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二 青髭屋敷事件
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イーストシティのオールド・セントラル・ストリート。人々が闊歩する雑踏を、凸凹メイドコンビが、ひとりは看板を持ち、ひとりは花籠を抱えて呼びこみをしていた。
凸凹の凸の方は、先日の火災で学生寮から退去せざるをえなかった勤労学生のダリオである。彼は住まいを確保した後、再び学業とアルバイトに精を出していた。今日はクラブの呼び込みである。
今回もダリオはサイズの合っていないミニスカートメイド服を支給されていた。発達した胸筋がフリルのエプロンドレスからぱつぱつに零れ、しなやかなムキムキの太股はスカートと白のタイツとの間に絶対領域を作り出している。ぎりぎり公序良俗を犯さないラインの衣装とはなっており、法の範囲内であれば、ダリオに否やはないのだった。真顔で看板をもち、堂々と立っている。ダリオの通常運転ぶりに、花籠をもった小柄な方のメイドが半ば呆れ、半ば感心するようにダリオを見上げて目を細める。
「ダリオくん……君の心臓には、毛が生えているね」
「そうか?」
「そうだよ」
嘆息したのは、花籠係の同僚、クリスだ。彼は金髪ツインテールに、スカートとエプロンが足元まであるクラシックメイドスタイルに身を包んでいる。ベルベットのリボンを結んだツインのブロンドヘアは似合いすぎているものの地毛ではない。店長が用意したウィッグだった。店長はなぜか、美少年ばかり集めたメイドクラブを経営している。
「ふぅん、まあ、俺に恥じるところはないからな」
ダリオにもクリスの言いたいことは理解できる。確かに、中にはダリオたちを見て、わざわざ振り返り、ゆびさして冷笑する者もいた。しかし、それはダリオの問題ではない。他者を品定めして嘲笑することに、疑問をもたない相手の内面の問題だろう。ダリオを笑うより、なぜそうしたことをしてしまうのか自分自身と向き合った方がよさそうなものだが。ダリオの方には別になんら疚しいこともないので、気にする必要もないだけだった。なにより、時給2000リングのためである。
店長も、あらゆる需要に応じるため、ダリオのような体格から、店長の趣味の美少年まで幅広く雇用しているようだ。なので、小柄なクリスとダリオはよくセットで街頭に立たされ、しっかり『ラビット・ホール』の宣伝をさせられていた。
呼び込みをする二人の前を、様々な人々が早足に通り過ぎていく。
『ダリオ』
突然、髪の毛を引っ張られた。妖精たちが、こっちを見なさいとばかりに、思い切り引っこ抜こうとしてくる。さすがにダリオもこれには閉口した。おい……と内心思いつつも、放ってはおけず、ぐいぐい引っ張られる方に顔を向ける。いったいなんなのか。他者から見えない存在の横暴に、たいていダリオは無力である。
無理やり方向転換させられた視界の先、ダリオは表情を険しくした。顔色の悪い女性が、人々にぶつかりそうになりながら、よろよろと歩いてくるではないか。面倒ごとに関わりたくないのか、人々は彼女を避けるようにしており、彼女の周囲だけ奇妙な空白を作っている。ダリオが懸念する間に、女性はこちらに向かってくる。そしてダリオとすれ違う直前、女性は見えない小石につまづくよう、がくんと膝を折った。
「っ、と」
かまえていたダリオは、看板を地面に置くと、流れるように女性を受け止めた。なんとなくこうなる予感はしていたので、動きに迷いはない。
「大丈夫ですか」と声をかける。
「……ない……で」
かすれてひび割れるようなささやき声に、ダリオは目を見開いた。
女性は最後ふりしぼるように、「おおごとにしないで……救急車……呼ばないで……」とダリオの袖を手袋に包まれた指でつかんで、強く握りしめたのだ。
それは、明らかに血を吐くような懇願だった。
手袋越しにも関わらず、ダリオの腕に強く食い込む爪先が、その必死さを表している。やがて、訴えが聞き届けられたものと思ったのか、食い込んだ指先は力を失い、だらりと死人のように腕が垂れ落ちた。
「……」
黙りこむダリオに、クリスが慌てて近寄ってきた。
「ダ、ダリオくんッ、大丈夫かい?」
「……ああ」
「気絶してるね。救急車を呼ぼうか」
「クリス君、ありがとう。ただ、彼女の方から、意識を失う直前に、おおごとにしないでほしいと頼まれた。救急車は呼ばないでくれと。なんか事情がありそうだ」
「うーん……そっか……ポリスもおおごとになるかな」
「だろうな」
「わかった。少し様子を見よう」
クリスはきっぱりと言う。
「ここじゃ見世物になる。場所をとりあえず移動させた方がいいかな」
「そうだな。店長に連絡して、バックヤードで休ませてもらえないか聞いてみるか」
「それは僕に任せて。お店なら女性客も多いし、びっくりされないと思う。本当はどうかと思うけど、ここは本人の意思を尊重しよう」
「うん、頼む」
クリスの連絡に、店長から快諾が出て、ふたりは女性を店のバックヤードまで運び込むこととした。
オールド・セントラル・ショップ二階、クラブ・ラビット・ホール。
店長は紳士のため、道端で倒れた女性の介抱を快く受け入れてくれた。休憩室の方へ寝かせ、様子を見る。一時間ほどして彼女が目を覚ました。まだ現状確認までできるような状態ではないため、説明は後回しにして、無理をしないようにクリスが短く声をかける。顔色が酷く悪い。やがてめまいがおさまると、彼女は不安そうな表情で、あたりを見回した。目が覚めたら見知らぬ場所に運び込まれていたのだ。警戒するのは当然だし、パニックなってもおかしくない。ダリオはなるべく脅威とならぬようパイプ椅子に深く座って、距離を保ち、説明のために口を開いた。
「急なことで驚かれたかと思いますが、ここはオールド・セントラル・ショップのフロアに入ったクラブ・ラビット・ホールという店の休憩室です」
「……はい」
女性は頷いた。
「僕はダリオ・ロータスといいます。こっちはクリス・ハミルトン。ふたりともイーストシティ大学生で、こちらでアルバイトさせてもらっています」
ダリオはまず場所と自分たちの立場を明らかにしてから、女性に昏倒する直前のことを思い出してもらうことにした。
「あなたが往来で倒れたので、そのままにもしておけず、こちらで勝手に休ませてもらったんですが、気分は大丈夫ですか?」
「ああ……私、最後に……救急車を呼ばないでほしいと」
はっと女性は口許をおさえ、申し訳なさそうに眉をよせた。
「すみません、それで、ですね……お困りでしたしょう。お願いを聞いてくださって、本当にありがとうございます」
ダリオが口にしなかったことも、彼女は思い出したらしい。ひとまずダリオは安堵した。
「もしよければ、しばらくこちらで休んでいってください。店長には許可をもらっていますし、無理はせず」
「ありがとうございます」
女性は悲しそうに微笑む。
「でも、もう外が暗くなっているようですので、お暇させていただきます。本当に助かりました」
そこまで黙っていたクリスが、口元に拳を当てた。小柄でかわいらしい無害な顔を生かして、うるうるとした目で見上げるようにする。
「一応、倒れられたので、ご家族呼ばれます? お電話お貸しできますけど」
「家族は、少しさわりがあって……」
女性は陰りのある微笑を浮かべて断った。送迎のカブ(タクシー)を提案しても、そちらも申し訳なさそうに首をふる。どうも、家人にカブの利用や支払いさえ知られたくないらしい。
ダリオは女性の事情をうっすら察した。しかし、このまま本人を自力で帰すのも、また倒れないか気がかりだ。ダリオの考えを読んだのか、クリスは口元に拳を当てたまま、「えー」と不服の声を上げた。わざとらしくて、どうなんだとは思うが、これは店内でのクリスの営業用スタイルだ。
「心配ですぅっ、往来で倒れたんで、お車もなく、おひとりで帰してしまったら、クリス、今晩眠れないですぅ」
本当にわざとらしい。恥ずかしくないのか、クリス君……とダリオは思うが、口にしないだけの社会性はあった。やりきるクリスに対して、逆に敬意がわいてくる。
「よかったら、仕事がもう少しであがりなので、クリスがおうちまで送っちゃいますよ。それまで休んでてくださぁい、ね、ダリオくん!」
「ええ」
大柄なダリオひとりなら、送迎もかえって負担になる申し出となりそうだから控えた。しかし、クリスは自分の警戒されにくいキャラを生かして、簡単に提案するあたり、ダリオには真似できない芸当だ。役割分担ととらえ、ダリオは淡々と引き継ぐ。
「ご迷惑でなければ、途中まででも送りますし、もしお一人で帰られるようでしたら、十分休んでからにされてはどうでしょうか。もちろんどちらも無理にとは言いませんが、まだ顔色がよくないので……」
ダリオは申し出ている途中で、女性の顔色の悪さが気にかかった。
「あと、よければ、まずはからだのあたたまるものを口にされますか? 休憩室のものをご用意できます。ご希望でしたら表の店の方もご利用いただけますので」
店のメニューなら他の女性客たちも口にしているし、バックヤードより心理的負担が少なく、安心かもしれない。つい最近も、トイレに立った女性の飲み物に薬物を混入させる事件がニュースで流れていたのは記憶にあたらしい。それゆえ、気を遣うのも警戒されるのもダリオは特になんとも思わなかった。見知らぬ他人を信用できるかどうか。毎度信用にサイコロをふるなど、自分がやるならともかく、他者に強要することではない。体格のよいダリオも、初見でむやみに恐怖心を抱かれ、怯えられることがある。自分自身が、怪異に対して同じような怯えや警戒心をもって立ち回っていたため、立場が入れ替わっただけで、そりゃそうだよなとしか思わない。
