遠くの光に踵を上げて

瑞原唯子

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28. 踏み出した一歩

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「幸い、軽いやけどだけだったよ。跡も残りそうもない。今は部屋で眠っている」
 サイファはそう言うと、軽く息を吐きながら、疲れたようにソファに腰を落とした。
「良かった……といっていいのかわからないけど」
 レイチェルの顔にも疲労の色が浮かんでいた。安堵の息をつき、少しだけ笑うと、すぐに複雑な表情に戻った。
「どうして自分の身を守ろうとしないのかしら」
 サイファの向かいにレイチェルも腰を下ろした。彼女は目を伏せ考え込んだ。サイファはちらりと彼女に目をやると、前屈みにうつむいた。両膝の上で肘をつき、額の前でその手を組んだ。
「この前の事件が、彼女に悪影響を与えているのかもしれない」
「セリカさんの?」
 レイチェルはまっすぐにサイファを見た。サイファも顔を上げレイチェルと視線を合わせた。
「ああ、似ているだろう。六年前のあの事件と。自分の身を守ろうとして、魔導の力を暴発させ相手を傷つけてしまった。そのショックで、相手を傷つけることを必要以上に恐れるようになり、何をされてもひたすら耐えることしかできなくなる」
 レイチェルはその話を聞きながら、顔から徐々に血の気が引いていった。ただでさえ白い彼女の肌は、今や青みがかっているようにさえ見えた。
「……どうするの?」
 こわばった声でようやくそれだけ言った。彼女は湧き上がる湧き上がる恐怖心を鎮め、冷静に振る舞おうとしていた。
「今のところ、あくまで私の推測にすぎない。あれこれ言ってみたところで、私たちは医者ではないからね。ラウルに相談してみるよ。できればあのときのようなことは避けたいのだが……」
 サイファは口元で両手を組み、目を伏せ深く考え込んだ。

 夜が明けた。リビングにはいつも通りの風景が広がっていた。窓からは光が差し込み、光沢のある白いテーブルをよりいっそう輝かせていた。赤いティーポットからはほのかに甘い香りが漂う。いつもと違うことはただひとつ。そこにはアンジェリカがいなかった――。

「来ないね、アンジェリカ。ラグランジェ家の集まりってきのうだけのはずだけど」
 一時間目が終わっても、教室の中にアンジェリカの姿はなかった。リックはアンジェリカの屋敷のある方角に顔を向けながら、心配そうに言った。
「だからやめろって言ったのに。くそっ……」
 ジークは肘をつき、眉間にしわを寄せうつむいた。リックもつられて目を伏せた。沈黙が流れ、ふたりに重い空気がのしかかった。
「もしかしたら、アイツだったら何か聞いてるかもな」
 ジークは視線だけを上げ、教室から出て行こうとしているラウルの後ろ姿を目で追った。リックはジークの視線をたどり、ラウルを目にすると小さく頷いた。
「そうだね。ラウルってラグランジェ家のホームドクターみたいな感じだし」
 ジークは頬を膨らませ、難しい顔をした。
「あんまりヤツとは関わりたくねぇけど……」
 そう言いながらも、意を決したように立ち上がり、ラウルを追って走っていった。リックも少し遅れて後を追った。
「おい! ラウル」
 呼ばれたラウルは足を止め、顔だけわずかに声の方へ向けた。そして、走り寄るジークを一瞥すると、再び背を向け歩き始めた。
 ジークはむっとしながらも小走りでラウルについていき、背中越しに声を投げかけた。
「アンジェリカのこと、何か聞いてねぇか?」
「さあな」
 ラウルは短く一言だけ答えた。ジークは怪訝な表情で、さらに問い詰めた。
「ホントに知らねぇのか。知らないんだったら『何の話だ』とか聞いてくるのが普通じゃねぇか?」
「万が一知っていたとしても、それをおまえに話す義務はない」
 ラウルは大股で歩きながら、振り返ることなく冷たく言い放った。
 ジークは足を止めた。両こぶしをきつく握り締める。そして、だんだんと離れていくラウルの背中を睨みつけた。
「やっぱりおまえなんかに聞かなきゃよかったぜ!」
 大きな声で捨てゼリフを吐くと、床を思いきり蹴りつけた。奥歯を噛みしめ、踵を返し、肩をいからせながら教室へと戻って行った。
「へらへら笑ってんじゃねーよ!」
 扉付近で談笑していたグループに、すれ違いざまに当たり散らしながら自分の席まで行くと、その椅子に乱暴に身を投げた。とばっちりを受けた三人は、突然のことに目を丸くしていた。
「ごめん、ちょっとカリカリしてるから」
 リックは顔の前に右手を立て、肩をすくめて申しわけなさそうな表情を見せた。そして、少し遅れて席に着こうとした。だが、そのときジークがふいに立ち上がり、再び教室を出て行った。リックも慌てて後を追った。
 ジークは両手をジーンズのポケットに突っ込み、ずんずんと進んでいく。
「どこ行くの?」
 ジークを小走りで追いかけながら、リックは短く尋ねた。
「トイレだ」
「トイレならあっちだよ」
 リックは進行方向と反対側を指差した。ジークは無視して歩き続けた。
「……どこまでついてくる気だ」
「僕もトイレ」
 リックはジークの横に並ぶとにっこり笑った。

