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第7章:辺境伯の氷解
7-4:守るべき場所
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小屋で待つルシルの体感時間は、カイラスが去ってから、わずか数分。
だが、それは、数時間にも感じられる、濃密な恐怖と葛藤の時間だった。
主級魔獣の、大地を揺るがす咆哮。
それが、ある瞬間、ぴたりと止んだ。
そして、訪れた、不自然なまでの静寂。
(まさか、カイラス様が、負けた?)
ルシルは、最悪の想像に、血の気が引いた。彼女の足が、冷たい土間に縫い付けられたように動かない。
彼女の薬は、彼の病を治した。だが、それがあの伝説級の魔獣に通用するという保証はどこにもない。
もし、彼が死んでしまったら。
この森で、自分を守ってくれる存在は、もういない。結界魔道具も、誰が魔力を注ぐというのか。
そして、それ以上に。
自分を「必要」としてくれた、あの不器用な男を失うという喪失感が、ルシルの胸を強く締め付けた。
(あんな強大な力で、この領地の防壁だった人が、もし)
(いけない、冷静に)
ルシルは、大きく深呼吸をした。
(魔力の気配は、完全に消えた。どちらかが、消滅した。あの咆哮の大きさから、魔獣が勝ったなら、今頃、小屋に突進してきているはず)
扉の外は、静かすぎる。
彼女は、自らの魔力感知能力を、最大限まで集中させた。すると、微かに、小屋の結界魔道具の外側で、穏やかで、しかし圧倒的な魔力の流れが、一瞬だけ再構築されたのを感じ取った。
(これは、転移魔術! カイラス様の魔力だ!)
安堵の涙が、ルシルの瞳から一筋、頬を伝った。
彼は、勝ったのだ。あの巨大な脅威を、短時間で、確実に。
その時、小屋の扉が、静かに開いた。
「カイラス様!」
ルシルは、叫びながら駆け寄った。
そこに立っていたのは、数分前と何ら変わらない、カイラスだった。
無傷。
息も乱れていない。
ただ、その黒い軍服に、先ほど崩れ落ちた魔獣の氷の破片が、キラキラと付着しているだけだった。まるで、冬の朝、木枯らしに乗って舞い戻ってきた、氷の精霊のようだ。
「終わった」
彼は、ルシルの不安を打ち消すように、短く、そして優しく言った。その声は、深海の底のように静かだが、その中に込められた力は、ルシルを完全に安心させるものだった。
「主級魔獣は、討伐した。もう、この小屋の近くに、危険な魔獣はいない」
「……」
ルシルは、言葉が出なかった。
あれほどの魔力の嵐を、たった一人で、この短時間で、無傷で。
(この人こそが、本当の「災害」だわ)
だが、その圧倒的な力は、今、自分を守るために使われたのだ。
ルシルは、彼の軍服に付着した氷の破片に、そっと触れた。それは、彼が放った【コキュートス】の残滓だった。
冷たい。
だが、彼の手は、温かかった。
「ありがとう、ルシル」
カイラスが、静かに言った。
彼の蒼い瞳は、感謝の念に満ちていた。それは、単なる命の恩人に対する礼ではない。
「貴女がいなければ、わたくしは、あんなものに勝てなかった。今頃、魔力に飲み込まれ、兵士たちもろとも死んでいただろう」
「そん、な」
「貴女が、わたくしの命と、わたくしの領地を救ったんだ」
カイラスの蒼い瞳が、真っ直ぐにルシルを見つめる。
そこには、初めて出会った時の冷徹さも、日課の訪問時の不器用さもなかった。
ただ、一人の男性としての、深い、深い感謝と、慈しみの光が宿っていた。
ルシルは、その視線に耐えきれず、顔を赤らめた。
(この人は、この領地を守るために、ずっと一人で、あの苦痛と戦ってきたんだわ)
王都の喧騒の裏で、この静かな辺境では、この一人の男が、文字通り、自分の命を懸けた「防壁」となっていたのだ。
そして、自分は、王都にいた頃、この国の平和が、彼のその犠牲の上に成り立っていることなど、考えたこともなかった。
ジェラルドやアデリーナが、華やかな光にうつつを抜かしている間も、この人は、最前線で、文字通り命を削って国を守っていた。ルシルが王都で精製していた『神聖原液』も、結局は彼の苦痛を根本から取り除くことはできなかったのだ。
「わたくしは、薬草師として、当然のことをしただけです」
ルシルは、そう言うのが精一杯だった。
だが、彼女の心は、この時、はっきりと決まっていた。
(わたくしの居場所は、ここだ)
王都ではない。あの、偽りの光に満ちた、息苦しい檻の中ではない。
この、厳しいが、真実の力に満ちた森。
そして、この、不器用だが、誰よりも誠実に領地と民を守ろうとする、彼の隣。
(わたくしは、この人の領地で、この人のために、わたくしの力を使おう)
カイラスは、ルシルの決意の滲んだ瞳を見て、何も言わなかったが、その意図を正確に理解したようだった。彼は、ルシルの頭に、そっと、まるで雛鳥を扱うかのように優しく、その手を置いた。
「わたくしは、貴女の自由を奪わない」
彼の声は、静かに、しかし力強く響いた。
「だが、貴女が、この領地に居場所を見つけてくれたなら、これ以上の喜びはない」
その言葉は、命令でも取引でもなく、ただルシルを「一人の人間」として受け入れる、純粋な歓迎の言葉だった。
追放された『偽聖女』は、この日、自らの意志で、この辺境の地に根を下ろすことを決意した。
それは、彼女の知識と技術が、真に必要とされ、報われる場所だった。
この森と、この男の隣こそが、彼女にとっての「守るべき場所」となったのだ。
だが、それは、数時間にも感じられる、濃密な恐怖と葛藤の時間だった。
主級魔獣の、大地を揺るがす咆哮。
それが、ある瞬間、ぴたりと止んだ。
そして、訪れた、不自然なまでの静寂。
(まさか、カイラス様が、負けた?)
