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第7章:辺境伯の氷解
7-1:完治、そして兆し
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追放から、一ヶ月が経とうとしていた。
森の生活は、もはや「極限状態」ではなく、ルシルにとって最も満たされた「日常」となっていた。
小屋は、カイラスという名の、論理的で不器用な庇護者が現れたことにより、劇的な変化を遂げていた。
カイラスが「対価」として持ち込んだ、最高級の毛皮が敷かれた床は、ルシルにとって極上の絨毯であり、作業台には、王宮の工房にあったものよりも精密な薬草用の天秤や、ガラス器具一式が、彼の侍従によっていつの間にか運び込まれていた。
竈の火は、彼が持ってきた『魔力炭』によって安定し、ルシルは火種の管理という雑務から解放され、より研究に没頭できるようになった。
そして、日課となったのが、この「薬の取引」と「ハーブティーの儀式」だ。
「カイラス様、どうぞ。今日のぶんの薬です」
ルシルは、新しい緑色の作業着を纏い、鉛のケースから取り出した『神聖原液』の小瓶を、丁寧に彼に手渡した。
「ああ」
カイラスは、相変わらず短く返事をすると、ルシルを見つめることもなく、その琥珀色の液体を無言で受け取り、一気に飲み干した。
初めてこの薬を飲んだ時の、あの嵐の夜の激痛が嘘のように、今は、清流の水を飲むかのように自然に、彼の体に『神薬』が染み渡っていく。
「ふぅ」
カイラスの口から、安堵の息が静かに漏れた。その息は、もはや周囲の空気を凍らせることはない。ただ、長年の苦痛から解放された者だけが知る、魂の奥底からの「解放」の音だった。
ルシルは、薬を飲んだ直後の彼の様子を、薬草師として注意深く観察していた。彼女の繊細な魔力感知能力は、彼の体内を巡る魔力の流れを、水脈を視るかのように正確に捉えている。
(脈拍、完璧に安定。乱れていた魔力の流れは、驚くほど均一になっている。体温も、極低温の反動がない、平熱)
彼女は、この一ヶ月弱、毎日彼のデータを取り続けていた。薬草院での知識と、この森の薬草の力が、不治の病とされた『魔力過多症』を、根本から治療していたのだ。いや、治療というレベルではない。彼の魔力中枢は、もはや正常化していた。
ルシルは、ハーブティーのカップを差し出しながら、確信を持って告げた。
「カイラス様」
彼女は、彼の蒼い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「もう、その薬は必要ありません」
「なに?」
カイラスの蒼い瞳が、わずかに見開かれた。その表情の変化は、この一ヶ月でルシルが初めて見た、純粋な驚きだった。
「あなたの体は、完全に『治癒』されました。魔力過多症の症状は、もう完全に消え去っています。魔力が暴走することはありません」
カイラスは、ルシルの言葉を聞きながら、自らの手のひらを、じっと見つめた。
その指先からは、わずかな冷気さえも発していない。ただ、温かい、人間の手だ。
長年、彼を縛り付けていた、あの忌まわしい激痛。常に神経を焼き、思考を妨げてきた苦痛が、今は完全に消え失せている。
それは、薬で無理やり抑え込んでいる「鎮静」ではなく、魔力を生み出す中枢そのものが「正常化」したことによる、穏やかな「完治」だった。
「そうか」
カイラスは、短く呟いた。
「治ったのか。わたくしが」
その声には、実感がこもっていない。あまりにも長い間、苦痛と共に生きてきた彼にとって、「無痛」の日常こそが、まだ非現実的なのだ。
彼の氷のように無表情だった顔が、この一ヶ月で、驚くほど柔らかくなっている。彼が初めてこの小屋を訪れた時の、他者を拒絶するような冷たい魔力は、今や鳴りを潜め、ただ、静かで、強大で、そして優しい、領主としての魔力がそこにあった。
「はい。もう、あなたは『魔力過多症』の患者ではありません。あなたは、本来の『王国最強の魔術師』に戻られました」
ルシルが微笑むと、カイラスは、その笑顔から目を逸らすように、ハーブティーを一口飲んだ。黄金色の液体が、彼の口元をかすかに濡らす。
「礼を言う。ルシル」
「いいえ。わたくしは、薬草師として当然のことを」
「薬ではない。この茶のことだ」
カイラスは、ぶっきらぼうにそう言うと、窓の外に視線を向けた。その言葉の裏には、「薬は取引の対価だが、この茶は心への安寧だ」という、彼なりの不器用な感謝が込められていた。
ルシルは、その不器用な照れ隠しに、思わず笑みがこぼれた。
氷の辺境伯の氷は、完全に解け、その奥に潜んでいた、一人の誠実な男性の魂が、今、完全に解放されたのだ。彼の中の魔力は、もはや彼を殺す「毒」ではなく、彼を守る「盾」となっていた。
その、穏やかな空気が引き裂かれたのは、直後だった。
ウウウウウゥゥゥゥーーーーーン!
