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第7章:辺境伯の氷解
7-2:主(ヌシ)の咆哮
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「主級魔獣!」
ルシルは、その言葉に息を呑んだ。
王宮の書庫でしか読んだことのない、伝説上の存在。
AランクやBランクの魔獣とは比較にならない、それ一体で小国を滅ぼす力を持つと言われる、災害級の魔獣だ。
ルシルは、かつて王宮の図鑑で見た、主級魔獣の恐ろしい挿絵を思い浮かべ、全身が凍りついた。
(“森の巨人(フォレスト・タイタン)”。あれは、山脈を動かす力を持つという。なぜ、こんな浅い場所に!)
主級魔獣は、通常、嘆きの森の最深部の結界に守られた領域で、眠っているはずだ。それが、なぜ今、ルシルの小屋の存在する、森の入り口に近い「第三防衛ライン」まで迫っているのか。
「おそらく、先日の嵐で、最深部の結界が緩んだか。あるいは」
カイラスは、ルシルの顔をちらりと見た。彼の視線は、一瞬、ルシルが薬草を精製する作業台の、微かに魔力を帯びた器具群を捉えた。
「この小屋から漏れ出す、『神薬』と、わたくしの魔力の匂いに惹かれてきたか」
「そん、な」
ルシルは顔面蒼白になった。彼女の作った、不純物ゼロの超高純度な『神薬』。それは、カイラスの病を癒やす生命の源であると同時に、森の濃密な魔力を吸い上げる誘引剤となってしまったのか。
「わたくしのせいで、この領地に」
ルシルは、自分の使命感が、逆に周囲に危機をもたらしてしまったという事実に、胸を締め付けられた。王都でも、自分のせいで騎士団長が毒に倒れた(と誤解された)過去が、彼女の心を深く抉る。
「案ずるな」
カイラスは、ルシルの不安を、冷静な一言で遮った。彼の声は低く、しかし、この小屋を揺るがす魔獣の咆哮よりも、はるかに強くルシルの心に響いた。
「貴女のせいではない。主級の魔獣は、この領地の『歪み』そのものだ。魔力が濃すぎるこの森では、いずれ巨大な脅威となる。いつかは、わたくしが刈り取らねばならなかった」
彼は、立ち上がった。その長身が、小屋の中の空気を、再び緊張で満たす。
その時、カイラスの胸元に下げられていた、軍用の通信魔道具が甲高い音を立てた。
『辺境伯閣下! 観測所より入電! “森の巨人(フォレスト・タイタン)”が、第三防衛ラインを突破しました! 城壁が破壊されています! このままでは、麓の村が、壊滅します!』
部下の切羽詰まった、恐怖に歪んだ声が、魔道具から漏れ聞こえる。その報告は、事態がもはや「領地内の小競り合い」ではない、大規模な災害であることを示していた。
「わかっている。すぐに迎撃する」
カイラスは短く応じると、通信を切った。その一連の動作には、迷いも躊躇もない。
彼は、昨日まで「対価」として持ってきていた、豪奢な外套ではなく、常に腰に下げていた長剣の柄に、そっと手を触れた。その視線は、すでに戦場を捉えていた。
「カイラス様、まさか、今から」
ルシルは、不安に声を震わせた。彼女の心臓は、恐怖と、彼を失うかもしれないという喪失感で激しく鼓動していた。
「病み上がり、いえ、完治したとはいえ、相手は主級魔獣です! 無茶です! 王都の騎士団が、総力を挙げても勝てるかどうかという相手よ!」
「無茶ではない」
カイラスは、ルシルの不安を、静かな自信で否定した。その口調には、論理的な裏付けがあった。
「今までは、無茶だった。発作の反動を恐れ、わたくしは、力の半分も使うことができなかった。主級の討伐は、常に命懸けだった」
彼は、ルシルに向き直った。彼の蒼い瞳は、この小さな小屋の温かい炎を反射し、力強く輝いている。
「だが、今は違う」
カイラスは、ルシルが驚くほど、穏やかな、しかし力強い笑みを浮かべた。その表情は、氷の彫刻が、初めて生命を宿したかのような、感動的な変化だった。
「貴女が、わたくしを完治させた。この意味が、分かるか」
「え?」
「わたくしは、もう、魔力の反動を恐れる必要がない。この国最強の魔術師が、初めて、全力で戦えるということだ」
彼は、ルシルの肩に、そっと手を置いた。その手は、もう氷のように冷たくはなく、ただ、力強く、温かかった。その温もりが、ルシルの手の甲の傷跡(凍傷が治りかけた跡)を、優しく撫でる。
「少し待っていてくれ。貴女の薬で手に入れたこの力を、領民のために使う。すぐに終わらせる」
その言葉は、ルシルに対する報告であり、そして、必ず戻るという誓いのようにも聞こえた。
「カイラス様!」
ルシルが引き止める間もなく、カイラスの体が、青白い魔力の粒子となって霧散した。
彼が習得している、最高位の転移魔術だった。
ルシルは、一人残された小屋で、彼が触れた肩の温もりと、外で荒れ狂う主級魔獣の気配に、ただ震えることしかできなかった。彼の言葉の「理屈」は理解できたが、彼の「命」がかかっているという事実が、ルシルの理性を麻痺させた。
(行ってしまった。でも、信じるしかない)
彼女は、自分の研究ノートを強く抱きしめた。そのノートこそが、カイラスの「完治」の証であり、彼が全力で戦えるようになった、唯一の理由なのだから。ルシルは、小屋の窓の隙間から、森の奥へと、彼の無事を祈りながら視線を送った。
ルシルは、その言葉に息を呑んだ。
王宮の書庫でしか読んだことのない、伝説上の存在。
AランクやBランクの魔獣とは比較にならない、それ一体で小国を滅ぼす力を持つと言われる、災害級の魔獣だ。
ルシルは、かつて王宮の図鑑で見た、主級魔獣の恐ろしい挿絵を思い浮かべ、全身が凍りついた。
(“森の巨人(フォレスト・タイタン)”。あれは、山脈を動かす力を持つという。なぜ、こんな浅い場所に!)
