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第11話 雨
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午後の空は、灰色の雲に覆われていた。
王城の庭園を渡る風は冷たく、白百合の花弁がかすかに震える。
殿下が歩を進めると、すぐ傍で外套がふわりと広がり、
アルディスが寄り添っているのがわかる。
(もう、隠れていない。堂々と傍にいる――それだけのことで、どうして胸がこんなに安らぐのだろう)
ぽつ、ぽつ――やがて固い空から雨粒が落ち始め、白百合に重たい雫が宿った。
「……雨に降られるとはな」
殿下は苦笑し、外套の裾をつまむ。湿り気を含んだ布が指に重く絡み、石畳は急に滑りやすくなった。
ほんの一瞬の傾き。
靴底が濡れた面を滑り、視界が傾ぐ。
「――殿下!」
反射で伸びた腕。
片眼で測る距離はわずかに狂う――だからこそ、余計に強く抱き寄せた。
外套ごと殿下の身体が胸に収まり、冷えた雨と、内側から立ちのぼる体温がぶつかり合う。
「……大丈夫ですか」
声が掠れた。思った以上に震えてもいた。
殿下は腕の中で息を整え、ゆっくり顔を上げる。
濡れた睫毛からひとしずくが落ち、紅の瞳がまっすぐ刺し込む。
雨音の幕の向こうで、時間が少し滞る。
「大丈夫だ。……それより」
「それより……?」
「お前に守られるのは……心地よい」
胸の奥で、何かが一気に脈打った。
理性が「手を放せ」と命じるのに、身体は言うことを聞かない。
「……殿下」
呼ぶ声が低く沈む。そこから先が喉につかえたように続かない。
雨は容赦なく二人を濡らしてゆく。
だがアルディスの胸の中で震える微かな体温が、冷たさをかき消してしまう。
「私は……お前の腕は、安心する」
殿下の声が、雨と同じくらい静かに落ちる。
「アルディス、お前の傍は心地よい」
噛み殺していた何かが、そこで音を立てた。
腕の力を緩められない――むしろ、無意識に強く抱き締めてしまう。
「……殿下、そんなこと言われては離すことができません」
心の声が、ついに唇を越えた。
殿下はぱちりと瞬き、次の瞬間、ふっと頬を緩める。
「アルディス、しばらくこのままで」
雨音が、世界の輪郭をやさしくぼかす。
庭園には二人だけ。
アルディスは初めて知る――守るという行いが、自分自身の心に甘い痕を刻んでゆくことを。
(いけない。もっと距離を――
……いや、もう)
理性は後退し、欲望は確かに前へ出る。
外套の内側で、二つの鼓動が重なっていた。
◆
その夜、殿下は熱に伏した。
雨に濡れた身体を温める間もなく政務へ戻ったせいだ。
寝台の上、白い額が薄紅に染まり、呼吸は浅い。
「……殿下」
額に触れた指先に、明確な熱。
アルディスの眉間に自然と皺が寄る。
「側近である私が……申し訳ございません」
椅子を寝台の傍へ引き寄せ、夜着の襟元を整える。
押し上げられた喉の線がかすかに震え、胸板の上下に合わせて寝具がわずかに鳴った。
半ば夢の底から、紅の瞳が揺れる。
「……アルディス……」
「はい」
「……お前は、大丈夫なのか」
「はい、殿下」
「そうか……手を」
熱に浮かされた声は、とたんに幼い。
頼ることを学ばなかった王子が、ようやく掴めた細い綱のように差し出している。
「……アルディス……手を。このまま傍に」
震える指が縋る。汗ばむ掌が、必死に何かを確かめようとしている。
その体温が、皮膚越しに胸まで上ってくる。
(殿下……)
アルディスはそっと手を重ねた。
指と指を絡めるのは、線を一つ越えることに思えた――だから、掌を包み込む。
それでも十分すぎるほど、心が鳴った。
「……お傍におります」
自分の声が、思った以上に掠れている。
殿下は微笑み、安心の吐息とともに瞼を下ろした。
「……ありがとう……アルディス」
