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第四話「さよならとこんにちは」
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数年暮らした東京のワンルームは、驚くほどあっけなく片付いた。
粗大ごみのシールを貼った机、使い古した鍋もなにもかも、すべて手放した。
ダンボール三つと、大きなトランクひとつ。
たったそれだけが、音子の新しい人生への荷物だった。
「……軽いなぁ」
がらんとした部屋に立ち尽くし、音子はぽつりとつぶやいた。
床に座り込み、カーテンを通して射し込む午後の光をぼんやり見上げる。
悲しさよりも、どこか清々しさが勝っていた。
結局あのあと、直属の上司である金井の、さらに上の統括にも同じメールを送った音子は、統括から直接連絡をもらい、すんなりと会社を辞めることができた。今はまだ有休扱いだが、退職の手続きは問題なく済んでいる。
すっぱりと会社と縁が切れることで足取りも軽く、音子は東京駅から新幹線に乗り込んだ。
新幹線の駅からバスに乗り揺られること数十分、降り立ったバス停で、瀬戸内海の潮の香りがふわりと鼻をくすぐった。
遠くに見える海は、春の陽気にきらきらと輝いている。
トランクを引きずりながら、小道を歩く。
道端に咲く菜の花、背の低い民家、軒先で昼寝する猫たち──
どれもが、まるで絵本の中の風景のようだった。
祖母の家は、やはり荒れたままだった。
だが、今の音子の目に映るそれは、どこか温かかった。
「ただいま、おばあちゃん」
門の前で、そっと頭を下げる。
門を通り抜けて玄関の木製のドアノブを握ると、ぎい、と鈍い音がした。
母屋は、お店スペースもあわせて結構な改装が必要だが、離れはきれいに掃除すればそのまま使えそうだった。
音子は途中で買ってきた掃除道具を使って、なんとか寝床を確保する。
翌日から、リフォーム業者との打ち合わせが始まった。
祖母がいなくなってから、誰の手も入っていなかった家。
壁は剥がれ、床は沈んでいるところもあるし、屋根は葺き替えが必要とのこと。
だが、音子は怖くなかった。この際だから、と直せるところは直してもらうことにした。
「ここを喫茶店にするんです」
業者のおじさんに告げると、目を丸くされた。
「ここで? ……まぁ、町には喫茶店、少ないからな。いいかもしれん」
ぽつりと返された言葉に、音子は胸が少しだけ熱くなった。
リフォーム作業が始まって、たくさん人が出入りするようになった。
みんなお店を楽しみにしてくれているようで、その気持ちを嬉しく感じ、音子に笑顔が増えていく。
母屋で工事が進められる中、音子は離れの縁側に腰掛け、ノートを広げた。
──喫茶店のメニュー作り。
カフェラテ、紅茶、サンドイッチ、パフェ、ホットケーキ……
ノートにびっしりと書き出してみるものの、思うように形にはならない。
「うーん……」
ペンをくるくる回しながら、空を見上げた。
春の雲が、ゆっくりと流れていく。
そのとき、ふいに庭の茂みから、白い影がぴょこんと飛び出した。
「……あっ」
あの日、目が合った白猫だった。
猫は縁側にひらりと飛び乗り、音子の隣に座り込んだ。
「こんにちは。また来たの?」
音子がそっと問いかけると、猫はふうっと小さく鳴いた。
その澄んだ瞳に見つめられていると、不思議と不安が和らいでいく気がした。
──きっと、大丈夫。
──ここから、始まるんだ。
海の香りと、土の匂いと、どこか懐かしい祖母の気配に包まれながら、
音子はそっと、胸の奥でつぶやいた。
「私の新しい、物語……」
粗大ごみのシールを貼った机、使い古した鍋もなにもかも、すべて手放した。
ダンボール三つと、大きなトランクひとつ。
たったそれだけが、音子の新しい人生への荷物だった。
「……軽いなぁ」
がらんとした部屋に立ち尽くし、音子はぽつりとつぶやいた。
床に座り込み、カーテンを通して射し込む午後の光をぼんやり見上げる。
悲しさよりも、どこか清々しさが勝っていた。
結局あのあと、直属の上司である金井の、さらに上の統括にも同じメールを送った音子は、統括から直接連絡をもらい、すんなりと会社を辞めることができた。今はまだ有休扱いだが、退職の手続きは問題なく済んでいる。
すっぱりと会社と縁が切れることで足取りも軽く、音子は東京駅から新幹線に乗り込んだ。
新幹線の駅からバスに乗り揺られること数十分、降り立ったバス停で、瀬戸内海の潮の香りがふわりと鼻をくすぐった。
遠くに見える海は、春の陽気にきらきらと輝いている。
トランクを引きずりながら、小道を歩く。
道端に咲く菜の花、背の低い民家、軒先で昼寝する猫たち──
どれもが、まるで絵本の中の風景のようだった。
祖母の家は、やはり荒れたままだった。
だが、今の音子の目に映るそれは、どこか温かかった。
「ただいま、おばあちゃん」
門の前で、そっと頭を下げる。
門を通り抜けて玄関の木製のドアノブを握ると、ぎい、と鈍い音がした。
母屋は、お店スペースもあわせて結構な改装が必要だが、離れはきれいに掃除すればそのまま使えそうだった。
音子は途中で買ってきた掃除道具を使って、なんとか寝床を確保する。
翌日から、リフォーム業者との打ち合わせが始まった。
祖母がいなくなってから、誰の手も入っていなかった家。
壁は剥がれ、床は沈んでいるところもあるし、屋根は葺き替えが必要とのこと。
だが、音子は怖くなかった。この際だから、と直せるところは直してもらうことにした。
「ここを喫茶店にするんです」
業者のおじさんに告げると、目を丸くされた。
「ここで? ……まぁ、町には喫茶店、少ないからな。いいかもしれん」
ぽつりと返された言葉に、音子は胸が少しだけ熱くなった。
リフォーム作業が始まって、たくさん人が出入りするようになった。
みんなお店を楽しみにしてくれているようで、その気持ちを嬉しく感じ、音子に笑顔が増えていく。
母屋で工事が進められる中、音子は離れの縁側に腰掛け、ノートを広げた。
──喫茶店のメニュー作り。
カフェラテ、紅茶、サンドイッチ、パフェ、ホットケーキ……
ノートにびっしりと書き出してみるものの、思うように形にはならない。
「うーん……」
ペンをくるくる回しながら、空を見上げた。
春の雲が、ゆっくりと流れていく。
そのとき、ふいに庭の茂みから、白い影がぴょこんと飛び出した。
「……あっ」
あの日、目が合った白猫だった。
猫は縁側にひらりと飛び乗り、音子の隣に座り込んだ。
「こんにちは。また来たの?」
音子がそっと問いかけると、猫はふうっと小さく鳴いた。
その澄んだ瞳に見つめられていると、不思議と不安が和らいでいく気がした。
──きっと、大丈夫。
──ここから、始まるんだ。
海の香りと、土の匂いと、どこか懐かしい祖母の気配に包まれながら、
音子はそっと、胸の奥でつぶやいた。
「私の新しい、物語……」
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