小石の恋

キザキ ケイ

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本編

03.吸着

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 学校という接点がなくなると、ぼくと至先輩はすっかり疎遠に……は、ならなかった。なぜか。
 前触れもなく呼び出されて、どこかについていく。
 行き先は飲食店のこともあれば、遊び場のこともある。
 一度など、図書館に連れて行かれ、窓のそばのソファ席で二人並んでひたすら本を読んだだけのこともあった。
 先輩は静かなひとだから、会話がなくてもおかしな雰囲気にはならない。むしろ元からぼくらはこうあるべきだったのでは、と思うほど、二人の読書会はしっくりきた。
 日差しにあたためられた空気についうとうとしたときは、気がつくと先輩がじっとぼくを見つめていて、ばつがわるかったけれど、至先輩はぼくを笑うことも咎めることもなかった。
 こうして呼び出されるかと思えば、何週間もご無沙汰ということもめずらしくない。
 そういうときはぼくよりも、元取り巻きで、今はぼくの友だちと呼べる彼らから先輩の生存を聞かされた。

「そういえばこないだ先輩に会ってさ」
「へぇ」

 正直あまり興味がないので生返事を返すと、冷たいと文句を言われることがあり、仕方がないのでぼくはひとつだけ聞き返す。

「先輩、今は何色?」

 見るたびに違う先輩の髪色は、見知ったものもあれば、初めて聞くような奇抜なこともあった。
 ぼくの興味といえばその程度で、しかし縁が切れることもなく、細く細く続いていた。

 やがてぼくらは受験生となった。
 正直あまり進学に意欲がなかったが、とりあえず大学だけは出ておけと親に促され、通学しやすい場所を選んだ。それほど努力しなくても行けそうなランクで、読み通り、推薦で入学できることになった。
 周りの学生より少し早く受験から解放されたぼくは、入学前にすべきことは色々あれど、それはさておきちょっとだけのんびりすることにした。
 目的なく出かけて近所を散歩したり、繁華街でお店を冷やかしてみたり。
 先輩と行った図書館も再訪した。本を読んでいると時間を忘れる。
 それから先輩が連れて行ってくれたゲームセンター。ぼくひとりで挑むとクレーンゲームの女神は一度たりとも微笑んでくれず、ただ財布が軽くなっただけに終わった。
 先輩が連れて行ってくれたバーにも、ひとりで行ってみた。
 成人と呼ばれる年齢にはなったけど、お酒が飲めるわけじゃない。でもあのおいしいジュースをまた飲みたくて、無理言って出してもらった。
 バーテンダーさんはぼくのことを覚えていて、今度は違う色のモクテルを差し出してくれた。
 とてもおいしかったけれど、おいしいと言い合えるひとがいないことが、感動にわずかなささくれを残した。

 のんびり生活のある日突然、また至先輩から呼び出された。
 どうやら、ひとりでバーに行ったことが知られたらしい。

「先輩、こんにちは」
「なんでひとりで行ったの」

 挨拶すらなく、そう言い放った至先輩は、くっきりと不機嫌だった。
 ぼくはたじろぐ。なぜと聞かれても、気が向いたからとしか言いようがない。
 ただ先輩の真意は別にあったようだ。

「危ないでしょ、あんなとこひとりで行っちゃ」
「別に危なくなかったですけど」
「危ないよ。話しかけられたでしょ。知らないひとに」
「あ、あー」

 たしかに話しかけられた。年上のお兄さん二人組。
 隣県からわざわざ来たのだと言って、さりげなくぼくの素性を探られた。ぼくが気づいてるからにはさりげなくなかったかもしれない。
 バーテンダーさんが助け舟を出してくれて、店公認のノンアル提供客であることを証明すると、二人は一転してくだけた態度で色々なことをしゃべっていった。
 飲めるようになったらおすすめのカクテルも教えてもらった。ファジーネーブル、スプモーニ、ソルティドッグ。カクテルってどれもなんだか気取ってる。

「危ない話はしなかったよ」
「話しかけられる時点で危ないよ」
「えー。話しかけられるのは避けられないじゃん」
「話しかけられてほしくない。こんなふうに」

 距離が縮まる。追い詰められる。
 見上げると、先輩は無表情で、それがちょっと怖いくらいで、たちまちぼくは至に睨まれた律紀になってしまう。

「こんなふうにくっつかれて、触られたらどうするの」

 先輩の大きな手がぼくの肩や首筋、腰を撫でていく。
 いつものホールドするような手じゃなくて、なんていうか、ねちっこい。
 ぼくはそんなことされないと言ったけれど、先輩は納得しなかった。

