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30. 15歳の花嫁
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「母上、レイチェルの方の準備は進んでいるのですか?」
「いいかげん馬鹿みたいに何度も同じことを訊かないの」
毎日のように繰り返されるサイファの質問に、母親のシンシアはうんざりしたように答えた。ティーカップをソーサに戻して小さく溜息をつく。
テーブルの上にはシンプルな朝食が並んでいる。
サイファは小さく肩を竦めると、アプリコットジャムのトーストを口に運んだ。その甘酸っぱさを味わいながら、三日ばかり会えないでいるレイチェルへと思いを馳せる。
二人の結婚に許可が下りてまもなく、結婚式の準備が始まった。
レイチェルはまだ15歳であるが、子供が生まれる前に式を挙げたいというのが、双方の両親の一致した意見だった。幸い母子ともに健康で、安定期に入れば問題ないだろうという医師の見解もあり、その方向で話が進められることになったのである。サイファとしては身重の彼女に負担をかけたくなく、無理に式を挙げなくてもいいのではないかと思ったが、同時に、ラグランジェ家としてはそうもいかないのだということも理解していた。
式の日取りは、レイチェルの身体の都合を優先して決められた。つまり、安定期に入ってまもなく、おなかが大きくなりすぎない時期にということである。
「きれいにドレスを着せてあげてくださいね」
「はいはい、それももう耳にタコができそうよ」
この国のしきたりで、新郎は新婦の花嫁姿を当日まで見てはならないことになっている。そのため、ウェディングドレスについてはアリスとシンシアに任せるしかなかった。おなかが目立ってきたこともあり、ドレスが着られなくなったりしないのか、窮屈で苦しくなったりしないのかなど、サイファの心配は尽きない。
「私たちに任せて、あなたは落ち着いてどっしりと構えてなさい。まもなく当主になろうという人が、おろおろと狼狽えていてはみっともないわ」
「レイチェルのことだけは特別です」
悪びれもせずに答えるサイファに、シンシアは溜息まじりに呆れた視線を送る。
「そんなことで胸を張ってどうするの。自慢できることじゃないでしょう。今になって心配するくらいなら、初めから妊娠させるようなことをしなければ良かったのよ」
「申し訳ありません。反省しています」
責められることにはもう慣れていた。誰に何を言われようとも、素直に非を認めて謝罪するだけである。迷いはなかった。そのことで不道徳な人間という烙印を押されたとしても、レイチェルさえ本当のことをわかってくれていれば十分だった。
サイファは残りの紅茶を飲み干し、ティーカップを戻すと、薄暗い窓の外に目を向けた。鈍色の空からは冷たい雨が落ちている。
「あさって、晴れるといいんですが――」
結婚式は教会の中で行うため、雨でも特に支障があるわけではないが、せっかくの門出の日であり、やはり晴れてほしいと願う気持ちは大きかった。
サイファの祈りが通じたのか、結婚式当日は雲ひとつない突き抜けるような晴天だった。二人を祝福するかのように、青い空から眩いばかりの光が降りそそいでいる。時折、小鳥のさえずりも聞こえてきた。
二人が式を挙げる教会は、王宮の隅にひっそりと佇んでいた。小さくて古めかしい建物で、普段はあまり人の寄りつかない寂れた場所だが、その日はいつになく華やいだ空気が流れていた。
結婚式は、双方の家族のみが列席するささやかなものである。披露宴も行わない。ラグランジェ本家としては異例のことだった。本来であれば、本家で盛大なパーティを開き、サイファの当主就任の告知とともに、二人を皆に披露するところだろう。だが、今回は事情が事情であり、あまり騒がれたくないというラグランジェ家の意向に加え、レイチェルの体調の心配もあり、パーティは行わず告知だけに留めることになったのである。
「レイチェルの身支度が終わったわよ」
シンシアとアリスが連れ立ってレイチェルの控え室から出てきた。二人とも落ち着いた濃色のドレスを身に纏っている。教会での挙式ということで、華美なものは控えなければならないのだ。扉の前で今か今かと待ち構えていたサイファに、シンシアは少しだけ口もとを斜めにして言う。
「私たちはあなたの控え室にいるから、何かあったら呼んでちょうだい」
