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番外 二十三 ダリオ事故記憶喪失失明、知らん美形が迎えに来て囲われ軟禁生活
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ゆっくりと、青年がダリオの顎先から指を離す。
「……申し訳ありません。治療は急ぎませんので、改めることと致します」
指先が遠ざかる気配をダリオは見えない目で追う。そのまま青年は逆上することはなく、慎重に言葉を選ぶ様子で引いた。
青年は少し黙って、それから小さな声でこう言った。
「僕も……テオです」
は? とダオリが声の方に見えない視線だけ向けると、青年は聞こえにくい声で言う。
「僕もテオドールと申します」
青年の名前である。死んだ愛犬と同じ、と動揺したが、ダリオは唾を飲み込んで沈黙した。同居人です、と名乗られた際に、ダリオはあえて名前を尋ねなかった。かつて接した怪異と同じようなものを感じたたためだ。名前まで聞くとまずいのではないかという安全装置が働いた形である。
それは経験に根差した警戒だった。かつて子どもの頃に、見知らぬ児童が遊び仲間に入っていて、顔も名前も知らない、ということがあった。夕方に子どもたちが解散すると、その子は帰らないので、ダリオは名前を聞いた。するとダリオの手を引いて、どう考えてもやばい領域に連れて行かれそうになったので逃げた、というろくでもない経験だ。迂闊に、良く知らない相手の名前を聞いてはいけない。空気がおかしいと感じたら、相手の素性に触れず、曖昧に誤魔化してそっとその場を離れる。少なくとも、目の前の青年は、その怪異の類と同じ違和感が感じられた。
どう反応したものかと黙っていると、青年は何事もなかったように、生真面目に告げた。
「館の配置をこの部屋の周辺に機能集約しましたので、ご案内だけ差し上げたいのですが」
よく分からないが、案内してくれるというのは助かる。ダリオも中腰になる。
「あ、こっちこそ悪い。案内、助かる」
「手に触れても?」
「ああ、お願いします」
手を取られて、立ち上がった。部屋を出て、風呂やトイレを案内される。キッチンではひと通り使い方を説明された後で、申し出があった。
「食事は僕が用意致します」
「いいのか……ありがとう」
当分世話になるが、覚えたいので、折を見て教えてもらっていいか尋ねると、ちょっと黙られたが、「様子を見て」と承諾された。火を使うことだし、それはそうだよなとダリオも納得する。いつまでここにいるかもわからないのだ。
「大体ご案内できたかと思いますが、部屋に戻られますか」
「あ、よければ玄関まで往復してみたい」
「……分かりました」
最後に、ダリオから希望して玄関まで間取りなど簡単に案内される。
歩きながら、バスルームでは、火傷をしないように、シャワーなどの温度を固定しておくと言われ、率直にありがたいと思ったのを反芻した。これに限らず、細々と気を遣われている。青年が怪異ならば、ニュータイプ怪異だ。
ダリオは自分が恥ずかしくなる。
変な現象は起きたが、話の分かる方の怪異なのでは? いやでも、子どもの頃にダリオをクソヤバ領域に連れて行こうとした奴(複数)も、フレンドリーだった。彼らの怖いところは、フレンドリーにしてくるのに、前触れなく危害を加えてくる点だ。しかも相手には、ダリオに危害を加えているという認識がない。なので、ダリオが「行かない」などと拒否すると、いきなり逆上コースも珍しくなかった。
だが、テオドールと名乗った青年は話も通じるし、人間社会のシステムに詳しい。常のダリオならもう少し鷹揚に構え、許容するところだ。しかし、今は失明状態で、ダリオも警戒心が強くなっている。
「こちらが玄関ポーチになります。館を出ると急な坂道なので、しばらく外出は控えられた方がよろしいかと。用事がある時は、お声がけ頂ければ、同行致します」
「あ、うん、ありがとう。悪いけど、落ち着いたらお願いさせてもらうかもしれない」
「お気になさらないで下さい。では、戻りましょう」
「? ああ」
ありがたい申し出も受けたが、微妙な違和感を覚える。しかし考える間もなく、また来た廊下を戻ることになった。
「こちらです」
ベッドに戻って来て座らされると、ダリオは自分から再度話をした。
「助かったよ、本当にありがとう。あと、この部屋で最初に混乱してしまって、申し訳なかった」
「いえ、僕も性急でしたので、失礼致しました」
「俺もだ。その、ちょっとよくわかんないんだが、治療ってどうするんだ?」
「粘膜接触して、情報を修復します」
「……? ? ?」
ダリオは分からない。
「え、あー、それ痛いやつか?」
「痛くはないかと」
以前のダリオさんもよくされていました、と言われる。本当か、確認する手立てはない。膝の間で指を組み、青年の声がする方に顔を上げた。
「少し考えさせて欲しい」
「もちろんです」
青年は特に異論もないようで快諾された。
「目の治療は僕も初めてですので、万一があってはいけません。よく解析し準備しておきますので、ご安心下さい」
生真面目に言われたが、半分も意味がわからない。とりあえず、治すと言ってくれているのは理解して、「色々よくしてもらってありがとう」と礼を言うに留める。
「……いえ」
