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第8章
再び、かつて住んでいた町へ 7
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記録は52秒67。
「すごい。練習でもあんなタイム出ていないのに!」
紗季の声で、あいつがベストタイムを更新したのだとわかった。
他の組の3位は、このタイムより速い。あいつより速い3着以下は既に3人以上いる。つまり、今度はプラスでも拾われることはない、ということだ。
それでも紗季の興奮は冷めやらず、という様子だった。
笑顔で話しているあいつの目はレース中のものとは異なり、いつか初めて会ったときと同じ穏やかな目だった。
あの野生の獣のような目を僕はどこで知っていたのだろう。
記憶がフラッシュバックする。
あれはいつだ。あれはどこだ。
中学3年の全中の100mだ。隣のレーンにいた藤枝から感じたものと同じなんだ。
あのときも僕は寒気を感じたんだ。
なぜ、僕はあいつから藤枝と同じような、あんな寒気を感じ取ったんだろう。
「こっちの碧斗は、もう一人の碧斗の幻影を乗り越えたよ。いま、あんな風に、あの碧斗がみんなに認められはじめてる」
あいつは窪田や他のランナーと何か話をしていた。窪田とは握手までしていた。走りを認められた、ということなのだろうか。
僕と同じ名前の男が、僕ではなく彼としての「相沢碧斗」として歩み始めているということか。あれが「相沢碧斗」ということか。
「オレじゃなくて、あいつが……」
「そう。碧斗は周りの否定的意見を乗り越えたんだよ。きっとまた速くなる」
「かもな」
「あんたはこのまま立ち止まり続けてるの? みんな、先に行っちゃうよ」
僕はその言葉に何も言えず、しばらくスタンドに立ち尽くしていた。トラックは女子100mハードルの準備がはじまっていた。
「また、オレって走っていいのかな」
僕の小さな声の呟きに紗季は反応した。
「うん」
否定されることはなかった。
「今からでも遅くないかな」
「うん」
「今からでも走れるかな」
「うん」
「今からでも頑張れるのかな」
「それは碧斗次第」
そこは簡単には答えてくれなかった。
僕は二年ぐらいの時間をかけてやっといま過去に向き合ってみた。
「オレ、負けてしまうことが怖かった。自分が全力を尽くしても負けてしまうことが怖かった。練習しなきゃって思ったけど、身体が動かなかった。ジャージに着替えることまでできたのにグラウンドに向かうことができなかった」
「中学三年の時だね……。何も助けてあげられなくてごめん」
「紗季は何も悪くない。むしろ何度ももう一度、走るように助けてくれようとしてた」
「ううん。あの頃も去年も『もっと頑張れ』的なことを言ったと思うんだよね。あれは間違いだった。碧斗は頑張れって言ってほしかったわけじゃないんだよね」
「そう……なのかな」
自分自身でよくわからずいると、紗季が「自分のことでしょうが」と突っ込む。
「うまくいかなくて、何してもうまくいかない、そんな時期って人間生きていれば一度はぶつかる壁なんだよね。私はそーいうのぶつかってなくて気づいてあげられなかった。碧斗の精神状態が不安定なまま走ってもダメなんだ。やってみようって思えてるなら最悪の状態からはきっと抜け出してきてるんだね」
「うん。それは間違いない。いろんな人に出会えたおかげかな」
「そっか……。じゃあ、今からでも走れるなら走ればいいし、まだ無理ならもう少し休んだっていい。どっちの道を選んだ碧斗もそれが碧斗が見つけた道ならいいんだと思う」
「また走ってみてダメだったらどうするんだ……?」
「そしたら、別の道に行ったっていい。まだまだ私たち何にだってなれる。逆に突き進むでもいいと思う」
あっちの碧斗が100mから400mに転向したように、環奈さんがダンサーの夢を諦めて美容師になったように、僕たちは何にだってなれるのかもしれない。そして逆の道でも。
「まぁ……」
「ん?」
「私の幼馴染のほうの相沢碧斗は絶対にダメな奴じゃないって信じてるよ」
紗季は笑った。昔からよく知っている紗季の微笑み方だった。
不思議なぐらいに落ち着く感じがした。
それは、恋のような気持ちとは違って、ただ自分を信じてくれる人がいることが嬉しいという思いだった。
こんな期待をもらって走ることが今までもできていたんだ。
走ることそのものは一人であっても、いろんな人に支えられてきた。
そうやって走ってきたということを、いつのまにか僕は意識しなくなり、いつのまにか忘れてしまっていた。僕が走ることで誰かが喜んでくれることだってある、それをとっくに知っていることだったのに。
僕は『天才』ではないけれど、藤枝に勝てるかなんてわからないけれど、ひょっとしたらまた負けてしまうかもしれいけど、まだ期待してくれている人がいるなら、走ってもいいのかもしれない。一歩踏み出すだけでよかったのかもしれない。
「なんか、気づけた気がする。ありがとう、紗季」
僕は心から感謝の気持ちを伝えたつもりだったが、
「うわ、碧斗から『ありがとう』とかなんか気持ち悪い」
両肩を抱くようにさすりながら気持ち悪がる紗季を見て、僕は「うざ」と言って笑った。
