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第1部 夏
第3話 私はなんにも知らない。
しおりを挟む「なんで……?」
そう声を上げたのは、俺ではなく後藤さんのほうだった。かなり驚いている様子で、薄ピンクの口とクリッとした目を、いつもの1.5倍ほど大きく丸くさせている。
「いや、なんではこっちのセリフっていうか、あれ……? 俺、後藤さんと話したことあったっけ?」
「私は……話したことないわ」
「そうだよな……じゃあ更衣室案内するからついてきて」
「は、はい。よろしくお願いします」
彼女を更衣室まで案内すると、すれ違いざまにその艶めかしい長い黒髪が俺の鼻先を掠めた。ところどころ油の匂いが染みつく店内に、そのフローラルな香りはにつかわしくなく、俺は呆気にとられてしまった。
「あの、着替えたいんだけど……?」
と、後藤さんは少し恥ずかしそうに黒く大きな瞳をこちらに向けている。
「あぁ、ごめん! 今出てくから!」
俺は無意識の内にサラダを予定よりも多く作りすぎてしまうくらい、緊張していた。いつもはおばさんばかりに囲まれる職場だったが、これから学園の2大美女と同じ店で働けるなんて、夢のような展開に心躍らせた。
「今日からよろしくお願いします」
着替えを済ませた後藤さんがスタッフに挨拶をする。
ここ『たまだ』の制服は下はデニム、上は冬には白のトレーナーで、夏には真っ白なTシャツという、それはそれはシンプルなものだったのだが、着る人が着るとこうも印象が違うのかと、思わず見惚れてしまう。
「じゃあ、分からないことは全部しぃに聞いてね。しぃ、よろしく頼むね」
奥さんは俺達にそう告げるとオープン準備を始めた。
「はい……」
「分かりました!」
「あの……よろしくお願いします……」
後藤さんは俺の方を向くと、不安そうに言った。
「そんなに畏まらなくていいって、同級生なんだから」
「でも、ここでは先輩だし……」
「じゃあ青嶋先輩とでも呼んでもらおっかな?」
「分かったわ……青嶋、せんぱい……」
冗談のつもりだったんだが、素直にそれを受け取った学園のアイドルから向けられた上目づかいでの先輩呼びの破壊力は、俺をしばし石化させた。
「じょ、冗談だから……これ以上それを食らったら仕事に支障がでる……」
「え? どういうこと……?」
「なんでもありません!」
そして俺は後藤さんに、店内を案内することから始めた。しっかりとメモをとりながら後ろをついてくる姿に、きっと真面目な子なんだろうなという印象を持った。
「後藤さんはホール? それともキッチン希望?」
「どちらでも大丈夫と伝えてあるわ」
「じゃあ今日は俺がキッチンの日だから、キッチン業務から教えるよ。これがメニューなんだけどそんなに数は多くないから、完成した料理のメニュー名を覚えていこう」
俺は後藤さんにメニューを手渡した。
「こんなに沢山のメニューを、青嶋君は全部覚えているの?」
「え? そんなに多いか?」
「だって、青嶋君は勉強が出来ないって聞いてたから……」
「へ……? 誰から聞いたんだよそんなこと!」
俺の成績が悪いと学校中で噂されているのだろうか……と背筋を凍らせたのだが、納得の答えが返ってきた。
「舞から……」
「小浦か。お前ら仲良かったもんな……確か中学が一緒なんだっけ?」
「えぇ、親友なの……」
そう言った彼女の表情で、俺が小浦に3度も告白したという事実も、きっと知っているのだろうと読み取れた。
「そっか……じゃあ先ずはサラダとスピードメニューだな。もうオープンの時間だから、実際に注文が入ったら教えるよ」
「もうそんな時間なのね……私、学校の勉強以外のこと……本当に何も知らないから、迷惑かけるかもしれないけれど……」
後藤さんは、俺に対しての嫌味にも聞こえるようなセリフを投げかけたが、その表情からは不安と緊張が伝わってきた。まるで、半年前の自分を見ているかのようだ。
「俺も初日はそうだったよ。でも、周りのみんながフォローしてくれて、優しく教えてくれて、だから今こうやって後藤さんに同じことを返せてる。誰もが通る道だから、今は周りに甘えればいいよ。それで次は、後藤さんが新しく入ってきた新人を育てるんだ――なんて、全部社長の受け売りなんだけど……」
「……ありがとう、青嶋君」
さっきよりもほぐれた顔の彼女は、少し笑った。
この後は何事もなく過ぎて行き、高校生の俺たちは22時で上がりになった。客の帰った座敷で賄いを食べていると、後藤さんは笑いを堪えながら問いかけてくる。
「ねぇ奥さんの、青嶋君の呼び方ってどういう意味?」
「あぁ、それは――」
俺が奥さんから『しぃ』と呼ばれるようになった経緯を説明すると、後藤さんは見せたことのない表情で笑った。
「それって、ちょっと酷くないかしら……? 昔のアニメ映画で名前をとられるっていうのがあったけれど、それよりも1文字少なくなってるじゃない……」
かすれたような声で笑いながら、顔を机に埋めている。
「別に、俺は気にしてねぇよ。呼び方なんて、伝わればなんだっていいだろ?」
俺が少しムキになって返すと、彼女は顔を上げて、からかうように言った。
「じゃあ……私もここにいる時だけは『しぃ』って呼んでもいい?」
「な、なんでだよっ!」
「だって、アクセントが女の子の呼び方みたいで、なんだか可愛いんだもの……」
「……好きにしろよ」
今まで色々なあだ名で呼ばれてきたが、特定の人にしか分からない呼び方を共有するという事が、なんだか小っ恥ずかしかったり、ちょっと嬉しかったり、複雑な心境だった。
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