月誓歌

有須

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皇帝、マジ切れする

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 真っ黒な瞳が、瞼の隙間からゆっくりと覗く。
 一瞬怯えたようにも見えた表情が、ハロルドを認識した瞬間にほっと安堵に綻ぶ。
 そのことに例えようもないほどの多幸感を抱きつつも、投げ込まれた『何か』から遠ざけるべくメルシェイラを抱き上げた。
「下がってください!」
 エルネストが窓側の天蓋布の紐を引き、もくもくと煙を出す不審物からハロルドたちを遮る。
 ロバートが駆け寄ってきて、ベッドスプレッドを剥ぎ二人まとめて包み込んだ。
 その巨躯に、腕の中のメルシェイラが怯えたように身をすくませる。ハロルドは彼女の視界から余計なものを遮るべく、赤い飾り刺繍の施された分厚い布でその頭部を覆った。
 部屋の隅から複数の影が駆け寄ってきたので、警戒して腕に力を込めたが、それは一直線に不審物へと突進し、ひとりが割れた窓を大きく開け放ち、一人がその煙を吐く何かを掴んで思いっきり外へと投げ捨てた。
 危険物の可能性が高いのに、思い切ったことをする。
 大元は排除したが、すでに妙な臭いのする煙が部屋中に充満していて、刺激で目から涙がこぼれた。
 不審物を投げ捨てたメイドが、手を庇うような仕草でその場で蹲った。
 腰窓を開け放ったほうも、激しくせき込み口元を覆う。
 小柄なメイドがそんな二人に気づかわし気な目を向けながらも、残りの窓を素早く全開にしていった。
 煙の大部分ははけたが、同時に真冬の冷気が吹き込んできて、暖かな空気が一気に冷める。 
「入り口を警戒しろ! 陛下はこちらに」
 ロバートの指示に従い寝室から出たが、続き部屋にはとどまった。煙は致死毒ではない。つまりは警備が厳重なこの区間からハロルドたちを追い立てようとしているのだ。移動中に襲われる可能性が高かった。
「……なに」
 抱き込んだメルシェイラの小さな声が聞こえた。掠れて弱々しい、怯えたような声だった。
「何でもない。窓に石を投げ込まれただけだ」
 屋外で剣と剣とがぶつかり合う音がした。
 それに反応してビクリと震える身体を、ぎゅっと抱きしめる。
「西の方角! おおよそ十五人!!」
 ロバートの大音声がビリビリと空気を揺らした。
 寝室の窓から外に向かって放たれたその声は、一つ部屋をまたいでいても思わず耳を押さえてしまう程に大きい。
「気をつけろ! 弓士および魔導士がいるぞ! 打ち込ませるなっ」
 ハロルドはしっかりと妻の身体を抱き込み、壁際に寄った。
 近衛騎士たちが幾重にも壁を作り、天井まである大きな窓や二か所ある廊下への出入り口を警戒している。 
 武人なので、守られているだけではなく自ら剣を掴んで襲撃者に対峙したいという思いはある。しかし皇帝としてやってきた長い年月で、護衛に任せるということを覚えた。ハロルドを守る騎士たちは生え抜きで、信頼できる優秀な者たちなのだ。
 それに特に今はメルシェイラがいる。彼女を他の誰かの腕に預ける気はない。
 グオオオオオーン!!
 地響きのような翼竜の鳴き声が窓ガラスを揺らした。
 メルシェイラの小さな手がぎゅうとハロルドの服を掴み、子猫のように震えている。
「大丈夫だ。あれは竜騎士が駆る翼竜の声だな。今度わたしの友人を紹介しよう」
 か弱い女性が翼竜を好むかどうか大いに疑問だったが、今は話している内容よりも、彼女を安心させることのほうが重要だった。
「寒くないか?」
 分厚い布越しにメルシェイラの小さな背中を撫でさする。
 何度も何度も掌を上下させ、宥めるように話しかけ。それでも震えが止まらない。
 さぞ恐ろしいだろう。怖くてたまらないのだろう。彼女は荒事には無縁の世界で生きてきた、善良なごく普通の少女なのだ。
「陛下、終わりました」
 やがて、気づかわし気な声が寝室の方から聞こえた。
 不審物が投げ込まれてからそれほど時間は経っていない。十分に素早い対応だったと頭では理解しつつも、怒りは収まりそうになかった。
 煙で滲んだ涙を拭いもせず、じっとそのがっしりとした体躯を睨み据える。
 警備の体勢はどうなっているのかとか、あんな大声を張り上げる必要があったのかとか、言いたいことは山ほどあった。
 しかし、震え続けるメルシェイラをこれ以上怯えさせることはできない。
「空気が冷えてしまいましたね。別の部屋の暖炉に火を入れさせましょう」
 何事もなかったかのように、エルネストが言った。
 吹き込む風は冷たく、病身の彼女には堪えるだろうから、危険がないのであれば移動するのもやぶさかではない。
「海側の部屋にしましょう。悪戯で石を投げ込まれることもありません」
 促され、取り囲む護衛ごとゾロゾロと歩き始める。
 感情を抑えなければと頭では理解しているのに、黙っている分腹の中が煮えくり返りそうだった。
 誰がこんなにもメルシェイラを傷つけ、怯えさせ、執拗に襲ってくる?
 ハロルドの寵愛がそれほどに脅威か?
 メルシェイラの存在がそんなにも邪魔か?
 歩きながら、ほっそりとした背中を撫で続ける。あまりにも小さく、頼りなく、腕に抱きしめているのにいつの間にか消えてしまうのではないかと恐怖すら感じた。
 廊下をしばらく歩いて、階段を上り、いくつかの続き部屋を潜り抜け。
 到着したのは、ハロルドの寝室に移す前に彼女が一時的に使っていた眺望の良い貴賓室だった。
 先ほどの部屋ほど広くはないが、地面から石を投げても届かない高さで、切り立った崖に面し、その向こうは遮るもののない大海原だ。
 気を失うように眠ってしまった身体をそっとベッドに置き、青白いその頬にかかる黒髪を退ける。
 息は細く、体温は高い。
 いまだしっかりとハロルドの服を握りしめたままの手を外しながら、燃えるような熱さの額に唇を押し付けた。
―――殺してやる。
 極限まで振り切れた怒りが、殺意に染まる。
―――今すぐ、八つ裂きにしてやる。
 彼女を害そうとする者を、生き長らえさせる気はなかった。
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