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本編
03.くすぐりの刑エトセトラ
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颯真はラグに座り、ベッドを背もたれにして雑誌を読んでいる。
俺はベッドに寝そべってスマホのゲームをしながら、ちらちらと颯真のつむじを見ていた。
もし仮に、俺が本物のオメガになっていたとして。
オメガのフェロモンが出ているとして。
「颯真はつらくないの?」
「ん? 何が」
「俺の、その……匂いが、さ」
オメガのフェロモンはアルファを引き寄せるためのもの。
幼い頃の第二性判定でオメガの結果が出た者は、もれなく国からの支援を受けられるようになる。
基礎的なところでは医療費の負担軽減から、衣食住の補助、教育、就職、果ては伴侶の選定サポートまで手厚く保障されるとか。
ベータにはない、アルファとオメガだけの特別な性質に、アルファがオメガのうなじを噛むことで成立する「番(つがい)」という関係がある。
うなじを噛まれたオメガは噛んだアルファにしかフェロモンが効かなくなる。オメガはできるだけ早期にアルファと番になることが推奨されていて、実際ほとんどのオメガは十代から二十代前半くらいまでには番を見つけ、フェロモンを無差別に撒き散らすことはなくなるらしい。
逆に言えば、番のいないオメガのフェロモンはほとんどのアルファにとって魅力的で、危険で、甘美なもの。
────それこそ、駅で見かけたら追いかけたくなるくらいに。
そのため番を持つ前や、番がいない適齢期のオメガはあらゆる事故を未然に防ぐため、国の補助のもと「抑制剤」というフェロモンの放出を抑える薬を服用している。
またアルファ側は、互いに望まない番事故を防ぐためオメガのフェロモンを感じにくくなるアルファ用の抑制剤を服用したり、携帯するよう推奨されている。これは俺も持ってる。
もし颯真が抑制剤を飲んでいるとしても、俺の匂いが本当にフェロモンなら、今はつらいんじゃないだろうか。
「ごめん、俺、颯真がつらいかもって思い至らなかった……」
「待て、大丈夫だユキ。俺はつらくなんてない」
「ほんと?」
「もちろん。まぁ、我慢してないといえば嘘になるけど」
やっぱり我慢してるんだ。
それって、俺のせいってことだよな。
一番の友人に我慢を強いている事実が悲しい。
でも今俺が頼れるのは颯真だけだ。今彼が帰ってしまったら、俺はきっと心細くてたまらなくなる。
「俺、部屋出てようか。それともリビングに行く? 颯真がきつくないようにしたい」
「……」
颯真は何事か考え込んで、不意に視線を上げた。
ベッドの上と下でぱちりと目が合う。
「じゃあさ。ユキの匂い、ちゃんと嗅がせて」
「え」
「……いやいい。ダメだよな、ごめん」
「や、そんなことならいくらでもどうぞだけど」
「えっいいのか?」
颯真が目を輝かせ、雑誌を放り出してベッドに上がってきた。
現在進行系で匂いが出ているはずの俺を遠ざけるんじゃなく、むしろ近づこうとするなんて。大丈夫なんだろうか。
寝そべっていた姿勢を三角座りに直して、壁を背に二人で並ぶ。
腕が触れ合うくらいの距離で、颯真は俺の肩に頭を軽く乗せた。
「あー……」
「何そのオッサンくさい声」
「いや、なんか落ち着くな~と思って。いいな、この香り。好きだ」
不意に「好き」と言われてドキッとしたけど、よく考えなくてもこれは俺の匂いのことだ。
これがフェロモンじゃなくて体臭かもしれないと考えると微妙な発言だけど、まぁ相手は颯真だし、別にいいか。
「ねぇ、俺の匂いってどんなの?」
