11 / 15
第10話 名前
しおりを挟む
王城の朝は、いつもより眩しく感じられた。
陽光が回廊を照らし、白い石壁を黄金に染めている。
第一王子は、ゆっくりと歩みを進めながら、その隣に立つ人物を横目で見た。
黒衣ではなく、軍装に身を包んだ騎士――アルディス。
(もう“影”じゃないんだ)
王子直属の護衛騎士として、誰の目にも見える姿で並び立つ。
隠れていた背中が、今は光の下で共に歩いている。
その事実だけで、胸が熱を帯びていた。
「……アルディス」
自然に、その名が口をついた。
口にするだけで、胸が温かくなる。
影だった頃には決して呼べなかった名前。
今はこうして声にできる。
アルディスはわずかに眉をひそめた。
「……殿下」
低く短い返事は、どこかぎこちない。
王子は微笑みを浮かべ、さらに呼んでみる。
「アルディス」
今度は一歩進んで、振り返る。
「アルディス」
光に揺れる金の髪、赤い瞳が、片目を覆う布の下からまっすぐに向けられる。
「……殿下。名を……そう何度も呼ばれるのは……」
言葉は冷静だが、耳のあたりがほんのわずかに赤く染まっている。
王子はその微細な変化を見逃さなかった。
「いいじゃないか、私はお前の名を呼びたい」
アルディスは視線を逸らす。
影であった日々の癖が、まだ抜けない。
呼ばれても、心の奥に喜びが灯っても、それを上手く表現することができない。
それが逆に、王子の胸を切なく満たした。
「アルディス。お前は……もう影じゃない。
私の、ただひとりの側近」
その言葉に、アルディスの身体が小さく揺れた。
影として生き、顔も名も隠し続けてきた過去。
それが今、殿下の言葉によって塗り替えられてゆく。
(……殿下。そうだ、私はもう隠れる必要はないのか)
片目を伏せた声音は、影の頃には決して出さなかったほど柔らかかった。
「……殿下」
王子は満足げに微笑み、歩みを再開した。
その隣に、迷いながらも確かに歩幅を合わせるアルディス。
新たな朝が、二人の距離を少しずつ近づけていた。
◆
午前の執務中。
殿下は席を離れず、淡々と署名を重ねる。
隣で護衛の位置についたアルディスは、視線の届く範囲を呼吸に合わせて巡回するように見張り続けた。
片眼になってから、空間を捉える癖が少し変わった。
手すりの陰、柱の影、人の気配の流れ。
影のころには当然にできたことに、今は意識と言葉が伴う。
(長く影をしていた……癖は、なかなか抜けないものなのだな)
殿下に名を呼ばれ、胸の鼓動はこんなにも揺れるのに――
その感情を悟らせまいと、呼吸ひとつ整えることに必死だった。
「殿下、休憩にいたしましょう」
侍従が銀盆に小さな菓子と茶を載せて運び、執務室内のローテーブルに並べていく。
焼きたての蜂蜜の香り。
殿下は「ありがとう」と受け取り、ふっと口元を綻ばせた。
その横顔に、アルディスは胸の奥がきゅうと縮むのを感じた。
(……光のようだ)
誰のためでもなく、ただそこにいる者の心に灯る、小さな火。
影であった頃は、その温度に触れても、感じてはいけなかった。
だが今は――否応なく胸に届いてしまう。
茶の湯気がほどける。
立ち上がった殿下がアルディスを見上げ、覗き込む。
「お前も、少し」
「任の最中です」
「……アルディス」
名を呼ばれる。
喉の奥がわずかに熱を帯びる。
小さく息を吐き、殿下に続いて、ソファに座る。
「……頂戴します」
アルディスは茶器を受け取った。
湯気越しに、殿下のまなざしが揺れる。
その柔らかさに、視線を逃すのは自分のほうだった。
(……見つめられると、すべてを失いそうになる)
◆
夕刻、回廊に西日が差し、床に長い格子模様を敷いた。
執務を終えた殿下が外套を羽織る。
留め金の細工が、慣れぬ指を拒むように固く噛んだ。