ダリオの経験上、脅威となる強い属性のものが、力の弱い属性から、早々に警戒心をとりのぞきたがるのは、その方が都合がいいからだ。相手の生命や身の安全を全ベットさせるハイリスクを、厚顔に強いる時点で信用もなにもない。自分は安全だ、警戒するななど、怪異が迫ってきたら、ダリオならまずなんらかの裏を疑う。利己的な欲望を満たすために、襲いやすくなるよう警戒心を取り上げるのが目的で、その後好き勝手にいじくり回され、殺される可能性が頭をよぎる。信用しないことをもって、激昂されることもあるが、相手がよい怪異か、悪い怪異か。害をなすのか、なさないのか。ダリオにはわからないのだ。当たり外れの外れの時に、目玉や心臓を抉られない、殺されない保証など、ひとつもないのだから、警戒するのが正解と思っている。
それは人間同士でも同じことだ。
警戒を取り上げようとしてくるやつは、それこそ警戒したってかまわない。
相手の命や安全をはかる行為や態度が、いずれ信頼に実を結ぶかもしれないし、そうではないかもしれない。それでいいとダリオは思う。無理やりもぎとるものではない。
警戒されて傷つくと言われても、それは現状被害を受けやすい属性の他者から警戒を取り上げる理由にはならないだろう。
「あ……あの……」
女性は困っているというより、頼ってもいいのか困惑している風だった。
そうして彼女は、じっと自分の組んだ両手を見つめると、最後は「甘えてもよろしい、でしょうか」と消え入りそうな声で頼んできたのだった。
彼女は、ダリオが用意したホットジンジャーティーを入れたマグカップを手に、「申し遅れましたが」と詫びて、シンシア・ブルーと名乗った。若い女性だ。当初、自宅まで送るのはどうかと思い、彼女がよしとする近くまで送り届けるつもりだったが、結局彼女の自宅まで同行は問題ないとのことだった。クリスの警戒されにくい容姿や言動によるたまものだろう。そのまま、ダリオとクリスで、シンシアの家の前まで付き添うことになった。そうして送り届けた先の屋敷の前で、
「これは、青髭屋敷だね……」
青い屋根を見上げ、クリスが小さな声でダリオに告げる。ダリオの目には、屋敷はまた違った風貌に見えていたが、ひとまずなに食わぬ顔で口をつぐんだ。
青髭屋敷。イーストシティでも、有名な名家の通称だ。とりわけ、当主の婚姻歴が有名で、これまでに計六回結婚している。当主は非常に厳しい性格で、広い屋敷に比して最低限の使用人も雇わず、質素を通り越した生活に、花嫁の方が耐えられなかったらしい。次々と失踪し、今は七回目の結婚をしており、その相手が、どうやらシンシアのようだった。冬枯れしたような薔薇の伝う鉄さびの門を、シンシアは手袋をした手で押し開け、
「ここまで送っていただき、ありがとうございました」
再度ダリオたちに向かって一礼する。やがてまるで牢獄にでも入っていくように門をくぐると、そのどこか陰を帯びた後ろ姿は、屋敷へと吸い込まれていった。
最後まで見送り、扉がしまるのを確認したクリスが、「うーん」と珍しくしぶい声を出す。
「どうかしたか、クリス君」
「青髭屋敷の七人目の花嫁……イーストシティ新聞で見たけど、最近、七回目の再婚をしたばかりだよね」
「ああ」
「あの様子、死んだ姉に似ているよ。姉も自殺する前は、ああいう感じでね。気にかかる」
クリスは、さらっと言ったが、彼の家も中々複雑だ。
「何もできないけど……気にかけておきたい」
「そうか」
やがてクリスはいつもの調子で肩をすくめた。
「シンシアさんには、店の優待券を渡しておいたから、もし僕がいない時に彼女が来たら、ダリオくんも、少しだけ気を払ってくれると助かる」
「ああ」
ダリオは特に態度を変えることもなく頷いた。
シンシアが店を訪れたのはそう日が経過してのことではなかった。お礼の品を携え、挨拶に来てくれたのだ。
クリスは、シンシアとは気が合うのか、よく話すようになり、楽しそうにしている。彼女は、半ば常連のような形になっていた。
ダリオも時々話すのだが、聞いていて仰天したのは、今時携帯フォンの所持を彼女は許されていないということだった。
そもそも許すも許さないもないんだが? 最低限の文化的生活とは? 彼女の人権は? 今時携帯フォンの所有を許されなければ、それは社会や経済活動へのアクセスを制限され、手足に鎖をつけられるにも等しい所業だ。わかっていて故意にやっているのか。
ダリオの中で疑問が渦巻く。更には、習い事や装身具などの経費は許されているようだが、全て何に使ったのか夫に報告を義務付けられているという。
クラブ・ラビット・ホールに来るのは、習い事の帰りに休憩という名目で、喫茶費用として計上しているそうだ。一見優しい夫のようにも思えるが、金銭の使用用途の指定と管理により、自分の支配影響力を維持するためのものではないだろうか。
また、使用人は年老いた夫婦が二名、夫は庭を含めた屋敷全体の管理、妻は食事や掃除洗濯といったことをしているのだが、あの屋敷の規模だ。当然人手が足りていない。その上、老夫婦の妻は、ここ数年体調を崩しがちとなっているらしい。
その穴埋めをしているのは、歴代の花嫁たちだったようだ。
「すべて手作りでないと、乾物、冷凍や惣菜はゆるしていただけなくて……」
シンシアは困ったように眉を寄せていた。便利さや時短で楽になるよう追求することに当主はよい顔をせず、妻が時間をかけて苦労すること自体に、価値を見いだしているらしい。
「青髭屋敷はお金持ちなのに、なんなわけ?」
シンシアが帰った後で、クリスは青筋を浮かべた。
閉店後も、モップ掛けをしながら、怒りが止まらないようだ。
「シンシアさん、はっきりと言わないけれど、電化製品使わせてくれないみたいで、手洗いで洗濯しているようなんだ」
ダリオもそれは察していた。シンシアは、手袋を決して脱がない。一度、疲労のあまりか、熱いコーヒーのカップを倒してしまって、慌てて冷水につけさせたのだが、その時見た手はあまりにひどいものだった。
「あの手袋は、水仕事のせいだろう。六人の花嫁が裸足で逃げ出したのも仕方ないよ。給金の払われない使用人じゃないか。つまり奴隷だ!」
クリスの姉も、嫁ぎ先の農家で搾取されていた。お金も持たせてもらえず、逃げ出した後つかまって、折檻されたらしい。後々クリスは姉の自殺経緯を知って、とても後悔したそうだ。
「何もできないのが悔しいよ……」
他人の家のことだ。ずかずか土足で入っていくわけにもいかず、クリスはいつの間にかモップを握りしめて、うつむいていた。金髪のツインテールが、しおしおと彼の肩に垂れ落ち、意気消沈しているようだ。
ダリオはダリオで、青髭屋敷が気にかかる。ダリオから見て、青髭屋敷は、巨大な男の顔と女の顔が、地面から半分せり出している異常な状態だった。
ダリオの肌感覚では、何かよくないことが起きている家では、人体の一部が土地や建物から生えてくることがままある。
あれはなんなのか正確にはわからない。ただ、一目見て『異様さ』はわかるので、普段なら避けて通る。
しかし、クリスには世話になっていた。元々、このアルバイトを紹介してくれたのはクリスだし、シンシアも店の常連だ。
一度、様子を確認しておくか、と彼は決めた。
翌日、アルバイトは休みの日だった。大学の講義は午前中のみ、ダリオがのしのしと歩いているのは、イーストシティの往来である。
「ダリオさん、どちらへ」
出た。ぞっとするような黒髪の美青年が、ダリオの隣に並んだ。ダリオには縁のなさそうなハイブランドのコートを身に着けている。どう手に入れたのか、あまり詳しく追及すると、やぶをつついて、蛇を出しそうだ。
「今お前、いきなり横に現れたよな」
「空間跳躍を多少嗜みますので……」
空間跳躍を嗜むってなんだ。ダリオは渋面になった。謙虚なかんじで受け答えしてくるが、突如隣に瞬間移動してきましたと言っているわけである。言いたいことは色々あるような気もしたが、とりあえず注意だけしておくことにした。
「いちおう周囲には気を払ってくれ。あと突然横に出現されると、俺の心臓が止まるかもしれん。今後は遠慮してほしい」
「承知しました。今度から、足音を演出する場所から顕現するようにいたします。では、ダリオさん、どちらへ」
一歩譲歩されたので、ダリオも態度を軟化させることにした。青年と隣に並んで歩くと、ダリオの頭上を素通りして、ぽーっと見とれるような視線があちこちから突き刺さってくる。青年は、他の妖精とは違って、存在の密度が高く、普通に可視されることはこれまでにわかっていた。だから、こうして耳目を集めてしまうのだ。中には、なぜこの美しい青年の隣に、ダリオのような者が……と敵視するものもある。ダリオはうんざりした。それはダリオが聞きたい。
「青髭屋敷だ」
ダリオの回答を聞いて、青年は口元に指先を持ち上げ、思案する風な顔をする。しばらく見ないうちに、それっぽい仕草や表情を身に着けたらしい。
「地元の名士ですね。ダリオさんの交流関係がそこまで及んでいるとは」
「お前、本当は大体の事情分かってるんじゃないのか?」
「ええ」
無感情に、悪びれない顔で頷く青年に、ダリオは何か言いかけて結局止めた。
「邪魔するなよ」
「僕はダリオさんのお邪魔をしたことは、生まれてこの方一度もないと自負しております」
「生まれたてなんだろ……数日のキャリアでどこからその自信がわいてくるんだ……」
「そうですね、そのように見えるなら、ダリオさんを手本に少々」
妙に堂々と言うので、嫌味ではないらしい。少しばかり人間らしさを身に着けたら、お世辞まで言うようになりやがった、とダリオは半眼である。
青髭屋敷の前に着くと、相変わらず巨大な顔が地面から二対生えている。
「ほう……これは中々」
青年にも見えているようだ。
「お前、あれなんなのか分かります?」
「さあ、正確には」
「お前の仲間じゃないのか」
「一緒にしないでほしいものです」
冷ややかに言われ、化け物は化け物なりに、自負があるようだとダリオはひとつ学習した。
くだらないやり取りをしていると、背後から神経質そうに声をかけられる。
「我が家に何かご用向きか」