それから青年は「何かあれば――ベルを置いておきますので、こちらでお呼び下さい」と呼び鈴の位置をダリオの手を取って教え、何も無理強いすることはなく退室した。ダリオに考える時間をくれた形だ。
一人残されたダリオは頭を抱えた。
俺、恩知らず過ぎんか? というそれである。
相手が人間なら、本当に恩知らず過ぎる。怪異だとしたら、やっぱり恩知らずだろう。しかし、怪異の場合、下手につけいる隙を与えると、一気に向こうの言い分に飲み込まれてめちゃくちゃにされかねないのは経験則で分かっていた。
既に怪異現象が起きていることから、青年は人間とは思えない。どう対応したらいいのか、ダリオは決めかねる。
はあ、と嘆息して、思ったより溜息は大きくなってしまう。じっと考えていても解決しない。とりあえず、できることをしておこう。ダリオは寝台から立ち上がった。
部屋の間取りは覚えている。あちらが扉。ゆっくりと慎重に壁伝いに歩く。
先ほど案内された生活の重要ラインをもう一度一人で往復した。トイレ。バスルーム。シャワーの位置。キッチンは水道を無事使えるか。あとは、玄関まで行って、少し外を確認したい。
歩幅を数えながら、なんとか玄関口までたどり着いたダリオだ。
ええと、と手さぐりでドアノブを見つけた。握って、回転させようとするが、
「——?」
動かない。鍵をかけていたにしても、一ミリもドアノブが動かないのはおかしいだろう。
もう一度ひねってみるが、駄目だった。
そもそも、これは本当に玄関なのか? とダリオの中に疑問が湧く。
テオドールと名乗った青年は、ダリオを玄関に案内したが、それは本当に外につながるドアだったのだろうか?
何とも言えない、じっとりとした不安感がダリオの胸に広がっていく。
疑いたくはない。だが、そもそも悪気のないタイプの怪異だとしたら? いや、あれだけ細かにケアしてもらっといてどうなんだ。でも、ドアノブが――外につながるはずのドアノブが動かない。
出られない。
それってつまり、閉じ込められてるってことじゃねえのか?
嫌な帰結に、ダリオが考え込んだ時だ。
「ダリオさん」
後ろから声をかけられる。いつの間にか、愛犬と同じ名前の青年、テオドールに背後を取られていた。見ていたようなタイミングだ。ダリオは舌が口蓋に張り付いたようになる。
「どうされましたか」
青年の声には抑揚がない。
のろのろと振り返り、声の方に顔を向ける。
「……ここ、玄関、だよな?」
「はい。ですが、外出はまだ控えられた方がよろしいかと」
さっき感じた違和感。玄関ポーチと案内された場所から、遠ざけられている。
「そうだな。一応、確認したいんだが、ドアノブが動かないんだ。壊れてんのか?」
「——」
テオドールは少し黙って、確認致します、と言った。
ダリオは場所を譲るよう立ち位置をずらす。
テオドールと入れ替わった形だが、しばらくテオドールは何かしており、その後また沈黙した。
「——申し訳ありません。少々問題が」
「問題って?」
「外に出られないようです」
今度はダリオが黙った。青年は悪びれずに、「しばらく外出は不要ですし、喫緊の問題ではないかと」とまるで無表情が眼前に見えるような言い方をした。
青年がどんな顔をしているのか知らないが、表情一つ変えずにこの物言いをしているのが手に取るようにわかり、ダリオも「……そうだな」と話を合わせる。
名前を聞いてはいけない相手に、曖昧に誤魔化して、逃げる算段をする時のようなそれなのを自分でも自覚した。
「部屋に案内致します」
大人しく青年に手を引かれて部屋に戻り、寝台に誘導される。ドアが閉まると、ダリオはすぐ立ち上がった。部屋中壁伝いに歩いて、窓の位置を確認する。壁から、段差と表面温度の違うガラスのつるつるした感触に行き当たった。更に指を這わせる。掛け金に指先が触れた。これだ。ダリオは開けようとした。
――開かない。
そんな気はしていたが、窓は開かない。
短くない間ダリオはじっと動かずにいて、もう一度壁伝いにドアまで戻ると、音をさせないように開いて廊下に出た。また壁伝いに、今度は青年に案内されなかった方向へ慎重な足取りで進んでいく。
ドア。窓。なんでもいい。外につながるもの。
だが、行けども行けども壁が続くだけで、ダリオはさすがにおかしいと、ぞっとした。
何もない廊下がひたすら無限回廊のように続いている。
どんな豪邸だろうと、この間取りはないだろう。
おかしい。
流石にダリオも立ち止まって、今度は壁につけていた手を反対側の方を添わせて、方向転換する。元の場所に戻ろう。
すると、いくばくもしない内に、扉に辿り着いた。
ほとんど確信して開くと、壁を伝う。覚えのある感覚だ。車椅子。サイドボードに行き当たった。寝台の側に呼び鈴が置いてある。どうやら運んでくれたらしいダリオの手荷物も。元の部屋である。ダリオはほうほうの体で寝台に腰を下ろした。そのまま背面から倒れ込んでしまいたいが、どうにかこらえる。両手を膝の間に組むと、見えない目でじっと壁の方を見据え、嫌でも理解した。
――閉じ込められている。外に出られない。
確かに、テオドールと名乗った青年は親切だ。
でも、彼を取り囲む現象がやばい。
話は通じる。
だから、話し合って――なんとかなるのか? 失明状態で、どうするんだ。
いや、逃げればなんとかなる。
とりあえず逃げる。
逃げた後のことはその後で考えよう。確か、失明については連邦の保障が受けられたと思う。たぶん。まず警察に保護してもらって、その後、ソーシャルワーカーか何か専門家とつなぎを、支援を受けて保障の申請を――