耳鳴りのような、低い、しかし強烈な魔力の振動が、森全体を揺るがした。小屋の窓ガラス代わりの薄い板が、ガタガタと激しく震える。
「きゃっ!」
小屋が、先日の嵐とは比較にならないほどの圧力を受け、激しく軋む。それは、まるで巨大な何かが、大地を滑るように近づいてくるような、不吉な予兆だった。
カイラスが「対価」として置いていった結界魔道具の水晶が、作業台の上で、危険信号を示すように、激しい赤色に点滅した。
「グルルルルァァァ!」
「キィィィィ!」
森の魔獣たちが、一斉に、恐怖に満ちた咆哮を上げた。それは、嵐の夜に聞いた、あのカイラスの魔力に怯える声と同じだった。
だが、今、森を震わせている魔力の主は、カイラスではない。
「なんだ、これは」
カイラスの表情から、先ほどまでの穏やかさが消え失せ、一瞬にして「氷の辺境伯」の冷徹な顔に戻った。
彼の蒼い瞳が、森の奥深く、魔力の震源地を睨み据える。
「主(ヌシ)級だ」
カイラスの低い声が、緊迫した小屋に響いた。
「この森の生態系の頂点に立つ、主級魔獣が、縄張りを越えてきた」
森の生活は、もはや「極限状態」ではなく、ルシルにとって最も満たされた「日常」となっていた。
小屋は、カイラスという名の、論理的で不器用な庇護者が現れたことにより、劇的な変化を遂げていた。
カイラスが「対価」として持ち込んだ、最高級の毛皮が敷かれた床は、ルシルにとって極上の絨毯であり、作業台には、王宮の工房にあったものよりも精密な薬草用の天秤や、ガラス器具一式が、彼の侍従によっていつの間にか運び込まれていた。
竈の火は、彼が持ってきた『魔力炭』によって安定し、ルシルは火種の管理という雑務から解放され、より研究に没頭できるようになった。
そして、日課となったのが、この「薬の取引」と「ハーブティーの儀式」だ。
「カイラス様、どうぞ。今日のぶんの薬です」
ルシルは、新しい緑色の作業着を纏い、鉛のケースから取り出した『神聖原液』の小瓶を、丁寧に彼に手渡した。
「ああ」
カイラスは、相変わらず短く返事をすると、ルシルを見つめることもなく、その琥珀色の液体を無言で受け取り、一気に飲み干した。
初めてこの薬を飲んだ時の、あの嵐の夜の激痛が嘘のように、今は、清流の水を飲むかのように自然に、彼の体に『神薬』が染み渡っていく。
「ふぅ」
カイラスの口から、安堵の息が静かに漏れた。その息は、もはや周囲の空気を凍らせることはない。ただ、長年の苦痛から解放された者だけが知る、魂の奥底からの「解放」の音だった。
ルシルは、薬を飲んだ直後の彼の様子を、薬草師として注意深く観察していた。彼女の繊細な魔力感知能力は、彼の体内を巡る魔力の流れを、水脈を視るかのように正確に捉えている。
(脈拍、完璧に安定。乱れていた魔力の流れは、驚くほど均一になっている。体温も、極低温の反動がない、平熱)
彼女は、この一ヶ月弱、毎日彼のデータを取り続けていた。薬草院での知識と、この森の薬草の力が、不治の病とされた『魔力過多症』を、根本から治療していたのだ。いや、治療というレベルではない。彼の魔力中枢は、もはや正常化していた。
ルシルは、ハーブティーのカップを差し出しながら、確信を持って告げた。
「カイラス様」
彼女は、彼の蒼い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「もう、その薬は必要ありません」
「なに?」