振り向くと、厳格を絵に描いたような青髪の美丈夫が、ステッキをつき、刺すようにこちらを見ている。地元の名士で、たびたび話題になることから、ダリオも新聞で顔を見たことがあった。青髭屋敷の当主である。
ダリオが応える前に、当主はじっといぶかしげに凝視すると、「なるほど」と重々しく呟いた。
「ここで立ち話もなんだろう。入りたまえ」
いつの間にか、怪異の青年は姿を消していた。有言実行に、邪魔をしないつもりか。なんだかわからんが、けっこうなことである。
「シンシアをたぶらかすのは止めて欲しい」
応接間に案内され、開口一番に言われたのがこれだった。テーブルに投げられたのは、ダリオやクリスなどのメイド服姿で往来に立つショットである。それから、手切れ金も写真の横に置かれた。その後のことを、あまりダリオは覚えていない。聞くに値しないような酷い言い草だったからだ。
頭が固いというどころではない。
「シンシアは、これまでの女たちとは違う」
などと、青髭屋敷の当主は言っていた。
奥ゆかしくて、謙虚で、派手好きではなく、質素な生活にも文句を言わない。
浪費癖は確かに悪癖なのかもしれないが、現代に素手で洗濯させたり、逐一金の使用を報告させ、経済的に支配したりするのは、なんか違うんじゃないのか? とダリオは思った。
これまでの女たちとは違う、と当主は妻を褒めたつもりらしいが、ダリオはまったく逆に受け取った。
奴隷だ。
青髭屋敷の当主の時代錯誤な要求に対して、逃げ出せない者、声を上げられない性質こそを、彼は奴隷としてよくわきまえていると誉めている。
そりゃあ、六人の花嫁に逃げられるわけだろ、とダリオは得心がいった。
余力があれば、あるいは身を寄せる実家があるのなら、それは逃げる。
シンシアは、そのどちらもなかったのか。
手切れ金を断り、辞去したダリオの隣に、
「ダリオさん」
と再び美しい人外の青年が並んだ。今回は足音に、なにやらこの世のものとは思えぬ異様な呪文めいた唱和がついてきた。前回ダリオが言ったことを、一応覚えていてくれたらしい。
「足音の演出に、異音はいらん」
「かしこまりました。僕なりに自分の存在をアピールするよう工夫してみたのですが、お気に召しませんでしたか」
「アピールしなくていい。ふつうに頼む。足音だけがお気に召すから頼む」
二度念押しに頼んでしまうダリオである。
「僕としては、まだ改善の余地があるかと思っていたのですが、ダリオさんがそうおっしゃるなら、やめておきます」
案外素直だ。
「ダリオさん。シンシアさんの生家ですが、家業が経営困難になっているようでして、青髭屋敷の当主から支援があったようです」
ああ、なるほど、とダリオは理解した。逃げられないわけだ。
「マジで今回は助かった。ありがとう」
「光栄です」
青年は、無表情過ぎて、まったく光栄と思っているようには見えない。
そのままラビット・ホールに足を向けると、青髭屋敷から手切れ金が店の方にも届いていた。店長は困り顔だし、クリスは腸が煮えくりかえるというのはこういう顔なのか、という実演ぶりである。
「ふざけている!」
彼は叫んだ。
「シンシアさんは、ペットじゃないんだぞ! シンシアさん自身の交友関係を、夫である青髭屋敷の当主が勝手に断ち切って、許可を与えたり、取り上げたりする。それって人間扱いって言える?!」
人間扱いではない。
そうして、シンシアは家族という枷があり、逃げられない。
「ひと様の家庭のことだけどね、僕にも我慢の限界というものがある。シンシアさんに直接確かめて来るよ……とうてい看過できない」
「そうか」
「ダリオくん、止めないんだね」
「クリス君は、俺に止められると思ったのか?」
「っ、……そうだね」
クリスは自身がかなり冷静さを欠いていることを自覚していたようだ。他者から止められるのではないかと、半ば喧嘩腰に構えていた。それは、彼自身が、自分のありようをやましく感じていた裏返しだ。シンシアではなく、彼の亡くなった姉のことを思い出して、怒髪天をついている状態では、相手をみているとは言えないだろう。そのことに気づいたらしい。ウィッグをかき回し、はぁ、とクリスは嘆息した。
「このまま出向いても、シンシアさんに迷惑をかけるかな」
「かもしれないな」
クリス自身が落ち着いてからでもいいんじゃないか。それから、一緒に行ってみないかとダリオは声をかけた。
「そうする……」
クリスは行き過ぎたと思ったのか、しっかり家で休んで、頭冷やしてくる、と言って。
翌日、彼は行方不明となった。
クリス失踪後、更に数日経過し、シティのビルとビルの間、自宅ということで用意された洋館の居間である。
「うーん、そっちかあ」
ダリオは頭が痛かった。約束した時刻になっても連絡がつかず、伝手を頼りにクリスが体調を崩していないか尋ね、彼の行方不明に気づかさざるを得なくなった。
今度は七人目の花嫁が失踪したのではなく、クリスが消えてしまったわけだ。六人失踪した花嫁も、調べてみれば外聞が悪いということで、離婚ではなく失踪とされているだけだった。ハイソサエティに社交関係の広いカーター氏からの情報である。彼女たちは、田舎に引っ込んだり、あるいは都会へと出ただけらしい。
本当に失踪したのは、クリスだけだ。
頭を冷やす、とは言っていたが、もしかしたら、のぞくだけでもと青髭屋敷に行った可能性はないか。
ソファに座り、両手を組んで考えていると、目の前に気配がした。
「ダリオさん、青髭屋敷についてですが、明確に異界化しているようですので、放置された方が賢明かと」
「あ? なんだ、異界化って」
「現実に影響のある怪異が、家屋や土地に重なっている状態と言えばご想像いただけますか」
妖美な青年は、無感動な目で、丁寧に回答した。
「あー、あのクソデカお顔のオブジェ見物だけじゃなくて、実際にこっちに危害加えてきたりって感じか……?」
「ええ」
「ちなみに、お前、クリスがどこにいるか知ってる?」
「異界化した青髭屋敷にいるようですね」
「そうか」
ダリオは立ち上がった。
「ダリオさん、どちらへ」
「ちょっと外だ」
「僕は、青髭屋敷は異界化したので、放置した方がよいとお伝えしたつもりですが。そもそもダリオさんの手には負えない案件かと」
「やかましい」
ダリオは語彙力を喪失した。手に負えるかどうかでサイコロを振るわけではない。したいかどうかである。
「僕の予想では、ダリオさんが出向いても、取り込まれるか、よくて死亡されるかと思います」
青年の言葉は淡々として、感情の起伏というものがない。
「さすがに僕も、ダリオさんの四肢が爆散しては、完全にオリジナル復元するのは難しい。復元にあたっては、多少人格がオリジナルから逸脱することになりますが……」
青年の口から、復元などという恐ろしい単語が出たため、一応尋ねておく。
「逸脱ってどうなるんだ」
「……他者の血肉に異常執着を示し、知性が99%程度喪失します」
「それ元通りじゃないだろ。別人どころか、ゾンビだからな」
お前死ぬよ、と怪異から予言されまくった末に、四肢爆散後のゾンビ復元まで提案されて、ダリオは辟易とした。
「はい。つまり、リスクの巨大さに対して、なんのメリットもないと思いますが、なぜ――」
足を止めないのか、と美しい青年はダリオの後ろからついて来る。
「クリスには恩がある」
「なるほど」
青年は納得いったらしい。
「理解しました。確かに恩は返さねばなりません」
「お前の倫理観、本当俺には分からんわ」
「僕もダリオさんのことは理解できないことが多いので、僕たちは気が合いますね。相性がいい」
「その無茶な道理が通るなら、お前と相性がいい奴は、全人類になるだろ……」
「僕が好感を抱いているのはダリオさんだけですから、ご安心ください」
嘘を吐け、とダリオは内心思った。四肢爆散後ゾンビ復元でも、青年は「これで元通りですね」とでも言いそうな関心のなさを感じる。ダリオ個人の人格に、興味がないのだ。それはどうも、とダリオは礼を言うにとどめた。
「ダリオさんの恩人は、僕の恩人でもありますし、あなたを死なせる道理もありません。全力でサポートいたします」
「ちなみに、お前が全力出すと、どうなるんだ?」
「控え目に言って、イーストシティが消滅します」
「全力出す時は言ってくれ。あと出さなくていい」
ダリオは、途方もなく疲労した。
すでに日は暮れ、青髭屋敷は、血色の夕闇に沈もうとしていた。白い月が庭の薔薇を白黒に染め抜く。
冬枯れの薔薇が伝う鉄さびた門は、なぜか開いていた。
巨大な対の顔は、大きく口を開け、血走った眼を見開いている。
「……やばいことになってるな」
ダリオが庭先に入っていくと、長く影の伸びる七つの柩が立っている。ざらざらと赤錆の浮くような視界に紗がかかり、気づけば開いていたはずの鉄門は濃霧の向こうに見えなくなっていた。
空を見上げると、いつの間にか、月は真っ赤だ。
柩をひとつひとつ確かめると、名前が書いてあった形跡はあれど、それは削り取られていた。思い切って中を覗いてみるが、空っぽである。
だが――七つ目の柩には、シンシア・ブルーと名前が記載してあった。難しい顔をするダリオに、夜の漆黒をまとう青年がアドバイスする。
「やはり、シンシアさんがこの異界化の核になっているようですね」
「どういう仕組みかお前分かるか?」
「そうですね……シンシアさんもまた、僕のような存在エネルギーを無意識に呼び出した。そして、扱いきれずに土地ごと、異界のエネルギーが心象風景のままに溢れかえった。僕ほどはっきり自我が確立していない不定のエネルギーと、彼女の心象が融合したという感じです」
「なるほど、わからん」
「ダリオさんにはよくわからないエネルギーがシンシアさんと合体して、こうなっています」
青年は雑にまとめた。ということは、シンシアと話をするしかないのかもしれない。核になっているという彼女が、現在どういう状態になっているのかは不明だが、おあつらえに彼女の名前が書かれた柩が目の前にある。ここにいます、という表示のようなものか。
