PRETEND【オメガバース】

由貴サクラ

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その香り (5)

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 とっさにやばいと思った。

 それは、ぶわり、という言葉がぴったりのように、朔耶の身体から、香りが沸き立ったのだ。


「え……?」
 自分でも意味が分からなかった。これはフェロモンだ。薬で押さえていたはずの。なんで?

 思わず、両腕で自分を抱き寄せた。
 何かが来た。

 怖い。
 初めて、そう思った。


 こんな、突然発情期が始まるなんて、初めてだ。
 そうだ、と少し鈍り始めた頭が胸元のポケット存在を思い出す。
 抑制剤を飲まないと。


 今朝はエムを飲んだんだっけ?
 じゃあ違うやつを飲んだほうがいいのか。エムを足したほうが良いのか。
 いつも自然に考えていることなのに、この非常事態に思考回路が付いていかなくなってきていた。

「先輩?」
 鈴村が心配そうに問いかけてくる。鈴村が当惑している。いきなりフェロモンが大放出だ。自分だってついていけない。


 出し抜けに大きな拍手が沸いた。
 質疑応答も終わったのだ。
 和泉が壇上から降りてくる。

 本当ならば、自分はそこに駆けつけて、素晴らしい講演だったと、礼を述べなければならない。
 少しよろつきながらも立ち上がる。
 胸ポケットに手を入れて、ラスティスが包装されている薬剤を取り出す。もうなんでもいい。ぱきっと折って、錠剤を取り出した。
 早く飲まないと、どこにアルファがいるか分からない。落ち着かない手さばきで、それを口に含もうとして、突然腕を掴まれた。

 驚いて顔を上げると、そこに居たのは、先程壇上を降りたばかりの和泉。


「先生……」
「来てしまったか」

 和泉の手が朔耶の手に絡みつき、ラスティスを取り上げられてしまった。朔耶の手が、それを求めて空を搔く。
「それ……ないと困るんです」

「抑制剤だな」
 和泉が静かに包装を確認した。しまった。これでは自分がオメガだと言っているようなものだ。思わず手を引っ込めた。
 先程から、あたりをウッディで艶めかしい香りが鼻を擽る。なんだろう…。そんなことは頭の端に浮かぶのに、論理的な思考回路はフリーズしたようで、まともな言い訳が思い浮かばない。

「い……いいえ。僕はベータですから」

 和泉に手を握られてなお、朔耶は首を横に振った。オメガだとバレたらMRの仕事はもう出来ない。アルファ・オメガ科に出入りするオメガMRなんて笑えないのだ。

 そのわずかな問答でも、和泉にはもうお見通しのようだった。どんなに朔耶が言葉を重ねようと、和泉は朔耶がオメガであると見抜いてしまっている。
「君は……オメガだろ」
 その最後通告のような言葉を、耳元でそっと呟かれた。なぜかその声さえも、腰にクる。


 もうダメだ……。

 朔耶は観念した。何に観念したのか、よく分からない。でも諦めの気分だ。
 もう営業所は居られない。不本意ながらも始めた仕事なのに、いつの間にかこんなに愛着を持っていたことに驚く。
 発情期なんてもはやどうでもよい。


 朔耶の目の前に長田も居た。様子がおかしいと鈴村が呼んだようだ。

「和泉先生、申し訳ありません。新堂、大丈夫か、おい」
 長田には、和泉が朔耶を介抱しているように見えたのだろう。朔耶の腕を支えている和泉から代わろうとして、朔耶の腕を掴もうしたところ、和泉に弾かれた。

「触るな」

 いつも以上に冷たい言葉に、長田の顔色が凍った。

「彼に触れていいのはオレだけだ」
「……え」

 長田が手を引っ込める。
 和泉が朔耶の身体を自分の胸のなかに収めた。そうかとようやく朔耶は気づく。先程から纏わりつくウッディな香りは、和泉が放つものだったのか。

「う……はぁん」
 香りが熱に晒されたように、いっそう沸き立ち朔耶を刺激する。
 和泉が耳元で、それでいい、とささやいた気がした。



「長田所長。詳しいことはあとで連絡する。とりあえず、彼は預かるよ」

 決して背が低いわけでも小柄なわけでもない。それでも、和泉はもう歩けない朔耶を抱き上げ、会場を後にした。
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