そこまで考えて、ダリオは喉元を抑えた。
なんだか、空気の塊のようなものが喉元につまっているような感じがする。ストレスだ。喉が渇いている。
水。
「みずがほしい」
特に他意はなかった。歩き疲れていたのかもしれない。キッチンまで神経を尖らせて歩くのが億劫だった。それで呟いた。それだけだった。
りーん、と音がする。ダリオはぎょっとした。
鳴っている。呼び鈴だ。
ベルが勝手に鳴った。
寝台に腰かけたまま、ダリオは硬直する。手など触れていない。
「ダリオさん」
ドアも開いていないと思うのに、青年の声がすぐ側でして、ダリオはそちらに顔を向けることもできない。
青年が腰をかがめた気配がした。
「水をお持ちしました」
青年は平常運転のように言う。親切な青年だ。しかし、ダリオは何も言っていない。ベルも鳴らしていない。盗聴器でも仕掛けていれば別だが、それにしたって間を置かな過ぎる。廊下はおかしい。行きと帰りの尺が合わない。玄関のドアも、与えられた部屋の窓も開かない。出られない。
ダリオは努めて何でもないように応じた。
「ありがとう。水は、そこに置いといてくれるか」
青年の声のする方を見ることに抵抗があってできなかった。目が見えなくてかえってよかったのか。見てしまったら、平常のふりをできたのか、ダリオにはわからなかった。
青年は黙っている。
ダリオはもう正直、青年の方を本当に見られなかった。目が見えないにも関わらず、視線を合わせたくない。
俺、もう、こいつらの領域の中なんだ、とはっきり感じていた。だから、エヴァにも、クリスくんにも、電話がつながらない。自分が孤立しているのを感じた。いつもだったら、どうにか死に物狂いで活路を見出し、脱出してきたが、失明していてそれが可能なのか。やるだけやるが、帰れなかったらどうなるのか。
青年は親切だ。親切だけれども、彼しかここにはいない。彼以外、誰ともコンタクトを取ることができない状況が、くっきりと異様さを含め浮かび上がってくる。
青年が本当にダリオの同居人で、助けてくれるなら、どれほどか心強かっただろう。でも、そんな存在初めからいなかったとしたら?
結局ダリオは、記憶も抜けているし、目も見えない。保障制度も本当のところ利用できるのかもわからない。身内もいない。誰も家族のように助けてくれる人はいない。友人はいても、そこまで頼れない。もしかして、青年もこのわけのわからない家も、全部俺の妄想なのかな――妄想でも本当でも、ひとりでなんとかしないといけない。
それは、ダリオにとって、本当に刺さるような不安だった。
「すまないが、何かあればお願いさせてもらうので、少し休ませてもらってもいいか?」
青年はまた少し黙る。時々、妙に間を開けてくるのは何なのかわからない。
「承知しました。では」
ドアから出ていった気配ではなく、す、と急に目の前から消失したような唐突過ぎる静寂が満ちる。
ダリオはしばらく手を組んだまま動けなかった。
頭を整理する。
いや、とりあえず本当に一度休んだほうがいい。
ダリオは横になり、目をつぶった。
少し休んで、目が覚めたら、携帯フォンの音声操作練習と、詳しく保障制度を調べよう。
そう思って、気づいたらすぐに意識が落ちていた。
ふと、重苦しい″視線″を感じて、意識が浮上する。
じっとりするような真っ黒な視界の中に、更に黒い何かがいた。
ダリオを、じっと見下ろしている。
突き刺さるような、瞬き一つせずに凝視されているのが″理解(わか)る″視線だ。
ダリオは硬直した。
その視線は、質量を持ってダリオに注がれていた。
肌で痛いほど感じる。
早く、とダリオは目をつぶり、動かないまま眠ったふりでやり過ごそうと祈った。
早く、興味関心を失ってくれ。
早く出て行ってくれ。
「……だりおさん……」
青年だった。
ひ、と悲鳴を飲み込んだのは奇跡である。
抑揚のない声は、感情という感情に抜け落ちた地獄の煮凝りみたいな真っ黒で、どこまでも深い穴底を覗き込むようだ。
見えないせいか、余計に感覚が研ぎ澄まされ、青年をまるで黒鉛筆かクレヨンで力任せにぐしゃぐじゃに線で塗りつぶされた塊のように幻視する。
側にいるが、それが塊であることしか分からない。人間の形をしているようにも、全く別のものにも、同時に感じられる。とにかく、よくない、というのだけ分かった。
「だりおさん」
ずい、と顔の部位を近づけられたのが圧で分かる。
真上からぴったりとくっつけるように凝視されている。
怪異でも人間でも、どちらでも無理すぎた。
普通に無理。怖い。
なんなんだ。
親切な青年だった。細やかに気を遣ってくれた。怪奇現象付きでも、話せば分かるかもしれないと思った。だから、思考リセットも兼ねて、一度睡眠を取ろうとしたのだ。
ダリオは理解する。
これ、無理なやつ。
多分、何か一つ間違えると、悲惨なことになる。
知らず知らず、青年の水位を上げていたようで、ぎりぎり手前で、覗き込まれに来ている。
寝ているふりが正解か分からない。
しかし、何をしても、ショートさせるかもしれないと思った。
「だりおさん……だりおさんだりおさんだりおさん」
だりおさん、と抑揚を欠いた声でひたすら自分の名前を呼ばれ続ける。
ダリオはもう無理だった。
やり過ごせると思ったが、駄目だったら死ぬより酷いことになるかもしれない。
「おい」
覚悟を決めて、きっぱり呼びかけると、ぴた、と声は静止した。