「……シンシアさん」
ダリオは、柩をノックしてみる。
「ダリオです。ダリオ・ロータスです。開けてもらえませんか。そこに、クリス君がいませんか。彼を返してほしい」
ダリオは柩の蓋に手をかけた。
ぎぎぎ、と軋みを発しながら、柩の蓋が開いていく。
気づけば、庭園中に薔薇の香りが立ち込めていた。人面花だ。空には赤い月。
地面から生えた巨大な顔が、ばきばきばきと耳まで口が裂け、恐ろしい絶叫を発した。
う、やばい、目の奥から内臓から中身が沸騰する……とダリオは思ったが、
「させません」
後ろから腰を抱き込まれ、引き寄せられると、一気に過負荷が消え去った。
「助かったよ、ありがとう」
青年は、これまで見たことのないような微笑を浮かべた。
え、とダリオが驚いた一瞬後には、もう真顔になっている。幻かなにか、と彼の頬をつねってみた。
「ダリオさん、なぜ僕の頬をつねるのです」
「今、お前笑ったか?」
「……わかりかねますが、ダリオさんに触っていただけるのはいいですね。もっとどうぞ」
ダリオは手を離した。
柩は開いている。
それは、あぎとを開けたオオカミの口のように、赤黒く胎動し、咽頭の奥へ奥へと階段のようなものがらせん状に降りていくのが見えた。
「入れってことかね」
「入るなというのを、無理やり喉を開かせた状態ですね」
ダリオはコメントに困り、結局、
「お邪魔しまあす」
となんとも気の抜ける挨拶をして、階段へと足を踏み出した。
階段を降りていくと、いくつかの妨害もあったが、その都度青年が何かしたらしく、とうとうダリオは咽頭の底へと辿り着いた。
元は白だったのだろうか。ボロボロのドレスを着た女——シンシアらしき女性が、手足に枷のついた状態で、うつむいている。
「シンシアさん」
どうして、と彼女は顔を上げた。口には糸で縫合がされ、目には汚らしい包帯が幾重にも撒かれた状態で、彼女は喉元を搔きむしるように上半身を反らし、悲鳴を上げた。
「ダリオさん」
背後から青年が、ぞくっとするような美声で囁いた。
「ここでは、想像力がものをいいます。コアとなるオブジェクトを破壊をすれば、もとに戻るでしょう。破壊しても本体に影響はありませんので、ご安心ください」
「そうかよ」
格闘ゲームでも考えてみるかね、とダリオは構えた。
シンシアらしきものは、膨れ上がり、たちまち巨大となって、その白の残骸のドレスを更に引き裂いていく。
「あれが、コアオブジェクトですね」
「マジか……」
あれたぶん、シンシアさんだよなとダリオはひきつった。今のところ、この人外の青年は、認識の齟齬はあれど、嘘をつかないのは信用できる。
「あれを破壊しても、シンシアさんは心身ともにもとどおりなんだな」
「はい」
仕方ない。
覚悟を決めたところで、ダリオは最近プレイしていたゲームの手斧をいつの間にか持っていた。えええ、肉弾戦過ぎるだろ、と頭が痛くなる。重ねて仕方ない。
「シンシアさん、少し痛いかもしれないが、あんたを解放してみる、努力はしようか」
ダリオは心もとない獲物を手に、シンシアと向き合った。
真逆にも、ダリオは彼女をつなぐ枷四か所を走り、鎖を切断して回った。一本鎖を切るたびに、シンシアの傍に、うすらぼんやりとしたカンテラの光のようなものがどんどん光源を増していく。それは、小柄な人影に見えた。
もしかして、クリスか? とダリオは文字通り光明を得た思いだ。
シンシアはどんどん自由となっていき、暴れ方も激しくはなるが、最後の一本が強固である。
「EEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEE」
喉を掻きむしりながら、血の涙を流しているのを見ると、ダリオへの攻撃意思はむしろ感じられない。
彼女の首から伸びる、まるで犬のような扱いの首輪と鎖。
がつん、と手斧を下ろしたが、びくともしない。
「シンシアさん」
その時だ。
「……クリスか?」
確かにクリスの声がした。いつの間にか、半透明に発光する彼が、ダリオの手斧の柄に、指を添えている。
はっきりと、クリスの姿をとり、彼は真剣な顔で、シンシアに語りかけた。
「シンシアさん、僕の姉さんも、結婚相手に経済的DVされててね」
恐ろしいほど巨大に膨れ上がったシンシアらしき存在が、ぴたりと動きを止める。確かに、聞いているようだ。
「お金も携帯フォンも持たせてもらえなくて、逃げられなくてさ」
彼は淡々と告げた。
「一回逃げ出したはいいけど、連れ戻されて、親戚中から折檻されたらしくてね、そんで……まあ自殺したんだよね。僕、その時、全然何も知らなくてさ」
だから、とクリスは言う。
「もう、見捨てたらいいよ。家族とかさ、重荷で、あなたに犠牲になれって言ってくるならさ。それ別に恩知らずでもなんでもないよ。道徳とか持ち出してくるけどさ、シンシアさんが我慢しないと暮らしが立ち行かないから、もっとあなたに我慢しろとか言うやつらならさ。捨てたって、いいんだよ」
だから、ともう一度クリスは言った。
「自分を傷つけるのは、もう止めて。あなたのせいじゃないよ。あなたの我慢が足りないせいだと言うやつらのせいだよ。あなたはひとつも悪くないよ」
シンシアの目を閉ざす包帯の下から、透明な液体がしたたり落ちてくる。
ダリオは、手斧を振り上げた。
青髭屋敷事件から一か月過ぎた。
シンシアは、明るい顔でラビット・ホールの常連客となっている。彼女は、離婚した。ひとつだけ良いことと言えば、逐一報告を求める夫への対抗策で会計の勉強をしていたらしく、そのまま就職に生かせたそうだ。
家族については、自分は家族の自我の延長ではないと、きっぱり縁を切ったらしい。経済的に自立すれば、何も躊躇していたことは脅威ですらなかったんですね、と彼女は晴れやかな顔だった。
ずっと、自分は無能だと思っていた。思い込まされていました、と。
巨大化した怪異じみた姿になっていた時のことは、ぼんやり記憶があるようだ。クリスと今日も歓談しているのを見ると、ダリオはまあとりあえずよかったよな、と思う。
ちなみに、シンシア相手に奮闘した際、怪異の青年があまり手を出さなかったのは、「僕だと消滅させてしまいますので控えました」とのことだった。
なお、ダリオの生命が危機の際は、当たり前に、あの人間の消滅一択でしたから、よかったですねと言われ、よくねーよ、とダリオは思った。
「ダリオさん」
アルバイトが終わる頃に、青年が迎えに来るようになったのが、ひとつ変わったことだろうか。
「ダリオくん、今日も彼氏のお迎え来てるね」
クリスの台詞に、ダリオは「違う」と訂正しておいた。当初はとんでもない麗人が来たと、店内中魂を抜かれたように呆けていたが、少しは慣れたようである。名前を聞かれた際は、適当にごまかしたのだが、かえって嫉妬深いんだね、意外だな、お幸せに! とまで言われてしまった。
違う。そうじゃない。
ダリオは言いたいことはあったが、徒労に感じて、「彼氏ではない」とだけもう一度釘を刺しておいた。
「ダリオさん、今日は猫のお耳なのですね」
青年が、す、とダリオの本物の耳の付け根を指先で撫でた。なぜそっちを撫でるのだ。
きゃあ、と店内の視線がこちらに集中する。青年がダリオの出迎えに来るようになってから、どういうわけか女性客リピーターが増えていた。ダリオの時給もなぜか上がった。ありがたいので、ダリオはまあいいかと流している。
「着替えてくる。先に帰ってていいぞ」
ダリオが言うと、クリスが「はいはいはい」と手をあげた。
「僕がサービスしてあげるから、ダリオくんはバックヤード行って行って」
謎のフォローをしてくる。青年に買収でもされているのか。
ダリオが私服に着替えて出てくると、青年はそのまま当たり前のようにダリオの横についた。違和感がなく、ダリオは自分も慣れてきてしまっているなと感じる。青年は店を出るなり、「こちらを」とスプリングコートをダリオに羽織らせた。
「春先とはいえ、冷えますから」
「……どうも」
ダリオはやりにくい。情緒というのだろうか。青年も人間の作法を学習したらしく、出会った当初ほど度肝を抜かれることは少なくなってきた。むしろ、紳士的に気遣われ、こうして冷えるからとコートなど着せてもらうと、ダリオは無性に気恥ずかしくなってくる。
なにしろ、こんな風に甘やかしてもらったことがほとんどない。里親と特に相性が悪かったわけではないが、ダリオがいると、怪異がついて回るため、すぐに施設に帰されることが多く、転々とする暮らしだった。
そうなると、施設では年長者になり、世話されるより世話をし、甘えるより甘やかす立場になる。ダリオが達観した風な青年になったためか、彼を子ども扱いしてくるような知人はいない。
なので、ダリオはどうにも不慣れだった。
一緒に暮らしているし、ダリオの嫌がることはしてこない。その上、ダリオが嫌だとは思わないタイミングで、時々触れて来る。
参った。こんな風にされると……まずい気がする。けっこういい奴だ。それどころか。
怪異相手にほだされるのはよくない傾向だ。
そもそも、まだ名づけもしていないし、俺が名づけていいのか? わからんと堂々巡りだ。色々名前の辞典などもこっそり調べてはいるのだが、これだという名前を思いつかない。もう自分で名づけたらどうだ? と思う。
帰りにコーヒーショップに寄って、豆を買う。青年は荷物を持つと言う。甘やかされまくっている。そういえば、妖精たちから妙なちょっかいを受けることも減っていた。
どうやら、青年のことが怖いらしい。
「ダリオさん、僕の名前について考えてくださいましたか」
「あー……そうだな」
青髭屋敷の一件で借りを作ってしまった。
「……テオ。テオドールでどうだ」
昔、子供の頃、両親仲が良かった時、飼っていた犬の名前が咄嗟に浮かんだ。しまった、と思ったが、
「テオドール、ですか」
青年は舌先で確かめるように言う。
「よいですね」
「お、おう」
オーケーらしい。
「ありがとうございます、ダリオさん。今後もダリオさんのお役に立てるよう、精進いたします」