「ん~……具体的にと言われると難しいんだけど……なんだろ、ハーブティーとかに入ってそうな花の匂い……?」
「ハーブティーなんてわかんないよ」
「だよなぁ。俺もふわふわしたことしか言えない」
肩に乗っていた颯真の頭が角度を変えて、俺の首元に鼻を埋めている。
くすぐったい。すんすんするな。
でも匂い嗅いでもいいって言ったのは俺だし、今更拒否もできない。
「もしかして颯真って匂いフェチ?」
なんだかちょっと恥ずかしくて、ごまかすように話題を振ってみた。
なのに肝心の颯真は上の空で「あーそうかも」なんて適当な返ししかしてこない。そのくせ俺の首から離れていかない。
くすぐったさが頂点に近づきつつある。
「あの、そうま、ちょっとそこくすぐったいんだけど」
「んー?」
「ちょ、ま、う、ひゃん!」
素直にくすぐったさを申告したら、今度は明確な意図を持った手が肌をくすぐってきた。
俺はくすぐったがりだ。
表皮に息を吹きかけられただけで過剰反応してしまうくらいで、今まで颯真の暴挙を我慢できてたほうが奇跡なくらい。
だから服越しに脇腹を撫でられただけで、子犬みたいな声を上げてしまう。
「こら颯真! やめ、いひひ、ぁはっ」
「ユキは脇腹弱いなぁ」
「そーだよ、だからやめ、やっ、んん!」
身を捩って逃げようとして、ベッドに横倒しになる。
颯真の手はどんどん追いかけてきて、服から出ている腕や首筋を撫でられただけで鼻から息が抜けた。
のしかかられると下側は不利だ。腕を突っ張っても颯真は離れてくれない。
ついにはシャツをめくられて、素肌をさわさわ撫でられた。
「や、ぁ、あっ、ひんっ」
薄っすらとしか筋肉がついていない腹を探られてどうしようもなく悲鳴を上げる。
ふと、颯真が無言なことに気づいた。
くすぐられるのはいつものことだけど、普段はもっとバカっぽい会話をしながらだ。一方的にいじられることなんてないのに。
見上げた颯真は、蛍光灯の逆光で一瞬表情が読めなかった。
「そうま……?」
「……ユキ」
颯真の顔が迫ってくる。
俺はやっと、今の体勢がなんだか怪しげなことに気づいた。
ベッドの上に二人きり、俺は押し倒されているという状況なのではないか。
その上、もしかしたら二人はアルファとオメガなのかもしれなくて。
「ぁ、そーま……」
あ、ヤバい。颯真の吐息が唇に掛かって……。
そのまま通り過ぎた。
颯真の顔は再び俺の首筋に埋まった。すんすん匂いを嗅がれて、体が離れる。
「はー、堪能したわ。ありがとユキ」
「……へ? あ、あぁ、うん」
覆い被さっていた颯真が離れて、俺も身を起こす。
キス、されるかと思った。
思い違いも甚だしい自分の早とちりに顔が熱くなる。
そんなことあるわけない。
俺と颯真は友達で、恋人じゃないんだから。キスなんてするわけない。颯真は俺の匂いを嗅ぎたくてベッドに上がっただけなんだから。
ていうか俺も拒否しろよ。何キスされそうなの受け入れちゃってんだよ。
赤くなっているだろう頬を擦っていると、玄関からガチャガチャと音がした。
気づけば窓の外はもう真っ暗で、星がいくつも瞬いている。
「ただいま~。雪、誰か来てるの?」
仕事帰りの母さんが玄関で靴を見つけたらしい。
颯真が几帳面に部屋から顔を出し、廊下へ向かって挨拶する。
「こんばんはおばさん。お邪魔してます」
「颯真くん、いらっしゃい。もうずいぶん暗いわよ、雪が引き止めちゃったかしら?」
「いえ。じゃあ俺帰るから。また明日な」
何事もなかったように振り返った颯真は、さらりと別れの挨拶を残してさっさと帰ってしまった。
何となしに見送ってからハッとする。
ぼうっとしてたから「また明日」も「ありがとう」も伝え損ねた。
そうだ。颯真は心細いであろう俺のために、遅くまでいてくれたのに。明日ちゃんとお礼を言わなきゃ。