その微笑が「自分に向けられている」事実だけで、胸の内側が灼けるように疼く。
理性が慌てて鎮火に走る。だが火は、もう静かに、広く燃え移っていた。
◆
夜半。
殿下は浅い眠りの中で何度も寝返りを打ち、そのたびに指がきゅっと強まる。
離すまいとするその仕草に、アルディスは一睡もできなかった。
窓外の雲がきれ、薄い月が部屋の隅を照らす。
白い光が寝台の端に溜まり、殿下の髪に銀の縁を与えた。
額へ、頬へ、汗が細い道を描く。喉元に触れる空気は熱っぽく、時折、微かな喘ぎが混じる。
(苦しいのか、殿下……)
前髪が汗に張りついている。
アルディスは躊躇い、そしてそっと指先でそれを払った。
触れた瞬間、胸の奥で雷のような明滅。
理性が警鐘を鳴らす――これ以上は。
欲望は囁く――これくらいは。
「……殿下」
答えはない。
握られた手が小さく握り返す。
意識の底から、それでも掴みたいと願うように。
「私は、今まで影として殿下のお傍におりました。
今は騎士として、側近として傍に仕えております。
けれど――この身を、生涯、貴方の隣に置いてほしいと願わずにいられません」
言ってしまった。
月影が胸を過ぎ、沈黙が降りる。
寝台の端で、殿下の指がまた小さく動いた。まるで返事のように。
唇を噛む。
掌で包んだ熱が、ゆっくりとこちらへ移ってくる。
夜気は冷たいのに、腕の内側がじんわり汗ばむ。
喉が渇き、水ではないものを欲していた。
(守ることと、求めることは違う。
私は守るためにここにいる。
――しかし、これからきっと求めてしまうだろう)
影の頃にはなかった震えが、指先に宿る。
それを見ているのは自分だけ。
殿下は眠りの底で、安堵に頬を緩めた。
夜は更け、雨上がりの匂いが窓から忍び込む。
絡めないはずのもの――義務と願い、理性と渇望――が、静かに、確かに結び付き始めていた。
二人の手は、離れなかった。
月が傾き、鳥が鳴くまで。
そして心のどこかで、二人とも気づいている――
この手は、もう簡単には離せない、ということに。
王城の庭園を渡る風は冷たく、白百合の花弁がかすかに震える。
殿下が歩を進めると、すぐ傍で外套がふわりと広がり、
アルディスが寄り添っているのがわかる。
(もう、隠れていない。堂々と傍にいる――それだけのことで、どうして胸がこんなに安らぐのだろう)
ぽつ、ぽつ――やがて固い空から雨粒が落ち始め、白百合に重たい雫が宿った。
「……雨に降られるとはな」
殿下は苦笑し、外套の裾をつまむ。湿り気を含んだ布が指に重く絡み、石畳は急に滑りやすくなった。
ほんの一瞬の傾き。
靴底が濡れた面を滑り、視界が傾ぐ。
「――殿下!」
反射で伸びた腕。
片眼で測る距離はわずかに狂う――だからこそ、余計に強く抱き寄せた。
外套ごと殿下の身体が胸に収まり、冷えた雨と、内側から立ちのぼる体温がぶつかり合う。
「……大丈夫ですか」
声が掠れた。思った以上に震えてもいた。
殿下は腕の中で息を整え、ゆっくり顔を上げる。
濡れた睫毛からひとしずくが落ち、紅の瞳がまっすぐ刺し込む。
雨音の幕の向こうで、時間が少し滞る。
「大丈夫だ。……それより」
「それより……?」
「お前に守られるのは……心地よい」
胸の奥で、何かが一気に脈打った。
理性が「手を放せ」と命じるのに、身体は言うことを聞かない。
「……殿下」
呼ぶ声が低く沈む。そこから先が喉につかえたように続かない。
雨は容赦なく二人を濡らしてゆく。
だがアルディスの胸の中で震える微かな体温が、冷たさをかき消してしまう。
「私は……お前の腕は、安心する」
殿下の声が、雨と同じくらい静かに落ちる。
「アルディス、お前の傍は心地よい」
噛み殺していた何かが、そこで音を立てた。
腕の力を緩められない――むしろ、無意識に強く抱き締めてしまう。
「……殿下、そんなこと言われては離すことができません」
心の声が、ついに唇を越えた。