「……少し貸してください」
アルディスが近づき、外套の襟元に手を添える。
金具の爪の角度を一つ戻し、布の重さを指で支えてやると、留め金は素直に音なく収まった。
「ありがとう」
殿下が顔を上げる。
近い。
片眼に映るのは、翳りのない、真っ直ぐな瞳。
アルディスの指先に、外套の温もりが残る。
放せばよいのに、ほんの刹那、放せなかった。
「……どうかした?」
「……いえ」
アルディスは息を飲み、手を離す。
胸の内側の、長いあいだ閉ざしてきたものが、自然にこぼれてしまいそうだった。
「殿下」
「うん?」
「以前よりも……その」
殿下は瞬きをして、それから――ふ、と息のように笑った。
誰に向けたわけでもない、飾りのない笑み。
肩の力が抜けて、目尻がやわらかく下りる。
昼の広場で民へ向ける眩い笑顔とも、廷臣たちに見せる理想の微笑とも違う。
「気づいてしまったか」
殿下が小さく、恥じらうように視線を伏せる。
「お前が傍にいると思うだけで……それだけで、嬉しいんだ」
その言葉は静かに自分の中に落ちた。
アルディスは、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
影であった頃は、暗い部屋に座る孤独な殿下の背中ばかり見ていた。
今は――こんな柔らかい笑みを自分に向けてくれるのか。
「……殿下」
呼ぶ声が、いつもより低く出た。
殿下が顔を上げる。
夕陽が、片眼の包帯に金の縁を描き、殿下の外套の端が、風に揺れる。
アルディスは一歩、踏み出した。
「その笑みが、私は……好きです」
殿下の瞳が揺れ、次の瞬間、もう一度笑った。
見ているだけで、硬い心の鎧がほどけていく。
「アルディス」
名を呼ぶ声が、光に満ちている。
「――お前にだけしか見せないよ」
その一言が、胸に確かな刻印を落とした。
「……はい」
その返事に満足したように、殿下は歩き出す。
夕陽は沈みかけ、長い影を引く。二つは重なり、同じ方向へ伸びていた。
◆
(……もう、離れられない)
アルディスは胸の奥で静かに呟いた。
王子としての光と、ひとりの人間としての殿下。
その両方を、この身に焼き付けてしまった。
理性は「踏み込むな」と叫ぶ。
欲望は「触れろ」と囁く。
そのせめぎ合いが、胸を焦がし続けていた。
陽光が回廊を照らし、白い石壁を黄金に染めている。
第一王子は、ゆっくりと歩みを進めながら、その隣に立つ人物を横目で見た。
黒衣ではなく、軍装に身を包んだ騎士――アルディス。
(もう“影”じゃないんだ)
王子直属の護衛騎士として、誰の目にも見える姿で並び立つ。
隠れていた背中が、今は光の下で共に歩いている。
その事実だけで、胸が熱を帯びていた。
「……アルディス」
自然に、その名が口をついた。
口にするだけで、胸が温かくなる。
影だった頃には決して呼べなかった名前。
今はこうして声にできる。
アルディスはわずかに眉をひそめた。
「……殿下」
低く短い返事は、どこかぎこちない。
王子は微笑みを浮かべ、さらに呼んでみる。
「アルディス」
今度は一歩進んで、振り返る。
「アルディス」
光に揺れる金の髪、赤い瞳が、片目を覆う布の下からまっすぐに向けられる。
「……殿下。名を……そう何度も呼ばれるのは……」
言葉は冷静だが、耳のあたりがほんのわずかに赤く染まっている。
王子はその微細な変化を見逃さなかった。
「いいじゃないか、私はお前の名を呼びたい」
アルディスは視線を逸らす。
影であった日々の癖が、まだ抜けない。
呼ばれても、心の奥に喜びが灯っても、それを上手く表現することができない。
それが逆に、王子の胸を切なく満たした。
「アルディス。お前は……もう影じゃない。
