孤独な王子は影に恋をする

結衣可

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第6話 囁かれる陰謀

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朝の執務は滞りなく進んだ。
王子は書類の山に目を通し、各地から上がる報告に淡々と印を押してゆく。
数字の羅列、収穫高、交易の路。
視線は紙面を追っているのに、意識の底では別の気配を手さぐりしていた。

──いる。
確かに、いる。

部屋の隅、光と影が交わるわずかな継ぎ目に、薄い水面の波紋のように魔力が漂っている。
昨日までは気づけなかったほどの微細な揺らぎが、今ははっきりと王子の皮膚に触れる。
あの夜、目隠しの向こうで全身を包まれた感覚が、身体のどこかに記憶として残ったのだろう。
それは、痛みと同じくらい確かな、救いだった。

「殿下、北辺からの報告書です。辺境税の再調整について――」
侍従が机に新たな束を置く。
王子は小さく頷き、印綬をとる指先をほんのわずか止める。
触れない、見えない、名も知らない。それでも――
(……ここにいる)
それだけで、呼吸がひとつ楽になる。


昼間、王宮の回廊には、絹擦れの音と控えめな笑い声が満ちていた。
昨夜の宴の名残を語る貴族たち。賛辞、陰口、噂。
そのどれもが、王子の耳には遠い波の音のように響いた。

「――香りが強すぎた葡萄酒でしたね」
「どこから取り寄せたのかしら。わたくし、あの甘さは好みではないわ」
「台所の購買は宰相の甥が取り仕切っているとか。最近は香辛料の入荷も増えたそうで」

ささやきが、回廊の石床を這う。
王子の歩みは乱れない。
乱れないはずの心だけが、別の場所で緊張していた。
(媚薬を仕込むには、酒か香。――どちらも、購買を通る)

視界の端で、影の気配が微かに揺れる。
王子の推測に反応したのか、それとも別の危険を捉えたのか。
わからない。
ただ、見えない守りがさらに密になったのは確かだった。

執務をひと区切りつけ、王子は書庫に降りた。
涼やかな石壁と、古い羊皮紙の匂い。
番人の老書記に軽く会釈し、王子は調達台帳の棚を指示する。

「昨夜の酒類の入荷記録を見たい。宴の三日前から本日までのものだ」

「はっ。……殿下がお手ずからご確認を?」
驚いたように目を瞬かせる老書記に、王子は穏やかに微笑んだ。

「私が見てもよいはずだろう。私の宴だった。――それに、確認は早いほうがいい」

束ねられた台帳の中に、見慣れない商会の名が混じっていた。
――「冬胡桃商会」。
王都では聞かぬ小商い。
入荷量は少なめ、しかし香の類と甘口の葡萄酒だけを直近で二度。
不自然、とまでは言い切れない。だが、蓄積された経験は告げていた。
(黒に近い灰色だ)

背後で、風がほんの少し流れた。
紙の端が持ち上がり、すぐに落ちる。
王子は視線を落としたまま、かすかに口の端を緩める。
(あぁ――見ていてくれるのだな)

「殿下?」
老書記の声に、王子は顔を上げた。
「いや、何でもない。ありがとう。すぐ戻る」

書庫を出て、人気のない中庭を抜ける。
日差しは柔らかく、噴水は細い弧を描き、白百合が風に揺れている。
誰の目も届かぬ、半ば忘れられた小庭。
王子は噴水縁に片手を置き、深く息を吐いた。

「……ここなら、良いか」

独り言のように零し、そっと瞼を伏せる。
次の瞬間、空気の密度が変わった。
肌に沿う微細な粒子が、ゆっくりと濃度を増してゆく。
冷たくて、温かい――矛盾した抱擁。
あの夜の記憶と、今この瞬間の現実が重なって、胸の奥がじんと痛む。

「……影」

応えはない。
けれど、確かに包まれている。
誰かに選ばれたのではない。誰のものでもない。
それでも、今このひと時だけは「私の周りに」満ちている。

「あなたの言うことが、正しいのはわかっているよ」
王子は小さく笑った。
「だから、私の望みを……いや、望みは、私の中で昇華すればいいのだろう」

白百合の香りが、風に乗って頬を撫でる。
王子は噴水の縁から手を離し、掌を胸に当てた。
鼓動が、静かな波のように返ってくる。
そのリズムに合わせるかのように、気配が柔らかく収束し、また薄まっていく。

「ありがとう」

唇の動きだけで、音にならない礼。
それでも、影は理解したかのように、もう一度だけ微かに寄り添った。
言葉のいらない、短い会釈のような触れ方で。


夕刻、王子は宰相との定例の会議に臨んだ。
議題は交易路の再編と税率の見直し、そして王都の治安強化。
書記官が読み上げる項目の合間に、宰相の甥が新設の「購買監査室」の必要性を主張する。
(今それを持ち出すか)
タイミングが良すぎる提案は、往々にして裏に意味を抱える。
黙って聞く王子の耳に、別の音が差し込んだ。
短く、鋭い。靴音。
会議室の外。兵装の擦過。――規定外の巡回の軌跡。

気配が、揺れた。
瞬きほどの短さで、影の魔力が輪を描く。
異物の有無を探り、触れて、離れる。
王子は目を伏せ、静かに印を押しながら(任せる)と心の中で告げた。

会議が終わる頃には、外の靴音は消えていた。
代わりに、侍従の一人が控えめな声で耳打ちする。

「殿下、本日の警備体制、騎士団側で小さな変更があったようです……しかし文書の通達が、まだこちらに回っておりません」

「後ほど、私のほうに回すように」
王子は穏やかに答える。
(変更は“あった”。だが、通達は“ない”。――誰かが勝手に動いたか、あるいは通達自体を止めたか)

疑念は澱のように沈殿してゆく。
それでも、王子の歩みは乱れない。
胸の中心では、さきほどの小庭の温度がまだ燻っていた。


執務を終えて自室に戻ると、窓の外に細い月がかかっていた。
椅子に腰をおろし、額に手を当てる。
痛みは和らいでいる。
残っているのは、鈍い熱と、言葉にできない渇きだけ。

(名を知りたいな。――いや、やめよう)
胸中で自らを叱咤し、王子は息を整える。
名を求めることは線を越えることだ。
だからこそ、この願いは私の中で燃やし尽くす。

「私は私の務めを果たすよ。……お前はただそこにいてくれ」

そう告げると、部屋の空気がかすかに澄んだ。
ほんの一瞬、ふわりと肩に掛けられた薄衣のように、気配が触れて、ほどける。
それは賛同でも、慰めでもない。
ただ、そこにいるという事実の頷き。

王子は静かに微笑み、灯を落とした。
闇が降りる。
闇の向こうで、影が同じ闇に溶けている。
守りに包まれながら、王子は目を閉じた。

――囁きは、確かに近づいている。
酒、香、通達、巡回。
ばらばらの音符が、ゆっくりと一つの旋律を形づくる。
その旋律が王子を呑み込む前に、剣よりも先に必要なのは、迷いのない心だ。

(私はきっと、孤独ではない)

胸の奥で、その言葉が静かに固まるのを感じながら、王子は眠りに落ちた。
そして、影は変わらず沈黙のまま、夜を見張り続けた。
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