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第9章:愚かなる奪還と最強の盾
9-1:過去からの使者
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追放から、一ヶ月半以上が経過していた。
ルシルの生活は、カイラスという名の、絶対的な庇護者を得て、もはや「スローライフ」と呼ぶことさえおこがましいほど、豊かで満ち足りたものへと変貌していた。
森の小さな小屋は、今や「辺境伯の第二工房」とでも呼ぶべき場所になっていた。
壁は、カイラスの部下である工兵魔術師によって完璧に補強され、屋根は魔法を帯びた防水木材に張り替えられた。結界魔道具は常に青い光を放ち、小屋の周囲半径五十メートルは、Bランク以下の魔獣が立ち入ることのない絶対的な安全地帯となっている。
ルシルの研究環境は、王宮の工房を遥かに凌駕していた。
作業台には、カイラスが「対価」として王都から取り寄せさせた、最高級のガラス器具や精密な天秤が並ぶ。乾燥棚には、彼女の知識とこの森の魔力が育んだ、Sランク薬草が、まるで宝石のように整然と並べられている。
彼女はもう、泥まみれのワンピースを着ていない。カイラスが贈った、森の色を映した機能的で美しい緑の作業着をまとい、その手は自作の『美容ポーション』によって、すっかり元の滑らかさを取り戻していた。
「カイラス様、どうぞ。今日のハーブティーは、少し『霧降りの葉』を多くしてみました。昨日の討伐でお疲れでしょうから、神経を鎮める効果を高めてあります」
「ああ」
小屋の中、穏やかな午後の光が差し込む窓辺で、二人の日課であるお茶会が開かれていた。
カイラスは、無愛想ながらも、その黄金色のハーブティーを、もはや何の警戒もなく受け取り、静かに口に運んだ。
『魔力過多症』が完治して以来、彼の氷のような無表情はすっかりと解け、今はただ、ルシルの淹れる茶を味わう、一人の穏やかな男性の顔がそこにあった。彼の魔力は完全に制御され、その強大な力は、今はルシルを守るためだけに静かに脈動している。
「美味い。香りの純度が高い。王都で飲む安息茶とは比べ物にならない」
カイラスがそう静かに告げると、ルシルは満たされた喜びで頬を緩ませた。
「ふふ、よかったです。この森の素材は、王都のものとは魔力含有量が違いますから。特に清流の水が最高の基材なのです」
ルシルの薬とハーブティーは、もはやカイラスだけでなく、辺境伯領の兵士たち全員にとって、なくてはならない生命線となっていた。ルシルは、この小屋から兵舎へ定期的に『希釈版ポーション』を届ける、「辺境の聖女」として、領民から絶大な感謝と信頼を寄せられていた。
王宮で『偽聖女』と蔑まれた日々が、遠い悪夢のように薄れていく。
(わたくしの居場所は、ここだわ)
ジェラルドへの憎しみも、アデリーナへの嫉妬も、もはやない。ただ、この静かで、満ち足りた日常が、永遠に続けばいい。
ルシルが、そう心から願った、その瞬間だった。
ピシッ。
小屋の結界魔道具が、これまで聞いたことのない、甲高い警告音を発した。
「!」
カイラスがカップを置くのと、ルシルが息を呑むのは、ほぼ同時だった。
結界の水晶が、魔獣の侵入を示す「青」ではなく、高魔力を持つ「人間」の侵入を示す、強烈な「赤色」の光を明滅させていた。その光は、まるで小屋の中に、過去の災厄が訪れたことを告げる、不吉な警鐘のようだった。
「カイラス様、これは」
ルシルの声が、微かに震える。彼女の心の奥底に、無理やり封じ込めていた**「王都への恐怖」**が、一気に蘇ってきた。
「王都の騎士団だ。それも、かなりの数だ」
カイラスの蒼い瞳が、一瞬にして、あの主級魔獣を討伐した時の「氷の辺境伯」の冷徹な光に戻った。彼の指先から、ルシルのハーブティーの温もりが消え去り、絶対的な戦闘魔力が、静かに脈動し始める。
小屋の外から、複数の人間が、意図的に魔力を隠しながらも、この小屋を完全に包囲していく気配が、肌を刺すように伝わってくる。その魔力は、王都の近衛騎士団特有の、訓練された、冷酷な魔力だった。
ガシャ、ガシャ、と。
森の静寂を破り、重い鎧の金属音が、小屋の四方を囲む。その音は、ルシルにはまるで、王宮の冷たい石畳の上で響く、断罪の足音のように聞こえた。
(王都の、騎士団。なぜ、わたくしを)
ルシルの背筋を、忘れていたはずの恐怖が駆け上った。
あの謁見の間での、冷たい断罪。ジェラルドの侮蔑に満ちた瞳。
(わたくしを、殺しに来たの?)