私の、ただひとりの側近」
その言葉に、アルディスの身体が小さく揺れた。
影として生き、顔も名も隠し続けてきた過去。
それが今、殿下の言葉によって塗り替えられてゆく。
(……殿下。そうだ、私はもう隠れる必要はないのか)
片目を伏せた声音は、影の頃には決して出さなかったほど柔らかかった。
「……殿下」
王子は満足げに微笑み、歩みを再開した。
その隣に、迷いながらも確かに歩幅を合わせるアルディス。
新たな朝が、二人の距離を少しずつ近づけていた。
◆
午前の執務中。
殿下は席を離れず、淡々と署名を重ねる。
隣で護衛の位置についたアルディスは、視線の届く範囲を呼吸に合わせて巡回するように見張り続けた。
片眼になってから、空間を捉える癖が少し変わった。
手すりの陰、柱の影、人の気配の流れ。
影のころには当然にできたことに、今は意識と言葉が伴う。
(長く影をしていた……癖は、なかなか抜けないものなのだな)
殿下に名を呼ばれ、胸の鼓動はこんなにも揺れるのに――
その感情を悟らせまいと、呼吸ひとつ整えることに必死だった。
「殿下、休憩にいたしましょう」
侍従が銀盆に小さな菓子と茶を載せて運び、執務室内のローテーブルに並べていく。
焼きたての蜂蜜の香り。
殿下は「ありがとう」と受け取り、ふっと口元を綻ばせた。
その横顔に、アルディスは胸の奥がきゅうと縮むのを感じた。
(……光のようだ)
誰のためでもなく、ただそこにいる者の心に灯る、小さな火。
影であった頃は、その温度に触れても、感じてはいけなかった。
だが今は――否応なく胸に届いてしまう。
茶の湯気がほどける。
立ち上がった殿下がアルディスを見上げ、覗き込む。
「お前も、少し」
「任の最中です」
「……アルディス」
名を呼ばれる。
喉の奥がわずかに熱を帯びる。
小さく息を吐き、殿下に続いて、ソファに座る。
「……頂戴します」
アルディスは茶器を受け取った。
湯気越しに、殿下のまなざしが揺れる。
その柔らかさに、視線を逃すのは自分のほうだった。
(……見つめられると、すべてを失いそうになる)
◆
夕刻、回廊に西日が差し、床に長い格子模様を敷いた。
執務を終えた殿下が外套を羽織る。
留め金の細工が、慣れぬ指を拒むように固く噛んだ。
「……少し貸してください」
アルディスが近づき、外套の襟元に手を添える。
金具の爪の角度を一つ戻し、布の重さを指で支えてやると、留め金は素直に音なく収まった。
「ありがとう」
殿下が顔を上げる。
近い。
片眼に映るのは、翳りのない、真っ直ぐな瞳。
アルディスの指先に、外套の温もりが残る。
放せばよいのに、ほんの刹那、放せなかった。
「……どうかした?」
「……いえ」
アルディスは息を飲み、手を離す。
胸の内側の、長いあいだ閉ざしてきたものが、自然にこぼれてしまいそうだった。
「殿下」
「うん?」
「以前よりも……その」
殿下は瞬きをして、それから――ふ、と息のように笑った。
誰に向けたわけでもない、飾りのない笑み。
肩の力が抜けて、目尻がやわらかく下りる。
昼の広場で民へ向ける眩い笑顔とも、廷臣たちに見せる理想の微笑とも違う。
「気づいてしまったか」
殿下が小さく、恥じらうように視線を伏せる。
「お前が傍にいると思うだけで……それだけで、嬉しいんだ」
その言葉は静かに自分の中に落ちた。
アルディスは、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
影であった頃は、暗い部屋に座る孤独な殿下の背中ばかり見ていた。
今は――こんな柔らかい笑みを自分に向けてくれるのか。
「……殿下」
呼ぶ声が、いつもより低く出た。
殿下が顔を上げる。
夕陽が、片眼の包帯に金の縁を描き、殿下の外套の端が、風に揺れる。