息がかかるわけではないが、眼球がつきそうなくらい顔が近くにある気がして、ダリオは遠ざけるように相手の肩に手をかける。
やはり伸しかかられていた。
角度からして、もしかしたら、四つん這いで上から覗き込まれていたのでは、と思って、内心ぞっとした。
どんな姿勢なのか分からなくて良かったかもしれない。見えていたら、悲鳴を上げていただろう。
ぐい、と押しやった。
「……だりおさん」
かつて耳にしたことのないほどの美声だが、人間のものとは思えなかった。
ダリオは肘をシーツについて上半身をゆっくり起こし、じりじりと後退った。
少しでも距離を置きたい。
「……」
視線が追いかけてくる。
努めて冷静に、ダリオはなるべく刺激せぬよう声を抑えた。
「……出て行ってくれ」
相手が怪異だろうが人間だろうが、距離感がおかしい。同居人と言うなら、なおさらだ。
毅然と指し示す。
ドアの方向だ。
「出て行ってくれ。それか、こういうことをするなら、俺が出て行く。悪いが、最寄りの警察署に行くから、カブを呼んでほしい。俺だと連絡が取れるか分からない。君が妨害してるなら、目的はなんだ」
人間相手なら悪手だと思ったが、怪異に対してはこれで良いはずだ。自分の意思を伝えないと、曲解して善意で酷いことになる。
青年が答えないので、ダリオは続けた。
「親切にしてくれて本当にありがたかった。でも、こういうことは許容できない。とにかく、君が今すぐこの部屋を出て、こんなことは二度としないか、俺をこの家から出て行かせるか」
「……嫌でしたか」
「あ?」
「すみません、嫌だとは思わなくて」
ダリオは口を開けたり閉めたり、結局黙った。
青年の声には相変わらず感情というものがなかったが、何故か本当に異常なことをしているという認識がなかったのだと伝わってきた。
「ダリオさんは……僕が……しても気にされなかったので……」
言いかけて、口をつぐまれる。
まるで、ダリオが以前は受け入れていたかのような。
そんなわけあるか。
こんなことをされて、様子のおかしさを受け入れ、何かあったのかと聞き出し、ハグしてよしよしするほど、ダリオもお人好しではない。
「……だりおさん」
今度は、初めてその声に感情がはっきりと乗っていた。
困惑し、意気消沈するような、迷子の声だった。
「てがみ……」
言いかけて、また気づいたように黙る。手紙のことだろうが、今のダリオには読めない。
読み上げられたところで、何も信用できない。
ふと、気配が消失した。
え、とダリオは見えない視線を彷徨わせる。
消えたのか。
ダリオが選択肢を突きつけ、譲歩されたのだ。
ほ、と胸を撫で下ろし、深く息を吐こうとした瞬間。
「ヒッ」
シーツに投げ出された手に、ぴと、と何か冷たいものが触れた。
動いている。
正確に言うと、蠢いていた。
指先から手の上に這い上ってくる。ゼラチンのようなぶよぶよした感触。
ほとんど、台所に出る黒い甲虫に手指を這い登られたような気色悪さで、ダリオは瞬間的に拒否反応が脳天を突き抜けた。
「ッ!!」
咄嗟に力いっぱい振り払うと、冷たいゼラチン質のものは、べちゃ、と壁の方に吹っ飛んで、ずるずると落ちる気配があった。
生き物。
何、なにが手を這い上ってきたのか、ダリオは不明感にぞわぞわと改めて恐怖感を覚える。
「……さん」
壁に叩きつけられて、床上に落ちた物体から、弱々しい泣き声のようなものが聞こえた。
そうしたら、ダリオは胸が張り裂けそうに痛みが走り、呼吸が喉の奥につまった。胸元を抑え、体を折り曲げたくなるような激痛だ。
脳裏に小さな水饅頭のイメージが浮かぶ。
体液が漏れている。スライム状のものだ。
弱りきっている。
あ……と思った。ダリオは恐る恐るベッドから足をおろして、声の方に壁伝いに近寄る。
「だりおさん」
小さな声は、ダリオに謝った。
「ぼく、こわいのかとおもって」
ぜんぶ、のうりょくふうじました、そうしたらこわくないとおもたのですが、ごめんなさい。
ぼく、かってにさわりました。このすがたのとき、だりおさん、かわいいからゆるしてくれたので、だいじょうぶかとおもいました。
知能が落ちているように、たどたどしく言われ、気がついたらダリオはしゃがみ、ゼラチン質のなにかをすくい上げて、抱きこむとボロボロ涙が出てきた。
「……申し訳ありません。治療は急ぎませんので、改めることと致します」
指先が遠ざかる気配をダリオは見えない目で追う。そのまま青年は逆上することはなく、慎重に言葉を選ぶ様子で引いた。
青年は少し黙って、それから小さな声でこう言った。
「僕も……テオです」
は? とダオリが声の方に見えない視線だけ向けると、青年は聞こえにくい声で言う。
「僕もテオドールと申します」
青年の名前である。死んだ愛犬と同じ、と動揺したが、ダリオは唾を飲み込んで沈黙した。同居人です、と名乗られた際に、ダリオはあえて名前を尋ねなかった。かつて接した怪異と同じようなものを感じたたためだ。名前まで聞くとまずいのではないかという安全装置が働いた形である。
それは経験に根差した警戒だった。かつて子どもの頃に、見知らぬ児童が遊び仲間に入っていて、顔も名前も知らない、ということがあった。夕方に子どもたちが解散すると、その子は帰らないので、ダリオは名前を聞いた。するとダリオの手を引いて、どう考えてもやばい領域に連れて行かれそうになったので逃げた、というろくでもない経験だ。迂闊に、良く知らない相手の名前を聞いてはいけない。空気がおかしいと感じたら、相手の素性に触れず、曖昧に誤魔化してそっとその場を離れる。少なくとも、目の前の青年は、その怪異の類と同じ違和感が感じられた。