追放しただけでは飽き足らず、辺境伯と繋がったわたくしを、本格的に「国家反逆者」として処分しに来た。
ルシルの思考は、パニックで白く染まった。手足の先が、一瞬で冷たくなる。あの金色の檻に、二度と戻りたくない。
「落ち着け、ルシル」
カイラスの、低く、静かな声が、彼女の耳に届く。
ルシルが顔を上げると、カイラスは、いつの間にか彼女の前に立ちはだかり、その広い背中で、彼女を扉から隠すように守っていた。
その背中は、主級魔獣から彼女を守った時よりも、さらに力強く、頼もしく見えた。彼の放つ穏やかな魔力は、ルシルの荒れる魔力を包み込み、強制的に鎮静させていく。
ドン、ドン、ドン!
「開けろ! 中にいるのは分かっている!」
扉が、乱暴に叩かれる。その傲慢な物言いは、ルシルが王宮で聞き慣れた、王太子直属の近衛騎士団のものだった。その声は、この小屋の、ルシルの築いた安息を、容赦なく踏みにじる「暴力」そのものだった。
「『偽聖女』ルシル・フォン・クライネル! 王太子ジェラルド殿下の、寛大なるご慈悲により、貴様の王都への帰還を命ずる! 大人しく、我々と共に来い!」
扉の向こうから響いたのは、ルシルが忘れるはずもない、彼女を『偽聖女』と断罪した、あの日の騎士団(代理)の声だった。
その言葉は、ルシルにとって「慈悲」などではなく、あの悪夢の王宮へ、再び彼女を引きずり戻そうとする、「絶望の宣告」に他ならなかった。
ルシルの生活は、カイラスという名の、絶対的な庇護者を得て、もはや「スローライフ」と呼ぶことさえおこがましいほど、豊かで満ち足りたものへと変貌していた。
森の小さな小屋は、今や「辺境伯の第二工房」とでも呼ぶべき場所になっていた。
壁は、カイラスの部下である工兵魔術師によって完璧に補強され、屋根は魔法を帯びた防水木材に張り替えられた。結界魔道具は常に青い光を放ち、小屋の周囲半径五十メートルは、Bランク以下の魔獣が立ち入ることのない絶対的な安全地帯となっている。
ルシルの研究環境は、王宮の工房を遥かに凌駕していた。
作業台には、カイラスが「対価」として王都から取り寄せさせた、最高級のガラス器具や精密な天秤が並ぶ。乾燥棚には、彼女の知識とこの森の魔力が育んだ、Sランク薬草が、まるで宝石のように整然と並べられている。
彼女はもう、泥まみれのワンピースを着ていない。カイラスが贈った、森の色を映した機能的で美しい緑の作業着をまとい、その手は自作の『美容ポーション』によって、すっかり元の滑らかさを取り戻していた。
「カイラス様、どうぞ。今日のハーブティーは、少し『霧降りの葉』を多くしてみました。昨日の討伐でお疲れでしょうから、神経を鎮める効果を高めてあります」
「ああ」
小屋の中、穏やかな午後の光が差し込む窓辺で、二人の日課であるお茶会が開かれていた。
カイラスは、無愛想ながらも、その黄金色のハーブティーを、もはや何の警戒もなく受け取り、静かに口に運んだ。
『魔力過多症』が完治して以来、彼の氷のような無表情はすっかりと解け、今はただ、ルシルの淹れる茶を味わう、一人の穏やかな男性の顔がそこにあった。彼の魔力は完全に制御され、その強大な力は、今はルシルを守るためだけに静かに脈動している。
「美味い。香りの純度が高い。王都で飲む安息茶とは比べ物にならない」
カイラスがそう静かに告げると、ルシルは満たされた喜びで頬を緩ませた。
「ふふ、よかったです。この森の素材は、王都のものとは魔力含有量が違いますから。特に清流の水が最高の基材なのです」