明日……俺、ちゃんといつもみたいに颯真に接せられるかな。
クッションを抱えて倒れ、ベッドでバタバタしてたら母さんに変な目で見られた。
くそ、それもこれも颯真のせいだ。
次の日。
いつも通りの時間に家を出て、驚いた。
「あれ?」
家の前に颯真が立っていた。
いつも通りの制服姿で、俺が出ていくと片手を上げる。
「おはよ」
「おはよ……どうしたの?」
「言ったろ? ユキをガードするって」
「あ……そっか」
そういえば昨日そんなことを言われてた。
帰宅の電車であんなことが起こるなら、登校の電車でも同じことになる可能性がある。
能天気にも昨日の恐怖体験をすっかり忘れていた。考えなしな自分を恥じるとともに、生真面目で友人思いの颯真に自然と頭が下がる。
「颯真、ありがと。俺のためにそこまで考えてくれて嬉しい」
「そんな大層なことじゃ。家近いし、ついでだから」
「それでも、ありがと。それと昨日のことも……遅くなってご両親に怒られなかった?」
「それは大丈夫。しばらくは夜遅くなるかもって言ってあるから、一週間くらいなら平気」
「そっか」
罪悪感が胸を刺す。
颯真はきっと家族に本当の理由を言ってない。
まさか親御さんも、息子の友人がいきなりオメガになったかもしれないから護衛のため遅くなる、なんて内容だとは思ってないだろう。
この体質がきちんと治ったら菓子折り持って挨拶に行かなきゃな……そんなことを考えていたら、颯真が鞄から何かを差し出した。
「ユキ、これ飲んでみない?」
「何これ」
「抑制剤。……オメガ用の」
受け取ったドラッグストアのビニール袋には、小さな箱が入っていた。
風邪薬とかと同じサイズの紙箱は、一見すると何の薬かわからない。
白地に薄い色の薬剤名。カラフルなデザインでなければ挿絵もなく、効果が大きく書いてあるわけでもない。
それが余計に秘密の薬っぽさを醸し出していて、普段は直視できない棚の品。
颯真が差し出したのは、俺たちアルファにはあまり縁がないオメガ用の市販抑制剤だった。
「昨日みたいなことが起こるのは嫌だろ? 市販薬だから気休め程度かもしれないけど」
「ありがと……俺ホントダメだ。なんにも考えてなかった」
「そりゃそうだよ、いきなりオメガになるなんて誰も思わない。だけど俺はユキのフェロモン嗅いじゃったから、信じるしかないし」
どうやら颯真は昨日、フェロモンを嗅いだことで俺の性別変化を確信したらしい。
俺自身信じられてない現象を、颯真は信じてくれている。
これほど心強いことはない。
「でさ。俺もできるなら考えたくないことなんだけど」
急に歯切れが悪くなった颯真に、俺は首を傾げた。
「一週間経てば神様に戻してもらえるとしても、今のユキが間違いなくオメガなら……発情期とか、来ないよな?」
「…………あ」
その可能性は、ある。
ざぁっと血の気が下がる音が聞こえそうなくらい、俺は真っ青になった。
オメガがオメガたる所以の一つ ────発情期。
平時とは比べ物にならないほど強烈にフェロモンを発してアルファを誘う数日間、オメガは強い性衝動を抑えきれなくなるという。
番がいればその相手と、そうでなければそれこそ無差別に相手を探し、子種を求める。
その様は壮絶で、人によっては理性がなくなるほど乱れたり、過ぎた欲求に苦痛を覚えることもあるとか。
発情期を完璧に抑圧しきる薬はまだ存在しない。
あと数日の辛抱だと思っていた、オメガのような自身との付き合いに発情期が含まれるとしたら────決して避けて通れない、恐ろしい想像だ。
「ど、どうしよう颯真。俺、おれ……」
動揺して掴んだ颯真の腕は熱くて、俺は自分が冷え切るほど不安になっていることを自覚した。
指先がカタカタ震える。