殿下はぱちりと瞬き、次の瞬間、ふっと頬を緩める。
「アルディス、しばらくこのままで」
雨音が、世界の輪郭をやさしくぼかす。
庭園には二人だけ。
アルディスは初めて知る――守るという行いが、自分自身の心に甘い痕を刻んでゆくことを。
(いけない。もっと距離を――
……いや、もう)
理性は後退し、欲望は確かに前へ出る。
外套の内側で、二つの鼓動が重なっていた。
◆
その夜、殿下は熱に伏した。
雨に濡れた身体を温める間もなく政務へ戻ったせいだ。
寝台の上、白い額が薄紅に染まり、呼吸は浅い。
「……殿下」
額に触れた指先に、明確な熱。
アルディスの眉間に自然と皺が寄る。
「側近である私が……申し訳ございません」
椅子を寝台の傍へ引き寄せ、夜着の襟元を整える。
押し上げられた喉の線がかすかに震え、胸板の上下に合わせて寝具がわずかに鳴った。
半ば夢の底から、紅の瞳が揺れる。
「……アルディス……」
「はい」
「……お前は、大丈夫なのか」
「はい、殿下」
「そうか……手を」
熱に浮かされた声は、とたんに幼い。
頼ることを学ばなかった王子が、ようやく掴めた細い綱のように差し出している。
「……アルディス……手を。このまま傍に」
震える指が縋る。汗ばむ掌が、必死に何かを確かめようとしている。
その体温が、皮膚越しに胸まで上ってくる。
(殿下……)
アルディスはそっと手を重ねた。
指と指を絡めるのは、線を一つ越えることに思えた――だから、掌を包み込む。
それでも十分すぎるほど、心が鳴った。
「……お傍におります」
自分の声が、思った以上に掠れている。
殿下は微笑み、安心の吐息とともに瞼を下ろした。
「……ありがとう……アルディス」
その微笑が「自分に向けられている」事実だけで、胸の内側が灼けるように疼く。
理性が慌てて鎮火に走る。だが火は、もう静かに、広く燃え移っていた。
◆
夜半。
殿下は浅い眠りの中で何度も寝返りを打ち、そのたびに指がきゅっと強まる。
離すまいとするその仕草に、アルディスは一睡もできなかった。
窓外の雲がきれ、薄い月が部屋の隅を照らす。
白い光が寝台の端に溜まり、殿下の髪に銀の縁を与えた。
額へ、頬へ、汗が細い道を描く。喉元に触れる空気は熱っぽく、時折、微かな喘ぎが混じる。
(苦しいのか、殿下……)
前髪が汗に張りついている。
アルディスは躊躇い、そしてそっと指先でそれを払った。
触れた瞬間、胸の奥で雷のような明滅。
理性が警鐘を鳴らす――これ以上は。
欲望は囁く――これくらいは。
「……殿下」
答えはない。
握られた手が小さく握り返す。
意識の底から、それでも掴みたいと願うように。
「私は、今まで影として殿下のお傍におりました。
今は騎士として、側近として傍に仕えております。
けれど――この身を、生涯、貴方の隣に置いてほしいと願わずにいられません」
言ってしまった。
月影が胸を過ぎ、沈黙が降りる。
寝台の端で、殿下の指がまた小さく動いた。まるで返事のように。
唇を噛む。
掌で包んだ熱が、ゆっくりとこちらへ移ってくる。
夜気は冷たいのに、腕の内側がじんわり汗ばむ。
喉が渇き、水ではないものを欲していた。
(守ることと、求めることは違う。
私は守るためにここにいる。
――しかし、これからきっと求めてしまうだろう)
影の頃にはなかった震えが、指先に宿る。
それを見ているのは自分だけ。
殿下は眠りの底で、安堵に頬を緩めた。
夜は更け、雨上がりの匂いが窓から忍び込む。
絡めないはずのもの――義務と願い、理性と渇望――が、静かに、確かに結び付き始めていた。
二人の手は、離れなかった。
月が傾き、鳥が鳴くまで。
そして心のどこかで、二人とも気づいている――
この手は、もう簡単には離せない、ということに。
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