主級魔獣は、通常、嘆きの森の最深部の結界に守られた領域で、眠っているはずだ。それが、なぜ今、ルシルの小屋の存在する、森の入り口に近い「第三防衛ライン」まで迫っているのか。
「おそらく、先日の嵐で、最深部の結界が緩んだか。あるいは」
カイラスは、ルシルの顔をちらりと見た。彼の視線は、一瞬、ルシルが薬草を精製する作業台の、微かに魔力を帯びた器具群を捉えた。
「この小屋から漏れ出す、『神薬』と、わたくしの魔力の匂いに惹かれてきたか」
「そん、な」
ルシルは顔面蒼白になった。彼女の作った、不純物ゼロの超高純度な『神薬』。それは、カイラスの病を癒やす生命の源であると同時に、森の濃密な魔力を吸い上げる誘引剤となってしまったのか。
「わたくしのせいで、この領地に」
ルシルは、自分の使命感が、逆に周囲に危機をもたらしてしまったという事実に、胸を締め付けられた。王都でも、自分のせいで騎士団長が毒に倒れた(と誤解された)過去が、彼女の心を深く抉る。
「案ずるな」
カイラスは、ルシルの不安を、冷静な一言で遮った。彼の声は低く、しかし、この小屋を揺るがす魔獣の咆哮よりも、はるかに強くルシルの心に響いた。
「貴女のせいではない。主級の魔獣は、この領地の『歪み』そのものだ。魔力が濃すぎるこの森では、いずれ巨大な脅威となる。いつかは、わたくしが刈り取らねばならなかった」
彼は、立ち上がった。その長身が、小屋の中の空気を、再び緊張で満たす。
その時、カイラスの胸元に下げられていた、軍用の通信魔道具が甲高い音を立てた。
『辺境伯閣下! 観測所より入電! “森の巨人(フォレスト・タイタン)”が、第三防衛ラインを突破しました! 城壁が破壊されています! このままでは、麓の村が、壊滅します!』
部下の切羽詰まった、恐怖に歪んだ声が、魔道具から漏れ聞こえる。その報告は、事態がもはや「領地内の小競り合い」ではない、大規模な災害であることを示していた。
「わかっている。すぐに迎撃する」
カイラスは短く応じると、通信を切った。その一連の動作には、迷いも躊躇もない。
彼は、昨日まで「対価」として持ってきていた、豪奢な外套ではなく、常に腰に下げていた長剣の柄に、そっと手を触れた。その視線は、すでに戦場を捉えていた。
「カイラス様、まさか、今から」
ルシルは、不安に声を震わせた。彼女の心臓は、恐怖と、彼を失うかもしれないという喪失感で激しく鼓動していた。
「病み上がり、いえ、完治したとはいえ、相手は主級魔獣です! 無茶です! 王都の騎士団が、総力を挙げても勝てるかどうかという相手よ!」
「無茶ではない」
カイラスは、ルシルの不安を、静かな自信で否定した。その口調には、論理的な裏付けがあった。
「今までは、無茶だった。発作の反動を恐れ、わたくしは、力の半分も使うことができなかった。主級の討伐は、常に命懸けだった」
彼は、ルシルに向き直った。彼の蒼い瞳は、この小さな小屋の温かい炎を反射し、力強く輝いている。
「だが、今は違う」
カイラスは、ルシルが驚くほど、穏やかな、しかし力強い笑みを浮かべた。その表情は、氷の彫刻が、初めて生命を宿したかのような、感動的な変化だった。
「貴女が、わたくしを完治させた。この意味が、分かるか」
「え?」
「わたくしは、もう、魔力の反動を恐れる必要がない。この国最強の魔術師が、初めて、全力で戦えるということだ」
彼は、ルシルの肩に、そっと手を置いた。その手は、もう氷のように冷たくはなく、ただ、力強く、温かかった。その温もりが、ルシルの手の甲の傷跡(凍傷が治りかけた跡)を、優しく撫でる。
「少し待っていてくれ。貴女の薬で手に入れたこの力を、領民のために使う。すぐに終わらせる」
その言葉は、ルシルに対する報告であり、そして、必ず戻るという誓いのようにも聞こえた。
「カイラス様!」
ルシルが引き止める間もなく、カイラスの体が、青白い魔力の粒子となって霧散した。
彼が習得している、最高位の転移魔術だった。
ルシルは、一人残された小屋で、彼が触れた肩の温もりと、外で荒れ狂う主級魔獣の気配に、ただ震えることしかできなかった。彼の言葉の「理屈」は理解できたが、彼の「命」がかかっているという事実が、ルシルの理性を麻痺させた。
(行ってしまった。でも、信じるしかない)
彼女は、自分の研究ノートを強く抱きしめた。そのノートこそが、カイラスの「完治」の証であり、彼が全力で戦えるようになった、唯一の理由なのだから。ルシルは、小屋の窓の隙間から、森の奥へと、彼の無事を祈りながら視線を送った。
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