元カノの弟と同居を始めます?

結衣可

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第11話 眠れない夜と、心臓の音

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 夜が、思ったより静かだった。
 窓の外の街灯が薄く部屋を照らし、カーテンの影が壁に流れている。
 寝返りを打っても眠気は戻らない。
 枕の下のスマホを見たら、午前二時半。
 普段ならとっくに夢の中だ。

 仕方なくベッドを抜け出した。
 廊下を抜けると、リビングのドアの隙間から淡い光が漏れている。
 嫌な予感はしなかった。ただ、少しだけ胸の奥がざわつく。

 ドアを開けると、ソファに蒼がいた。
 膝にブランケットをかけて、本を読んでいる。
 髪が少し乱れていて、目元は眠そうなのに、指先だけがしっかりページを押さえていた。

「……まだ起きてたのか?」

「すいません。起こしちゃいました?」

「いや、俺が勝手に起きた」

 蒼はブランケットを直して、申し訳なさそうに笑った。

「寝ようと思ったんですけど、目が冴えちゃって」

「コーヒーでも飲んだのか?」

「飲んでないです。……昨日の“おやすみ”の声が、頭の中で繰り返されて」

 思わず足が止まる。
 寝ぼけてるのかと思ったけど、顔は真剣だった。

「それは……俺のせいか?」

「多分」

「……多分って便利な言葉だな」

「ですよね。俺もそう思ってました」

 蒼が笑う。
 その笑い方が柔らかすぎて、怒る気も茶化す気も失せた。
 仕方なく、向かいのソファに腰を下ろす。

「本、読んでたのか?」

「はい。眠くなるかなと思って。
 でも文字が全然入ってこない。
 “聡さん”って呼んだときのこととか、貴方に呼ばれたときのことばっかり、思い出してしまって」

 昨夜の余韻が、まだこの部屋のどこかに残っている。
 蒼の声を聞いて、それが確信に変わる。

「……寝ろ」

「寝られないんです」

「子どもか」

「そうです。でも、寝れない理由は嫌なものじゃないので」

「そうか」

 会話の合間に、時計の針の音がやけに大きく聞こえる。
 夜はすべての音が近くなる。
 呼吸の音も、心臓の鼓動も、すぐ隣にいるみたいに響く。

「ブランケット、寒くないか」

「ちょっとだけ」

 俺は立ち上がって、ソファの背からもう一枚取った。
 蒼の膝にかけようとしたら、ブランケットの端を彼が掴んだ。
 その手の甲に、俺の指がかすかに触れる。
 それだけで心臓が跳ねる。

「一緒に使いましょう」

「狭いぞ」

「並んで座れば大丈夫です」

 抵抗する言葉が見つからなかった。
 俺は隣に座る。ブランケットの下で、肩と肩が軽く触れる。
 暖かい。けど、熱い。

「篠原……いや、聡さん」

「なんだ」

「こうしてると、落ち着くんです。変ですか」

「変じゃない」

「よかった。……俺だけじゃないなら」

「どういう意味だ」

「さっきから、聡さんの心臓、速い気がして」

 指摘されて、一瞬息が止まった。
 まさかと思ったけど、蒼は真顔だった。
 俺の胸の辺りをちらりと見て、首を傾げる。

「気のせいかな」

「気のせいだ」

「ほんとに?」

「……多分」

「便利ですね、“多分”」

「お前の真似だ」

「それはずるいです」

 笑い声が混ざる。
 その音が、夜の空気をやわらかく溶かした。
 しばらくして、蒼が小さく息を吐いた。

「ねえ、聡さん」

「ん」

「俺、好きな人と一緒に住むなんて、想像したことなかったんです」

「……それは」

「まだ言わなくていいです。
 でも、こうしてると、恋って静かなものなんだなって思います。
 勝手に胸が鳴って、手が温かくなるだけで、それ以上の言葉、いらないくらい」

 隣で囁く声が、あまりにも真っすぐで。
 俺は目を閉じた。
 何かを言い返すより先に、胸の奥が溶けていく感覚だけが残る。

「……もう寝ろ。寝ないと、明日がしんどいぞ」

「はい」

 蒼がブランケットを少し引き寄せる。
 その動きにつられて、俺の肩も自然に寄った。
 距離がなくなる。
 でも、触れたくなる寸前で、どちらも止まる。

「聡さん」

「ん」

「おやすみ、もう一回言ってください」

「……おやすみ、蒼」

「……はい、おやすみなさい」

 蒼の声が、ブランケットの中でかすかに震えた。
 目を閉じると、心臓の音がふたり分に増える。
 同じリズムで、同じ速さで、夜の静けさに溶けていく。

 名前を呼ぶだけで眠れないなんて、もう終わってるな。
 そう思いながら、俺は深く息を吸って、
 その音ごと、静かに眠りへ沈んでいった。


 目が覚めたのは、いつもより少し遅い時間だった。
 カーテン越しの光が、部屋の奥まで柔らかく届いている。
 寝ぼけた頭のまま、枕の横を見た。
 ブランケットの端が落ちている。リビングで眠ってしまったのを、思い出した。