昨日俺を追いかけてきた、名も知らないアルファたちの狂気的な様子を思い出す。
怖い、怖い、怖い。
「落ち着けユキ。まずは薬飲んでみてくれ。ちょっと、フェロモンが、きつい」
「あっ!」
慌てて飛び退いて距離を取る。
俺ダメダメだ。なんでも颯真に頼っちゃダメだ。
もし俺が元の体に戻る前に発情期が来たとしても、アルファの颯真にだけは頼っちゃいけないことだ。
なのに颯真は逃げ腰になった俺の腕をしっかりと掴んだ。
引き寄せられ、力ずくで腕の中に閉じ込められ、もがいても腕を突っ張っても鍛えられた体はびくともしない。
「逃げなくていい。大丈夫だ、俺は抑制剤飲んでるから」
「でも、俺、俺のせいで」
「大丈夫。ユキのせいじゃない……ほら、深呼吸しろ」
吸って、吐いて。
颯真に促されるまま呼吸すると、恐慌状態だった気持ちが少し落ち着いた。
同時に、ふわりと鼻先をくすぐる香りに気づく。
どこか懐かしい匂い。
森の奥の、むせ返るような緑の地に静かに流れる清流のような……そうだ、水みたいな匂いだ。
都会の水道水くらいしか飲まない俺が、山奥の源泉の匂いを想起するなんてなんだか不思議だけど、昔遠足か何かで行った場所でも思い出したのかもしれない。
自然と、颯真というアルファのフェロモンの匂いだと理解できた。
オメガにアルファを誘うフェロモンがあるように、アルファにもフェロモンがある。
アルファのフェロモンはオメガをどうこうするためのものじゃなく、番を落ち着かせたりするためのものだ。古くは、アルファ同士で縄張り争いをしていた頃に威嚇のいち手段としても用いられていたという。
今までは颯真の匂いなんて意識したことなかった。
これも俺がオメガに変化したためだろうか。
「落ち着いた?」
「うん。ごめん。薬飲む」
「わかった。ほら、水あるぞ」
できる友人は薬を飲むための水まで買ってきてくれていた。
俺は箱の裏に書いてある通りに錠剤を飲み下し、もう一度深呼吸する。
残りの数日、何事もないよう願いながら。
俺はベッドに寝そべってスマホのゲームをしながら、ちらちらと颯真のつむじを見ていた。
もし仮に、俺が本物のオメガになっていたとして。
オメガのフェロモンが出ているとして。
「颯真はつらくないの?」
「ん? 何が」
「俺の、その……匂いが、さ」
オメガのフェロモンはアルファを引き寄せるためのもの。
幼い頃の第二性判定でオメガの結果が出た者は、もれなく国からの支援を受けられるようになる。
基礎的なところでは医療費の負担軽減から、衣食住の補助、教育、就職、果ては伴侶の選定サポートまで手厚く保障されるとか。
ベータにはない、アルファとオメガだけの特別な性質に、アルファがオメガのうなじを噛むことで成立する「番(つがい)」という関係がある。
うなじを噛まれたオメガは噛んだアルファにしかフェロモンが効かなくなる。オメガはできるだけ早期にアルファと番になることが推奨されていて、実際ほとんどのオメガは十代から二十代前半くらいまでには番を見つけ、フェロモンを無差別に撒き散らすことはなくなるらしい。
逆に言えば、番のいないオメガのフェロモンはほとんどのアルファにとって魅力的で、危険で、甘美なもの。
────それこそ、駅で見かけたら追いかけたくなるくらいに。
そのため番を持つ前や、番がいない適齢期のオメガはあらゆる事故を未然に防ぐため、国の補助のもと「抑制剤」というフェロモンの放出を抑える薬を服用している。
またアルファ側は、互いに望まない番事故を防ぐためオメガのフェロモンを感じにくくなるアルファ用の抑制剤を服用したり、携帯するよう推奨されている。これは俺も持ってる。
もし颯真が抑制剤を飲んでいるとしても、俺の匂いが本当にフェロモンなら、今はつらいんじゃないだろうか。