カイラスの蒼い瞳が、わずかに見開かれた。その表情の変化は、この一ヶ月でルシルが初めて見た、純粋な驚きだった。
「あなたの体は、完全に『治癒』されました。魔力過多症の症状は、もう完全に消え去っています。魔力が暴走することはありません」
カイラスは、ルシルの言葉を聞きながら、自らの手のひらを、じっと見つめた。
その指先からは、わずかな冷気さえも発していない。ただ、温かい、人間の手だ。
長年、彼を縛り付けていた、あの忌まわしい激痛。常に神経を焼き、思考を妨げてきた苦痛が、今は完全に消え失せている。
それは、薬で無理やり抑え込んでいる「鎮静」ではなく、魔力を生み出す中枢そのものが「正常化」したことによる、穏やかな「完治」だった。
「そうか」
カイラスは、短く呟いた。
「治ったのか。わたくしが」
その声には、実感がこもっていない。あまりにも長い間、苦痛と共に生きてきた彼にとって、「無痛」の日常こそが、まだ非現実的なのだ。
彼の氷のように無表情だった顔が、この一ヶ月で、驚くほど柔らかくなっている。彼が初めてこの小屋を訪れた時の、他者を拒絶するような冷たい魔力は、今や鳴りを潜め、ただ、静かで、強大で、そして優しい、領主としての魔力がそこにあった。
「はい。もう、あなたは『魔力過多症』の患者ではありません。あなたは、本来の『王国最強の魔術師』に戻られました」
ルシルが微笑むと、カイラスは、その笑顔から目を逸らすように、ハーブティーを一口飲んだ。黄金色の液体が、彼の口元をかすかに濡らす。
「礼を言う。ルシル」
「いいえ。わたくしは、薬草師として当然のことを」
「薬ではない。この茶のことだ」
カイラスは、ぶっきらぼうにそう言うと、窓の外に視線を向けた。その言葉の裏には、「薬は取引の対価だが、この茶は心への安寧だ」という、彼なりの不器用な感謝が込められていた。
ルシルは、その不器用な照れ隠しに、思わず笑みがこぼれた。
氷の辺境伯の氷は、完全に解け、その奥に潜んでいた、一人の誠実な男性の魂が、今、完全に解放されたのだ。彼の中の魔力は、もはや彼を殺す「毒」ではなく、彼を守る「盾」となっていた。
その、穏やかな空気が引き裂かれたのは、直後だった。
ウウウウウゥゥゥゥーーーーーン!
耳鳴りのような、低い、しかし強烈な魔力の振動が、森全体を揺るがした。小屋の窓ガラス代わりの薄い板が、ガタガタと激しく震える。
「きゃっ!」
小屋が、先日の嵐とは比較にならないほどの圧力を受け、激しく軋む。それは、まるで巨大な何かが、大地を滑るように近づいてくるような、不吉な予兆だった。
カイラスが「対価」として置いていった結界魔道具の水晶が、作業台の上で、危険信号を示すように、激しい赤色に点滅した。
「グルルルルァァァ!」
「キィィィィ!」
森の魔獣たちが、一斉に、恐怖に満ちた咆哮を上げた。それは、嵐の夜に聞いた、あのカイラスの魔力に怯える声と同じだった。
だが、今、森を震わせている魔力の主は、カイラスではない。
「なんだ、これは」
カイラスの表情から、先ほどまでの穏やかさが消え失せ、一瞬にして「氷の辺境伯」の冷徹な顔に戻った。
彼の蒼い瞳が、森の奥深く、魔力の震源地を睨み据える。
「主(ヌシ)級だ」
カイラスの低い声が、緊迫した小屋に響いた。
「この森の生態系の頂点に立つ、主級魔獣が、縄張りを越えてきた」
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