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提督、犬になる
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ルシエラ・マイン一等女官は、塵芥でも見る目でリヒターを一瞥した。
そこには、地虫を見るような嫌悪も親の仇を見るような憎悪もない。
冷ややかな目は、ただそこにある物体としてしかリヒターを見ていない。怒りなどの感情を向ける価値もないと言いたいのか、無様にベッドで丸まっている男を映す銀色の双眸は単なるガラス玉のようだ。
彼女の視線が無感動に室内を滑り、先に入室したディオン大佐を見上げる。
「周囲の人払いを」
「イエスマム」
おい、お前は誰の部下なんだ。
そう突っ込みを入れるよりも素早く、ディオンは敬礼して退室してしまった。
ぎこちない沈黙が室内に広がる。
しかし、マイン一等女官は室内の空気感などまったく気にしておらず、ディオンが仕事をする間を稼ぐ程度に唇を閉ざしてその場で立っていた。
「……どうぞ、お座りください」
軽く咳払いをしたグローム艦長が、室内にある唯一の椅子をすすめる。
「お気遣いなく」
案の定、彼女はその言葉を一刀両断にした。
間違いなく「そんな粗末なものに座れと言うのか」と思われている。まあ確かに、座るには硬そうな座面の椅子なのだが。
じわりと苛立ちがこみ上げてきたが、それを形にするより先に、女官が再び口を開いた。
「例の女の件ですが、今日の晩餐に招いてください」
「は?」
唐突な申し出に思わず聞き返すと、彼女の無表情な青灰色の目が、すうっと細くなった。
リヒターの返答が気に入らなかったのか、こちらの存在そのものが不快なのか。おそらくはその両方だろうと当たりが付く鉄壁の無表情だ。
「……ホストはもちろんリヒター中将で。お分かりかと思いますが、下手に疑いをもたれないよう、以前と変わらぬ態度を取るよう努めてください」
ふっと薄いその唇が笑みの形に歪んだ。
冷ややかな視線が、いまだベッドに横たわったままのこちらを見下ろす。
今、ものすごく蔑まれた気がする。
リヒターは弾かれたように身体を起こした。
軍医からまだ休んでいるようにと言われているので、かっちりとした軍服ではなく寛いだ服装である。ズボンは緩め、シャツの前のボタンは鳩尾辺りまでしか止めていない。
淑女に対するには随分と刺激的な服装だったが、マイン女官は顔色一つ変えなかった。
「説明は必要ですか?」
「もちろんだ。何をするつもりか教えてほしい」
おいグローム! こんな女に下手に出るお前じゃないだろう!!
「機密に触れますが、一応あなた方も関係者ですのでお話しておきます」
「……機密?」
「あの指輪の白い石の部分が問題です。最近、特に御方様のご身辺で大きな事件が頻発しております」
聞かされたのは非常にざっくりとした説明ではあったが、それでも背筋に震えが来るほどぞっとした。
「それじゃあ何か? 俺はよくわからない連中に嵌められて、妃殿下サマを殺すとかそういう……」
「直接的に手を掛けずとも、祭事に間に合わないよう仕向ければ十分です。そもそもこの里帰りは、祭事に参加される為でも公務をこなされる為でもなく、誘拐された御方様の名誉を守る為のものです。御方様を陛下のお側から排除したい何者かが手をまわしたのでしょう」
きらり、と銀色の光が女官の目に過った。
「ちなみに申し上げておきますが、御方様はハーデス公爵閣下のご養女ではなく、末の御実子です。皇妃、皇后に擁立されても不足のないお立場です」
リヒターは低く唸り、こぼれそうになる声を塞ぐために左手で口を覆った。
己がいつの間にか、とんでもない事態に巻き込まれていたことに気づいたのだ。
未だ御実子を持たない陛下が誰を皇后に据えるかについては、おそらくは国中の人間が関心を持っている。
かくいうリヒターとて、おそらくはあのお美しい第二皇妃だろうと漠然と思っていた。気質の悪い第一皇妃や、幼過ぎる第三皇妃は選ばないだろうと、どこかで口に出して言った気もする。
「私見ですが、陛下は御方様を大変ご寵愛なさっておいでです。遠からず皇妃に、しかるべき時を経ていと高いご身分へとお考えなのではないかと思います」
「で、ですがあのハーデス公爵家の姫なのですよね? 派閥のバランスに問題が出るのでは?」
言外に、「あの公爵」と含めたグロームの言いたいことはわかる。
国内外で力を持ちすぎているせいか、良くない噂が多いご老人だ。内に取り込むにはあまりにもリスクが高いのではないか。
貴族ではないグロームですらそう思う程、これまで陛下とハーデス公爵との関係性はよくなかった。