「ごめん、俺、颯真がつらいかもって思い至らなかった……」
「待て、大丈夫だユキ。俺はつらくなんてない」
「ほんと?」
「もちろん。まぁ、我慢してないといえば嘘になるけど」
やっぱり我慢してるんだ。
それって、俺のせいってことだよな。
一番の友人に我慢を強いている事実が悲しい。
でも今俺が頼れるのは颯真だけだ。今彼が帰ってしまったら、俺はきっと心細くてたまらなくなる。
「俺、部屋出てようか。それともリビングに行く? 颯真がきつくないようにしたい」
「……」
颯真は何事か考え込んで、不意に視線を上げた。
ベッドの上と下でぱちりと目が合う。
「じゃあさ。ユキの匂い、ちゃんと嗅がせて」
「え」
「……いやいい。ダメだよな、ごめん」
「や、そんなことならいくらでもどうぞだけど」
「えっいいのか?」
颯真が目を輝かせ、雑誌を放り出してベッドに上がってきた。
現在進行系で匂いが出ているはずの俺を遠ざけるんじゃなく、むしろ近づこうとするなんて。大丈夫なんだろうか。
寝そべっていた姿勢を三角座りに直して、壁を背に二人で並ぶ。
腕が触れ合うくらいの距離で、颯真は俺の肩に頭を軽く乗せた。
「あー……」
「何そのオッサンくさい声」
「いや、なんか落ち着くな~と思って。いいな、この香り。好きだ」
不意に「好き」と言われてドキッとしたけど、よく考えなくてもこれは俺の匂いのことだ。
これがフェロモンじゃなくて体臭かもしれないと考えると微妙な発言だけど、まぁ相手は颯真だし、別にいいか。
「ねぇ、俺の匂いってどんなの?」
「ん~……具体的にと言われると難しいんだけど……なんだろ、ハーブティーとかに入ってそうな花の匂い……?」
「ハーブティーなんてわかんないよ」
「だよなぁ。俺もふわふわしたことしか言えない」
肩に乗っていた颯真の頭が角度を変えて、俺の首元に鼻を埋めている。
くすぐったい。すんすんするな。
でも匂い嗅いでもいいって言ったのは俺だし、今更拒否もできない。
「もしかして颯真って匂いフェチ?」
なんだかちょっと恥ずかしくて、ごまかすように話題を振ってみた。
なのに肝心の颯真は上の空で「あーそうかも」なんて適当な返ししかしてこない。そのくせ俺の首から離れていかない。
くすぐったさが頂点に近づきつつある。
「あの、そうま、ちょっとそこくすぐったいんだけど」
「んー?」
「ちょ、ま、う、ひゃん!」
素直にくすぐったさを申告したら、今度は明確な意図を持った手が肌をくすぐってきた。
俺はくすぐったがりだ。
表皮に息を吹きかけられただけで過剰反応してしまうくらいで、今まで颯真の暴挙を我慢できてたほうが奇跡なくらい。
だから服越しに脇腹を撫でられただけで、子犬みたいな声を上げてしまう。
「こら颯真! やめ、いひひ、ぁはっ」
「ユキは脇腹弱いなぁ」
「そーだよ、だからやめ、やっ、んん!」
身を捩って逃げようとして、ベッドに横倒しになる。
颯真の手はどんどん追いかけてきて、服から出ている腕や首筋を撫でられただけで鼻から息が抜けた。
のしかかられると下側は不利だ。腕を突っ張っても颯真は離れてくれない。
ついにはシャツをめくられて、素肌をさわさわ撫でられた。
「や、ぁ、あっ、ひんっ」
薄っすらとしか筋肉がついていない腹を探られてどうしようもなく悲鳴を上げる。
ふと、颯真が無言なことに気づいた。
くすぐられるのはいつものことだけど、普段はもっとバカっぽい会話をしながらだ。一方的にいじられることなんてないのに。
見上げた颯真は、蛍光灯の逆光で一瞬表情が読めなかった。
「そうま……?」
「……ユキ」
颯真の顔が迫ってくる。
俺はやっと、今の体勢がなんだか怪しげなことに気づいた。
ベッドの上に二人きり、俺は押し倒されているという状況なのではないか。