どう反応したものかと黙っていると、青年は何事もなかったように、生真面目に告げた。
「館の配置をこの部屋の周辺に機能集約しましたので、ご案内だけ差し上げたいのですが」
よく分からないが、案内してくれるというのは助かる。ダリオも中腰になる。
「あ、こっちこそ悪い。案内、助かる」
「手に触れても?」
「ああ、お願いします」
手を取られて、立ち上がった。部屋を出て、風呂やトイレを案内される。キッチンではひと通り使い方を説明された後で、申し出があった。
「食事は僕が用意致します」
「いいのか……ありがとう」
当分世話になるが、覚えたいので、折を見て教えてもらっていいか尋ねると、ちょっと黙られたが、「様子を見て」と承諾された。火を使うことだし、それはそうだよなとダリオも納得する。いつまでここにいるかもわからないのだ。
「大体ご案内できたかと思いますが、部屋に戻られますか」
「あ、よければ玄関まで往復してみたい」
「……分かりました」
最後に、ダリオから希望して玄関まで間取りなど簡単に案内される。
歩きながら、バスルームでは、火傷をしないように、シャワーなどの温度を固定しておくと言われ、率直にありがたいと思ったのを反芻した。これに限らず、細々と気を遣われている。青年が怪異ならば、ニュータイプ怪異だ。
ダリオは自分が恥ずかしくなる。
変な現象は起きたが、話の分かる方の怪異なのでは? いやでも、子どもの頃にダリオをクソヤバ領域に連れて行こうとした奴(複数)も、フレンドリーだった。彼らの怖いところは、フレンドリーにしてくるのに、前触れなく危害を加えてくる点だ。しかも相手には、ダリオに危害を加えているという認識がない。なので、ダリオが「行かない」などと拒否すると、いきなり逆上コースも珍しくなかった。
だが、テオドールと名乗った青年は話も通じるし、人間社会のシステムに詳しい。常のダリオならもう少し鷹揚に構え、許容するところだ。しかし、今は失明状態で、ダリオも警戒心が強くなっている。
「こちらが玄関ポーチになります。館を出ると急な坂道なので、しばらく外出は控えられた方がよろしいかと。用事がある時は、お声がけ頂ければ、同行致します」
「あ、うん、ありがとう。悪いけど、落ち着いたらお願いさせてもらうかもしれない」
「お気になさらないで下さい。では、戻りましょう」
「? ああ」
ありがたい申し出も受けたが、微妙な違和感を覚える。しかし考える間もなく、また来た廊下を戻ることになった。
「こちらです」
ベッドに戻って来て座らされると、ダリオは自分から再度話をした。
「助かったよ、本当にありがとう。あと、この部屋で最初に混乱してしまって、申し訳なかった」
「いえ、僕も性急でしたので、失礼致しました」
「俺もだ。その、ちょっとよくわかんないんだが、治療ってどうするんだ?」
「粘膜接触して、情報を修復します」
「……? ? ?」
ダリオは分からない。
「え、あー、それ痛いやつか?」
「痛くはないかと」
以前のダリオさんもよくされていました、と言われる。本当か、確認する手立てはない。膝の間で指を組み、青年の声がする方に顔を上げた。
「少し考えさせて欲しい」
「もちろんです」
青年は特に異論もないようで快諾された。
「目の治療は僕も初めてですので、万一があってはいけません。よく解析し準備しておきますので、ご安心下さい」
生真面目に言われたが、半分も意味がわからない。とりあえず、治すと言ってくれているのは理解して、「色々よくしてもらってありがとう」と礼を言うに留める。
「……いえ」
それから青年は「何かあれば――ベルを置いておきますので、こちらでお呼び下さい」と呼び鈴の位置をダリオの手を取って教え、何も無理強いすることはなく退室した。ダリオに考える時間をくれた形だ。
一人残されたダリオは頭を抱えた。
俺、恩知らず過ぎんか? というそれである。
相手が人間なら、本当に恩知らず過ぎる。怪異だとしたら、やっぱり恩知らずだろう。しかし、怪異の場合、下手につけいる隙を与えると、一気に向こうの言い分に飲み込まれてめちゃくちゃにされかねないのは経験則で分かっていた。
既に怪異現象が起きていることから、青年は人間とは思えない。どう対応したらいいのか、ダリオは決めかねる。
はあ、と嘆息して、思ったより溜息は大きくなってしまう。じっと考えていても解決しない。とりあえず、できることをしておこう。ダリオは寝台から立ち上がった。
部屋の間取りは覚えている。あちらが扉。ゆっくりと慎重に壁伝いに歩く。
先ほど案内された生活の重要ラインをもう一度一人で往復した。トイレ。バスルーム。シャワーの位置。キッチンは水道を無事使えるか。あとは、玄関まで行って、少し外を確認したい。
歩幅を数えながら、なんとか玄関口までたどり着いたダリオだ。
ええと、と手さぐりでドアノブを見つけた。握って、回転させようとするが、
「——?」
動かない。鍵をかけていたにしても、一ミリもドアノブが動かないのはおかしいだろう。
もう一度ひねってみるが、駄目だった。
そもそも、これは本当に玄関なのか? とダリオの中に疑問が湧く。
テオドールと名乗った青年は、ダリオを玄関に案内したが、それは本当に外につながるドアだったのだろうか?