「リツがされたくなくても、やられちゃうんだよ。リツより大きな男にされたら、抵抗できないよ」
「バーテンダーさんとか他のお客さんもいたから、されないよ」
「他の場所だったらどうするの。ゲーセンも行ったでしょ、ひとりで」

 行ったけど、ゲーセンでは誰とも話してないし、誰かに近寄りすらしてない。逆も同じ。触られるなんて飛躍しすぎた被害妄想だ。
 でも先輩は納得しない。

「ここ、俺以外に触らせた?」

 先輩の親指が少し強くぼくの唇をなぞる。
 粘膜が変形させられるのを感じながら、ぼくははっきり「いいえ」と答えた。
 ぼくに触りたがるやつなんて、至先輩しかいない。

「ふぅん」

 どうにも納得してないような声ではあったけど、先輩の追及は止んだ。
 その代わり、その日は別れるまでに何度も何度も唇に触れられた。
 ぼくにとって危険なのはバーでもゲーセンでもなく先輩だ。

 周囲がいよいよ入試に向けてぴりついてきて、ぼくたち推薦組は息をひそめて気配を殺した。
 登校日がほとんどなくなったけど、推薦組は顔を出せと言われることが間々あったので学校には行った。なぜか掃除をさせられたり、先生の仕事を手伝ったり、家庭科室でお菓子を作ったりした。
 お菓子作りは任意参加だったので、男子の参加者はぼくだけだった。
 ほとんど会話したことのない女子たちに、借り物の花柄エプロンで混じるのは恥ずかしかったけれど、手際の良い女子たちの指示通りに小麦粉を混ぜたり生クリームを混ぜたりしているうちに気にならなくなった。
 女子たちも似たような感想を抱いたようで「意外と怖くないんだね」と口々に言われた。
 どうやらぼくは怖いひとだと思われていたらしい。
 不本意な風評の原因を思い浮かべながら、女子たちと作ったケーキをなごやかに食べた。
 誰かが紅茶のパックを持参して、淹れてくれて、思いがけず優雅な景色になったので、食事風景をインカメラで撮って、家に帰ってから先輩に送った。
 女子たちもみんな画角に入ってくれたので、良い思い出の一枚になった。
 しばらくして返事が来て、そのとき自分が送った写真が花柄エプロンと薄ピンクの三角巾姿だったことで羞恥が再燃したけれど、先輩の返事はそれについてではなかった。

「楽しそうだね」
「おいしかったです」

 一往復で早くもずれた返事をしてしまったが、いつものことなので先輩はスルーしてくれた。
 なにしろ至先輩こそ、ずれた返事をするスペシャリストなのだ。

「告白とかされた?」

 ぼくはそのメッセージを見て、首を傾げ、前の文脈にそのような話をしたかどうかスクロールしてみて、写真しか送ってないことを確認。考えた。
 思い出すのは寡黙友人の語った、天道至爆モテ伝説。
 犬も歩けば棒に当たる、至も歩けば告白される。そのような環境で育った至少年はきっと、女子がいる空間イコール色恋のフラグ発生と捉えているのだろう。なんという認知の歪みか。
 自分で認めるのは業腹だが、ぼくはモテない。
 身長はそれなりに伸びたが理想としていた数字には届かず。学力も大したことなく。運動習慣がなく、部活動にも入っておらず。
 なにより、とてつもなくモテるひとがずっとそばにいたせいで、存在が霞んだ。
 至先輩をけなげに見つめていた数人だけが、奇跡的にその横で小石のように小さくなっているぼくを見つけてくれて、話しかけてくれただけの一年だった。
 至先輩が卒業してもぼくの失われた影は戻ってこず、うっすらとした存在感のまま卒業を迎えようとしている。
 そんなぼくの幽霊みたいな生き様を知る由もない先輩は、だからそんなことを言うのだろう。女子にとって、ぼくより安全な男子はきっとこの学校に存在しない。
 いざ「女子って、同じ空間にいる男子を必ず好きになる生き物じゃないんですよ」とメッセージを送ろうとして、既読をつけたまま放置状態にあった画面がさっきと違う光景を映し出していることに気づく。