 昨夜のことが、夢みたいに思えた。
 蒼と並んで座って、話して、名前を呼んで――
 眠れない夜が、あんなに優しく終わるなんて。

 起き上がってリビングに行くと、すでに朝の匂いがしていた。
 トーストの香ばしさと、コーヒーの苦味。
 テーブルの上には、二人分の朝食。
 そしてキッチンには、エプロン姿の蒼。

「おはようございます、聡さん」

 その一言で、心臓が跳ねた。
 昨日の夜の余韻が、音を立てて蘇る。
 呼ばれただけで、何もかもが違って聞こえる。

「……おはよう」

 声が、少し掠れた。
 蒼は嬉しそうに笑って、コーヒーをテーブルに置く。

「眠れました?」

「……寝た。ぐっすり」

「よかった。俺も……途中で寝落ちしました。
 気づいたらブランケットがずり落ちてて、朝方ちょっと寒かったです」

「風邪ひくなよ」

「平気です。隣に、ちゃんとあったかい人いたから」

 冗談みたいに言う声が、やけに静かに響く。
 ああ、もう逃げ道はないな――そんなことを思いながら、椅子に腰を下ろした。

「コーヒー、今日のは少し薄めです。昨日のより少し軽い感じで」

「気が利くな」

「えへへ。聡さん、昨日すごく遅かったから。
 重たいのはしんどいかなと思って」

「……ありがとう」

 コーヒーを一口飲む。
 確かに軽い。けど、胸の奥は逆に重くなる。
 名前で呼ばれるたび、心がやわらかく沈んでいく。

「今日、大学?」

「はい。午後から。午前中はレポートやります」

「そうか」

「聡さんは?」

「午前は打ち合わせ、午後は出張準備」

「忙しそうですね」

「まあ、ぼちぼちだ」

 食事のあいだ、会話は途切れない。
 トーストを食べ終えるころ、蒼がふと俯いた。
 コーヒーカップを両手で持ちながら、少し照れくさそうに口を開く。

「……あの、変なこと言ってもいいですか」

「今さらだな」

「昨日、“好きな人と一緒に住むなんて想像してなかった”って言ったじゃないですか」

「ああ」

「あれ、ほんとにそう思ってたんです。
 でも、こうして朝を迎えたら、意外と普通に息できるんだなって思って。
 “特別”っていうより、“当たり前”が増えていく感じがして」

「悪くないな」

「はい。悪くないです」

 蒼が笑う。
 その笑顔に、朝の光が重なって、ほんの一瞬、言葉が出なかった。

 テーブルの上には食べ終えた皿、カップ、
 そして並んで置かれた二人分のスプーン。
 昨日まではただの生活の道具だったのに、今日はどうしてか、“ふたりの記号”に見える。

「……なあ、蒼」

「はい?」

「昨日の“おやすみ”と今日の“おはよう”、
 どっちも、いい音だった」

「音?」

「ああ。
 名前を呼ばれると、世界の雑音が全部消える感じがする」

「……そんな風に言われたら、また眠れなくなりますよ」

「責任取らされるのか」

「取ってもらいます」

 間髪入れずに言われて、笑うしかなかった。
 笑って、少し俯いて、また顔を上げる。
 目が合う。
 昨日よりも、まっすぐな視線。

 沈黙がひと呼吸分、長くなる。
 その沈黙を、蒼の声が破った。

「俺、名前で呼ぶの、もう緊張しないかも。
 でも、聡さんの“蒼”って声は、やっぱり反則です」

「反則?」

「ずるいくらい、優しい」

 心臓が静かに跳ねる。
 触れるでも、抱くでもなく、ただ言葉だけで近づいてくる。
 朝の光の中、どこにも逃げ場はない。

「ずるいのはお互い様だろ」

「……そうですね」

 蒼が小さく笑った。
 皿を片づけようとして立ち上がると、袖口が少し触れた。
 ほんのそれだけのことなのに、指先が熱を覚える。

「俺、そろそろ大学行きますね」

「行ってこい」

「はい。……行ってきます、聡さん」

「行ってらっしゃい、蒼」

 扉が閉まる。
 その音のあと、部屋に静けさが戻る。
 けれど、昨日までの静けさとは違っていた。
 どこかに彼の呼吸の名残があって、カップの湯気がまだ消えずに残っている。

 朝の光がゆっくりとテーブルを照らす。
 名前を呼び合っただけなのに、
 世界の形が少しだけ変わって見えた。
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