「あー、ほどほどにな」
頼むよ、とダリオは釘を刺しておいた。イーストシティが消し飛んでは困るのである。
凸凹の凸の方は、先日の火災で学生寮から退去せざるをえなかった勤労学生のダリオである。彼は住まいを確保した後、再び学業とアルバイトに精を出していた。今日はクラブの呼び込みである。
今回もダリオはサイズの合っていないミニスカートメイド服を支給されていた。発達した胸筋がフリルのエプロンドレスからぱつぱつに零れ、しなやかなムキムキの太股はスカートと白のタイツとの間に絶対領域を作り出している。ぎりぎり公序良俗を犯さないラインの衣装とはなっており、法の範囲内であれば、ダリオに否やはないのだった。真顔で看板をもち、堂々と立っている。ダリオの通常運転ぶりに、花籠をもった小柄な方のメイドが半ば呆れ、半ば感心するようにダリオを見上げて目を細める。
「ダリオくん……君の心臓には、毛が生えているね」
「そうか?」
「そうだよ」
嘆息したのは、花籠係の同僚、クリスだ。彼は金髪ツインテールに、スカートとエプロンが足元まであるクラシックメイドスタイルに身を包んでいる。ベルベットのリボンを結んだツインのブロンドヘアは似合いすぎているものの地毛ではない。店長が用意したウィッグだった。店長はなぜか、美少年ばかり集めたメイドクラブを経営している。
「ふぅん、まあ、俺に恥じるところはないからな」
ダリオにもクリスの言いたいことは理解できる。確かに、中にはダリオたちを見て、わざわざ振り返り、ゆびさして冷笑する者もいた。しかし、それはダリオの問題ではない。他者を品定めして嘲笑することに、疑問をもたない相手の内面の問題だろう。ダリオを笑うより、なぜそうしたことをしてしまうのか自分自身と向き合った方がよさそうなものだが。ダリオの方には別になんら疚しいこともないので、気にする必要もないだけだった。なにより、時給2000リングのためである。
店長も、あらゆる需要に応じるため、ダリオのような体格から、店長の趣味の美少年まで幅広く雇用しているようだ。なので、小柄なクリスとダリオはよくセットで街頭に立たされ、しっかり『ラビット・ホール』の宣伝をさせられていた。
呼び込みをする二人の前を、様々な人々が早足に通り過ぎていく。
『ダリオ』
突然、髪の毛を引っ張られた。妖精たちが、こっちを見なさいとばかりに、思い切り引っこ抜こうとしてくる。さすがにダリオもこれには閉口した。おい……と内心思いつつも、放ってはおけず、ぐいぐい引っ張られる方に顔を向ける。いったいなんなのか。他者から見えない存在の横暴に、たいていダリオは無力である。
無理やり方向転換させられた視界の先、ダリオは表情を険しくした。顔色の悪い女性が、人々にぶつかりそうになりながら、よろよろと歩いてくるではないか。面倒ごとに関わりたくないのか、人々は彼女を避けるようにしており、彼女の周囲だけ奇妙な空白を作っている。ダリオが懸念する間に、女性はこちらに向かってくる。そしてダリオとすれ違う直前、女性は見えない小石につまづくよう、がくんと膝を折った。
「っ、と」
かまえていたダリオは、看板を地面に置くと、流れるように女性を受け止めた。なんとなくこうなる予感はしていたので、動きに迷いはない。
「大丈夫ですか」と声をかける。
「……ない……で」
かすれてひび割れるようなささやき声に、ダリオは目を見開いた。
女性は最後ふりしぼるように、「おおごとにしないで……救急車……呼ばないで……」とダリオの袖を手袋に包まれた指でつかんで、強く握りしめたのだ。
それは、明らかに血を吐くような懇願だった。
手袋越しにも関わらず、ダリオの腕に強く食い込む爪先が、その必死さを表している。やがて、訴えが聞き届けられたものと思ったのか、食い込んだ指先は力を失い、だらりと死人のように腕が垂れ落ちた。
「……」
黙りこむダリオに、クリスが慌てて近寄ってきた。
「ダ、ダリオくんッ、大丈夫かい?」
「……ああ」
「気絶してるね。救急車を呼ぼうか」
「クリス君、ありがとう。ただ、彼女の方から、意識を失う直前に、おおごとにしないでほしいと頼まれた。救急車は呼ばないでくれと。なんか事情がありそうだ」
「うーん……そっか……ポリスもおおごとになるかな」
「だろうな」
「わかった。少し様子を見よう」
クリスはきっぱりと言う。
「ここじゃ見世物になる。場所をとりあえず移動させた方がいいかな」
「そうだな。店長に連絡して、バックヤードで休ませてもらえないか聞いてみるか」
「それは僕に任せて。お店なら女性客も多いし、びっくりされないと思う。本当はどうかと思うけど、ここは本人の意思を尊重しよう」
「うん、頼む」
クリスの連絡に、店長から快諾が出て、ふたりは女性を店のバックヤードまで運び込むこととした。
オールド・セントラル・ショップ二階、クラブ・ラビット・ホール。
店長は紳士のため、道端で倒れた女性の介抱を快く受け入れてくれた。休憩室の方へ寝かせ、様子を見る。一時間ほどして彼女が目を覚ました。まだ現状確認までできるような状態ではないため、説明は後回しにして、無理をしないようにクリスが短く声をかける。顔色が酷く悪い。やがてめまいがおさまると、彼女は不安そうな表情で、あたりを見回した。目が覚めたら見知らぬ場所に運び込まれていたのだ。警戒するのは当然だし、パニックなってもおかしくない。ダリオはなるべく脅威とならぬようパイプ椅子に深く座って、距離を保ち、説明のために口を開いた。
「急なことで驚かれたかと思いますが、ここはオールド・セントラル・ショップのフロアに入ったクラブ・ラビット・ホールという店の休憩室です」
「……はい」
女性は頷いた。
「僕はダリオ・ロータスといいます。こっちはクリス・ハミルトン。ふたりともイーストシティ大学生で、こちらでアルバイトさせてもらっています」
ダリオはまず場所と自分たちの立場を明らかにしてから、女性に昏倒する直前のことを思い出してもらうことにした。
「あなたが往来で倒れたので、そのままにもしておけず、こちらで勝手に休ませてもらったんですが、気分は大丈夫ですか?」
「ああ……私、最後に……救急車を呼ばないでほしいと」
はっと女性は口許をおさえ、申し訳なさそうに眉をよせた。
「すみません、それで、ですね……お困りでしたしょう。お願いを聞いてくださって、本当にありがとうございます」
ダリオが口にしなかったことも、彼女は思い出したらしい。ひとまずダリオは安堵した。
「もしよければ、しばらくこちらで休んでいってください。店長には許可をもらっていますし、無理はせず」
「ありがとうございます」
女性は悲しそうに微笑む。
「でも、もう外が暗くなっているようですので、お暇させていただきます。本当に助かりました」
そこまで黙っていたクリスが、口元に拳を当てた。小柄でかわいらしい無害な顔を生かして、うるうるとした目で見上げるようにする。
「一応、倒れられたので、ご家族呼ばれます? お電話お貸しできますけど」
「家族は、少しさわりがあって……」
女性は陰りのある微笑を浮かべて断った。送迎のカブ(タクシー)を提案しても、そちらも申し訳なさそうに首をふる。どうも、家人にカブの利用や支払いさえ知られたくないらしい。
ダリオは女性の事情をうっすら察した。しかし、このまま本人を自力で帰すのも、また倒れないか気がかりだ。ダリオの考えを読んだのか、クリスは口元に拳を当てたまま、「えー」と不服の声を上げた。わざとらしくて、どうなんだとは思うが、これは店内でのクリスの営業用スタイルだ。
「心配ですぅっ、往来で倒れたんで、お車もなく、おひとりで帰してしまったら、クリス、今晩眠れないですぅ」
本当にわざとらしい。恥ずかしくないのか、クリス君……とダリオは思うが、口にしないだけの社会性はあった。やりきるクリスに対して、逆に敬意がわいてくる。
「よかったら、仕事がもう少しであがりなので、クリスがおうちまで送っちゃいますよ。それまで休んでてくださぁい、ね、ダリオくん!」
「ええ」
大柄なダリオひとりなら、送迎もかえって負担になる申し出となりそうだから控えた。しかし、クリスは自分の警戒されにくいキャラを生かして、簡単に提案するあたり、ダリオには真似できない芸当だ。役割分担ととらえ、ダリオは淡々と引き継ぐ。
「ご迷惑でなければ、途中まででも送りますし、もしお一人で帰られるようでしたら、十分休んでからにされてはどうでしょうか。もちろんどちらも無理にとは言いませんが、まだ顔色がよくないので……」
ダリオは申し出ている途中で、女性の顔色の悪さが気にかかった。
「あと、よければ、まずはからだのあたたまるものを口にされますか? 休憩室のものをご用意できます。ご希望でしたら表の店の方もご利用いただけますので」
店のメニューなら他の女性客たちも口にしているし、バックヤードより心理的負担が少なく、安心かもしれない。つい最近も、トイレに立った女性の飲み物に薬物を混入させる事件がニュースで流れていたのは記憶にあたらしい。それゆえ、気を遣うのも警戒されるのもダリオは特になんとも思わなかった。見知らぬ他人を信用できるかどうか。毎度信用にサイコロをふるなど、自分がやるならともかく、他者に強要することではない。体格のよいダリオも、初見でむやみに恐怖心を抱かれ、怯えられることがある。自分自身が、怪異に対して同じような怯えや警戒心をもって立ち回っていたため、立場が入れ替わっただけで、そりゃそうだよなとしか思わない。
ダリオの経験上、脅威となる強い属性のものが、力の弱い属性から、早々に警戒心をとりのぞきたがるのは、その方が都合がいいからだ。相手の生命や身の安全を全ベットさせるハイリスクを、厚顔に強いる時点で信用もなにもない。自分は安全だ、警戒するななど、怪異が迫ってきたら、ダリオならまずなんらかの裏を疑う。利己的な欲望を満たすために、襲いやすくなるよう警戒心を取り上げるのが目的で、その後好き勝手にいじくり回され、殺される可能性が頭をよぎる。信用しないことをもって、激昂されることもあるが、相手がよい怪異か、悪い怪異か。害をなすのか、なさないのか。ダリオにはわからないのだ。当たり外れの外れの時に、目玉や心臓を抉られない、殺されない保証など、ひとつもないのだから、警戒するのが正解と思っている。
