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最終章:想いの力
盗っ人ニザー
しおりを挟む部屋の中に足を踏み入れて進んでいくと、やがて苦しそうなうめき声と共に、やかましい笑い声が聞こえてきた。恐らくは広いだろう部屋の中には真っ黒な憎悪が飛び回り、そのせいで満足に周囲の様子さえ窺えない。誰がどこにいるのかはもちろん、何人いるかだってわからなかった。
ぐ、と強めに錫の剣を鞘ごと握り締めると、柄の部分に填め込まれた石が力強い輝きを放つ。すると、部屋を覆い尽くしていた黒い憎悪の塊は瞬く間に飛散してしまった。
「――!? 誰だ、どこから入った!?」
「な、なによ、これ……」
黒い靄が晴れた先の光景を見て、オレの後ろにいたティラが思わずといった様子で呟く。
部屋の中は、それはもう目を覆ってしまいたくなるような惨状だった。
カースたちは数百を超えるほどの数が確認できるけど、彼らは雁字搦めに縄で拘束され、目元は布で覆われて視界さえ奪われている。いつからどれだけ打たれてきたのか、辺りの床には黒く変色した血痕が散らばり、その傍には同じく黒くなった血がこびりついた鉄の棒まで転がっていた。それだけでなく、カースの中には腕や足が見たこともないような形に変わっている者までいる。
そこで、ふといつかのヴァージャの言葉が脳裏に思い起こされた。
『……お前は、この世界の魔物というものがどう誕生したか知っているか?』
……そうだ、初めてカースのことを聞いた時にヴァージャが言ってた。魔物の中には、元が人間だった種もあるって。
見たこともない形に身体が変形してるやつは、一部分が魔物化を始めてるってわけだ。初めてアフティに会った時は、彼女だってひどく重苦しい憎悪を放ってたけど、こんな現象は起きてなかった。……ここに閉じ込められてる連中は、これまでどんなひどい目に遭ってきたんだろう。
「お前は……グレイスか? カースではないな?」
「あんたがこんなことしたのか、これも皇帝の命令か?」
真新しい鉄の棒を握り締め、今まさにカースたちに暴行を加えていただろう男は、ジロジロと値踏みでもするような目で睨みつけてくる。頭頂部が薄くなった白髪の……老人っていうには若いか、中年くらいのオッサンだな。オッサンはオレの言葉を聞くなり、鉄の棒で強く床を叩いた。それと同時に、近くにいたカースたちが怯えたように身を強張らせる。
「何をふざけたことをぬかすか! 命じたのは神だ! 神がこうしろと言ったのだ! この者たちは神にとっては不要の存在ゆえ、生まれたことを後悔させてやれとな!」
……ああ、そうか。あくまでも「神がお前たちを苦しめている」とカースたちに思い込ませるために、そんな馬鹿げたことを言ってるのか。ってことは、本当のことをここで声高らかに叫ばれたら困るわけだ。
「……よく聞いてくれ、あんたたちをこんな目に遭わせてるのは神さまじゃなくて皇帝だ。しっかり思い出せ、あんたたちをここに連れてきたのは誰だ?」
「こ、こいつ! 黙らぬか!」
「――帝国兵たちだったはずだろ! 帝国兵に命令できるのは、皇帝以外にいない! 皇帝は神さまを倒すためにあんたたちをこんな目に遭わせて利用してるだけだ!」
オッサンが声を張り上げると、こっちも負けじと声を張る。視界が覆われているせいか聴覚が敏感になっているらしく、カースたちは想像以上に反応してくれた。じわじわとまた洩れ始めていた黒い靄が、惑うように辺りを彷徨う。
「どういう、こと……? もう、叩かれなくて、いいの……?」
「家に……家に、帰れるのか……? 家族がいるんだ、家に帰りたい、妻に、娘に会いたい……ッ」
「神も、皇帝も……どっちでもいいわ、もう……もうやめて、たすけて、ここから……出して……」
身体の自由を奪われ、視界さえ閉ざされたカースたちは弱々しい声でそう呟いた。それらは波紋の如く広がり、部屋にいた他の者たちが次々にむせび泣き始める。
その姿がひどく痛ましくて、憐れで、上手く言葉にもならない。きっとオレには想像もできないほどの目に遭わされてきたんだろう。憤慨するオッサンを後目に彼らの方に歩み寄ると、距離が近付くにつれて身体の状態がハッキリと見えてくる。
折れておかしな方向に曲がった手足、黒く変色した皮膚、中には皮膚を突き破って骨が突き出ている人までいた。女の子だって問答無用に顔面を殴られたらしく、頬が腫れ上がっていたり、折れた歯がいくつも床に転がっている。
「貴様ッ! グレイスだからと無事に済むと思っているのか!? 邪魔をするのならば――!」
「リーヴェ! あぶな……!」
その時、白髪のオッサンがいきり立ったように大股で近付いてきた。手にしていた鉄の棒を振り上げて、飛びかかってくる。ティラやブリュンヒルデの声が背中に届いたけど、今からじゃ回避は間に合いそうにない。激しく激昂したオッサンの顔が間近まで迫った矢先、不意に視界が赤一色に染まった。
最初はぶん殴られたのかと思ったけど、どうやらそういうわけでもないようで――
「見つけたよ、ニザー。僕から盗んだ研究資料を返してもらおうか」
「な……ッ!? ば、ばばば、馬鹿な!?」
視界いっぱいに映った赤は血ではなくて、あのグリモア博士の髪だった。博士はオレとオッサンの間に突如として現れたかと思いきや、振り下ろされかけた鉄の棒を軽々と片手で受け止めていた。
「は、博士、なんで生きてんの!?」
「はははッ、生きてちゃ悪いみたいな言い方だね、僕があの程度のことで死ぬわけないじゃないか。ほら、肩も腕もちゃんとこの通りだよ」
間違いない、どう見てもグリモア博士だ。切断されたはずの腕だって、まるで何事もなかったかのように普通にくっついてるし、動いてる。……生きてた、博士が……よかった。
んで、ニザーってのは……あの白髪のオッサンのことか、あいつが博士から資料を盗んで帝国に寝返ったってやつだったんだな。オッサン――ニザーは不意に現れた博士を前に、面白いくらいに狼狽していた。
「グ、グリモア博士……皇帝陛下に殺されたはずじゃ……!?」
「おや、皇帝がそんな自慢をしてたのかい? さすがグレイスやカースたちを利用して世界征服をしようだなんてぶっ飛んだことを考えるお人だ、まったく愚かで仕方がないよ」
博士のその言葉に、ただでさえ動揺していただろうカースたちの身からは、完全に黒い靄が消えてしまった。それを見て、ニザーっていうオッサンが悔しげに鉄の棒で床を叩く。
そっちは博士に任せることにして、カースたちの傍に屈み込む。腕の一部が魔物化を始めてる一人の男の身体に手を触れさせると、その身は怯えるように跳ねた。……かわいそうに。
「……すぐ助けに来れなくて、ごめんな。もう大丈夫だから」
エルに絡みついてた憎悪を吹き飛ばした時は、錫の剣が全部やってくれた。だから、今回もこの剣に任せるのがきっと一番いい。オレにできることは……苦しさのあまり神を憎むしかなかったこの人たちが、少しでも楽になれるように願うことだけ。
改めて錫の剣を握り込むと、想いに応えるかのように再び力強い輝きを放った。
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