その上、もしかしたら二人はアルファとオメガなのかもしれなくて。
「ぁ、そーま……」
あ、ヤバい。颯真の吐息が唇に掛かって……。
そのまま通り過ぎた。
颯真の顔は再び俺の首筋に埋まった。すんすん匂いを嗅がれて、体が離れる。
「はー、堪能したわ。ありがとユキ」
「……へ? あ、あぁ、うん」
覆い被さっていた颯真が離れて、俺も身を起こす。
キス、されるかと思った。
思い違いも甚だしい自分の早とちりに顔が熱くなる。
そんなことあるわけない。
俺と颯真は友達で、恋人じゃないんだから。キスなんてするわけない。颯真は俺の匂いを嗅ぎたくてベッドに上がっただけなんだから。
ていうか俺も拒否しろよ。何キスされそうなの受け入れちゃってんだよ。
赤くなっているだろう頬を擦っていると、玄関からガチャガチャと音がした。
気づけば窓の外はもう真っ暗で、星がいくつも瞬いている。
「ただいま~。雪、誰か来てるの?」
仕事帰りの母さんが玄関で靴を見つけたらしい。
颯真が几帳面に部屋から顔を出し、廊下へ向かって挨拶する。
「こんばんはおばさん。お邪魔してます」
「颯真くん、いらっしゃい。もうずいぶん暗いわよ、雪が引き止めちゃったかしら?」
「いえ。じゃあ俺帰るから。また明日な」
何事もなかったように振り返った颯真は、さらりと別れの挨拶を残してさっさと帰ってしまった。
何となしに見送ってからハッとする。
ぼうっとしてたから「また明日」も「ありがとう」も伝え損ねた。
そうだ。颯真は心細いであろう俺のために、遅くまでいてくれたのに。明日ちゃんとお礼を言わなきゃ。
明日……俺、ちゃんといつもみたいに颯真に接せられるかな。
クッションを抱えて倒れ、ベッドでバタバタしてたら母さんに変な目で見られた。
くそ、それもこれも颯真のせいだ。
次の日。
いつも通りの時間に家を出て、驚いた。
「あれ?」
家の前に颯真が立っていた。
いつも通りの制服姿で、俺が出ていくと片手を上げる。
「おはよ」
「おはよ……どうしたの?」
「言ったろ? ユキをガードするって」
「あ……そっか」
そういえば昨日そんなことを言われてた。
帰宅の電車であんなことが起こるなら、登校の電車でも同じことになる可能性がある。
能天気にも昨日の恐怖体験をすっかり忘れていた。考えなしな自分を恥じるとともに、生真面目で友人思いの颯真に自然と頭が下がる。
「颯真、ありがと。俺のためにそこまで考えてくれて嬉しい」
「そんな大層なことじゃ。家近いし、ついでだから」
「それでも、ありがと。それと昨日のことも……遅くなってご両親に怒られなかった?」
「それは大丈夫。しばらくは夜遅くなるかもって言ってあるから、一週間くらいなら平気」
「そっか」
罪悪感が胸を刺す。
颯真はきっと家族に本当の理由を言ってない。
まさか親御さんも、息子の友人がいきなりオメガになったかもしれないから護衛のため遅くなる、なんて内容だとは思ってないだろう。
この体質がきちんと治ったら菓子折り持って挨拶に行かなきゃな……そんなことを考えていたら、颯真が鞄から何かを差し出した。
「ユキ、これ飲んでみない?」
「何これ」
「抑制剤。……オメガ用の」
受け取ったドラッグストアのビニール袋には、小さな箱が入っていた。
風邪薬とかと同じサイズの紙箱は、一見すると何の薬かわからない。
白地に薄い色の薬剤名。カラフルなデザインでなければ挿絵もなく、効果が大きく書いてあるわけでもない。
それが余計に秘密の薬っぽさを醸し出していて、普段は直視できない棚の品。
颯真が差し出したのは、俺たちアルファにはあまり縁がないオメガ用の市販抑制剤だった。
「昨日みたいなことが起こるのは嫌だろ? 市販薬だから気休め程度かもしれないけど」