それは人間同士でも同じことだ。
警戒を取り上げようとしてくるやつは、それこそ警戒したってかまわない。
相手の命や安全をはかる行為や態度が、いずれ信頼に実を結ぶかもしれないし、そうではないかもしれない。それでいいとダリオは思う。無理やりもぎとるものではない。
警戒されて傷つくと言われても、それは現状被害を受けやすい属性の他者から警戒を取り上げる理由にはならないだろう。
「あ……あの……」
女性は困っているというより、頼ってもいいのか困惑している風だった。
そうして彼女は、じっと自分の組んだ両手を見つめると、最後は「甘えてもよろしい、でしょうか」と消え入りそうな声で頼んできたのだった。
彼女は、ダリオが用意したホットジンジャーティーを入れたマグカップを手に、「申し遅れましたが」と詫びて、シンシア・ブルーと名乗った。若い女性だ。当初、自宅まで送るのはどうかと思い、彼女がよしとする近くまで送り届けるつもりだったが、結局彼女の自宅まで同行は問題ないとのことだった。クリスの警戒されにくい容姿や言動によるたまものだろう。そのまま、ダリオとクリスで、シンシアの家の前まで付き添うことになった。そうして送り届けた先の屋敷の前で、
「これは、青髭屋敷だね……」
青い屋根を見上げ、クリスが小さな声でダリオに告げる。ダリオの目には、屋敷はまた違った風貌に見えていたが、ひとまずなに食わぬ顔で口をつぐんだ。
青髭屋敷。イーストシティでも、有名な名家の通称だ。とりわけ、当主の婚姻歴が有名で、これまでに計六回結婚している。当主は非常に厳しい性格で、広い屋敷に比して最低限の使用人も雇わず、質素を通り越した生活に、花嫁の方が耐えられなかったらしい。次々と失踪し、今は七回目の結婚をしており、その相手が、どうやらシンシアのようだった。冬枯れしたような薔薇の伝う鉄さびの門を、シンシアは手袋をした手で押し開け、
「ここまで送っていただき、ありがとうございました」
再度ダリオたちに向かって一礼する。やがてまるで牢獄にでも入っていくように門をくぐると、そのどこか陰を帯びた後ろ姿は、屋敷へと吸い込まれていった。
最後まで見送り、扉がしまるのを確認したクリスが、「うーん」と珍しくしぶい声を出す。
「どうかしたか、クリス君」
「青髭屋敷の七人目の花嫁……イーストシティ新聞で見たけど、最近、七回目の再婚をしたばかりだよね」
「ああ」
「あの様子、死んだ姉に似ているよ。姉も自殺する前は、ああいう感じでね。気にかかる」
クリスは、さらっと言ったが、彼の家も中々複雑だ。
「何もできないけど……気にかけておきたい」
「そうか」
やがてクリスはいつもの調子で肩をすくめた。
「シンシアさんには、店の優待券を渡しておいたから、もし僕がいない時に彼女が来たら、ダリオくんも、少しだけ気を払ってくれると助かる」
「ああ」
ダリオは特に態度を変えることもなく頷いた。
シンシアが店を訪れたのはそう日が経過してのことではなかった。お礼の品を携え、挨拶に来てくれたのだ。
クリスは、シンシアとは気が合うのか、よく話すようになり、楽しそうにしている。彼女は、半ば常連のような形になっていた。
ダリオも時々話すのだが、聞いていて仰天したのは、今時携帯フォンの所持を彼女は許されていないということだった。
そもそも許すも許さないもないんだが? 最低限の文化的生活とは? 彼女の人権は? 今時携帯フォンの所有を許されなければ、それは社会や経済活動へのアクセスを制限され、手足に鎖をつけられるにも等しい所業だ。わかっていて故意にやっているのか。
ダリオの中で疑問が渦巻く。更には、習い事や装身具などの経費は許されているようだが、全て何に使ったのか夫に報告を義務付けられているという。
クラブ・ラビット・ホールに来るのは、習い事の帰りに休憩という名目で、喫茶費用として計上しているそうだ。一見優しい夫のようにも思えるが、金銭の使用用途の指定と管理により、自分の支配影響力を維持するためのものではないだろうか。
また、使用人は年老いた夫婦が二名、夫は庭を含めた屋敷全体の管理、妻は食事や掃除洗濯といったことをしているのだが、あの屋敷の規模だ。当然人手が足りていない。その上、老夫婦の妻は、ここ数年体調を崩しがちとなっているらしい。
その穴埋めをしているのは、歴代の花嫁たちだったようだ。
「すべて手作りでないと、乾物、冷凍や惣菜はゆるしていただけなくて……」
シンシアは困ったように眉を寄せていた。便利さや時短で楽になるよう追求することに当主はよい顔をせず、妻が時間をかけて苦労すること自体に、価値を見いだしているらしい。
「青髭屋敷はお金持ちなのに、なんなわけ?」
シンシアが帰った後で、クリスは青筋を浮かべた。
閉店後も、モップ掛けをしながら、怒りが止まらないようだ。
「シンシアさん、はっきりと言わないけれど、電化製品使わせてくれないみたいで、手洗いで洗濯しているようなんだ」
ダリオもそれは察していた。シンシアは、手袋を決して脱がない。一度、疲労のあまりか、熱いコーヒーのカップを倒してしまって、慌てて冷水につけさせたのだが、その時見た手はあまりにひどいものだった。
「あの手袋は、水仕事のせいだろう。六人の花嫁が裸足で逃げ出したのも仕方ないよ。給金の払われない使用人じゃないか。つまり奴隷だ!」
クリスの姉も、嫁ぎ先の農家で搾取されていた。お金も持たせてもらえず、逃げ出した後つかまって、折檻されたらしい。後々クリスは姉の自殺経緯を知って、とても後悔したそうだ。
「何もできないのが悔しいよ……」
他人の家のことだ。ずかずか土足で入っていくわけにもいかず、クリスはいつの間にかモップを握りしめて、うつむいていた。金髪のツインテールが、しおしおと彼の肩に垂れ落ち、意気消沈しているようだ。
ダリオはダリオで、青髭屋敷が気にかかる。ダリオから見て、青髭屋敷は、巨大な男の顔と女の顔が、地面から半分せり出している異常な状態だった。
ダリオの肌感覚では、何かよくないことが起きている家では、人体の一部が土地や建物から生えてくることがままある。
あれはなんなのか正確にはわからない。ただ、一目見て『異様さ』はわかるので、普段なら避けて通る。
しかし、クリスには世話になっていた。元々、このアルバイトを紹介してくれたのはクリスだし、シンシアも店の常連だ。
一度、様子を確認しておくか、と彼は決めた。
翌日、アルバイトは休みの日だった。大学の講義は午前中のみ、ダリオがのしのしと歩いているのは、イーストシティの往来である。
「ダリオさん、どちらへ」
出た。ぞっとするような黒髪の美青年が、ダリオの隣に並んだ。ダリオには縁のなさそうなハイブランドのコートを身に着けている。どう手に入れたのか、あまり詳しく追及すると、やぶをつついて、蛇を出しそうだ。
「今お前、いきなり横に現れたよな」
「空間跳躍を多少嗜みますので……」
空間跳躍を嗜むってなんだ。ダリオは渋面になった。謙虚なかんじで受け答えしてくるが、突如隣に瞬間移動してきましたと言っているわけである。言いたいことは色々あるような気もしたが、とりあえず注意だけしておくことにした。
「いちおう周囲には気を払ってくれ。あと突然横に出現されると、俺の心臓が止まるかもしれん。今後は遠慮してほしい」
「承知しました。今度から、足音を演出する場所から顕現するようにいたします。では、ダリオさん、どちらへ」
一歩譲歩されたので、ダリオも態度を軟化させることにした。青年と隣に並んで歩くと、ダリオの頭上を素通りして、ぽーっと見とれるような視線があちこちから突き刺さってくる。青年は、他の妖精とは違って、存在の密度が高く、普通に可視されることはこれまでにわかっていた。だから、こうして耳目を集めてしまうのだ。中には、なぜこの美しい青年の隣に、ダリオのような者が……と敵視するものもある。ダリオはうんざりした。それはダリオが聞きたい。
「青髭屋敷だ」
ダリオの回答を聞いて、青年は口元に指先を持ち上げ、思案する風な顔をする。しばらく見ないうちに、それっぽい仕草や表情を身に着けたらしい。
「地元の名士ですね。ダリオさんの交流関係がそこまで及んでいるとは」
「お前、本当は大体の事情分かってるんじゃないのか?」
「ええ」
無感情に、悪びれない顔で頷く青年に、ダリオは何か言いかけて結局止めた。
「邪魔するなよ」
「僕はダリオさんのお邪魔をしたことは、生まれてこの方一度もないと自負しております」
「生まれたてなんだろ……数日のキャリアでどこからその自信がわいてくるんだ……」
「そうですね、そのように見えるなら、ダリオさんを手本に少々」
妙に堂々と言うので、嫌味ではないらしい。少しばかり人間らしさを身に着けたら、お世辞まで言うようになりやがった、とダリオは半眼である。
青髭屋敷の前に着くと、相変わらず巨大な顔が地面から二対生えている。
「ほう……これは中々」
青年にも見えているようだ。
「お前、あれなんなのか分かります?」
「さあ、正確には」
「お前の仲間じゃないのか」
「一緒にしないでほしいものです」
冷ややかに言われ、化け物は化け物なりに、自負があるようだとダリオはひとつ学習した。
くだらないやり取りをしていると、背後から神経質そうに声をかけられる。
「我が家に何かご用向きか」
振り向くと、厳格を絵に描いたような青髪の美丈夫が、ステッキをつき、刺すようにこちらを見ている。地元の名士で、たびたび話題になることから、ダリオも新聞で顔を見たことがあった。青髭屋敷の当主である。
ダリオが応える前に、当主はじっといぶかしげに凝視すると、「なるほど」と重々しく呟いた。