何とも言えない、じっとりとした不安感がダリオの胸に広がっていく。
疑いたくはない。だが、そもそも悪気のないタイプの怪異だとしたら? いや、あれだけ細かにケアしてもらっといてどうなんだ。でも、ドアノブが――外につながるはずのドアノブが動かない。
出られない。
それってつまり、閉じ込められてるってことじゃねえのか?
嫌な帰結に、ダリオが考え込んだ時だ。
「ダリオさん」
後ろから声をかけられる。いつの間にか、愛犬と同じ名前の青年、テオドールに背後を取られていた。見ていたようなタイミングだ。ダリオは舌が口蓋に張り付いたようになる。
「どうされましたか」
青年の声には抑揚がない。
のろのろと振り返り、声の方に顔を向ける。
「……ここ、玄関、だよな?」
「はい。ですが、外出はまだ控えられた方がよろしいかと」
さっき感じた違和感。玄関ポーチと案内された場所から、遠ざけられている。
「そうだな。一応、確認したいんだが、ドアノブが動かないんだ。壊れてんのか?」
「——」
テオドールは少し黙って、確認致します、と言った。
ダリオは場所を譲るよう立ち位置をずらす。
テオドールと入れ替わった形だが、しばらくテオドールは何かしており、その後また沈黙した。
「——申し訳ありません。少々問題が」
「問題って?」
「外に出られないようです」
今度はダリオが黙った。青年は悪びれずに、「しばらく外出は不要ですし、喫緊の問題ではないかと」とまるで無表情が眼前に見えるような言い方をした。
青年がどんな顔をしているのか知らないが、表情一つ変えずにこの物言いをしているのが手に取るようにわかり、ダリオも「……そうだな」と話を合わせる。
名前を聞いてはいけない相手に、曖昧に誤魔化して、逃げる算段をする時のようなそれなのを自分でも自覚した。
「部屋に案内致します」
大人しく青年に手を引かれて部屋に戻り、寝台に誘導される。ドアが閉まると、ダリオはすぐ立ち上がった。部屋中壁伝いに歩いて、窓の位置を確認する。壁から、段差と表面温度の違うガラスのつるつるした感触に行き当たった。更に指を這わせる。掛け金に指先が触れた。これだ。ダリオは開けようとした。
――開かない。
そんな気はしていたが、窓は開かない。
短くない間ダリオはじっと動かずにいて、もう一度壁伝いにドアまで戻ると、音をさせないように開いて廊下に出た。また壁伝いに、今度は青年に案内されなかった方向へ慎重な足取りで進んでいく。
ドア。窓。なんでもいい。外につながるもの。
だが、行けども行けども壁が続くだけで、ダリオはさすがにおかしいと、ぞっとした。
何もない廊下がひたすら無限回廊のように続いている。
どんな豪邸だろうと、この間取りはないだろう。
おかしい。
流石にダリオも立ち止まって、今度は壁につけていた手を反対側の方を添わせて、方向転換する。元の場所に戻ろう。
すると、いくばくもしない内に、扉に辿り着いた。
ほとんど確信して開くと、壁を伝う。覚えのある感覚だ。車椅子。サイドボードに行き当たった。寝台の側に呼び鈴が置いてある。どうやら運んでくれたらしいダリオの手荷物も。元の部屋である。ダリオはほうほうの体で寝台に腰を下ろした。そのまま背面から倒れ込んでしまいたいが、どうにかこらえる。両手を膝の間に組むと、見えない目でじっと壁の方を見据え、嫌でも理解した。
――閉じ込められている。外に出られない。
確かに、テオドールと名乗った青年は親切だ。
でも、彼を取り囲む現象がやばい。
話は通じる。
だから、話し合って――なんとかなるのか? 失明状態で、どうするんだ。
いや、逃げればなんとかなる。
とりあえず逃げる。
逃げた後のことはその後で考えよう。確か、失明については連邦の保障が受けられたと思う。たぶん。まず警察に保護してもらって、その後、ソーシャルワーカーか何か専門家とつなぎを、支援を受けて保障の申請を――
そこまで考えて、ダリオは喉元を抑えた。
なんだか、空気の塊のようなものが喉元につまっているような感じがする。ストレスだ。喉が渇いている。
水。
「みずがほしい」
特に他意はなかった。歩き疲れていたのかもしれない。キッチンまで神経を尖らせて歩くのが億劫だった。それで呟いた。それだけだった。
りーん、と音がする。ダリオはぎょっとした。
鳴っている。呼び鈴だ。
ベルが勝手に鳴った。
寝台に腰かけたまま、ダリオは硬直する。手など触れていない。
「ダリオさん」
ドアも開いていないと思うのに、青年の声がすぐ側でして、ダリオはそちらに顔を向けることもできない。