「さあ、そのあたりは私にはなんとも」
マイン女官は酷薄そうな唇の端をこれ見よがしに引き上げ、全然まったく笑っていない目で言葉を続けた。
「宰相閣下が失脚なさったことはご存知ですね?」
サッハートに寄港したときに拾った情報は、正直真偽を疑ってしまうものだったが、確かに、それが理由なら陛下が公爵と手を組むのは理解できる。
「長年私物化していた南方軍を御方様に向け、ご子息である総督が御方様を毒殺しようとしたことを容認なさったからです」
「……まさか」
リヒターは、常に冷静沈着、滅多なことで動じない同期の男が、珍しく額に冷や汗を浮かべたのに気づいた。彼自身は平民だが、妻は男爵家の出だ。派閥は宰相閣下のところとつながっている。
「誘拐が別口かどうかは調査中です。ですが拘束されているかの方が、今回のハニートラップを指示できるとは思えません」
リヒターは思いっきり横っ面をひっぱたかれた気がして息を詰めた。
ハニートラップという言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡り、情けなくも全身から力が抜けてくる。
「座礁船を用意するのは、通常手段では難しいはずです。そこまでして中将を騙し、御方様の足を引っ張りたい輩がどこかに居ます。私たちはそれを見つけ出したい」
マイン女官は、がっくりとベッドに両手をついたリヒターに、容赦なく冷ややかな言葉を浴びせかけた。
「ご迷惑をおかけした御方様のために、少しはまともな働きを見せてください」
話はこれで終わったとばかりに、背筋をまっすぐ伸ばしたままくるりとその場で背中を向ける。
彼女の口調は丁寧だが、リヒターたちに礼を取るそぶりすら見せない。一介の女官にすぎず、ここでは何の権限も力もないというのに。
そのあからさまな非礼に腹を立てるべきだったのだろう。しかし、叱責の一言どころか、引き留めて詳細を問い詰める気力すら湧かなかった。
「ああそれから……」
入り口の扉に手を当てたマイン一等女官が、半身だけ振り返ってこちらを見た。
傍らのグロームの肩がビクリと震えたのが見えたし、おそらくは己も大仰に強張った表情をしていたはずだ。
「妃殿下というのは主に皇妃さまへ向ける呼称です。失礼にあたりますので、今後は御方様とお呼びしてください」
ぞっとするような流し目だった。
そこには、地虫を見るような嫌悪も親の仇を見るような憎悪もない。
冷ややかな目は、ただそこにある物体としてしかリヒターを見ていない。怒りなどの感情を向ける価値もないと言いたいのか、無様にベッドで丸まっている男を映す銀色の双眸は単なるガラス玉のようだ。
彼女の視線が無感動に室内を滑り、先に入室したディオン大佐を見上げる。
「周囲の人払いを」
「イエスマム」
おい、お前は誰の部下なんだ。
そう突っ込みを入れるよりも素早く、ディオンは敬礼して退室してしまった。
ぎこちない沈黙が室内に広がる。
しかし、マイン一等女官は室内の空気感などまったく気にしておらず、ディオンが仕事をする間を稼ぐ程度に唇を閉ざしてその場で立っていた。
「……どうぞ、お座りください」
軽く咳払いをしたグローム艦長が、室内にある唯一の椅子をすすめる。
「お気遣いなく」
案の定、彼女はその言葉を一刀両断にした。
間違いなく「そんな粗末なものに座れと言うのか」と思われている。まあ確かに、座るには硬そうな座面の椅子なのだが。
じわりと苛立ちがこみ上げてきたが、それを形にするより先に、女官が再び口を開いた。
「例の女の件ですが、今日の晩餐に招いてください」
「は?」
唐突な申し出に思わず聞き返すと、彼女の無表情な青灰色の目が、すうっと細くなった。
リヒターの返答が気に入らなかったのか、こちらの存在そのものが不快なのか。おそらくはその両方だろうと当たりが付く鉄壁の無表情だ。
「……ホストはもちろんリヒター中将で。お分かりかと思いますが、下手に疑いをもたれないよう、以前と変わらぬ態度を取るよう努めてください」
ふっと薄いその唇が笑みの形に歪んだ。
冷ややかな視線が、いまだベッドに横たわったままのこちらを見下ろす。
今、ものすごく蔑まれた気がする。
リヒターは弾かれたように身体を起こした。
軍医からまだ休んでいるようにと言われているので、かっちりとした軍服ではなく寛いだ服装である。ズボンは緩め、シャツの前のボタンは鳩尾辺りまでしか止めていない。
淑女に対するには随分と刺激的な服装だったが、マイン女官は顔色一つ変えなかった。
「説明は必要ですか?」
「もちろんだ。何をするつもりか教えてほしい」
おいグローム! こんな女に下手に出るお前じゃないだろう!!