「ここで立ち話もなんだろう。入りたまえ」
いつの間にか、怪異の青年は姿を消していた。有言実行に、邪魔をしないつもりか。なんだかわからんが、けっこうなことである。
「シンシアをたぶらかすのは止めて欲しい」
応接間に案内され、開口一番に言われたのがこれだった。テーブルに投げられたのは、ダリオやクリスなどのメイド服姿で往来に立つショットである。それから、手切れ金も写真の横に置かれた。その後のことを、あまりダリオは覚えていない。聞くに値しないような酷い言い草だったからだ。
頭が固いというどころではない。
「シンシアは、これまでの女たちとは違う」
などと、青髭屋敷の当主は言っていた。
奥ゆかしくて、謙虚で、派手好きではなく、質素な生活にも文句を言わない。
浪費癖は確かに悪癖なのかもしれないが、現代に素手で洗濯させたり、逐一金の使用を報告させ、経済的に支配したりするのは、なんか違うんじゃないのか? とダリオは思った。
これまでの女たちとは違う、と当主は妻を褒めたつもりらしいが、ダリオはまったく逆に受け取った。
奴隷だ。
青髭屋敷の当主の時代錯誤な要求に対して、逃げ出せない者、声を上げられない性質こそを、彼は奴隷としてよくわきまえていると誉めている。
そりゃあ、六人の花嫁に逃げられるわけだろ、とダリオは得心がいった。
余力があれば、あるいは身を寄せる実家があるのなら、それは逃げる。
シンシアは、そのどちらもなかったのか。
手切れ金を断り、辞去したダリオの隣に、
「ダリオさん」
と再び美しい人外の青年が並んだ。今回は足音に、なにやらこの世のものとは思えぬ異様な呪文めいた唱和がついてきた。前回ダリオが言ったことを、一応覚えていてくれたらしい。
「足音の演出に、異音はいらん」
「かしこまりました。僕なりに自分の存在をアピールするよう工夫してみたのですが、お気に召しませんでしたか」
「アピールしなくていい。ふつうに頼む。足音だけがお気に召すから頼む」
二度念押しに頼んでしまうダリオである。
「僕としては、まだ改善の余地があるかと思っていたのですが、ダリオさんがそうおっしゃるなら、やめておきます」
案外素直だ。
「ダリオさん。シンシアさんの生家ですが、家業が経営困難になっているようでして、青髭屋敷の当主から支援があったようです」
ああ、なるほど、とダリオは理解した。逃げられないわけだ。
「マジで今回は助かった。ありがとう」
「光栄です」
青年は、無表情過ぎて、まったく光栄と思っているようには見えない。
そのままラビット・ホールに足を向けると、青髭屋敷から手切れ金が店の方にも届いていた。店長は困り顔だし、クリスは腸が煮えくりかえるというのはこういう顔なのか、という実演ぶりである。
「ふざけている!」
彼は叫んだ。
「シンシアさんは、ペットじゃないんだぞ! シンシアさん自身の交友関係を、夫である青髭屋敷の当主が勝手に断ち切って、許可を与えたり、取り上げたりする。それって人間扱いって言える?!」
人間扱いではない。
そうして、シンシアは家族という枷があり、逃げられない。
「ひと様の家庭のことだけどね、僕にも我慢の限界というものがある。シンシアさんに直接確かめて来るよ……とうてい看過できない」
「そうか」
「ダリオくん、止めないんだね」
「クリス君は、俺に止められると思ったのか?」
「っ、……そうだね」
クリスは自身がかなり冷静さを欠いていることを自覚していたようだ。他者から止められるのではないかと、半ば喧嘩腰に構えていた。それは、彼自身が、自分のありようをやましく感じていた裏返しだ。シンシアではなく、彼の亡くなった姉のことを思い出して、怒髪天をついている状態では、相手をみているとは言えないだろう。そのことに気づいたらしい。ウィッグをかき回し、はぁ、とクリスは嘆息した。
「このまま出向いても、シンシアさんに迷惑をかけるかな」
「かもしれないな」
クリス自身が落ち着いてからでもいいんじゃないか。それから、一緒に行ってみないかとダリオは声をかけた。
「そうする……」
クリスは行き過ぎたと思ったのか、しっかり家で休んで、頭冷やしてくる、と言って。
翌日、彼は行方不明となった。
クリス失踪後、更に数日経過し、シティのビルとビルの間、自宅ということで用意された洋館の居間である。
「うーん、そっちかあ」
ダリオは頭が痛かった。約束した時刻になっても連絡がつかず、伝手を頼りにクリスが体調を崩していないか尋ね、彼の行方不明に気づかさざるを得なくなった。
今度は七人目の花嫁が失踪したのではなく、クリスが消えてしまったわけだ。六人失踪した花嫁も、調べてみれば外聞が悪いということで、離婚ではなく失踪とされているだけだった。ハイソサエティに社交関係の広いカーター氏からの情報である。彼女たちは、田舎に引っ込んだり、あるいは都会へと出ただけらしい。
本当に失踪したのは、クリスだけだ。
頭を冷やす、とは言っていたが、もしかしたら、のぞくだけでもと青髭屋敷に行った可能性はないか。
ソファに座り、両手を組んで考えていると、目の前に気配がした。
「ダリオさん、青髭屋敷についてですが、明確に異界化しているようですので、放置された方が賢明かと」
「あ? なんだ、異界化って」
「現実に影響のある怪異が、家屋や土地に重なっている状態と言えばご想像いただけますか」
妖美な青年は、無感動な目で、丁寧に回答した。
「あー、あのクソデカお顔のオブジェ見物だけじゃなくて、実際にこっちに危害加えてきたりって感じか……?」
「ええ」
「ちなみに、お前、クリスがどこにいるか知ってる?」
「異界化した青髭屋敷にいるようですね」
「そうか」
ダリオは立ち上がった。
「ダリオさん、どちらへ」
「ちょっと外だ」
「僕は、青髭屋敷は異界化したので、放置した方がよいとお伝えしたつもりですが。そもそもダリオさんの手には負えない案件かと」
「やかましい」
ダリオは語彙力を喪失した。手に負えるかどうかでサイコロを振るわけではない。したいかどうかである。
「僕の予想では、ダリオさんが出向いても、取り込まれるか、よくて死亡されるかと思います」
青年の言葉は淡々として、感情の起伏というものがない。
「さすがに僕も、ダリオさんの四肢が爆散しては、完全にオリジナル復元するのは難しい。復元にあたっては、多少人格がオリジナルから逸脱することになりますが……」
青年の口から、復元などという恐ろしい単語が出たため、一応尋ねておく。
「逸脱ってどうなるんだ」
「……他者の血肉に異常執着を示し、知性が99%程度喪失します」
「それ元通りじゃないだろ。別人どころか、ゾンビだからな」
お前死ぬよ、と怪異から予言されまくった末に、四肢爆散後のゾンビ復元まで提案されて、ダリオは辟易とした。
「はい。つまり、リスクの巨大さに対して、なんのメリットもないと思いますが、なぜ――」
足を止めないのか、と美しい青年はダリオの後ろからついて来る。
「クリスには恩がある」
「なるほど」
青年は納得いったらしい。
「理解しました。確かに恩は返さねばなりません」
「お前の倫理観、本当俺には分からんわ」
「僕もダリオさんのことは理解できないことが多いので、僕たちは気が合いますね。相性がいい」
「その無茶な道理が通るなら、お前と相性がいい奴は、全人類になるだろ……」
「僕が好感を抱いているのはダリオさんだけですから、ご安心ください」
嘘を吐け、とダリオは内心思った。四肢爆散後ゾンビ復元でも、青年は「これで元通りですね」とでも言いそうな関心のなさを感じる。ダリオ個人の人格に、興味がないのだ。それはどうも、とダリオは礼を言うにとどめた。
「ダリオさんの恩人は、僕の恩人でもありますし、あなたを死なせる道理もありません。全力でサポートいたします」
「ちなみに、お前が全力出すと、どうなるんだ?」
「控え目に言って、イーストシティが消滅します」
「全力出す時は言ってくれ。あと出さなくていい」
ダリオは、途方もなく疲労した。
すでに日は暮れ、青髭屋敷は、血色の夕闇に沈もうとしていた。白い月が庭の薔薇を白黒に染め抜く。
冬枯れの薔薇が伝う鉄さびた門は、なぜか開いていた。
巨大な対の顔は、大きく口を開け、血走った眼を見開いている。
「……やばいことになってるな」
ダリオが庭先に入っていくと、長く影の伸びる七つの柩が立っている。ざらざらと赤錆の浮くような視界に紗がかかり、気づけば開いていたはずの鉄門は濃霧の向こうに見えなくなっていた。
空を見上げると、いつの間にか、月は真っ赤だ。
柩をひとつひとつ確かめると、名前が書いてあった形跡はあれど、それは削り取られていた。思い切って中を覗いてみるが、空っぽである。
だが――七つ目の柩には、シンシア・ブルーと名前が記載してあった。難しい顔をするダリオに、夜の漆黒をまとう青年がアドバイスする。
「やはり、シンシアさんがこの異界化の核になっているようですね」
「どういう仕組みかお前分かるか?」
「そうですね……シンシアさんもまた、僕のような存在エネルギーを無意識に呼び出した。そして、扱いきれずに土地ごと、異界のエネルギーが心象風景のままに溢れかえった。僕ほどはっきり自我が確立していない不定のエネルギーと、彼女の心象が融合したという感じです」
「なるほど、わからん」
「ダリオさんにはよくわからないエネルギーがシンシアさんと合体して、こうなっています」
青年は雑にまとめた。ということは、シンシアと話をするしかないのかもしれない。核になっているという彼女が、現在どういう状態になっているのかは不明だが、おあつらえに彼女の名前が書かれた柩が目の前にある。ここにいます、という表示のようなものか。
「……シンシアさん」
ダリオは、柩をノックしてみる。
「ダリオです。ダリオ・ロータスです。開けてもらえませんか。そこに、クリス君がいませんか。彼を返してほしい」
ダリオは柩の蓋に手をかけた。
ぎぎぎ、と軋みを発しながら、柩の蓋が開いていく。