「ありがとうございます」
ひらひらと手を振りながら去りゆく二人に、サイファは深く丁寧にお辞儀をした。
ようやくレイチェルの花嫁姿を目にすることができる――。
サイファの胸は高鳴った。
ごくりと唾を飲み込んでから、ドアノブに手を掛けてまわし、ゆっくりと扉を押し開ける。ギ、ギギ……と控えめな軋み音が響いた。
白い光が溢れる小さな部屋。
そこに、レイチェルは後ろ向きで立っていた。まるでスローモーションのように、そっと、サイファの方へと体を向けていく。
ロングトレーンの純白のドレスは、肌の露出がほとんどなく、胸元には上品なレースがあしらわれ、また、幾重にも重ねられたオーガンジーには丁寧に刺繍がほどこされており、クラシカルな品格を感じさせるものだった。腰の高い位置からふんわりと広がる形のためか、心配していたおなかはまったくといっていいほど目立たない。
光に包まれながら、レイチェルは甘く愛らしく微笑んだ。
サイファは小さく息を呑む。
まるで夢の一場面でも見ているかのような非現実感に包まれた。目の前にいるのは、花嫁というよりも、光とともに地上に降り立った天使か妖精のようだと思う。
「サイファ……?」
レイチェルは小首を傾げてきょとんと尋ねた。澄んだ瞳をまっすぐに向け、不思議そうな顔のまま、じっと微動だにせず反応を待っている。
「……すごく、きれいだよ」
「ありがとう」
やっとのことで言葉を発したサイファに、レイチェルはいつもと変わらない可憐な声で応じた。それを聞いて、サイファはなぜだか少し安堵した。夢でも幻でもなく、現実なのだと認識できたからかもしれない。ふっと小さく笑みを浮かべ、彼女へと足を進めながら問いかける。
「おなかは大丈夫? 苦しくない?」
「ええ、大丈夫」
レイチェルはニコッと答えた。その愛くるしい無垢な笑顔を眺めながら、サイファは優しく目を細めると、そっと慈しむように彼女の柔らかな頬に手を置いた。
――ガチャリ。
ドアノブのまわる音がして、扉が開いた。
シンシアたちが迎えに来たのかと思ったが、振り返った先にいたのは子供だった。レイチェルの隣家に住む少年、レオナルドである。彼は浮かない表情でピンクローズの花束を抱えていたが、サイファの姿を目にすると、ハッと息を呑んで顔をこわばらせた。嫌悪感をあらわに奥歯を噛みしめて睨みつける。
「何でおまえがここにいるんだよ」
「おまえこそ呼んだ覚えはないぞ」
サイファは冷ややかに見下ろして言い返す。
レオナルドはムッとして頬を膨らませた。しかし、すぐさま真剣な眼差しをレイチェルに向けると、すっと小さな手を差し伸べて言う。
「レイチェル、行こう!!」
「行こうって……どこへ?」
レイチェルがきょとんとして聞き返すと、レオナルドは強引に彼女の手を掴んだ。
「どこか遠いところへ行って二人で暮らそう! 親が勝手に決めただけの結婚なんてすることない!! こんな腹黒で最低なやつとじゃ、幸せになんかなれないよ!!!」
彼は真剣だった。
それゆえにレイチェルは戸惑っていた。あまりにも突拍子もないことを言われ、そしてその思いの強さを目の当たりにして、どうしたらいいのかわからないという心情がありありと感じられた。彼女は心苦しそうにレオナルドを見つめると、蒼の瞳を揺らしながら、薄紅を引いた小さな唇を開いて言う。
「ごめんなさい、私、サイファと結婚するから……」
「聞いただろう? もう帰れ」
サイファは少年の手首を掴んで彼女から引き離そうとする。
だが、レオナルドは従わなかった。触れることさえ許さないといわんばかりに、思いきりサイファの手をはねのけると、一歩下がって上目遣いでキッと睨みつける。
「こんなの無理やり言わされてるだけだ。本心じゃない。レイチェルはおまえなんかと結婚したくないんだ。レイチェルのことが好きだったら自由にしてやれよ!!」
レオナルドの言葉はすべて思い込みの産物にすぎない。レイチェルがこんな相談をするはずはないのだ。そのことはわかっている。しかし、サイファの心には、確実に深く突き刺さるものがあった。
「わかったようなことを言うな」
感情を押し殺した声でそう言うと、レオナルドの小さな肩に手を掛け、ゆっくりと背後の扉に押しつけた。怯えた色が覗く双眸を、まじろぎもせずに凝視する。
「レイチェルに身勝手な考えを押しつけているのはおまえだろう。二人だけで遠いところへ行くだと? 何の力も持たない子供のおまえが、レイチェルを守っていけるなどと本気で考えているのか」
