元カノの弟と同居を始めます?

結衣可

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第10話 名前で呼んでほしい

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 ある日の火曜日、定時前に珍しく仕事が片づいた。
 上司が「今日は上がっていい」と言ったのを、二度聞きしてから鞄を持った。
 早い時間の街は空気が軽い。まだ夜の匂いになりきっていない風が、ジャケットの裾をふわりと浮かせる。

 玄関の鍵を回すと、甘い匂いがした。
 玉ねぎを炒めた甘さ、トマト、弱火で煮詰めたソースの匂い。

「ただいま」

「おかえりなさい!」

 キッチンで蒼が振り返る。エプロンの紐を後ろで結び直して、木べらを器用に操っている。
 蓋を少しずらすと、湯気の向こうに丸い影。煮込みハンバーグだ。

「今日は気合入りました。ひき肉、ちゃんと空気抜きました」

「プロかよ」

「動画で予習しました。ほら、押したら肉汁が――わ、出てきた」

「見せるな、腹減る」

「今準備します。手、洗ってきてください」

 言われるままに洗面台へ向かう。
 鏡に映る顔が、思ったより疲れていない。早く帰るだけで、人は別人になるらしい。

 テーブルに並んだ皿は、いつもより少しだけ“特別”の顔をしていた。
 丸いハンバーグ、艶のあるソース、素朴なポテト。味噌汁まで用意されている。

「いただきます」

「どうぞ」

 柔らかい。中で肉と玉ねぎがほどけて、ソースの酸味がちょうどいいところで受け止める。
 米が勝手に進む。

「……うまい」

「やった」

「ほんとに、うまい」

「2回言った。録音して残したかったです」

「なんだそれ」

「褒められた記憶は、ちゃんと保存しないと」

 冗談を言い合いながら、皿が静かに軽くなる。
 途中、蒼がぽつりと言った。

「俺、一緒に食べる時間が、いちばん好きかもしれないです」

「そうか」

「うん。なんか……味が違うんです」

 箸を置いて、俺は少しだけ考える。
 いつものように言葉を選びすぎると、逆に正確さを失う。だから、今日は簡潔に。

「俺もだ」

 蒼が目を瞬かせて、ゆっくり笑った。
 それだけの会話で、部屋の温度が一度上がる。ガスでも暖房でもなく、もっと静かな熱。

 食べ終わって、二人で台所に立つ。
 皿を洗う音、布巾で拭う音、棚に戻す小さな音。
 生活の音が重なって、夜のはじめをやわらかく縁取る。

「ねえ、篠原さん」

「ん」

「呼び方、そろそろ変えてもいいですか」

 スポンジを流しに置く音が、やけに大きく聞こえた。
 蒼はいつもの穏やかな顔で、けれど目だけはまっすぐだ。

「“篠原さん”って、呼ぶのはちょっと距離を感じてしまって寂しいです。
 あと、……俺のことも名前で、呼んでほしい」

 言葉は静かだったのに、心臓が不意に走り出す。
 俺は布巾を絞ったまま、数拍分だけ黙った。

「……蒼」

 口に乗せた瞬間、舌の上でその音が溶けた。
 蒼が、目を細くして笑う。頬に、少しだけ色が乗る。

「はい」

「返事が早えな」

「呼ばれたので」

「そういうものか?」

「そういうものです」

 ほんの二音。
 それだけで、距離がじわじわ詰まるのがわかる。
 俺は布巾を干し、呼吸を整えた。

「俺のことはなんて呼びたいんだ?」

「“篠原さん”って、つい言いそうになるけど……“聡さん”はどうですか」

「さん、つけるのか」

「さ、最初からは無理です。いきなり“聡”は、俺が、倒れちゃうので」

「倒れるなよ」

「倒れないように練習します」

 可笑しくて笑いそうになるのをこらえた。
 名前に段階をつけるなんて、真面目なのか不器用なのか。その両方だろう。
 けれど、「聡」と呼ばれる音を想像しただけで、どこかが微かに疼いたのも事実だ。

「洗濯物、取り込むぞ。夜風、出てる」

「はーい」

 ベランダに出ると、空はすっかり群青に変わり、夜の色になっていた。
 街の灯りが点々と浮かび、遠くの線路のほうで小さく音が跳ねる。
 夜風が、昼間の熱を忘れたみたいに冷たい。

 シャツを一枚ずつ外して、肩にかける。
 蒼の指が洗濯ばさみを外すたび、金具が小さく鳴る。
 その音の合間に、彼の髪が風に撫でられ、額に少し落ちる。

「……気持ちいいですね」

「そうだな」

「このまま、少しだけここにいてもいいですか」

「あぁ」

 手を止めて、並んで街を見た。
 高層でもなんでもないベランダだけど、今夜はちょっと広く見える。
 夜風の流れが俺の袖を揺らし、隣で蒼のシャツの裾も同じタイミングで波打つ。

「“蒼”って、呼ばれると、変な感じします」

「嫌か」

「好きです。……びっくりするけど」

「そうか」

「俺、“聡さん”って呼ぶの、練習します」

 確かめるように、蒼が小さく口を開く。

「……聡さん」

 短い音が、風に混ざって耳に入ってきた。
 たったそれだけで、体の中心が静かに反応する。
 恥ずかしさより先に、嬉しさがくる。そんな感覚を、しばらく忘れていた。

「悪くないな」

「ふふ、よかった」

 目が合う。
 逸らす理由が見つからない。
 このまま、線を越えることは簡単だ。
 でも、簡単な越え方を、俺はしたくない。

「もう少し、このままでいい」

 口にしたのは、うっかり漏れた本音だった。
 蒼が、問い返すように首を傾げる。

「このまま?」

「今は、これでいい。……急がなくていいって意味だ」

「はい。俺も、そう思います」

 蒼の指が、柵の上をなぞる。
 夜風がその指先を冷やしていく。

「身体、冷える。そろそろ入ろう」

「はい」

 取り込み終えた洗濯物を抱えて室内に戻る。
 リビングの空気は少しぬくもりを取り戻して、窓の外の夜と温度差を作る。
 ソファに腰を下ろして、洗濯物を畳む。
 Tシャツを半分、きっちり合わせて、端を軽く撫でる。いつもの手順が、今日は妙に愛しい。

「蒼、タオルは二つ折りでいい」

「了解です……聡さん」

「うん」

 呼ばれるたび、胸の奥に小さな灯りが増える。

「ねえ、聡さん」

「ん」

「俺、今がすごく好きです。
 進んでるのかどうか、外から見たらわからないかもしれないけど、ちゃんと進んでる気がします」

「そうだな」

「はい」

 タオルを積み上げる手が、同じタイミングで止まった。
 指先がほんの一瞬触れたけれど、どちらも引かなかった。
 それで十分、という顔をして、二人とも少し笑う。

「明日、朝何時だ」

「9時に講義です」

「起こしてやる」

「……聡さんに呼ばれたら、多分すぐに起きちゃうと思います」

「ほんとかよ」

 二人で笑う。
 笑い声が壁に当たって、穏やかに戻ってくる。
 皿の音もしない、洗濯機も止まっている、ニュースの音もない。
 なのに、静かすぎない夜。

「……蒼」

「はい」

「おやすみは、まだ早いか」

「そうですね」

「……」

「でも、練習したいから、言います。
 おやすみ、聡さん」

 心臓が一回、ゆっくり打つ。
 俺は笑って、頷いた。

「あぁ、おやすみ、蒼」

 ブランケットを半分ずつ膝に掛ける。
 窓の隙間から入り込む夜風が通り抜けても、二人の淡い熱だけはどこにも行かなかった。
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