「やっぱり起きてこないわね」
 レイチェルは不安な表情で、アンジェリカの部屋のある二階に顔を向けた。
「ああ」
 サイファは重い声で短く返事をした。その一言だけで、彼が心配していることは容易に読み取れた。
「当然よね。あんなことがあったんだもの」
 レイチェルはサイファに背中を向け、寂し気にうっすら自嘲の笑みを浮かべた。
「私、もう一度アンジェリカの様子を見てくるわ」
 彼女は一転して明るい声を作ると、サイファに振り返り、にっこり笑って見せた。しかし、無理をしている彼女の姿はなおさら痛々しい――。サイファはそう感じた。
「私も行くよ」
 すっと立ち上がると、レイチェルの後ろからついて行った。
 ――パタパタパタ。
 ふたりが玄関ホールまで来ると、階上から軽い足音が聞こえた。そして、すぐにその足音の主が姿を現し、大きな階段を駆け降りてきた。
「アンジェリカ!」
 レイチェルは目を見開いて娘の名を呼んだ。
「どうして起こしてくれなかったの? 完全に遅刻だわ」
 アンジェリカは冷静にそう言うと、驚いている両親とすれ違い、リビングへと小走りで向かった。残されたふたりは互いに顔を見合わせると、はっとして彼女の後を追った。
 アンジェリカは鞄を開け、その中を確認していた。
「大丈夫なの?」
 レイチェルは、恐る恐る、彼女の顔を覗き込んだ。彼女はそんな母親を不思議そうに見ると、自分の肩に手を当てて、落ち着いた声で言った。
「こんなの怪我のうちにも入らないわよ」
 レイチェルはますます困惑した。
「そうじゃなくて……」
「え?」
 アンジェリカは首をかしげ、きょとんとしていた。レイチェルはそれを見て、短く息を吐き、表情を緩めた。そして、彼女の頭を優しく撫でた。
「朝ごはんだけは食べていきなさいね」

 アンジェリカは大急ぎでトーストを口に運んだ。サイファはほおづえをつき、微笑みながらその様子を見ていた。彼女はどういうわけか軽やかな明るい表情をしていた。まるで、何かを吹っ切ったかのようだった。
「なんだかご機嫌だね。いい夢でも見たのかな」
 サイファにそう問われて、アンジェリカは手を止めた。そして、トーストを見つめたままわずかに頬を緩めた。
「内緒」
 サイファとレイチェルは顔を見合わせた。しかし、アンジェリカは両親のそんな様子を気にする素振りも見せず、黙々とトーストを食べた。
「行ってきます」
 最後のひとかけらを口に放り込むと、早口でそう言い、鞄をつかんで椅子から立ち上がった。そして、軽快な足音を立て、ふたりの間を走り抜けた。
「あ、いってらっしゃい!」
 レイチェルは慌てて彼女の背中に声を投げかけた。部屋の外に出ると、すぐに彼女の姿は見えなくなり、やがて扉の軋む音が聞こえた。
「これって、どう考えればいいのかしら。あんなことがあったばかりなのに」
 レイチェルはいったん首をかしげると、うつむいて視線を落とした。
「私たちに心配をかけまいとして、無理をして振る舞っていると考えられなくもないが……」
 サイファはそう言いながら、アンジェリカの座っていた席を見つめた。そして、ふいに優しい顔を見せた。
「私は信じたいよ。今日のあの子の嬉しそうな表情は」
 レイチェルも穏やかに笑って頷いた。
「ええ、そうね。そうよね。ラウルには楽観的すぎるって怒られそうだけど」
 そう言って、首をすくめておどけて見せた。