レオナルドの顔は凍りついていた。足も震えているようだった。それでも、ごくりと唾を飲み込むと、額に汗を滲ませながら、精一杯の虚勢を張って言い返す。
「おまえみたいに何でも力ずくで奪うのが偉いのか?! レイチェルの気持ちを無視して自分のものにして、父親を蹴落として当主の座を奪って……そんなの最低だ!!」
「理想だけでやっていけるほど世間は甘くないんだよ」
サイファの瞳に冷たく鋭利な光が宿った。
ビクリ、とレオナルドの体が竦んだ。
それでも彼は引き下がらなかった。両肩を押さえつけられたまま首を伸ばし、奥のレイチェルを見上げて必死に訴えかける。
「レイチェル、これがこいつの本性なんだ! 逃げよう! いま逃げないと絶対に後悔するから!!」
レイチェルは曖昧に視線を落としたが、胸元に手を置くと、意を決したように唇をきゅっと引き結んだ。まっすぐに彼を見据えながら、今度は毅然とした口調で言う。
「私、サイファと一緒にいるって決めたの。私自身が決めたの」
「おまえには勝ち目なんて最初からなかったんだ」
サイファの言葉が追い打ちをかける。
レオナルドはカッと顔を真っ赤にすると、持っていたピンクローズの花束で、サイファの頬を思いきり横殴りにした。反射的に顔をしかめたその目の前を、千切れた薄紅色の花びらがはらはらと静かに舞い落ちていく。
「後悔しても知らないからな!」
レオナルドは大粒の涙をこぼして捨て台詞を吐いた。すでにボロボロになっている花束を床に叩きつけ、控え室から勢いよく飛び出していく。足音はあっというまに遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
開け放たれた扉がゆっくりと戻り、ガシャンと乱暴な音を立てて閉まる。
息を呑んで立ちつくしていたレイチェルは、その音で我にかえり、慌ててドレスの裾を持ち上げてサイファに駆け寄った。心配そうに顔を曇らせて横から覗き込む。
「サイファ、大丈夫?」
「たいしたことないよ」
サイファは軽く答えながら、痛みのある顎の下あたりを指先で触れてみる。うっすらと血がついた。どうやら少し切れているようだ。しかし、先ほど自分の言ったとおり大したことはないだろう。レイチェルに振り向くと、きまり悪そうに苦笑して肩を竦める。
「ごめんね、大人げないところを見せてしまって」
「ううん、謝らなければいけないのは私の方なの」
レイチェルは小さく首を振って言った。思いつめた表情で目を伏せる。瞼は微かに震えていた。その原因は先ほどのことだけではないだろう。自分のせいで酷い目にばかり遭わせてしまって、大変なことを背負わせてしまって――そんな彼女の苦悩は、あの日以来ずっと続いていたのだ。
「やっぱり、私は……」
「駄目だよ」
サイファは彼女の話をピシャリと遮ると、眉根を寄せ、その潤んだ蒼の瞳をじっと射抜くように見つめた。
「レイチェル、君のことは誰にも渡さない。君自身にもね」
随分なことを言ったという自覚はあった。しかし、それは偽りのない本心でもある。ラウルにも、レオナルドにも、ルーファスにも、他の誰にも渡すつもりはない。そして、彼女自身にも、間違った償いをさせるつもりはない。
「この結婚は僕たちの幸せのために望んだことだ。君を救うために仕方なく選択したわけじゃない。だから君がいなくなっては駄目なんだよ」
サイファは真剣にそう言い聞かせると、少しふくらみのあるおなかにそっと手を置く。
「きっと幸せにするから。この子も、君も、そして僕自身もね」
それは真摯な誓いであり、確固たる決意であり、心からの祈りでもあった。
一転して悪戯っぽい笑みを浮かべると、柔らかい声音で、しかしはっきりとした自信を覗かせて尋ねる。
「僕の判断が一度でも間違ったことがあった?」
レイチェルはふるふると首を横に振った。それでもまだ表情は硬く、その瞳には仄暗い陰が落ちている。サイファの言ったことを理解していないわけではないだろう。ただ、そう簡単に自責の念を拭うことができないのだ。
「ねえ、レイチェル」
サイファはゆっくりと呼びかけた。
「もし僕のことを思ってくれるのなら、いつも、どんなときでも、僕の隣で笑っていてくれないかな。君の笑顔があれば、僕は、頑張ることができるから」
「……うん」