ルシルは、最悪の想像に、血の気が引いた。彼女の足が、冷たい土間に縫い付けられたように動かない。
彼女の薬は、彼の病を治した。だが、それがあの伝説級の魔獣に通用するという保証はどこにもない。
もし、彼が死んでしまったら。
この森で、自分を守ってくれる存在は、もういない。結界魔道具も、誰が魔力を注ぐというのか。
そして、それ以上に。
自分を「必要」としてくれた、あの不器用な男を失うという喪失感が、ルシルの胸を強く締め付けた。
(あんな強大な力で、この領地の防壁だった人が、もし)
(いけない、冷静に)
ルシルは、大きく深呼吸をした。
(魔力の気配は、完全に消えた。どちらかが、消滅した。あの咆哮の大きさから、魔獣が勝ったなら、今頃、小屋に突進してきているはず)
扉の外は、静かすぎる。
彼女は、自らの魔力感知能力を、最大限まで集中させた。すると、微かに、小屋の結界魔道具の外側で、穏やかで、しかし圧倒的な魔力の流れが、一瞬だけ再構築されたのを感じ取った。
(これは、転移魔術! カイラス様の魔力だ!)
安堵の涙が、ルシルの瞳から一筋、頬を伝った。
彼は、勝ったのだ。あの巨大な脅威を、短時間で、確実に。
その時、小屋の扉が、静かに開いた。
「カイラス様!」
ルシルは、叫びながら駆け寄った。
そこに立っていたのは、数分前と何ら変わらない、カイラスだった。
無傷。
息も乱れていない。
ただ、その黒い軍服に、先ほど崩れ落ちた魔獣の氷の破片が、キラキラと付着しているだけだった。まるで、冬の朝、木枯らしに乗って舞い戻ってきた、氷の精霊のようだ。
「終わった」
彼は、ルシルの不安を打ち消すように、短く、そして優しく言った。その声は、深海の底のように静かだが、その中に込められた力は、ルシルを完全に安心させるものだった。
「主級魔獣は、討伐した。もう、この小屋の近くに、危険な魔獣はいない」
「……」
ルシルは、言葉が出なかった。
あれほどの魔力の嵐を、たった一人で、この短時間で、無傷で。
(この人こそが、本当の「災害」だわ)
だが、その圧倒的な力は、今、自分を守るために使われたのだ。
ルシルは、彼の軍服に付着した氷の破片に、そっと触れた。それは、彼が放った【コキュートス】の残滓だった。
冷たい。
だが、彼の手は、温かかった。
「ありがとう、ルシル」
カイラスが、静かに言った。
彼の蒼い瞳は、感謝の念に満ちていた。それは、単なる命の恩人に対する礼ではない。
「貴女がいなければ、わたくしは、あんなものに勝てなかった。今頃、魔力に飲み込まれ、兵士たちもろとも死んでいただろう」
「そん、な」
「貴女が、わたくしの命と、わたくしの領地を救ったんだ」
カイラスの蒼い瞳が、真っ直ぐにルシルを見つめる。
そこには、初めて出会った時の冷徹さも、日課の訪問時の不器用さもなかった。
ただ、一人の男性としての、深い、深い感謝と、慈しみの光が宿っていた。
ルシルは、その視線に耐えきれず、顔を赤らめた。
(この人は、この領地を守るために、ずっと一人で、あの苦痛と戦ってきたんだわ)
王都の喧騒の裏で、この静かな辺境では、この一人の男が、文字通り、自分の命を懸けた「防壁」となっていたのだ。
そして、自分は、王都にいた頃、この国の平和が、彼のその犠牲の上に成り立っていることなど、考えたこともなかった。
ジェラルドやアデリーナが、華やかな光にうつつを抜かしている間も、この人は、最前線で、文字通り命を削って国を守っていた。ルシルが王都で精製していた『神聖原液』も、結局は彼の苦痛を根本から取り除くことはできなかったのだ。
「わたくしは、薬草師として、当然のことをしただけです」
ルシルは、そう言うのが精一杯だった。
だが、彼女の心は、この時、はっきりと決まっていた。
(わたくしの居場所は、ここだ)
王都ではない。あの、偽りの光に満ちた、息苦しい檻の中ではない。
この、厳しいが、真実の力に満ちた森。
そして、この、不器用だが、誰よりも誠実に領地と民を守ろうとする、彼の隣。
(わたくしは、この人の領地で、この人のために、わたくしの力を使おう)
カイラスは、ルシルの決意の滲んだ瞳を見て、何も言わなかったが、その意図を正確に理解したようだった。彼は、ルシルの頭に、そっと、まるで雛鳥を扱うかのように優しく、その手を置いた。
「わたくしは、貴女の自由を奪わない」
彼の声は、静かに、しかし力強く響いた。
「だが、貴女が、この領地に居場所を見つけてくれたなら、これ以上の喜びはない」
その言葉は、命令でも取引でもなく、ただルシルを「一人の人間」として受け入れる、純粋な歓迎の言葉だった。
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