「告られたの?」「どれ  誰に」「教えて」「ねえ」「リツ」「そっちいく」
「え?」

 スマホの画面が先輩からの怒涛の追撃で埋め尽くされ、最後には不穏な一文で締めくくられていた。
 そっちいく、って、どっち? もしかして、うち?
 慌ててメッセージに返事を送ろうとしたら、その瞬間、家のインターホンが鳴った。
 聞き慣れた「ピンポーン」という音がこんなにも怖く聞こえたことはない。
 え、そんなまさか。宅配とかだよね。だって早すぎる。タイミング良すぎる。そんなまさか。
 おそるおそる開けたドアの向こうには、先輩がいた。

「リツ」

 息を乱している先輩。いつだってかっこよく決まっている派手な色の髪が、少し乱れて汗が滲んでいる。

「先輩、なんで?」
「渡したくない」

 至先輩はなにもかも省いたあとのような一言をつぶやいて、ぼくをぎゅっと拘束した。
 締め上げられている格好のまま、ちょっとだけ潰れた声を出しつつ、ぼくは現状把握に努める。
 どうやら走ってきたらしい先輩。近くにいたのかな。そもそもうちの場所知ってたのか。まぁそれは今はいい。
 それより、渡したくない、とは。

「先輩、ぼく誰にも告白されてないよ」

 腕の力をゆるめてほしくて、先輩の背中をタップすると、拘束が解かれた。
 探るような目でぼくをにらむ先輩のこめかみの汗をぬぐってやって、まことに不本意ながら、女子にモテるような男ではないことをぼそぼそ告げる。

「じゃあ、告白されたら付き合うの」

 先輩はどうも懐疑的らしい。
 まず告白すらされないんだよ、日直の事務会話以外で女子としゃべったのも数ヶ月ぶりだよ、と初手で説明したつもりだったが、うまく伝わらなかったか。
 でも万が一誰かに告白されたとしても。

「付き合わないと思う」

 正直に答える。
 誰かに告白されたことがないぼくが、誰かに告白されたときのことを想定するって相当痛ましいが、もしされたとして、お付き合いするという想定はちっともできない。ぼくには突拍子もないことへの想像力が足りてない。
 先輩はぼくをじっと見つめて、ゆっくり眉根を寄せた。
 ぼくってそんなに信用がおけないのだろうか。嘘をつくのは苦手なので、本心でしかないというのに。

「とりあえず、上がっていって」

 なんといってもここは玄関である。
 もう荒れた呼吸ではない先輩を家に上げ、家族の出払ったリビング横を通って、2階の自室へ通す。
 誰かを部屋へ入れるなんて小学生ぶりなので緊張したけれど、暇なら部屋を片付けなさいと数日前に親にどやされたのが奏功し、今のぼくの部屋は片付いてる。
 とはいえ、入学予定の大学から送られてきた書類が出しっぱなしだったり、さっきまで読んでたマンガが積み上がってたり、ベッドのリネンはくちゃくちゃで、もっと時間があればもっとマシにできたのにという後悔はある。
 でも考えてみれば、男の後輩の家に行くのに部屋が汚いかどうか気にするような先輩じゃないよな、と思い直し、ぼくはお茶を出すべく部屋を出ようとした。

「リツ」

 今までにない、怒りと嘆きが等分に混ざったような切羽詰まった声に呼ばれて振り返った。
 そこから先のことはぼくにはよくわからない。
 いつもの触れるだけの唇が、ぼくを食べようとあやしく蠢いていた。
 ほとんど見る機会のない先輩の肉厚な舌が、見えるどころかぼくを舐めていく。
 大きな手のひらがぼくの全部を触ろうとしてさまよい、撫でたり掴んだり握ったりしてくる。
 何度も名前を耳に流し込まれ、ついでに耳たぶを噛まれ。突っ張ったはずの手は絡め取られ、指の間に入り込まれて拘束された。
 物心ついてから誰にも見られていない場所をじっくり眺められ、触られ、舐められて、また触られる。
 汗と涙とそれ以外の体液が降り注いだ。

「せんぱい、」
「リツ」

 どうやら終わったらしい。しかし先輩はぼくをぎゅうぎゅう拘束して、離そうとしない。
 何も考えることができず、ただ目の前にあるきれいな赤を手に取った。
 いつも見るより短めの鮮烈な赤は、あまり艶がない。染色のしすぎだろう。
 嗅覚に届く、なんだかおしゃれな香りの中には隠しきれない男の芳香があって、まぎれもなく至先輩のにおいだ。
 先輩のにおいがわかるくらいずっとそばにいたぼくが、こういうことの相手をするのは、それほど不自然ではないのかもしれないと、すとんと腑に落ちた。
 ころころと縦横無尽に転がり続ける胸の中の小石には、気づかないふりをした。
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