わたくし、残念ながらその書類にはサインしておりませんの。

朝霧心惺

文字の大きさ
4 / 12

貴方たちはだあれ?

しおりを挟む
 そんなわけないとブツブツと呪文のように唱え始めたテオドールに、リリーシアは首を傾げる。


「そもそもなのですが、貴方たちは何というお名前なのでしょうか?勉強不足で申し訳ないのですが、わたくし、貴方たちのお名前を存じ上げないのです」


「はあ!?」


 うるるっと泣きそうなふりをして言った瞬間、周囲を取り囲んでいた貴族たちの中から押さえた笑い声が響き始めた。

 婚約破棄を叩きつけておきながら、相手に名前を知られていなかったなんて滑稽な話、演劇でもなかなかないレベルのことだろう。


(まあ、本当は存じ上げているのですが………。ここまで辱めていただいたのですから、これぐらいの応戦は目を瞑っていただけますわよね?)


 漆黒の薔薇が咲き誇る深紅の薔薇のドレスを捌いて1歩前に進み出そうとしたリリーシアは、自分の肩に乗っている愛おしい人の手をペシッと振り払おうとして、そして失敗した。


「えっと、ルカさま………?」

「何だい、可愛いリリー」


 うっとりする声にそのまま彼の腕の中でもいっかというとんでもない思考に辿り着きそうになるが、己を律したリリーシアは困ったように眉を下げる。


「このままでは前に進めませんわ」

「進む必要ないんじゃないのかな?あんなゴミに近づいたら、私が堪能できるリリーが減ってしまうじゃないか」


「………え?へ、減りませんよ?」

「いいや、減ってしまうね。そもそも、私は1分1秒でさえも可愛くて可愛くて仕方がない君のそばから離れたくないんだ」

「ふぇっ」


 ちゅっと耳元に甘やかなくちびるが落ちてきて、リリーシアはビクッと肩を跳ねさせた。

 首にデコルテ、指先まで覆う漆黒の百合柄のレースをするりと撫でた愛おしい男を振り返り、リリーシアは困ったように眉を下げる。


「ルカさま………、」


 少し長めながらに清潔感ある切り方をされた夜闇のような漆黒の髪、全てを見通すような切れ長で深い紅の瞳、そして、この世のものとは思えぬような美を湛えた相貌。

 ———リリーシアの愛おしい婚約者。

 うっとりと甘い、お砂糖のような空気が流れ始めた瞬間、激昂したテオドールがビシッと指を指した。


「そもそも!貴様は何者だ!!侯爵家の嫡男たる俺の前に立ちはだかるなど無礼も甚だしいっ!お前の家を没落させてやるっ!!」


 小物ゆえにきゃんきゃん情けなく吠える子犬に憐憫の表情を向けながら、リリーシアは何とも楽しそうな声を上げるルカに視線を向ける。
 相変わらず、リリーシアの身体は彼の腕に囚われている。


「だってさ、リリー。私の家は没落するらしいよ?」

「まぁまぁ、びっくりですわね。でもご安心くださいな。ルカさまだけは、このわたくしが責任を持って幸せにして差し上げますから」

「ははっ、私のお嫁さんはとっても健気で可愛いなぁ。食べちゃいたいくらいだ」

「まぁ!お戯れを」


 頬を赤く染め上げたリリーシアは、———本気だ。

 もしも、億が一にも彼の実家が没落をしたら、彼を連れて異国の地に向かう。
 リリーシアは、それほどまでに彼のことを愛している。
 伯爵家では到底釣り合わないルカの隣に立つために勉学や礼儀作法に励み、家の勢力を伸ばし、ようやく手に入れた場所を守るために、たとえ敵が世界であったとしても、彼の味方になり、彼のために戦う。

 リリーシアは、誰よりも、何よりも、彼を愛しているのだ。


「………このクソ男がっ、………………ぶっ殺してやる」


 またもや流れ始めた甘い空気に対し、テオドールが底冷えするような声を上げた。

 彼の前には、冷ややかに微笑むルカ、そして、………凍てつく海さえも生ぬるく感じる氷結の微笑みをリリーシアがいる。


「………今、なんとおっしゃいました?」


しおりを挟む
感想 14

あなたにおすすめの小説

わざわざ証拠まで用意してくれたみたいなのですが、それ、私じゃないですよね?

ここあ
恋愛
「ヴァレリアン!この場をもって、宣言しようではないか!俺はお前と婚約破棄をさせていただく!」 ダンスパーティの途中、伯爵令嬢の私・ヴァレリアンは、侯爵家のオランジェレス様に婚約破棄を言い渡されてしまった。 一体どういう理由でなのかしらね? あるいは、きちんと証拠もお揃いなのかしら。 そう思っていたヴァレリアンだが…。 ※誤字脱字等あるかもしれません! ※設定はゆるふわです。 ※題名やサブタイトルの言葉がそのまま出てくるとは限りません。 ※現代の文明のようなものが混じっていますが、ファンタジーの物語なのでご了承ください。