青年が腰をかがめた気配がした。
「水をお持ちしました」
青年は平常運転のように言う。親切な青年だ。しかし、ダリオは何も言っていない。ベルも鳴らしていない。盗聴器でも仕掛けていれば別だが、それにしたって間を置かな過ぎる。廊下はおかしい。行きと帰りの尺が合わない。玄関のドアも、与えられた部屋の窓も開かない。出られない。
ダリオは努めて何でもないように応じた。
「ありがとう。水は、そこに置いといてくれるか」
青年の声のする方を見ることに抵抗があってできなかった。目が見えなくてかえってよかったのか。見てしまったら、平常のふりをできたのか、ダリオにはわからなかった。
青年は黙っている。
ダリオはもう正直、青年の方を本当に見られなかった。目が見えないにも関わらず、視線を合わせたくない。
俺、もう、こいつらの領域の中なんだ、とはっきり感じていた。だから、エヴァにも、クリスくんにも、電話がつながらない。自分が孤立しているのを感じた。いつもだったら、どうにか死に物狂いで活路を見出し、脱出してきたが、失明していてそれが可能なのか。やるだけやるが、帰れなかったらどうなるのか。
青年は親切だ。親切だけれども、彼しかここにはいない。彼以外、誰ともコンタクトを取ることができない状況が、くっきりと異様さを含め浮かび上がってくる。
青年が本当にダリオの同居人で、助けてくれるなら、どれほどか心強かっただろう。でも、そんな存在初めからいなかったとしたら?
結局ダリオは、記憶も抜けているし、目も見えない。保障制度も本当のところ利用できるのかもわからない。身内もいない。誰も家族のように助けてくれる人はいない。友人はいても、そこまで頼れない。もしかして、青年もこのわけのわからない家も、全部俺の妄想なのかな――妄想でも本当でも、ひとりでなんとかしないといけない。
それは、ダリオにとって、本当に刺さるような不安だった。
「すまないが、何かあればお願いさせてもらうので、少し休ませてもらってもいいか?」
青年はまた少し黙る。時々、妙に間を開けてくるのは何なのかわからない。
「承知しました。では」
ドアから出ていった気配ではなく、す、と急に目の前から消失したような唐突過ぎる静寂が満ちる。
ダリオはしばらく手を組んだまま動けなかった。
頭を整理する。
いや、とりあえず本当に一度休んだほうがいい。
ダリオは横になり、目をつぶった。
少し休んで、目が覚めたら、携帯フォンの音声操作練習と、詳しく保障制度を調べよう。
そう思って、気づいたらすぐに意識が落ちていた。
ふと、重苦しい″視線″を感じて、意識が浮上する。
じっとりするような真っ黒な視界の中に、更に黒い何かがいた。
ダリオを、じっと見下ろしている。
突き刺さるような、瞬き一つせずに凝視されているのが″理解(わか)る″視線だ。
ダリオは硬直した。
その視線は、質量を持ってダリオに注がれていた。
肌で痛いほど感じる。
早く、とダリオは目をつぶり、動かないまま眠ったふりでやり過ごそうと祈った。
早く、興味関心を失ってくれ。
早く出て行ってくれ。
「……だりおさん……」
青年だった。
ひ、と悲鳴を飲み込んだのは奇跡である。
抑揚のない声は、感情という感情に抜け落ちた地獄の煮凝りみたいな真っ黒で、どこまでも深い穴底を覗き込むようだ。
見えないせいか、余計に感覚が研ぎ澄まされ、青年をまるで黒鉛筆かクレヨンで力任せにぐしゃぐじゃに線で塗りつぶされた塊のように幻視する。
側にいるが、それが塊であることしか分からない。人間の形をしているようにも、全く別のものにも、同時に感じられる。とにかく、よくない、というのだけ分かった。
「だりおさん」
ずい、と顔の部位を近づけられたのが圧で分かる。
真上からぴったりとくっつけるように凝視されている。
怪異でも人間でも、どちらでも無理すぎた。
普通に無理。怖い。
なんなんだ。
親切な青年だった。細やかに気を遣ってくれた。怪奇現象付きでも、話せば分かるかもしれないと思った。だから、思考リセットも兼ねて、一度睡眠を取ろうとしたのだ。
ダリオは理解する。
これ、無理なやつ。
多分、何か一つ間違えると、悲惨なことになる。
知らず知らず、青年の水位を上げていたようで、ぎりぎり手前で、覗き込まれに来ている。
寝ているふりが正解か分からない。
しかし、何をしても、ショートさせるかもしれないと思った。
「だりおさん……だりおさんだりおさんだりおさん」
だりおさん、と抑揚を欠いた声でひたすら自分の名前を呼ばれ続ける。
ダリオはもう無理だった。
