元カノの弟と同居を始めます?

結衣可

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第14話 はじめてキスした夜

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 休日の夕方、キッチンの窓から差し込む光が、淡いオレンジ色に変わり始めていた。
 今日は珍しく二人とも休み。
 近くのスーパーで食材を買い、のんびりと夕飯を作っていた。

「このピーマン、細く切る派ですか?」

「ざっくりでいい。食感残したほうがうまいだろ」

「なるほど」

 包丁を持つ蒼の指先が器用に動く。
 まっすぐな姿勢で、黙々と作業しているその横顔を見ていると、何度でも目が吸い寄せられた。

「……見てないで、手伝ってください」

「見てない」

「見てるじゃないですか」

「見てない」

「今、目が合いました」

 笑いながら突っ込まれて、聡は思わず目を逸らした。
 それでも頬がわずかに熱い。

「お前さ、そうやって喋るの、反則だろ」

「え?」

「……声が可愛すぎる」

 思わず口から出た本音。
 蒼は一瞬固まり、それから恥ずかしそうに笑った。

「……聡さん、そういうこと言うのずるいです」

「お前が先に挑発してんだろ」

「してません!」

 小さな言い合いが、いつの間にか心地よくて、
 笑いながら作った料理はいつもより美味しく感じた。

 ***

 夜、皿を片づけたあと、二人でリビングに座っていた。
 テレビの音はほとんど耳に入らない。
 蒼が隣で、スリーブの袖をくるくるといじっている。
 それが気になって、聡は自然に手を伸ばした。

「糸、出てる」

「え?」

 袖の端に引っかかっていた小さなほつれを、指先でそっと押さえて引く。
 近い。
 気づいた瞬間、呼吸が浅くなった。

「……あ、ありがとうございます」

「あぁ」

 そのまま手を離せばよかった。
 けれど、指先が止まらなかった。
 布の感触を追うように、手が蒼の手の甲をかすめる。
 柔らかくて、あたたかい。
 触れた途端、心臓の鼓動がはっきりと自分の耳に届いた。
 蒼が小さく息を呑む。
 それで我に返るはずだった。
 なのに――手が動かない。

「……聡さん?」

「……悪い。……いや、悪くないかもしれない」

 自分でも何を言っているのか分からなかった。
 ただ、その手を離したくなかった。

「お前と暮らし始めてから、ずっと我慢してた」

「……何を、ですか?」

「お前に、触れるのを」

 その言葉と同時に、聡はそっと蒼の頬に指を伸ばした。
 驚いたように目を瞬かせる蒼。
 その頬を、指先でゆっくりなぞる。

「……思ってたより、柔らかいな」

「そ、そんな……こと言わないでください」

「言う。もう言わないほうが無理だ」

 低い声が胸の奥に落ちて、蒼は息を詰めた。

「俺、自分がこんなふうになると思ってなかった」

「……こんな?」

「一度触れたら、止まれないとか、
 ……だから、お前を可愛いって思うたびに、怖くなる」

「怖い?」

「ああ。好きになるのが、怖かった」

 その言葉を聞いた瞬間、蒼の目から涙がこぼれた。

「……俺は怖くないです」

「蒼」

「だって、聡さんがいるなら」

 その言葉に、聡の手が無意識に蒼を引き寄せた。
 胸のあたりに頬を預ける蒼。
 その頭に手を置き、静かに撫でる。

「……もう、離さない」

「はい」

 短く答えた声が、シャツの胸元に吸い込まれて消えた。
 触れることを恐れていたはずなのに、触れた瞬間から愛しさが溢れ出した。

 夜のリビングは、明かりを落とすと途端に静かになった。
 外から聞こえるのは、遠くの車の音と、冷蔵庫の低い唸りだけ。
 意識のほとんどが、隣にいる人の呼吸に奪われていた。

 ほんの少し触れている肩。
 その温度を意識しすぎて、まともに前を見ていられなかった。

「……眠いのか?」

 隣から低い声が落ちた。
 蒼は小さく首を振った。

「いえ、平気です」

「目、半分閉じてるぞ」

「だって……」

 言いかけて、言葉が途切れた。

「……」

「……」

 沈黙が落ちる。
 でも、不思議と息苦しくはなかった。
 画面の光がゆらゆら揺れて、その淡い明かりの中で、聡さんの横顔が浮かび上がる。
 指先が無意識に動いて、シャツの袖をそっと掴んだ。
 その小さな仕草に、聡さんの目がこちらを向いた。

「……どうした」

「なんでも……ないです」

 そう言いながらも、離せなかった。
 聡さんが少しだけ動いて、距離が縮まった。
 息をするたび、相手の熱が届く。

「蒼」

「はい……」

「震えてる」

「……わかりません、なんか」

 言葉にならない言葉。
 聡さんが、そっと頬に触れた。
 親指の腹で、震える肌をなぞる。
 優しいのに、全身がしびれるようだった。

「……嫌じゃないか」

「嫌じゃ、ないです」

「ほんとに?」

「はい」

 それだけで、聡さんの顔がゆっくりと近づいた。
 目を閉じるタイミングもわからないほど、その距離は自然だった。

 唇が触れた瞬間、世界が一瞬、音を失った。
 柔らかくて、温かくて、でも嬉しさに頭が真っ白になりそうだった。

 息を吸うたびに、心臓が跳ねる。
 痛いくらいに鼓動が早くなって、胸の奥がいっぱいになる。
 聡さんが一度唇を離して、小さく笑った。

「……これが、俺たちの“はじめて”だな」

「……はい」

 蒼は顔を上げることができなかった。
 目の奥が熱くて、視界がにじむ。

「泣いてるのか」

「はい……だって、嬉しくて」

 その言葉に、聡さんの手がもう一度伸びてきた。
 今度は、ゆっくり頭を撫でる。

「そうか」

「……聡さんは?」

「俺も、嬉しいよ」

 もう一度、唇が重なった。
 今度は少しだけ深く。
 だけど、優しさは変わらない。

 息を交わすたびに、
 胸の奥に小さな火が灯るようで、
 蒼はその光に包まれながら、
 ただ静かに、目を閉じた。
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