「ありがと……俺ホントダメだ。なんにも考えてなかった」
「そりゃそうだよ、いきなりオメガになるなんて誰も思わない。だけど俺はユキのフェロモン嗅いじゃったから、信じるしかないし」
どうやら颯真は昨日、フェロモンを嗅いだことで俺の性別変化を確信したらしい。
俺自身信じられてない現象を、颯真は信じてくれている。
これほど心強いことはない。
「でさ。俺もできるなら考えたくないことなんだけど」
急に歯切れが悪くなった颯真に、俺は首を傾げた。
「一週間経てば神様に戻してもらえるとしても、今のユキが間違いなくオメガなら……発情期とか、来ないよな?」
「…………あ」
その可能性は、ある。
ざぁっと血の気が下がる音が聞こえそうなくらい、俺は真っ青になった。
オメガがオメガたる所以の一つ ────発情期。
平時とは比べ物にならないほど強烈にフェロモンを発してアルファを誘う数日間、オメガは強い性衝動を抑えきれなくなるという。
番がいればその相手と、そうでなければそれこそ無差別に相手を探し、子種を求める。
その様は壮絶で、人によっては理性がなくなるほど乱れたり、過ぎた欲求に苦痛を覚えることもあるとか。
発情期を完璧に抑圧しきる薬はまだ存在しない。
あと数日の辛抱だと思っていた、オメガのような自身との付き合いに発情期が含まれるとしたら────決して避けて通れない、恐ろしい想像だ。
「ど、どうしよう颯真。俺、おれ……」
動揺して掴んだ颯真の腕は熱くて、俺は自分が冷え切るほど不安になっていることを自覚した。
指先がカタカタ震える。
昨日俺を追いかけてきた、名も知らないアルファたちの狂気的な様子を思い出す。
怖い、怖い、怖い。
「落ち着けユキ。まずは薬飲んでみてくれ。ちょっと、フェロモンが、きつい」
「あっ!」
慌てて飛び退いて距離を取る。
俺ダメダメだ。なんでも颯真に頼っちゃダメだ。
もし俺が元の体に戻る前に発情期が来たとしても、アルファの颯真にだけは頼っちゃいけないことだ。
なのに颯真は逃げ腰になった俺の腕をしっかりと掴んだ。
引き寄せられ、力ずくで腕の中に閉じ込められ、もがいても腕を突っ張っても鍛えられた体はびくともしない。
「逃げなくていい。大丈夫だ、俺は抑制剤飲んでるから」
「でも、俺、俺のせいで」
「大丈夫。ユキのせいじゃない……ほら、深呼吸しろ」
吸って、吐いて。
颯真に促されるまま呼吸すると、恐慌状態だった気持ちが少し落ち着いた。
同時に、ふわりと鼻先をくすぐる香りに気づく。
どこか懐かしい匂い。
森の奥の、むせ返るような緑の地に静かに流れる清流のような……そうだ、水みたいな匂いだ。
都会の水道水くらいしか飲まない俺が、山奥の源泉の匂いを想起するなんてなんだか不思議だけど、昔遠足か何かで行った場所でも思い出したのかもしれない。
自然と、颯真というアルファのフェロモンの匂いだと理解できた。
オメガにアルファを誘うフェロモンがあるように、アルファにもフェロモンがある。
アルファのフェロモンはオメガをどうこうするためのものじゃなく、番を落ち着かせたりするためのものだ。古くは、アルファ同士で縄張り争いをしていた頃に威嚇のいち手段としても用いられていたという。
今までは颯真の匂いなんて意識したことなかった。
これも俺がオメガに変化したためだろうか。
「落ち着いた?」
「うん。ごめん。薬飲む」
「わかった。ほら、水あるぞ」
できる友人は薬を飲むための水まで買ってきてくれていた。
俺は箱の裏に書いてある通りに錠剤を飲み下し、もう一度深呼吸する。
残りの数日、何事もないよう願いながら。
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