やり過ごせると思ったが、駄目だったら死ぬより酷いことになるかもしれない。
「おい」
覚悟を決めて、きっぱり呼びかけると、ぴた、と声は静止した。
息がかかるわけではないが、眼球がつきそうなくらい顔が近くにある気がして、ダリオは遠ざけるように相手の肩に手をかける。
やはり伸しかかられていた。
角度からして、もしかしたら、四つん這いで上から覗き込まれていたのでは、と思って、内心ぞっとした。
どんな姿勢なのか分からなくて良かったかもしれない。見えていたら、悲鳴を上げていただろう。
ぐい、と押しやった。
「……だりおさん」
かつて耳にしたことのないほどの美声だが、人間のものとは思えなかった。
ダリオは肘をシーツについて上半身をゆっくり起こし、じりじりと後退った。
少しでも距離を置きたい。
「……」
視線が追いかけてくる。
努めて冷静に、ダリオはなるべく刺激せぬよう声を抑えた。
「……出て行ってくれ」
相手が怪異だろうが人間だろうが、距離感がおかしい。同居人と言うなら、なおさらだ。
毅然と指し示す。
ドアの方向だ。
「出て行ってくれ。それか、こういうことをするなら、俺が出て行く。悪いが、最寄りの警察署に行くから、カブを呼んでほしい。俺だと連絡が取れるか分からない。君が妨害してるなら、目的はなんだ」
人間相手なら悪手だと思ったが、怪異に対してはこれで良いはずだ。自分の意思を伝えないと、曲解して善意で酷いことになる。
青年が答えないので、ダリオは続けた。
「親切にしてくれて本当にありがたかった。でも、こういうことは許容できない。とにかく、君が今すぐこの部屋を出て、こんなことは二度としないか、俺をこの家から出て行かせるか」
「……嫌でしたか」
「あ?」
「すみません、嫌だとは思わなくて」
ダリオは口を開けたり閉めたり、結局黙った。
青年の声には相変わらず感情というものがなかったが、何故か本当に異常なことをしているという認識がなかったのだと伝わってきた。
「ダリオさんは……僕が……しても気にされなかったので……」
言いかけて、口をつぐまれる。
まるで、ダリオが以前は受け入れていたかのような。
そんなわけあるか。
こんなことをされて、様子のおかしさを受け入れ、何かあったのかと聞き出し、ハグしてよしよしするほど、ダリオもお人好しではない。
「……だりおさん」
今度は、初めてその声に感情がはっきりと乗っていた。
困惑し、意気消沈するような、迷子の声だった。
「てがみ……」
言いかけて、また気づいたように黙る。手紙のことだろうが、今のダリオには読めない。
読み上げられたところで、何も信用できない。
ふと、気配が消失した。
え、とダリオは見えない視線を彷徨わせる。
消えたのか。
ダリオが選択肢を突きつけ、譲歩されたのだ。
ほ、と胸を撫で下ろし、深く息を吐こうとした瞬間。
「ヒッ」
シーツに投げ出された手に、ぴと、と何か冷たいものが触れた。
動いている。
正確に言うと、蠢いていた。
指先から手の上に這い上ってくる。ゼラチンのようなぶよぶよした感触。
ほとんど、台所に出る黒い甲虫に手指を這い登られたような気色悪さで、ダリオは瞬間的に拒否反応が脳天を突き抜けた。
「ッ!!」
咄嗟に力いっぱい振り払うと、冷たいゼラチン質のものは、べちゃ、と壁の方に吹っ飛んで、ずるずると落ちる気配があった。
生き物。
何、なにが手を這い上ってきたのか、ダリオは不明感にぞわぞわと改めて恐怖感を覚える。
「……さん」
壁に叩きつけられて、床上に落ちた物体から、弱々しい泣き声のようなものが聞こえた。
そうしたら、ダリオは胸が張り裂けそうに痛みが走り、呼吸が喉の奥につまった。胸元を抑え、体を折り曲げたくなるような激痛だ。
脳裏に小さな水饅頭のイメージが浮かぶ。
体液が漏れている。スライム状のものだ。
弱りきっている。
あ……と思った。ダリオは恐る恐るベッドから足をおろして、声の方に壁伝いに近寄る。
「だりおさん」
小さな声は、ダリオに謝った。
「ぼく、こわいのかとおもって」
ぜんぶ、のうりょくふうじました、そうしたらこわくないとおもたのですが、ごめんなさい。
ぼく、かってにさわりました。このすがたのとき、だりおさん、かわいいからゆるしてくれたので、だいじょうぶかとおもいました。
知能が落ちているように、たどたどしく言われ、気がついたらダリオはしゃがみ、ゼラチン質のなにかをすくい上げて、抱きこむとボロボロ涙が出てきた。
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