に取り出した。
瓶が、手のひらの上で、心臓のように、とくん、とくん、と微かに脈動しているように感じられた。
(これさえあれば)
カイラスの荒れ狂う魔力を鎮め、暴走によって傷ついた神経を修復し、彼の命を救うことができる。
彼女は、自分が今、王宮の誰もが成し得なかった「奇跡」を行おうとしていることを自覚していた。だが、それは彼女にとって、薬草師として当然の行為だった。
(薬は、苦しむ人を救うためにある)
たとえ、相手が王国最強の魔術師で、自分が国を追われた反逆者であったとしても、その事実は変わらない。
いや、むしろ、彼が「反逆者」の自分を頼るのではなく、自分が「患者」である彼を救う。その純粋な医療行為が、ルシルの心を奮い立たせた。
ルシルは、瓶のコルク栓を、凍傷で感覚のない指先で、ゆっくりと捻った。
ポン、という小さな音と共に、凝縮されていた生命の魔力が、より一層濃く、小屋の中に広がる。
カイラスの喉が「ひゅっ」と鳴った。
彼の体が、本能的に、その魔力を求めているのが分かった。
ルシルは、腰に下げていた道具袋から、一本の細い植物の茎を取り出した。それは、中が空洞になっている『空芯草』の茎で、彼女が即席で作ったスポイトだった。
その先端を、琥珀色の液体に浸す。
たった一滴。
その一滴が、スポイトの中に吸い上げられる。
ガラス瓶の中にあった時よりもなお、その一滴は、凝縮された太陽のように輝いて見えた。
その一滴に、カイラスの命運が、そして、ルシルが「薬草師」であることの全ての意味がかかっていた。
彼女は、未だ高熱と極低温の間で苦悶するカイラスのそばに膝をつき、その固く閉じられた青紫色の唇を、真っ直ぐに見つめた。
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