気づけば、庭園中に薔薇の香りが立ち込めていた。人面花だ。空には赤い月。
地面から生えた巨大な顔が、ばきばきばきと耳まで口が裂け、恐ろしい絶叫を発した。
う、やばい、目の奥から内臓から中身が沸騰する……とダリオは思ったが、
「させません」
後ろから腰を抱き込まれ、引き寄せられると、一気に過負荷が消え去った。
「助かったよ、ありがとう」
青年は、これまで見たことのないような微笑を浮かべた。
え、とダリオが驚いた一瞬後には、もう真顔になっている。幻かなにか、と彼の頬をつねってみた。
「ダリオさん、なぜ僕の頬をつねるのです」
「今、お前笑ったか?」
「……わかりかねますが、ダリオさんに触っていただけるのはいいですね。もっとどうぞ」
ダリオは手を離した。
柩は開いている。
それは、あぎとを開けたオオカミの口のように、赤黒く胎動し、咽頭の奥へ奥へと階段のようなものがらせん状に降りていくのが見えた。
「入れってことかね」
「入るなというのを、無理やり喉を開かせた状態ですね」
ダリオはコメントに困り、結局、
「お邪魔しまあす」
となんとも気の抜ける挨拶をして、階段へと足を踏み出した。
階段を降りていくと、いくつかの妨害もあったが、その都度青年が何かしたらしく、とうとうダリオは咽頭の底へと辿り着いた。
元は白だったのだろうか。ボロボロのドレスを着た女——シンシアらしき女性が、手足に枷のついた状態で、うつむいている。
「シンシアさん」
どうして、と彼女は顔を上げた。口には糸で縫合がされ、目には汚らしい包帯が幾重にも撒かれた状態で、彼女は喉元を搔きむしるように上半身を反らし、悲鳴を上げた。
「ダリオさん」
背後から青年が、ぞくっとするような美声で囁いた。
「ここでは、想像力がものをいいます。コアとなるオブジェクトを破壊をすれば、もとに戻るでしょう。破壊しても本体に影響はありませんので、ご安心ください」
「そうかよ」
格闘ゲームでも考えてみるかね、とダリオは構えた。
シンシアらしきものは、膨れ上がり、たちまち巨大となって、その白の残骸のドレスを更に引き裂いていく。
「あれが、コアオブジェクトですね」
「マジか……」
あれたぶん、シンシアさんだよなとダリオはひきつった。今のところ、この人外の青年は、認識の齟齬はあれど、嘘をつかないのは信用できる。
「あれを破壊しても、シンシアさんは心身ともにもとどおりなんだな」
「はい」
仕方ない。
覚悟を決めたところで、ダリオは最近プレイしていたゲームの手斧をいつの間にか持っていた。えええ、肉弾戦過ぎるだろ、と頭が痛くなる。重ねて仕方ない。
「シンシアさん、少し痛いかもしれないが、あんたを解放してみる、努力はしようか」
ダリオは心もとない獲物を手に、シンシアと向き合った。
真逆にも、ダリオは彼女をつなぐ枷四か所を走り、鎖を切断して回った。一本鎖を切るたびに、シンシアの傍に、うすらぼんやりとしたカンテラの光のようなものがどんどん光源を増していく。それは、小柄な人影に見えた。
もしかして、クリスか? とダリオは文字通り光明を得た思いだ。
シンシアはどんどん自由となっていき、暴れ方も激しくはなるが、最後の一本が強固である。
「EEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEE」
喉を掻きむしりながら、血の涙を流しているのを見ると、ダリオへの攻撃意思はむしろ感じられない。
彼女の首から伸びる、まるで犬のような扱いの首輪と鎖。
がつん、と手斧を下ろしたが、びくともしない。
「シンシアさん」
その時だ。
「……クリスか?」
確かにクリスの声がした。いつの間にか、半透明に発光する彼が、ダリオの手斧の柄に、指を添えている。
はっきりと、クリスの姿をとり、彼は真剣な顔で、シンシアに語りかけた。
「シンシアさん、僕の姉さんも、結婚相手に経済的DVされててね」
恐ろしいほど巨大に膨れ上がったシンシアらしき存在が、ぴたりと動きを止める。確かに、聞いているようだ。
「お金も携帯フォンも持たせてもらえなくて、逃げられなくてさ」
彼は淡々と告げた。
「一回逃げ出したはいいけど、連れ戻されて、親戚中から折檻されたらしくてね、そんで……まあ自殺したんだよね。僕、その時、全然何も知らなくてさ」
だから、とクリスは言う。
「もう、見捨てたらいいよ。家族とかさ、重荷で、あなたに犠牲になれって言ってくるならさ。それ別に恩知らずでもなんでもないよ。道徳とか持ち出してくるけどさ、シンシアさんが我慢しないと暮らしが立ち行かないから、もっとあなたに我慢しろとか言うやつらならさ。捨てたって、いいんだよ」
だから、ともう一度クリスは言った。
「自分を傷つけるのは、もう止めて。あなたのせいじゃないよ。あなたの我慢が足りないせいだと言うやつらのせいだよ。あなたはひとつも悪くないよ」
シンシアの目を閉ざす包帯の下から、透明な液体がしたたり落ちてくる。
ダリオは、手斧を振り上げた。
青髭屋敷事件から一か月過ぎた。
シンシアは、明るい顔でラビット・ホールの常連客となっている。彼女は、離婚した。ひとつだけ良いことと言えば、逐一報告を求める夫への対抗策で会計の勉強をしていたらしく、そのまま就職に生かせたそうだ。
家族については、自分は家族の自我の延長ではないと、きっぱり縁を切ったらしい。経済的に自立すれば、何も躊躇していたことは脅威ですらなかったんですね、と彼女は晴れやかな顔だった。
ずっと、自分は無能だと思っていた。思い込まされていました、と。
巨大化した怪異じみた姿になっていた時のことは、ぼんやり記憶があるようだ。クリスと今日も歓談しているのを見ると、ダリオはまあとりあえずよかったよな、と思う。
ちなみに、シンシア相手に奮闘した際、怪異の青年があまり手を出さなかったのは、「僕だと消滅させてしまいますので控えました」とのことだった。
なお、ダリオの生命が危機の際は、当たり前に、あの人間の消滅一択でしたから、よかったですねと言われ、よくねーよ、とダリオは思った。
「ダリオさん」
アルバイトが終わる頃に、青年が迎えに来るようになったのが、ひとつ変わったことだろうか。
「ダリオくん、今日も彼氏のお迎え来てるね」
クリスの台詞に、ダリオは「違う」と訂正しておいた。当初はとんでもない麗人が来たと、店内中魂を抜かれたように呆けていたが、少しは慣れたようである。名前を聞かれた際は、適当にごまかしたのだが、かえって嫉妬深いんだね、意外だな、お幸せに! とまで言われてしまった。
違う。そうじゃない。
ダリオは言いたいことはあったが、徒労に感じて、「彼氏ではない」とだけもう一度釘を刺しておいた。
「ダリオさん、今日は猫のお耳なのですね」
青年が、す、とダリオの本物の耳の付け根を指先で撫でた。なぜそっちを撫でるのだ。
きゃあ、と店内の視線がこちらに集中する。青年がダリオの出迎えに来るようになってから、どういうわけか女性客リピーターが増えていた。ダリオの時給もなぜか上がった。ありがたいので、ダリオはまあいいかと流している。
「着替えてくる。先に帰ってていいぞ」
ダリオが言うと、クリスが「はいはいはい」と手をあげた。
「僕がサービスしてあげるから、ダリオくんはバックヤード行って行って」
謎のフォローをしてくる。青年に買収でもされているのか。
ダリオが私服に着替えて出てくると、青年はそのまま当たり前のようにダリオの横についた。違和感がなく、ダリオは自分も慣れてきてしまっているなと感じる。青年は店を出るなり、「こちらを」とスプリングコートをダリオに羽織らせた。
「春先とはいえ、冷えますから」
「……どうも」
ダリオはやりにくい。情緒というのだろうか。青年も人間の作法を学習したらしく、出会った当初ほど度肝を抜かれることは少なくなってきた。むしろ、紳士的に気遣われ、こうして冷えるからとコートなど着せてもらうと、ダリオは無性に気恥ずかしくなってくる。
なにしろ、こんな風に甘やかしてもらったことがほとんどない。里親と特に相性が悪かったわけではないが、ダリオがいると、怪異がついて回るため、すぐに施設に帰されることが多く、転々とする暮らしだった。
そうなると、施設では年長者になり、世話されるより世話をし、甘えるより甘やかす立場になる。ダリオが達観した風な青年になったためか、彼を子ども扱いしてくるような知人はいない。
なので、ダリオはどうにも不慣れだった。
一緒に暮らしているし、ダリオの嫌がることはしてこない。その上、ダリオが嫌だとは思わないタイミングで、時々触れて来る。
参った。こんな風にされると……まずい気がする。けっこういい奴だ。それどころか。
怪異相手にほだされるのはよくない傾向だ。
そもそも、まだ名づけもしていないし、俺が名づけていいのか? わからんと堂々巡りだ。色々名前の辞典などもこっそり調べてはいるのだが、これだという名前を思いつかない。もう自分で名づけたらどうだ? と思う。
帰りにコーヒーショップに寄って、豆を買う。青年は荷物を持つと言う。甘やかされまくっている。そういえば、妖精たちから妙なちょっかいを受けることも減っていた。
どうやら、青年のことが怖いらしい。
「ダリオさん、僕の名前について考えてくださいましたか」
「あー……そうだな」
青髭屋敷の一件で借りを作ってしまった。
「……テオ。テオドールでどうだ」
昔、子供の頃、両親仲が良かった時、飼っていた犬の名前が咄嗟に浮かんだ。しまった、と思ったが、
「テオドール、ですか」
青年は舌先で確かめるように言う。
「よいですね」
「お、おう」
オーケーらしい。
「ありがとうございます、ダリオさん。今後もダリオさんのお役に立てるよう、精進いたします」
「あー、ほどほどにな」
頼むよ、とダリオは釘を刺しておいた。イーストシティが消し飛んでは困るのである。
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