「機密に触れますが、一応あなた方も関係者ですのでお話しておきます」
「……機密?」
「あの指輪の白い石の部分が問題です。最近、特に御方様のご身辺で大きな事件が頻発しております」
聞かされたのは非常にざっくりとした説明ではあったが、それでも背筋に震えが来るほどぞっとした。
「それじゃあ何か? 俺はよくわからない連中に嵌められて、妃殿下サマを殺すとかそういう……」
「直接的に手を掛けずとも、祭事に間に合わないよう仕向ければ十分です。そもそもこの里帰りは、祭事に参加される為でも公務をこなされる為でもなく、誘拐された御方様の名誉を守る為のものです。御方様を陛下のお側から排除したい何者かが手をまわしたのでしょう」
きらり、と銀色の光が女官の目に過った。
「ちなみに申し上げておきますが、御方様はハーデス公爵閣下のご養女ではなく、末の御実子です。皇妃、皇后に擁立されても不足のないお立場です」
リヒターは低く唸り、こぼれそうになる声を塞ぐために左手で口を覆った。
己がいつの間にか、とんでもない事態に巻き込まれていたことに気づいたのだ。
未だ御実子を持たない陛下が誰を皇后に据えるかについては、おそらくは国中の人間が関心を持っている。
かくいうリヒターとて、おそらくはあのお美しい第二皇妃だろうと漠然と思っていた。気質の悪い第一皇妃や、幼過ぎる第三皇妃は選ばないだろうと、どこかで口に出して言った気もする。
「私見ですが、陛下は御方様を大変ご寵愛なさっておいでです。遠からず皇妃に、しかるべき時を経ていと高いご身分へとお考えなのではないかと思います」
「で、ですがあのハーデス公爵家の姫なのですよね? 派閥のバランスに問題が出るのでは?」
言外に、「あの公爵」と含めたグロームの言いたいことはわかる。
国内外で力を持ちすぎているせいか、良くない噂が多いご老人だ。内に取り込むにはあまりにもリスクが高いのではないか。
貴族ではないグロームですらそう思う程、これまで陛下とハーデス公爵との関係性はよくなかった。
「さあ、そのあたりは私にはなんとも」
マイン女官は酷薄そうな唇の端をこれ見よがしに引き上げ、全然まったく笑っていない目で言葉を続けた。
「宰相閣下が失脚なさったことはご存知ですね?」
サッハートに寄港したときに拾った情報は、正直真偽を疑ってしまうものだったが、確かに、それが理由なら陛下が公爵と手を組むのは理解できる。
「長年私物化していた南方軍を御方様に向け、ご子息である総督が御方様を毒殺しようとしたことを容認なさったからです」
「……まさか」
リヒターは、常に冷静沈着、滅多なことで動じない同期の男が、珍しく額に冷や汗を浮かべたのに気づいた。彼自身は平民だが、妻は男爵家の出だ。派閥は宰相閣下のところとつながっている。
「誘拐が別口かどうかは調査中です。ですが拘束されているかの方が、今回のハニートラップを指示できるとは思えません」
リヒターは思いっきり横っ面をひっぱたかれた気がして息を詰めた。
ハニートラップという言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡り、情けなくも全身から力が抜けてくる。
「座礁船を用意するのは、通常手段では難しいはずです。そこまでして中将を騙し、御方様の足を引っ張りたい輩がどこかに居ます。私たちはそれを見つけ出したい」
マイン女官は、がっくりとベッドに両手をついたリヒターに、容赦なく冷ややかな言葉を浴びせかけた。
「ご迷惑をおかけした御方様のために、少しはまともな働きを見せてください」
話はこれで終わったとばかりに、背筋をまっすぐ伸ばしたままくるりとその場で背中を向ける。
彼女の口調は丁寧だが、リヒターたちに礼を取るそぶりすら見せない。一介の女官にすぎず、ここでは何の権限も力もないというのに。
そのあからさまな非礼に腹を立てるべきだったのだろう。しかし、叱責の一言どころか、引き留めて詳細を問い詰める気力すら湧かなかった。
「ああそれから……」
入り口の扉に手を当てたマイン一等女官が、半身だけ振り返ってこちらを見た。
傍らのグロームの肩がビクリと震えたのが見えたし、おそらくは己も大仰に強張った表情をしていたはずだ。
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