レイチェルは微かな声を落とした。そして、気持ちを切り替えるように小さく呼吸をすると、顔を上げ、まわりの人間までも幸せにしてくれるような、あたりの空気までもが優しくなるような、ふわりとあたたかな笑みをその満面に溢れさせた。
それは、まさにサイファが望んだものだった。
胸が詰まるのを感じて目を細めると、身を屈め、彼女とおでこをコツンと合わせた。
サイファはわかっていた。
自分の要求したことは、簡単なようでいて、とても酷なものだということを。それでも彼女は従い続けるだろう。他の選択肢はないのだ。サイファに従順な彼女にとって、それは呪縛にも等しいものなのかもしれない。
けれど――。
自分にはそれくらいのことを求める権利はあるだろう、それくらいのことを望んでも許されるだろう、そんな傲慢なことを心の奥底で密やかに思った。
開放された入口から白い陽光が溢れ込み、赤い絨毯を鮮やかに照らしている。
その奥にある、年老いた神父が立つ祭壇の前に、サイファとレイチェルは並んで立っていた。足下にはステンドグラスの幻想的な光が落ち、純白のドレスの裾を色とりどりに染め上げている。
両脇に並んだ古びた木製の長いすには、双方の両親がそれぞれ座っていた。神聖な場所に相応しい表情で、しかし、時折いとおしむような笑みを覗かせ、主役の二人を見つめている。
神父は誓いの言葉を読み上げ始める。
「サイファ=ヴァルデ=ラグランジェ、あなたはいまこの女性と結婚し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。あなたはその健やかなときも、病めるときも、豊かなるときも、貧しきときも、この女性を愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちの限りともに生きることを誓いますか」
「誓います」
サイファは厳かに答えた。
神父は続けてレイチェルに読み上げる。
「レイチェル=エアリ=ラグランジェ、あなたはいま――」
その誓いの言葉を聞きながら、サイファはそっとレイチェルを流し見た。ここに来るまでの道のりを思い返し、胸に熱いものがこみ上げる。今日という日を幼い頃からずっと待ち続けてきたのだ。少し形は変わってしまったが、その輝きが失われたわけではない。
「誓います」
レイチェルは前を向いたまま、躊躇うことなく凜とした声で答えた。
「結婚の誓約の印に、指輪の交換をいたします」
神父が二人の結婚指輪を取り出す。それは上品な輝きを放つプラチナ製で、内側に文字が刻まされただけの、シンプルで飾り気のないものだった。
サイファは小さい方の指輪を取った。見た目よりも重く感じるのは、込められた想いと責任によるものなのかもしれない。こんなもので彼女を縛りつけようなどと考えているわけではないが、こんなものに縋りたくなる気持ちも心のどこかにあった。彼女の左手を取ると、その薬指にゆっくりと指輪を嵌めた。
今度はレイチェルが指輪を取り、たどたどしい手つきでサイファの薬指に嵌めていく。やや不格好におさまったそれを見て、レイチェルはくすっと笑った。つられてサイファも笑った。
神父は場を引き締めるためか、こほんと小さく咳払いをしてから次の段取りに移る。
「それでは、誓いの口づけを――」
その言葉を合図に、二人は同時に見つめ合った。
サイファは彼女の両肩に手を掛ける。
冷静を装ってはいたが、心臓は壊れそうなほどに強く打っていた。これまで生きてきた中で、いまこの瞬間ほど緊張したことはなかったと彼は思う。
「目を閉じて」
囁くような声でそう言うと、彼女は素直に従い、瞼を下ろしてそっと瞳を閉じた。
サイファはゆっくりと身を屈め、彼女に顔を近づけていく。
二人の唇が初めて触れ合った。
ゴーン、ゴーン――。
荘厳な鐘の音が二人を祝福するように響き渡る。
サイファとレイチェルは手を取り合って赤い絨毯の上を歩き、光の溢れる扉の向こう側へと足を踏み出した。頭上には雲ひとつない透き通った青空がどこまでも広がっている。そこから降りてきた優しい風に、教会のまわりに咲いている草花が小さくそよいだ。
ここからが新たな始まり――。
自分たちは新しい家族を作っていく。楽しく幸せなことが数多くあるように、そう努力するつもりだが、現実としてそればかりではすまないだろう。困難は確かに存在する。それでも誓ったのだ。どんなときも助け合い、愛し合い、ともに生きていくのだと。