9年ぶりに再会した幼馴染に「幸せに暮らしています」と伝えたら、突然怒り出しました

柚木ゆず
恋愛
「あら!? もしかして貴方、アリアン!?」  かつてわたしは孤児院で暮らしていて、姉妹のように育ったソリーヌという大切な人がいました。そんなソリーヌは突然孤児院を去ってしまい行方が分からなくなっていたのですが、街に買い物に出かけた際に9年ぶりの再会を果たしたのでした。  もう会えないと思っていた人に出会えて、わたしは本当に嬉しかったのですが――。現状を聞かれたため「とても幸せに暮らしています」と伝えると、ソリーヌは激しく怒りだしてしまったのでした。

ブスなお前とは口を利かないと婚約者が言うので、彼の愛する妹の秘密は教えませんでした。

coco
恋愛
ブスなお前とは口を利かないと、婚約者に宣言された私。 分かりました、あなたの言う通りにします。 なので、あなたの愛する妹の秘密は一切教えませんよ─。

あなたの絶望のカウントダウン

nanahi
恋愛
親同士の密約によりローラン王国の王太子に嫁いだクラウディア。 王太子は密約の内容を知らされないまま、妃のクラウディアを冷遇する。 しかも男爵令嬢ダイアナをそばに置き、面倒な公務はいつもクラウディアに押しつけていた。 ついにダイアナにそそのかされた王太子は、ある日クラウディアに離縁を突きつける。 「本当にいいのですね?」 クラウディアは暗い目で王太子に告げる。 「これからあなたの絶望のカウントダウンが始まりますわ」

【完結】年上令嬢の三歳差は致命傷になりかねない...婚約者が侍女と駆け落ちしまして。

恋せよ恋
恋愛
婚約者が、侍女と駆け落ちした。 知らせを受けた瞬間、胸の奥がひやりと冷えたが—— 涙は出なかった。 十八歳のアナベル伯爵令嬢は、静かにティーカップを置いた。 元々愛情などなかった婚約だ。 裏切られた悔しさより、ただ呆れが勝っていた。 だが、新たに結ばれた婚約は......。 彼の名はオーランド。元婚約者アルバートの弟で、 学院一の美形と噂される少年だった。 三歳年下の彼に胸の奥がふわりと揺れる。 その後、駆け落ちしたはずのアルバートが戻ってきて言い放った。 「やり直したいんだ。……アナベル、俺を許してくれ」 自分の都合で裏切り、勝手に戻ってくる男。 そして、誰より一途で誠実に愛を告げる年下の弟君。 アナベルの答えは決まっていた。 わたしの婚約者は——あなたよ。 “おばさん”と笑われても構わない。 この恋は、誰にも譲らない。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 いいね❤️励みになります!ありがとうございます!

隣にある古い空き家に引っ越してきた人達は、10年前に縁を切った家族でした

柚木ゆず
恋愛
 10年前――まだわたしが男爵令嬢リーリスだった頃のこと。お父様、お母様、妹は自分達が散財した穴埋めのため、当時住み込みで働いていた旧友の忘れ形見・オルズくんを悪趣味な貴族に高値で売ろうとしていました。  偶然それを知ったわたしはオルズくんを連れてお屋敷を去り、ジュリエットとガスパールと名を変え新たな人生を歩み始めたのでした。  そんなわたし達はその後ガスパールくんの努力のおかげで充実した日々を過ごしており、今日は新生活が10年目を迎えたお祝いをしていたのですが――その最中にお隣に引っ越してこられた人達が挨拶に来てくださり、そこで信じられない再会を果たすこととなるのでした。 「まだ気付かないのか!? 我々はお前の父であり母であり妹だ!!」  初対面だと思っていた方々は、かつてわたしの家族だった人達だったのです。  しかもそんな3人は、わたし達が気付けない程に老けてやつれてしまっていて――

【完結】精神的に弱い幼馴染を優先する婚約者を捨てたら、彼の兄と結婚することになりました

当麻リコ
恋愛
侯爵令嬢アメリアの婚約者であるミュスカーは、幼馴染みであるリリィばかりを優先する。 リリィは繊細だから僕が支えてあげないといけないのだと、誇らしそうに。 結婚を間近に控え、アメリアは不安だった。 指輪選びや衣装決めにはじまり、結婚に関する大事な話し合いの全てにおいて、ミュスカーはリリィの呼び出しに応じて行ってしまう。 そんな彼を見続けて、とうとうアメリアは彼との結婚生活を諦めた。 けれど正式に婚約の解消を求めてミュスカーの父親に相談すると、少し時間をくれと言って保留にされてしまう。 仕方なく保留を承知した一ヵ月後、国外視察で家を空けていたミュスカーの兄、アーロンが帰ってきてアメリアにこう告げた。 「必ず幸せにすると約束する。どうか俺と結婚して欲しい」 ずっと好きで、けれど他に好きな女性がいるからと諦めていたアーロンからの告白に、アメリアは戸惑いながらも頷くことしか出来なかった。

婚約者様。現在社交界で広まっている噂について、大事なお話があります

柚木ゆず
恋愛
 婚約者様へ。  昨夜参加したリーベニア侯爵家主催の夜会で、私に関するとある噂が広まりつつあると知りました。  そちらについて、とても大事なお話がありますので――。これから伺いますね?

処理中です...