ルシルの薬とハーブティーは、もはやカイラスだけでなく、辺境伯領の兵士たち全員にとって、なくてはならない生命線となっていた。ルシルは、この小屋から兵舎へ定期的に『希釈版ポーション』を届ける、「辺境の聖女」として、領民から絶大な感謝と信頼を寄せられていた。
王宮で『偽聖女』と蔑まれた日々が、遠い悪夢のように薄れていく。
(わたくしの居場所は、ここだわ)
ジェラルドへの憎しみも、アデリーナへの嫉妬も、もはやない。ただ、この静かで、満ち足りた日常が、永遠に続けばいい。
ルシルが、そう心から願った、その瞬間だった。
ピシッ。
小屋の結界魔道具が、これまで聞いたことのない、甲高い警告音を発した。
「!」
カイラスがカップを置くのと、ルシルが息を呑むのは、ほぼ同時だった。
結界の水晶が、魔獣の侵入を示す「青」ではなく、高魔力を持つ「人間」の侵入を示す、強烈な「赤色」の光を明滅させていた。その光は、まるで小屋の中に、過去の災厄が訪れたことを告げる、不吉な警鐘のようだった。
「カイラス様、これは」
ルシルの声が、微かに震える。彼女の心の奥底に、無理やり封じ込めていた**「王都への恐怖」**が、一気に蘇ってきた。
「王都の騎士団だ。それも、かなりの数だ」
カイラスの蒼い瞳が、一瞬にして、あの主級魔獣を討伐した時の「氷の辺境伯」の冷徹な光に戻った。彼の指先から、ルシルのハーブティーの温もりが消え去り、絶対的な戦闘魔力が、静かに脈動し始める。
小屋の外から、複数の人間が、意図的に魔力を隠しながらも、この小屋を完全に包囲していく気配が、肌を刺すように伝わってくる。その魔力は、王都の近衛騎士団特有の、訓練された、冷酷な魔力だった。
ガシャ、ガシャ、と。
森の静寂を破り、重い鎧の金属音が、小屋の四方を囲む。その音は、ルシルにはまるで、王宮の冷たい石畳の上で響く、断罪の足音のように聞こえた。
(王都の、騎士団。なぜ、わたくしを)
ルシルの背筋を、忘れていたはずの恐怖が駆け上った。
あの謁見の間での、冷たい断罪。ジェラルドの侮蔑に満ちた瞳。
(わたくしを、殺しに来たの?)
追放しただけでは飽き足らず、辺境伯と繋がったわたくしを、本格的に「国家反逆者」として処分しに来た。
ルシルの思考は、パニックで白く染まった。手足の先が、一瞬で冷たくなる。あの金色の檻に、二度と戻りたくない。
「落ち着け、ルシル」
カイラスの、低く、静かな声が、彼女の耳に届く。
ルシルが顔を上げると、カイラスは、いつの間にか彼女の前に立ちはだかり、その広い背中で、彼女を扉から隠すように守っていた。
その背中は、主級魔獣から彼女を守った時よりも、さらに力強く、頼もしく見えた。彼の放つ穏やかな魔力は、ルシルの荒れる魔力を包み込み、強制的に鎮静させていく。
ドン、ドン、ドン!
「開けろ! 中にいるのは分かっている!」
扉が、乱暴に叩かれる。その傲慢な物言いは、ルシルが王宮で聞き慣れた、王太子直属の近衛騎士団のものだった。その声は、この小屋の、ルシルの築いた安息を、容赦なく踏みにじる「暴力」そのものだった。
「『偽聖女』ルシル・フォン・クライネル! 王太子ジェラルド殿下の、寛大なるご慈悲により、貴様の王都への帰還を命ずる! 大人しく、我々と共に来い!」
扉の向こうから響いたのは、ルシルが忘れるはずもない、彼女を『偽聖女』と断罪した、あの日の騎士団(代理)の声だった。
その言葉は、ルシルにとって「慈悲」などではなく、あの悪夢の王宮へ、再び彼女を引きずり戻そうとする、「絶望の宣告」に他ならなかった。
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