 アンジェリカは緩いペースで走りながらアカデミーへ向かっていた。生ぬるい向い風を受け、少し息苦しさを感じた。しかし、それでも走ることをやめなかった。彼女の気持ちはアカデミーへと焦っていた。
 ふと前を見やったとき、長くまっすぐな道の遠くにふたつの影を見つけた。彼女はまさかと思いながら、走るスピードを上げ、そのふたつの影に近づいていった。
「ジーク、リック!」
 アンジェリカは少し息を切らして言った。目の前には仏頂面のジークと笑顔のリックが立っていた。リックは軽く右手を上げ「おはよう」といつもの挨拶で迎えた。彼女は何度か深く息を吸って吐いて呼吸を整えると、ふたりの顔を交互に見て付け加えた。
「アカデミーは?」
「あーっと、えーと……」
 ジークは彼女から目をそらしながら、いいわけを考えていた。ここまで来てトイレなどといういいわけは通じない。焦れば焦るほど頭の中が真っ白になっていく。
「もしかして、私を迎えにきてくれたの?」
 アンジェリカがさらに追いうちをかけた。ジークは「ばっ……」と何かを言いかけて、口をつぐんだ。彼の耳は次第に赤くなっていった。
 リックは後ろから楽しむようにジークの様子を見ていた。
「行くんだろ、アカデミー」
 ジークはあさっての方に目をやったまま早口でそう言うと、踵を返し歩き始めた。アンジェリカは下を向いて小さく笑うと、小走りでジークに駆け寄り並んで歩いた。
「ジークの言ってたこと、少しわかった気がしたわ」
「え?」
 ジークはアンジェリカの方に顔を向けかけたが、慌てて前へ向き直った。まだ彼の顔はほんのり熱を帯びていた。しかし、アンジェリカはそんな彼の様子に気がついていなかった。前を向いたまま、淡々と言葉を続けた。
「迷惑、かけてたのかなって」
「そんなこと言ったか?」
 アンジェリカはジークの問いに答えるかわりに、にっこりと満面の笑みを向けた。それは、レイチェルがよく見せる表情だった。ジークはとまどった。彼女のこんな顔は今まで見たことがなかった。
「だからって、逃げるのはやっぱり嫌だけど」
 彼女は少し硬い顔に戻り、ひとことひとこと噛み締めるように言葉をつなげた。そして、ふいに足を止めた。ジークは怪訝に振り返った。
 アンジェリカは両足を少し開いて、しっかりと大地を踏みしめるように直立していた。胸元で鞄を抱え、まっすぐにジークを見つめた。
「だから、もっと、強くなるわ」
 静かな声に強い決意を秘めた真剣な表情。ジークの鼓動は大きく強く打った。
「それから……」
 アンジェリカは口ごもりながら、はにかんで視線を外した。しかし、すぐにジークに目を戻して言った。
「ありがとう」
「ん、ああ……?」
 何に対する「ありがとう」かわからないまま、ジークは反射的に返事をしてしまった。そんなジークを見て、リックは隣でにこにこ笑っていた。
「早く行きましょう!」
 アンジェリカは照れをごまかすように早口で言うと、白いミニスカートをはためかせながらジークの隣を駆けていった。
「おい、待てよ!」
 ジークも慌てて駆け出し、全速力で彼女を追いかけた。
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