秋の空は高く、僕も出場できるものなら、いますぐこのトラックで走りたい気分だった。
記録は52秒67。
「すごい。練習でもあんなタイム出ていないのに!」
紗季の声で、あいつがベストタイムを更新したのだとわかった。
他の組の3位は、このタイムより速い。あいつより速い3着以下は既に3人以上いる。つまり、今度はプラスでも拾われることはない、ということだ。
それでも紗季の興奮は冷めやらず、という様子だった。
笑顔で話しているあいつの目はレース中のものとは異なり、いつか初めて会ったときと同じ穏やかな目だった。
あの野生の獣のような目を僕はどこで知っていたのだろう。
記憶がフラッシュバックする。
あれはいつだ。あれはどこだ。
中学3年の全中の100mだ。隣のレーンにいた藤枝から感じたものと同じなんだ。
あのときも僕は寒気を感じたんだ。
なぜ、僕はあいつから藤枝と同じような、あんな寒気を感じ取ったんだろう。
「こっちの碧斗は、もう一人の碧斗の幻影を乗り越えたよ。いま、あんな風に、あの碧斗がみんなに認められはじめてる」
あいつは窪田や他のランナーと何か話をしていた。窪田とは握手までしていた。走りを認められた、ということなのだろうか。
僕と同じ名前の男が、僕ではなく彼としての「相沢碧斗」として歩み始めているということか。あれが「相沢碧斗」ということか。
「オレじゃなくて、あいつが……」
「そう。碧斗は周りの否定的意見を乗り越えたんだよ。きっとまた速くなる」
「かもな」
「あんたはこのまま立ち止まり続けてるの? みんな、先に行っちゃうよ」
僕はその言葉に何も言えず、しばらくスタンドに立ち尽くしていた。トラックは女子100mハードルの準備がはじまっていた。
「また、オレって走っていいのかな」
僕の小さな声の呟きに紗季は反応した。
「うん」
否定されることはなかった。
「今からでも遅くないかな」
「うん」
「今からでも走れるかな」
「うん」
「今からでも頑張れるのかな」
「それは碧斗次第」
そこは簡単には答えてくれなかった。
僕は二年ぐらいの時間をかけてやっといま過去に向き合ってみた。
「オレ、負けてしまうことが怖かった。自分が全力を尽くしても負けてしまうことが怖かった。練習しなきゃって思ったけど、身体が動かなかった。ジャージに着替えることまでできたのにグラウンドに向かうことができなかった」
「中学三年の時だね……。何も助けてあげられなくてごめん」
「紗季は何も悪くない。むしろ何度ももう一度、走るように助けてくれようとしてた」
「ううん。あの頃も去年も『もっと頑張れ』的なことを言ったと思うんだよね。あれは間違いだった。碧斗は頑張れって言ってほしかったわけじゃないんだよね」
「そう……なのかな」
自分自身でよくわからずいると、紗季が「自分のことでしょうが」と突っ込む。
「うまくいかなくて、何してもうまくいかない、そんな時期って人間生きていれば一度はぶつかる壁なんだよね。私はそーいうのぶつかってなくて気づいてあげられなかった。碧斗の精神状態が不安定なまま走ってもダメなんだ。やってみようって思えてるなら最悪の状態からはきっと抜け出してきてるんだね」
「うん。それは間違いない。いろんな人に出会えたおかげかな」
「そっか……。じゃあ、今からでも走れるなら走ればいいし、まだ無理ならもう少し休んだっていい。どっちの道を選んだ碧斗もそれが碧斗が見つけた道ならいいんだと思う」
「また走ってみてダメだったらどうするんだ……?」
「そしたら、別の道に行ったっていい。まだまだ私たち何にだってなれる。逆に突き進むでもいいと思う」
あっちの碧斗が100mから400mに転向したように、環奈さんがダンサーの夢を諦めて美容師になったように、僕たちは何にだってなれるのかもしれない。そして逆の道でも。
「まぁ……」
「ん?」
「私の幼馴染のほうの相沢碧斗は絶対にダメな奴じゃないって信じてるよ」
紗季は笑った。昔からよく知っている紗季の微笑み方だった。
不思議なぐらいに落ち着く感じがした。
それは、恋のような気持ちとは違って、ただ自分を信じてくれる人がいることが嬉しいという思いだった。
こんな期待をもらって走ることが今までもできていたんだ。
走ることそのものは一人であっても、いろんな人に支えられてきた。
そうやって走ってきたということを、いつのまにか僕は意識しなくなり、いつのまにか忘れてしまっていた。僕が走ることで誰かが喜んでくれることだってある、それをとっくに知っていることだったのに。
僕は『天才』ではないけれど、藤枝に勝てるかなんてわからないけれど、ひょっとしたらまた負けてしまうかもしれいけど、まだ期待してくれている人がいるなら、走ってもいいのかもしれない。一歩踏み出すだけでよかったのかもしれない。
「なんか、気づけた気がする。ありがとう、紗季」
僕は心から感謝の気持ちを伝えたつもりだったが、
「うわ、碧斗から『ありがとう』とかなんか気持ち悪い」
両肩を抱くようにさすりながら気持ち悪がる紗季を見て、僕は「うざ」と言って笑った。
秋の空は高く、僕も出場できるものなら、いますぐこのトラックで走りたい気分だった。
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