サイファは繋いだ手をしっかりと握りしめた。
それに応えるように、彼女の手にも強く力が込められた。
「いいかげん馬鹿みたいに何度も同じことを訊かないの」
毎日のように繰り返されるサイファの質問に、母親のシンシアはうんざりしたように答えた。ティーカップをソーサに戻して小さく溜息をつく。
テーブルの上にはシンプルな朝食が並んでいる。
サイファは小さく肩を竦めると、アプリコットジャムのトーストを口に運んだ。その甘酸っぱさを味わいながら、三日ばかり会えないでいるレイチェルへと思いを馳せる。
二人の結婚に許可が下りてまもなく、結婚式の準備が始まった。
レイチェルはまだ15歳であるが、子供が生まれる前に式を挙げたいというのが、双方の両親の一致した意見だった。幸い母子ともに健康で、安定期に入れば問題ないだろうという医師の見解もあり、その方向で話が進められることになったのである。サイファとしては身重の彼女に負担をかけたくなく、無理に式を挙げなくてもいいのではないかと思ったが、同時に、ラグランジェ家としてはそうもいかないのだということも理解していた。
式の日取りは、レイチェルの身体の都合を優先して決められた。つまり、安定期に入ってまもなく、おなかが大きくなりすぎない時期にということである。
「きれいにドレスを着せてあげてくださいね」
「はいはい、それももう耳にタコができそうよ」
この国のしきたりで、新郎は新婦の花嫁姿を当日まで見てはならないことになっている。そのため、ウェディングドレスについてはアリスとシンシアに任せるしかなかった。おなかが目立ってきたこともあり、ドレスが着られなくなったりしないのか、窮屈で苦しくなったりしないのかなど、サイファの心配は尽きない。
「私たちに任せて、あなたは落ち着いてどっしりと構えてなさい。まもなく当主になろうという人が、おろおろと狼狽えていてはみっともないわ」
「レイチェルのことだけは特別です」
悪びれもせずに答えるサイファに、シンシアは溜息まじりに呆れた視線を送る。
「そんなことで胸を張ってどうするの。自慢できることじゃないでしょう。今になって心配するくらいなら、初めから妊娠させるようなことをしなければ良かったのよ」
「申し訳ありません。反省しています」
責められることにはもう慣れていた。誰に何を言われようとも、素直に非を認めて謝罪するだけである。迷いはなかった。そのことで不道徳な人間という烙印を押されたとしても、レイチェルさえ本当のことをわかってくれていれば十分だった。
サイファは残りの紅茶を飲み干し、ティーカップを戻すと、薄暗い窓の外に目を向けた。鈍色の空からは冷たい雨が落ちている。
「あさって、晴れるといいんですが――」
結婚式は教会の中で行うため、雨でも特に支障があるわけではないが、せっかくの門出の日であり、やはり晴れてほしいと願う気持ちは大きかった。
サイファの祈りが通じたのか、結婚式当日は雲ひとつない突き抜けるような晴天だった。二人を祝福するかのように、青い空から眩いばかりの光が降りそそいでいる。時折、小鳥のさえずりも聞こえてきた。
二人が式を挙げる教会は、王宮の隅にひっそりと佇んでいた。小さくて古めかしい建物で、普段はあまり人の寄りつかない寂れた場所だが、その日はいつになく華やいだ空気が流れていた。
結婚式は、双方の家族のみが列席するささやかなものである。披露宴も行わない。ラグランジェ本家としては異例のことだった。本来であれば、本家で盛大なパーティを開き、サイファの当主就任の告知とともに、二人を皆に披露するところだろう。だが、今回は事情が事情であり、あまり騒がれたくないというラグランジェ家の意向に加え、レイチェルの体調の心配もあり、パーティは行わず告知だけに留めることになったのである。
「レイチェルの身支度が終わったわよ」
シンシアとアリスが連れ立ってレイチェルの控え室から出てきた。二人とも落ち着いた濃色のドレスを身に纏っている。教会での挙式ということで、華美なものは控えなければならないのだ。扉の前で今か今かと待ち構えていたサイファに、シンシアは少しだけ口もとを斜めにして言う。
「私たちはあなたの控え室にいるから、何かあったら呼んでちょうだい」
「ありがとうございます」
ひらひらと手を振りながら去りゆく二人に、サイファは深く丁寧にお辞儀をした。
ようやくレイチェルの花嫁姿を目にすることができる――。
サイファの胸は高鳴った。
ごくりと唾を飲み込んでから、ドアノブに手を掛けてまわし、ゆっくりと扉を押し開ける。ギ、ギギ……と控えめな軋み音が響いた。
白い光が溢れる小さな部屋。
そこに、レイチェルは後ろ向きで立っていた。まるでスローモーションのように、そっと、サイファの方へと体を向けていく。
ロングトレーンの純白のドレスは、肌の露出がほとんどなく、胸元には上品なレースがあしらわれ、また、幾重にも重ねられたオーガンジーには丁寧に刺繍がほどこされており、クラシカルな品格を感じさせるものだった。腰の高い位置からふんわりと広がる形のためか、心配していたおなかはまったくといっていいほど目立たない。
光に包まれながら、レイチェルは甘く愛らしく微笑んだ。
サイファは小さく息を呑む。
まるで夢の一場面でも見ているかのような非現実感に包まれた。目の前にいるのは、花嫁というよりも、光とともに地上に降り立った天使か妖精のようだと思う。
「サイファ……?」
レイチェルは小首を傾げてきょとんと尋ねた。澄んだ瞳をまっすぐに向け、不思議そうな顔のまま、じっと微動だにせず反応を待っている。
「……すごく、きれいだよ」
「ありがとう」
やっとのことで言葉を発したサイファに、レイチェルはいつもと変わらない可憐な声で応じた。それを聞いて、サイファはなぜだか少し安堵した。夢でも幻でもなく、現実なのだと認識できたからかもしれない。ふっと小さく笑みを浮かべ、彼女へと足を進めながら問いかける。
「おなかは大丈夫? 苦しくない?」
「ええ、大丈夫」
レイチェルはニコッと答えた。その愛くるしい無垢な笑顔を眺めながら、サイファは優しく目を細めると、そっと慈しむように彼女の柔らかな頬に手を置いた。
――ガチャリ。
ドアノブのまわる音がして、扉が開いた。
シンシアたちが迎えに来たのかと思ったが、振り返った先にいたのは子供だった。レイチェルの隣家に住む少年、レオナルドである。彼は浮かない表情でピンクローズの花束を抱えていたが、サイファの姿を目にすると、ハッと息を呑んで顔をこわばらせた。嫌悪感をあらわに奥歯を噛みしめて睨みつける。
「何でおまえがここにいるんだよ」
「おまえこそ呼んだ覚えはないぞ」
サイファは冷ややかに見下ろして言い返す。
レオナルドはムッとして頬を膨らませた。しかし、すぐさま真剣な眼差しをレイチェルに向けると、すっと小さな手を差し伸べて言う。
「レイチェル、行こう!!」
「行こうって……どこへ?」
レイチェルがきょとんとして聞き返すと、レオナルドは強引に彼女の手を掴んだ。
「どこか遠いところへ行って二人で暮らそう! 親が勝手に決めただけの結婚なんてすることない!! こんな腹黒で最低なやつとじゃ、幸せになんかなれないよ!!!」
彼は真剣だった。
それゆえにレイチェルは戸惑っていた。あまりにも突拍子もないことを言われ、そしてその思いの強さを目の当たりにして、どうしたらいいのかわからないという心情がありありと感じられた。彼女は心苦しそうにレオナルドを見つめると、蒼の瞳を揺らしながら、薄紅を引いた小さな唇を開いて言う。
「ごめんなさい、私、サイファと結婚するから……」
「聞いただろう? もう帰れ」
サイファは少年の手首を掴んで彼女から引き離そうとする。
だが、レオナルドは従わなかった。触れることさえ許さないといわんばかりに、思いきりサイファの手をはねのけると、一歩下がって上目遣いでキッと睨みつける。
「こんなの無理やり言わされてるだけだ。本心じゃない。レイチェルはおまえなんかと結婚したくないんだ。レイチェルのことが好きだったら自由にしてやれよ!!」
レオナルドの言葉はすべて思い込みの産物にすぎない。レイチェルがこんな相談をするはずはないのだ。そのことはわかっている。しかし、サイファの心には、確実に深く突き刺さるものがあった。
「わかったようなことを言うな」
感情を押し殺した声でそう言うと、レオナルドの小さな肩に手を掛け、ゆっくりと背後の扉に押しつけた。怯えた色が覗く双眸を、まじろぎもせずに凝視する。
「レイチェルに身勝手な考えを押しつけているのはおまえだろう。二人だけで遠いところへ行くだと? 何の力も持たない子供のおまえが、レイチェルを守っていけるなどと本気で考えているのか」
レオナルドの顔は凍りついていた。足も震えているようだった。それでも、ごくりと唾を飲み込むと、額に汗を滲ませながら、精一杯の虚勢を張って言い返す。
「おまえみたいに何でも力ずくで奪うのが偉いのか?! レイチェルの気持ちを無視して自分のものにして、父親を蹴落として当主の座を奪って……そんなの最低だ!!」
「理想だけでやっていけるほど世間は甘くないんだよ」
サイファの瞳に冷たく鋭利な光が宿った。
ビクリ、とレオナルドの体が竦んだ。
それでも彼は引き下がらなかった。両肩を押さえつけられたまま首を伸ばし、奥のレイチェルを見上げて必死に訴えかける。
「レイチェル、これがこいつの本性なんだ! 逃げよう! いま逃げないと絶対に後悔するから!!」
レイチェルは曖昧に視線を落としたが、胸元に手を置くと、意を決したように唇をきゅっと引き結んだ。まっすぐに彼を見据えながら、今度は毅然とした口調で言う。
「私、サイファと一緒にいるって決めたの。私自身が決めたの」
「おまえには勝ち目なんて最初からなかったんだ」
サイファの言葉が追い打ちをかける。
レオナルドはカッと顔を真っ赤にすると、持っていたピンクローズの花束で、サイファの頬を思いきり横殴りにした。反射的に顔をしかめたその目の前を、千切れた薄紅色の花びらがはらはらと静かに舞い落ちていく。
「後悔しても知らないからな!」
レオナルドは大粒の涙をこぼして捨て台詞を吐いた。すでにボロボロになっている花束を床に叩きつけ、控え室から勢いよく飛び出していく。足音はあっというまに遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
開け放たれた扉がゆっくりと戻り、ガシャンと乱暴な音を立てて閉まる。
息を呑んで立ちつくしていたレイチェルは、その音で我にかえり、慌ててドレスの裾を持ち上げてサイファに駆け寄った。心配そうに顔を曇らせて横から覗き込む。
「サイファ、大丈夫?」
「たいしたことないよ」
サイファは軽く答えながら、痛みのある顎の下あたりを指先で触れてみる。うっすらと血がついた。どうやら少し切れているようだ。しかし、先ほど自分の言ったとおり大したことはないだろう。レイチェルに振り向くと、きまり悪そうに苦笑して肩を竦める。
「ごめんね、大人げないところを見せてしまって」
「ううん、謝らなければいけないのは私の方なの」
レイチェルは小さく首を振って言った。思いつめた表情で目を伏せる。瞼は微かに震えていた。その原因は先ほどのことだけではないだろう。自分のせいで酷い目にばかり遭わせてしまって、大変なことを背負わせてしまって――そんな彼女の苦悩は、あの日以来ずっと続いていたのだ。
「やっぱり、私は……」
「駄目だよ」
サイファは彼女の話をピシャリと遮ると、眉根を寄せ、その潤んだ蒼の瞳をじっと射抜くように見つめた。
「レイチェル、君のことは誰にも渡さない。君自身にもね」
随分なことを言ったという自覚はあった。しかし、それは偽りのない本心でもある。ラウルにも、レオナルドにも、ルーファスにも、他の誰にも渡すつもりはない。そして、彼女自身にも、間違った償いをさせるつもりはない。
「この結婚は僕たちの幸せのために望んだことだ。君を救うために仕方なく選択したわけじゃない。だから君がいなくなっては駄目なんだよ」
サイファは真剣にそう言い聞かせると、少しふくらみのあるおなかにそっと手を置く。
「きっと幸せにするから。この子も、君も、そして僕自身もね」
それは真摯な誓いであり、確固たる決意であり、心からの祈りでもあった。
一転して悪戯っぽい笑みを浮かべると、柔らかい声音で、しかしはっきりとした自信を覗かせて尋ねる。
「僕の判断が一度でも間違ったことがあった?」
レイチェルはふるふると首を横に振った。それでもまだ表情は硬く、その瞳には仄暗い陰が落ちている。サイファの言ったことを理解していないわけではないだろう。ただ、そう簡単に自責の念を拭うことができないのだ。
「ねえ、レイチェル」
サイファはゆっくりと呼びかけた。
「もし僕のことを思ってくれるのなら、いつも、どんなときでも、僕の隣で笑っていてくれないかな。君の笑顔があれば、僕は、頑張ることができるから」
「……うん」
レイチェルは微かな声を落とした。そして、気持ちを切り替えるように小さく呼吸をすると、顔を上げ、まわりの人間までも幸せにしてくれるような、あたりの空気までもが優しくなるような、ふわりとあたたかな笑みをその満面に溢れさせた。
それは、まさにサイファが望んだものだった。
胸が詰まるのを感じて目を細めると、身を屈め、彼女とおでこをコツンと合わせた。
サイファはわかっていた。
自分の要求したことは、簡単なようでいて、とても酷なものだということを。それでも彼女は従い続けるだろう。他の選択肢はないのだ。サイファに従順な彼女にとって、それは呪縛にも等しいものなのかもしれない。
けれど――。
自分にはそれくらいのことを求める権利はあるだろう、それくらいのことを望んでも許されるだろう、そんな傲慢なことを心の奥底で密やかに思った。
開放された入口から白い陽光が溢れ込み、赤い絨毯を鮮やかに照らしている。
その奥にある、年老いた神父が立つ祭壇の前に、サイファとレイチェルは並んで立っていた。足下にはステンドグラスの幻想的な光が落ち、純白のドレスの裾を色とりどりに染め上げている。
両脇に並んだ古びた木製の長いすには、双方の両親がそれぞれ座っていた。神聖な場所に相応しい表情で、しかし、時折いとおしむような笑みを覗かせ、主役の二人を見つめている。
神父は誓いの言葉を読み上げ始める。
「サイファ=ヴァルデ=ラグランジェ、あなたはいまこの女性と結婚し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。あなたはその健やかなときも、病めるときも、豊かなるときも、貧しきときも、この女性を愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちの限りともに生きることを誓いますか」
「誓います」
サイファは厳かに答えた。
神父は続けてレイチェルに読み上げる。
「レイチェル=エアリ=ラグランジェ、あなたはいま――」
その誓いの言葉を聞きながら、サイファはそっとレイチェルを流し見た。ここに来るまでの道のりを思い返し、胸に熱いものがこみ上げる。今日という日を幼い頃からずっと待ち続けてきたのだ。少し形は変わってしまったが、その輝きが失われたわけではない。
「誓います」
レイチェルは前を向いたまま、躊躇うことなく凜とした声で答えた。
「結婚の誓約の印に、指輪の交換をいたします」
神父が二人の結婚指輪を取り出す。それは上品な輝きを放つプラチナ製で、内側に文字が刻まされただけの、シンプルで飾り気のないものだった。
サイファは小さい方の指輪を取った。見た目よりも重く感じるのは、込められた想いと責任によるものなのかもしれない。こんなもので彼女を縛りつけようなどと考えているわけではないが、こんなものに縋りたくなる気持ちも心のどこかにあった。彼女の左手を取ると、その薬指にゆっくりと指輪を嵌めた。
今度はレイチェルが指輪を取り、たどたどしい手つきでサイファの薬指に嵌めていく。やや不格好におさまったそれを見て、レイチェルはくすっと笑った。つられてサイファも笑った。
神父は場を引き締めるためか、こほんと小さく咳払いをしてから次の段取りに移る。
「それでは、誓いの口づけを――」
その言葉を合図に、二人は同時に見つめ合った。
サイファは彼女の両肩に手を掛ける。
冷静を装ってはいたが、心臓は壊れそうなほどに強く打っていた。これまで生きてきた中で、いまこの瞬間ほど緊張したことはなかったと彼は思う。
「目を閉じて」
囁くような声でそう言うと、彼女は素直に従い、瞼を下ろしてそっと瞳を閉じた。
サイファはゆっくりと身を屈め、彼女に顔を近づけていく。
二人の唇が初めて触れ合った。
ゴーン、ゴーン――。
荘厳な鐘の音が二人を祝福するように響き渡る。
サイファとレイチェルは手を取り合って赤い絨毯の上を歩き、光の溢れる扉の向こう側へと足を踏み出した。頭上には雲ひとつない透き通った青空がどこまでも広がっている。そこから降りてきた優しい風に、教会のまわりに咲いている草花が小さくそよいだ。
ここからが新たな始まり――。
自分たちは新しい家族を作っていく。楽しく幸せなことが数多くあるように、そう努力するつもりだが、現実としてそればかりではすまないだろう。困難は確かに存在する。それでも誓ったのだ。どんなときも助け合い、愛し合い、ともに生きていくのだと。
サイファは繋いだ手をしっかりと握りしめた。
それに応えるように、彼女の手にも強く力が込められた。
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