アルディスは一歩、踏み出した。
「その笑みが、私は……好きです」
殿下の瞳が揺れ、次の瞬間、もう一度笑った。
見ているだけで、硬い心の鎧がほどけていく。
「アルディス」
名を呼ぶ声が、光に満ちている。
「――お前にだけしか見せないよ」
その一言が、胸に確かな刻印を落とした。
「……はい」
その返事に満足したように、殿下は歩き出す。
夕陽は沈みかけ、長い影を引く。二つは重なり、同じ方向へ伸びていた。
◆
(……もう、離れられない)
アルディスは胸の奥で静かに呟いた。
王子としての光と、ひとりの人間としての殿下。
その両方を、この身に焼き付けてしまった。
理性は「踏み込むな」と叫ぶ。
欲望は「触れろ」と囁く。
そのせめぎ合いが、胸を焦がし続けていた。
3
あなたにおすすめの小説
沈黙のΩ、冷血宰相に拾われて溺愛されました
ホワイトヴァイス
BL
声を奪われ、競売にかけられたΩ《オメガ》――ノア。
落札したのは、冷血と呼ばれる宰相アルマン・ヴァルナティス。
“番契約”を偽装した取引から始まったふたりの関係は、
やがて国を揺るがす“真実”へとつながっていく。
喋れぬΩと、血を信じない宰相。
ただの契約だったはずの絆が、
互いの傷と孤独を少しずつ融かしていく。
だが、王都の夜に潜む副宰相ルシアンの影が、
彼らの「嘘」を暴こうとしていた――。
沈黙が祈りに変わるとき、
血の支配が終わりを告げ、
“番”の意味が書き換えられる。
冷血宰相×沈黙のΩ、
偽りの契約から始まる救済と革命の物語。
溺愛王子様の3つの恋物語~第1王子編~
結衣可
BL
生徒会副会長を務めるセオドア・ラインハルトは、冷静沈着で実直な青年。
学園の裏方として生徒会長クリストフを支える彼は、常に「縁の下の力持ち」として立場を確立していた。
そんなセオドアが王城へ同行した折、王国の次期国王と目される 第一王子レオナード・フォン・グランツ に出会う。
堂々たる風格と鋭い眼差し――その中に、一瞬だけ垣間見えた寂しさに、セオドアの胸は強く揺さぶられる。
一方のレオナードは、弟クリストフを支える副会長の聡明さと誠実さに興味を抱く。
「弟を支える柱」として出会ったセオドアに、いつしか彼自身にとっても特別な存在となっていく。
次元を歪めるほど愛してる
モカ
BL
白い世界で、俺は一人だった。
そこに新しい色を与えてくれたあの人。感謝してるし、大好きだった。俺に優しさをくれた優しい人たち。
それに報いたいと思っていた。けど、俺には何もなかったから…
「さぁ、我が贄よ。選ぶがいい」
でも見つけた。あの人たちに報いる方法を。俺の、存在の意味を。
抑制剤の効かない薬師オメガは森に隠れる。最強騎士団長に見つかり、聖なるフェロモンで理性を溶かされ、国を捨てた逃避行の果てに番となる
水凪しおん
BL
「この香りを嗅いだ瞬間、俺の本能は二つに引き裂かれた」
人里離れた森で暮らす薬師のエリアルは、抑制剤が効かない特異体質のオメガ。彼から放たれるフェロモンは万病を癒やす聖なる力を持つが、同時に理性を失わせる劇薬でもあった。
ある日、流行り病の特効薬を求めて森を訪れた最強の騎士団長・ジークフリートに見つかってしまう。エリアルの香りに強烈に反応しながらも、鋼の理性で耐え抜くジークフリート。
「俺が、貴方の剣となり盾となる」
国を救うための道具として狙われるエリアルを守るため、最強の騎士は地位も名誉も投げ捨て、国を敵に回す逃避行へと旅立つ。
シリアスから始まり、最後は辺境での幸せなスローライフへ。一途な騎士と健気な薬師の、運命のBLファンタジー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる