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デカート
セレール商会 共和国協定千四百三十五年大暑
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翌日はグレンを連れて新型の圧縮熱機関車でヴィンゼの町を回った。
グレンもユーリも天蓋付きの車内にどこからか風が送られていることに驚いたが、それが夏の日差しに似合わぬさわやかな涼しさを持ったものであることにしばし困惑していた。そして、グレンは通ったことのある館とヴィンゼまでのあまり均されていない道を機関車がかなりの速度で走りだしたことに改めて驚いた。
朝、食事をして、ユーリが殆ど初めての乗馬を体験し、太陽が屋敷の辺りを上から照らすようになってからヴィンゼに向けて出発したというのに、驚くことに昼前には狼虎庵にたどり着いていた。それもあまりの振動にユーリが途中で気分が悪くなって途中でしばらく休憩したのにである。
狼虎庵に寄ってグレンを紹介しがてら、めまいを起こしていたユーリにアイスクリンを食べさせていると、用人たちは来訪を歓迎したが客人の様子を見れば一様に気の毒そうな風でもあった。
「早馬駆けを思えばあんなものですな。それにしても早い。以前デカートの町中で見かけた時はこれほどとは思いませんでしたが、機関車というものは容赦なく走らせるとこれほど早いものだったのですか」
「町中では危ないのであまり飛ばせませんが、このあたりであれば人馬にぶつかるということもありませんから、だいぶ気楽に走らせられます。この機関車は一昨日のものと操作は一緒ですから、すぐに慣れると思いますよ。自分で運転したほうが調子もつかみやすいので楽だと思います」
「それで、売り物にされるつもりはお持ちですか」
グレンはアイスクリンを舐めながら言った。
「本当はあれこそ売りたいところなのですが、数を出すのが難しそうなのでなんともですね」
「予価としてはどの程度を」
「一千万タレル。と言っておかないとたぶんボクが苦しむだろうと思っています」
「ちなみに年でいくつほど売れますか」
「舟よりは小さいのでいくらかはマシですが、年で数台。調子が出てきても二十を超えるかどうかは怪しいですかね。小さい方は倍は無理でもだいぶ作れると思いますよ」
ふむ。と満足気にグレンは鼻を鳴らした。
「燃料はおいくらになりますか」
「手元で混ぜていただく形のものが、十パウンで一タレル。それを九倍の大豆油と合わせていただいて燃料にします。大豆油はまぁ時価ですがお店では安いかと」
「どのくらい厳密ですか」
「正直わかりません。千台も作ってみれば、偶然なのか、故障なのか、不具合なのか、扱いなのか、といったことがわかるようになると思いますが、まだ十両もないものなので。ただ、うちの連中が誰でも扱えるようなものなので無事の間は扱えるものだと思います。それに前の機関車よりは操舵も車輪も格段に良くなっているので、そうそうあちこちがへし折れることはないと思います」
熱流体振り子機関車は足回りの脆弱さからしばしば車輪が割れ舵輪が軸からへし折れるという事件が起きていた。木製の車輪を銅管で支えるという構造上の妥協によるものだが、立体織機による鋼線の軸と石炭ゴムで作った空気バネの皮を軽金属の車輪で支えるものにしたことで、様々に改善されていた。ともかくわかり易いのはゴムによって滑らなくなったということと、いきなり壊れる前に空気が抜けるということだった。
もちろん滑らなくなったことで色々細かな機構が必要になっているわけであるが、ともかくそういったところは今のところ上手く動いている。
車輪全体が小さく軽くなったことでバネや腕の動きが軽くなり、車輪に掛かる衝撃が減り、乗り心地もずいぶんマシになったことで、乗り物の速度を上げても危険が随分と減った。
空気の漏れについても枠を歪みにくい金属にしたことで随分と減っている。
「一息にどれくらい走れるものですか」
「それもまだなんとも。今のところ大きい方が燃料を二ストンでだいたい五百リーグほど走れそうですが、油が悪くなるのが先か燃料が切れるのが先かという感じです」
「対策はありますか」
「割り物を増やしていけば、ある程度は。あまり増やしても効果は頭打ちなので、不調を感じたら足してみるということをさせていますが、その辺は試してみないとという感じですね。小さい方は四十パウンくらいの燃料しか入らないので、痛むより先に使いきれています。ナタネ油やごま油・オリーブ油などでは今ひとつ上手くいっていません。産地や銘柄までは充分に実験できていないのでなんともですが」
「いまのところ大豆油だけですか」
「大豆油だけです。成分を特定してもよいのですが、そうすると面倒も増えますので今のところは大豆油だけです。本当はもっと良い燃料があるのだろうと思いますが」
「石炭ガスや骸炭よりは私どもにとってはありがたいですな。大豆油の産地だけで二十はある。良い銘柄を選べれば商売にも繋がる」
「本当にこのみつきほどの新しいモノなのでお譲りするのは吝かではないのですが、当然に知見が足りなくて不調や故障が起こってもご寛恕いただいた上で、更にご協力頂きたいという、ひどくお客様を選ぶ種類の商品になるのは間違いないのです」
「しかし、使えるならその価値がある」
「そうです。馬より軽くより早い。二人を載せ百リーグほど一息に走る乳母車は使えるなら、商会では使い出のある絡繰になると思います」
グレンはニヤリと笑った。
「使えますね。ところで、この絡繰を何処かが真似をしても構わないと思っていらっしゃいますか」
グレンは口元を笑いの形に歪めてそう言った。
マジンはそれを聞いてちょっと不思議そうな顔をしたがニヤリと笑った。
「どうぞ。上手く解体が出来て組み立てられるなら、それもよろしいかと思います。ただ、全く同じものを作るのはよほどの手練の工房でもしばらくは難しいかと思います。まずは蒸気圧機関から勉強していただくのが近道かと。バラバラにしてみたはいいが組み立てられませんでした、と泣きつかれてもそれはいただけません」
「例えば以前の機関車をお譲りいただくことは」
「それはおすすめしません。あれは生半可なことで解体すると家一軒が吹き飛んでもおかしくないものですから。車体は大したものではありませんが、機関としてはかなり手の込んだシロモノになっています」
乗り物向けに最初に作ったものが一番仕組みとしては大したものだというのは、燃料による制限によるところが大きかった。そしてその制限のために技術的に高度にならざるを得なかった。
グレンは少し不思議そうな顔をしたが、追及はしなかった。
「ごちそうさまでした。だいぶ落ち着きましたわ。それでこのあとはまたあの車でご案内くださるのかしら」
ユーリが気取った口調で話に割り込んだ。生意気な声が出せるくらいには回復したということらしい。なかなか頼もしいとも感じられた。
「いえ。狭い町ですので歩きましょう。大したものがあるわけではありませんが、雑貨屋と町役場くらいはありますし、目の前のパン屋は田舎にしてはそこそこ気の利いた店です。先ほどのアイスクリンの付け合せに出したのはそこのパン屋の品です」
今日はついてきているワングが興味を惹かれた顔をした。
塩味のきいた固すぎず噛みごたえのあるパンはアイスクリンの冷たさを適度に和らげ甘みを引き立てる。
一行はまず市場を訪れた。
市場といっても単に屋根のあるところに露天が勝手に陣取っているだけの壁のない吹きさらしであったが、今日は二十軒ほどが店を出していた。マジンが挨拶をするまでもなく子供たちが挨拶するのに、もってけもってけ、で土産が集まりただでは悪いからとカネを払うと抱えるのが難しいほどの農作物が集まった。
正直なところセレール商会で並んでいるものに比べれば形の悪いものがほとんどだったが、グレンは気にせず幾つかの作物を生で囓って感想をいちいち述べたりしていた。旨いだの不味いだのというよりも、水が多かったか少なかっただの摘むのが早いだの遅いだのという如何にも玄人くさいことを言うので、店の者共が学者先生かと尋ねるのに、デカートのセレール商会の若旦那がローゼンヘン館に遊びに来ているとマジンが明かすことになった。
アルジェンとアウルムに手を開けてもらうために一旦狼虎庵に戻ってもらって町役場に向かうことにした。ワングも気を利かせて手伝ってくれたので、町役場まで身軽に向かうことができた。
夏の町役場の中は何となくだらしない雰囲気だったが、マジンが見慣れない身なりの正しい人物と少女を連れてきたことで慌てて身繕いをした町長が出てきた。
「ようこそ、ゲリエの。今日はなんのようで。冬の雇い口の話でも、という雰囲気ではないね。こちらの紳士はどちらです」
セゼンヌは興味をどう示して良いものか迷った風に言った。
「こちらはデカートのセレール商会のグレン・セレール氏。我が家に遊びに来たのだが、ヴィンゼの町を案内して欲しいということだったので一応こちらにも挨拶にきた。さっき軽く市場も回ってみたところだ。日が昇りきってしまっているから、市場としてはまぁ残念なところだろうが、ウチは町からはちょっと遠いからね」
そんな風に控えめに説明するとセゼンヌは鼻を鳴らして頷いた。
最初、セレール商会の名前にピンとこなかったようだが、季節や土地の作物の話がひとしきり話が回ったところで、セゼンヌが恐る恐る商いになりそうな作物はありましたか、と問いかけるのにグレンは町の作物のすべてを買い上げても商会の商いには全く不足しており、まずは町の拡充を図ってほしい、とだけ述べた。
酒場に立ち寄って昼食を取り意外にマトモなお茶とお菓子が出てくるのにユーリが驚いたが、ゲリエ家の娘達が甘いモノが大好きでマジンの放蕩に付き合わされて酒場で手持ちぶたさにしているのが気の毒でツケで食わせてやるからと始めたのが、一つの看板料理になっていた。
最初は単に甘いオムレツだったものが、氷屋が立ち上がりソラとユエが配達を始め、人を雇った辺りでは季節の果物をあしらい、冷たいものから温かいものまで時間があれば実に幅広く扱うようになっていた。それでも娘達のイチオシは少しの小麦で支えた塩を利かせたバターとハチミツたっぷりの甘いスフレオムレツだった。
次に回ったミストブルの雑貨屋はひとつの町の目玉でもあった。
当たり前の品の間にあまりよその街では見かけない品が並んでいた。
丸薬めいた散弾や肥料も不思議なものだったが、簡素な遠眼鏡や鏡に並んで小さな方位磁石が手頃な値段で並べられていることなどもグレンには驚きだった。他の街で売られているモノは大抵は仰々しく少しばかり高価だったから、二つ買ってもひどく安く感じられた。
ユーリは透明なガラスにしてはやわらかな膜に包まれた押し花に興味を惹かれたらしい。
ミストブルはマジンの顔を見ると少し言いにくそうな顔をして預かっていた脱穀機が壊れたと告げた。
店の表に置かれていた脱穀機を見てみると、なるほど誰かが乱暴に扱ったらしく壊れている。明日引き取りに来る、と言って店を引き上げた。
押し花のカードを買い求めたユーリをニコニコして見つめていたソラとユエにユーリが、二人が作ったの、と尋ねると、アルジェン姉様の作品、とふたりは嬉しそうに答えた。
グレンは興味深げに脱穀機を眺めていた。
「先ほどのアレは」
「ああ。脱穀機ですか」
「脱穀機。察すると脱穀ということは籾を外してくれる機械ということですか」
「干した藁束から籾を外し揉んで籾殻まで外してくれる仕掛けです。が、この辺りでは何故か評判が悪いらしくて、ただで使わせてみていたのですが、誰かが小石と木の枝あたりを突っ込んで壊したようですね」
肩をすくめるようにマジンは笑った。
「便利なものであろうに、心ないことを」
「ま、そうなるだろうという予想はしていました」
「どうされるのですか」
「まぁ、引き上げますよ。どのみちウチでも一台必要なものですし、壊れたと云ってもあの程度なら工具と材料があれば、すぐ直るようなモノです」
帰りは買ったりもらったりした野菜や果物で多少車内が狭くなっていた。そういえば八人乗れると言っても初日に面白半分で詰め込んで以来、八人載せたことはなかった、などと思いだしていた。
脱穀機を引き上げてくるように言うと、マキンズは色々言いたいところがあるような顔をしたが、そこは取り合わなかった。
脱穀機は軒代の十タレルで雑貨屋から引き上げてくるとその日の夕刻までには修理も終わり、ユーリに種籾を籾殻と穀粒とに試しにより分けてさせてみていた。
「これはすごい。扱き屋どころか穀叩きもなくなる」
グレンはなぜ壊されたかを一瞬で悟ったようだった。
「ヴィンゼあたりだと寒農が多く、人を雇うよりは自前でやりたいだろうと思ったのですが、そうでもないようですね」
マジンは宛が外れたことを認めた。
「うちのような商売ですと、籾のまま引き取って自前で脱穀するほうが保存がはるかに利くので、とても便利ですね。場所もこれ以上には取らないということなら、軒の片隅で脱穀が出来ますし。これも引き取って帰ってよろしいですか」
グレンはユーリがよりわけられた穀粒を楽しげに改めているのを眺めながら言った。
「値段は聞かないでよろしいのですか」
「雑貨屋では千二百タレルとありました。これなら知った大工に頼めば直せそうですし、娘が遊び半分に数パウンを脱穀できるなら、冗談でなく扱き屋や穀叩きは要らなくなります。店で扱う全量をということになれば、一台では足りなくなるのでしょうが、値段を聞けば百台は言い過ぎでも二十台は欲しくなります」
「部品の準備はあるので、あと三台は組めます。要り用なら四台はお持ち帰りになれますよ」
「四台とも頂きます。これは文句はないな、ワング」
「旦那様のお望みに文句をつけたことはないと思います」
ワングはすまして応えた。
「だが機関車については、文句を言っていたろう」
「誰にどのように使わせるおつもりかと、お尋ねしたまでです」
「高過ぎるとも言っていたぞ」
「単に旦那様の早駆けのオモチャとしてはと言いました。ヴィンゼとこちらのお屋敷の道程を経て使い方があればその価値はあることは実感いたしました。どことどこをどのようにお繋ぎになるつもりですか。お買い上げのつもりの機関車は積み荷が恐らく二三ストンまでと言ったところでしょう。確かに馬一頭で数十リーグを長駆するのは至難ですが、一樽数万タレルといった品がそうそうあるわけではございません。それでも急ぎの用を考えれば、百万タレルであれば使い出のある安い品ですが、三百万タレルは大旦那様への弁明をご一考いただいたほうがよろしい額と感じます」
理路整然としたワングの言葉にグレンは口を尖らかす。
「オヤジも分けのわからん壺や彫刻に数百万タレル出しているだろう」
「アチラは美術品。門外に出すことはなく壊れることは念頭にありません。こちらは実用品です。しかも乱暴に扱うことが大前提の馬引どもの早駆けに使われることが間違いないシロモノです。こちらのお屋敷の様にゲリエ様の手当が常に受けられるわけではありません」
ワングの言葉は冷静にグレンを追い詰めていた。
「機械の丈夫さに関しては槌や銃で撃ったりどこから転げ落とさないかぎりは、四万リーグ、負荷運転時間で連続二百日を念頭にしています。毎日ヴィンゼと当館を四往復もするようであれば半年ほどであちこちにガタが来ると思いますが、それほどに重宝していただけるなら、それは光栄な事だと思います」
ワングはマジンの言葉に目を吸い寄せられたがその表情は静かなままだった。だが、数値を意識した予測を示したことで、商家のふたりはそれぞれに思うところは増えた。
「半年で世界を何周かできるほどには丈夫だということですね」
そう言ったグレンの言葉にワングは分かりやすく顔を顰めた。
「適切な燃料があり、乗っているヒトが怪我をしないかぎりは。乗って帰られるということであればデカートまで遠乗りにお付き合いいたしましょう。理屈の上では当館からデカートまで、日の出から出れば夕刻までには走りきれるはずなのですが、試したことはないので、丁度良い試験になります」
マジンがそう言葉を継いだ時、グレンの顔は明るくなった。
「――用途が思いつかないということであれば、こういたしましょう。機関車を五万タレルで一両だけひとつきお貸しします。自走可能な状態であれば預かり金として二万タレルはお返しして引き取ります。お気にめせばお買い上げください」
ワングは多少驚いた顔をした。が、怒りや憤りを感じさせる雰囲気ではなかった。
「では、まずはひとつきお借りします。これからですと月末までは多少半端ですが、日割りがよろしいですか、それとも当日を起算日としましょうか」
申し出を予想していたわけではあるまいが、グレンはワングに確認せずそのまま受けた。
「十日もないですし、起算は一日からで月末締めにいたしましょう。再来月一日に回収に伺います。冷凍庫の点検もありますし、引き取らないですむことを期待して伺いましょう」
翌日からユーリは乗馬のグレンは機関車の稽古にそれから半月ほどを費やし、少し上流の鴨の営巣地で狩りに出掛けられるくらいまで上達した。
ユーリは馬上に慣れてくると帰路で馬に任せて居眠りができるくらいまですぐに上達していた。
重量わずか三ストンの機関車は大人一人で持ち上げるのは無理でも後輪の接続を切ればグレンはおろかユーリひとりでも押して転がすのは可能で、コツさえ掴めば短い斜面を押して上ることもできるようなモノだった。グレンの大胆と無謀の狭間の運転は芯入りの乗馬帽と肩首から頭の後まで張り出した乗馬用のつけ襟のおかげで事なきを得ていた。
乗馬帽と付け襟はその丈夫さを示すために、グレンの持つ拳銃で銃撃を受けたが、無事であったことで、ユーリもグレンも素直に防具をつけるようになった。
ユーリは自分用と父用に二組をマジンに求め、値段を改めて乗馬帽は五百タレルつけ襟は三百タレルというマジンの言葉に少し驚いたようだった。
「お高いですか」
「命を守る防具としてはお安いと思ったの。機関車を一台買うくらいなら馬丁に配ったほうがよほど良いかと思って」
「お聡いですね。うちの連中にも云って聞かせたいところです」
「お家の方も着けないことがあるの」
ユーリは不思議そうに言った。
「乗馬帽の方は機関車の座席に括りつけるようにしたので、皆つけていますが、つけ襟の方はコルセットと組なので、いい加減にする者が多いですね。ぶつかったり落ちたりしなければ確かに不要のものですが」
「コルセットはおいくらなの」
「ご婦人用は作っておりません。というか、合わせて仕立ててつくるので、出来合いで置いていないのです。お父上のは試しに作ったものが体にあったのでそのままお譲りできますが、ユーリさんのはお仕立てしないと、アウルムのものではやはり窮屈でしょう」
「でも、おかげで正しい姿勢で居眠りができますわよ」
ユーリは気取った風にそう言った。
「――不思議な大工さんだと思っていたのに、お仕立てもなさるのね。お部屋の押し入れやタンスを見せていただいてお話を聞いた時にはほんとうに驚いたわ」
ユーリは改めてマジンの顔を見上げてそう言った。
「田舎の広い家に住んでいますからね。手遊びといっても実用ができれば、暮らしの足しになります」
「必要や闘争だけが進歩を産むというなら、弟ではないけど勉強をする必要とか意味について考えてしまいますね」
ユーリはそんな風に感想を述べた。
グレンはデカートまで機関車を自走して帰ることにした。ユーリはグレンの後ろに乗って帰ることになった。どう考えても舟で帰ったほうが楽だと薦めたのだが、本当に一日で帰れるなら確かめたい、ということでグレンの後ろに乗ることになった。
正直、足手まといになるだろうと思っていたのだが、ユーリはやはり足手まといではあった。
疲れただのめまいがするだのと速度が下がり休憩が増え、予定の倍ほども時間がかかっていた。日が落ちるというのに、まだデカートの天蓋が見える位置にたどり着いていなかった。
正直なところユーリが一生懸命起きていようとする努力自体が激しく揺れる機関車の後部座席では防具と座席に守られていてさえ彼女を翻弄し続け体力を削っていた。
運転席側のグレンはそれでも自らの意識と体力の限界とを道程と速度に競わせることで緊張の釣り合いを取り続けていたが、旅慣れ様々な騎乗や乗り物の経験があってさえ法外な振動には道中の食事を手控えるほどだった。
しかし明るい前照灯と後輪を照らしている尾灯が夜道を導き、ようやく疲れきったユーリがおとなしくなってから機関車は本来のペースで走れるようになり、夜が明けないうちにマジンは燃料改質添加剤を入れた琺瑯引きの金樽をグレンの邸宅に下し、帰路についた。
明け方燃料を足したあとは一気に走りきり、昼前にローゼンヘン館に帰り着いた。
その旅程の意味は機関車にとってはある意味物足りないものだった。途中十数回の休憩の結果、日の出前に帰り着いているという計画は潰えた。だがもちろんそんな目論見はユーリが同行することになった瞬間に諦めていたし、別の機会にいくらでも試みることができる企みだった。
当然に、セレール商会或いはグレンとユーリにとっては全く別の印象の旅程だった。
旅の当日は証文と代金を執事に言いつけ準備させるまでで精一杯で、娘を預けると用人には説明らしい説明もほとんどせぬままに機関車の荷は解かずグレンは翌日の午後まで眠っていた。
ユーリは翌日朝早く異様にすっきりとした気分で目が覚めた。
昨日一日は結局吐いて吐き続け、吐くものがなくなって上からも下からも出るものがなくなってからは空気を吐くようにして鼻水と涙で汚した顔を土埃にまみれさせ気を失ったまま家に帰り着き、マジンとは挨拶をすることもなく別れた。口にしたものといえば水で薄めたぶどう酒で口を濯ぐくらいで旅としては船旅の比ではない苦痛に満ちた、今思えば恥辱に満ちた旅程だった。
その恥辱はなんということか自らが望んでのことで、マジンは再三にわたって翻意を促していた。
それは、ワングの諫言の様に家格や立場を慮ってというものではなく、もっとユーリ個人の資質に直結した危惧であったから却ってユーリは意地になったし、最後は父と恨み言は言わないとだけ約束をして後部座席に収まった。
結果として拷問と変わらない一日を味わった。だが一日で一気に八十五リーグを駆け抜けた。という実感はあった。しかも、父がだ。
そのことは奇妙な高揚感として感じられた。
商家の子女として身の回りの一通りは嗜みとして身につけていたが、優雅な怠惰と裕福な無責任を生まれに備え、膜がかかったような世界の調和を感じて熱心なものではなかった。
往きの旅に使った機関船というものが舟遊びの舟と違うということを理解はしたが、正直それが物語の海を往く舟と何が違うのかという感想であったし、そうであるにしては厠がないのは不思議な片手落ちであるように感じていた。
それに比べれば帰りの旅に使った機関車の荒々しくもわかりやすい速さはなんたることだったか。優しげな気遣いさえ見せることのある馬とは全く異なる、荒野を吹きすさぶ旋風の如き傍若なそれは、しかし只人の扱う道具にすぎないものであることは、父が示してみせた。
そのことがユーリの心に深くなにかを刻みつけた。
ユーリは部屋着に外套を羽織ったまま、館の馬舎に足を向ける。馬丁の多くは出払っているらしく、馬も少なかった。
そばに建っている馬車小屋を覗いてみると砂塵にまみれた機関車がそこにいた。
ユーリは思いつく限りの始動手順をしてみたが機関車はうんともすんとも言わなかった。思い返してみると、そういえばユーリは鍵の存在を忘れていた。
鍵は電灯のスイッチであるばかりでなくあちこちの動きを止める働きをしていた。鍵がないままには制動器も戻らず押して転がすのも苦労する、というよりも酷く良く出来た車輪は石畳に張り付くように吸い付き、ユーリの力では揺らすのすら苦労する有様だった。
色々苦心して機関車を持ち出すことには失敗したわけだが、隣が馬舎であることを思い出した。
ユーリは鞍を自分でつけて、ちょっと出掛けてみることにした。
馬を牽いて出るところで年老いた馬丁に見咎められた。馬丁はユーリが馬を扱えることを知らなかったが鞍と鐙の様子を見ると、出先だけだけを尋ねた。
ユーリは川沿いの風車の辺りを目指してみるとだけ言った。あまりに曖昧な言い方に馬丁は朝食までにはお戻りなさいよ、と笑って引っ込んでしまった。
ユーリは学志館まで行って異様な熱気というべき学会の始まる前の朝の雰囲気を味わって、家まで戻ってきた。朝食までには戻れなかった。
戻ってきたユーリに祖父は朝食に出てこなかったことを咎めたが、学志館の様子を見てきたと告げると、学志館の学会の価値や有り様に一家言くらいはあるストーン家の総代としては孫娘にあまり強く云う気は消えてしまったし、そもそも家督を継がせるべき嫡子が未だに寝ているだらしなさを思えば、同じ旅をしていた孫娘が散歩で朝食に出てこれなかったことくらいで怒る気にはなれなかった。
祖父はユーリの遅い朝食に付き合いながら、昨日なにがあったかの顛末を尋ねた。
孫娘は荒野を吹きすさぶ風を追い抜くようにして、ヴィンゼの北の外れから一気にデカートまで駆け抜けたことを祖父に語って聞かせた。
グレンは旅を愛していたし、必ずしも計算高い性格ではないことは知っていた。というか、計算を無視したがる癖があるのはよく知っていたから、体が無事なうちはなかなか当主の座を明け渡す気にはなれなかった。もちろん、計算を無視したがるというのは無謀な遊びを好むということではあるが、結局は貿易の利益なぞそう厳密なものではない。と云うのは一面でもあった。
損害は出費を積算することで計算ができるが、利益は将来の出費を見越したものであるから、厳密に言えばある程度の窓の区切り方で自在に設定される。本来利益は年次を区切って狙うべきものではない。
そういう一般則の範囲でグレンの新奇を求める旅は商人としては間違いではなかったし、大目に見れた。しかし、機関船や冷凍庫というものは度を過ごしている。あまりに根幹的な新技術で無視をすれば振り落とされかねず、かと言ってそれにどれほどの投資を求められるのかがわからない。
一昨年の冬、ハリス・ストーンに共同事業として百万タレルの出資を持ちかけられたときには断った。
物事がうまく行けば激しく大事になることがわかっていたからだ。
一つの成功が新たな成果を生み、一つの成果が新たな革新を、一つの革新が新たな混乱を生む。
そういう予感があった。
事業そのものの損益はどうでもよい。
事業の波及効果が例えば自宅の裏に突然天まで突き立つ巨大な山が出現するようなものだからだ。
次に思ったことは、それを生み出す泉か渦の如き人物をどう扱うべきかということだった。
具体的にはどうやって殺すかどうやって手元に寄せるかだったが、積極的な妨害はおこなわなかった。
糧秣の商いがなかったわけではない賊共が一党アッサリと片付けられるような腕の賞金稼ぎでは半端な暴力ではケリがつかない。
やったことといえばせいぜい裁判が起きたときにワーズ・リンスという正義漢にあたるようにしてみたくらいだ。
当然に多くの葛藤があった。
そもそも遠方の話であったし、経由地を考えれば近隣でもあるヴィンゼという田舎の出来事は奇貨でもある。
価値を思えば、得てみたいという判断もあったし、数百万タレルという金額ははっきりいえばストーン商会にとってもセレール商会にとっても月次の決算の中ではひとつの穀倉、ひとつの鉱山でのちょっとした事件という程度の投資でしかない。もちろん個人との取引としてみれば破格ではあるが、金額そのものが面倒のもとではない。
山師でない詐欺師であっても、或いは文字通りの山師であっても一回限りであれば損益はその場その件で確定する。
全く単純にゼィド・セレールとしては成功した老人として守りに入る贅沢が許されていただけだ。
臆病怯懦は一身を為した者にこそ必要な資質だとゼィドは考えていた。
セレール商会は穀物を軸に扱う商会でその利益は広く大きく手堅い。だがその鎖の網は複雑で脆い。
農民という天候任せの博打の胴元でもある穀物商は変化に敏感かつ自発的積極的ではならないとゼィドは考えていた。一年水が枯れず土地をひっかくことができる農民一軒は無能不作でも三軒、有能豊作なら五十軒に迫る食い扶持を実りとして得る。
土地を持っている農民はよほどの小規模農でも町住みの過半の連中よりも生活に先行きがある。その先行きは太陽が一日で巡り季節が順当に巡り、土地の水が枯れることなく、土が痩せることなく、戦の炎が襲うことがないことを前提にしている。
デカート周辺は全く幸いな事にこの数十年戦の炎にさらされることはなかった。
不幸なことにヴィンゼは近年町が壊滅と云って良い被害を受けたが、セレール商会としては全く幸いな事に大きな取引先はなかった。未だに穀倉としては控えめに言っても魅力が殆ど無いヴィンゼをどう扱うべきかについては、ゼィドは興味が無い。
問題は結局、ゲリエ家という奇妙な実業家がどういうものであるのか、という話だけであった。
孫娘はローゼンヘン館の様々に心酔しているようだったが、その説明は今ひとつ要領を得たものではなかった。
ただ一日でヴィンゼからデカートまで暴れ馬のように駆け抜けた機関車とやらの話は興味を惹かれざるを得なかった。
よく鍛えた馬でも一日十リーグを超えて走り続けるのは難しかったし、時に人が走ったほうが早くなることもあるから、五十リーグ以上を一日で駆け抜けるという騎馬伝令は継馬をよほど上手く配してもなかなかに難しい。
聞けば何やら云う薬液の入った樽を積んで駆け抜けたという。一日でデカートの領域を一気にまたげるというのは素晴らしいと思った。
値段を聞けば三百万タレルという。バカなことを、と言いかけたところで、ひとつきだけ五万タレルで貸してくれた、と孫娘が言うのに、小賢しいと口の中で噛み潰した。
それだけの時間で八十五リーグに馬を並べるとして一日で人二人と一樽運ぼうと思えば、馬百頭では心もとないことを計算して、ため息を答えにした。
孫娘を嫁にやって縁戚でも結んでしまおうかとも考えていたが、ゲリエ・マキシマジンのことはなんとなく気に入れそうもなかった。
午後を過ぎ、静かな邸宅の中では雨音とも人の騒がしさとも異なる音がかすかに聞こえ、ゼィドが窓の外を眺めると奇妙な手カゴのような乗り物がかなりの速さで庭先から門を抜けて出て行った。
機関車であることはすぐに思い至った。荷馬車の代わりになるとは思えない大きさであったが、なるほど景気のよさ気な走りっぷりは、しかし話に聞くより随分滑らかであるように見えた。
午後になって目を覚ましたグレンはあちこちが突っ張るような痛みを感じていた。とくに革張りの座席に押し付けるようにしていた背中から太腿にかけてのこわばりは尋常でなく、馬のように内ももに力を必要としていなかったはずなのに神経を集中させていた足の裏から膝のスジは奇妙な疲労を感じていた。
八十五リーグを地を這う風のように駆け抜けた機関車は、石畳が敷かれたデカートの町は郊外の荒れた道とは全く違って、自分のペースで走る限り馬よりもなめらかに荷馬車の流れを追い抜けた。
本店から順番に三つの支店をすべて回り、運河口を訪れると上流から曳船を曳いた機関船がやってくるのが見えた。
機関船はなれた雰囲気で運河の外側の船着場の外桟橋に舟を寄せると荷のやり取りを始めた。
グレンが運河の中に入ってこない舟を慌てて迎えにゆくとちょうど綱をかけて舟を寄せ終わったところだった。ワングはグレンの顔を見かけると一礼して、迎えに待ち構えていた者達に指図をして積み荷の下しを差配した。積み荷はセレール家のものだけではなかったらしく曳船にいっぱいの積み荷を別の家の手代が積み下ろしの差配をしていた。
家の荷物の受け取りが終わったところでユーリが馬に乗ってあらわれたのはグレンにとって少しばかり嬉しい驚きだった。
ユーリは馬をワングに預けると父の後ろに収まった。
「馬はもう良いのかい」
「お父様が起きたら機関車をお借りするつもりだったのにいつの間にかいらっしゃらないのだもの」
グレンが尋ねるのにユーリは口を尖らかせるように言った。
「それは悪かった。しかしすっかり乗馬がうまくなったね」
「町中ですもの」
ユーリは見え透いたお世辞を言われたかのように応えたが、グレンとしては娘の成長を頼もしく感じた。
「だが自分で鞍や鐙を合わせたのだろう。そんなことはついこの間まで出来なかったじゃないか」
「そうですけど」
ワングは短すぎる鐙に苦労していたけれど、間に合わせられないということでもない。
グレンはするりと速度を上げ、街の中心の雑踏を通らない道で遠回りをして自宅に向かう。川沿いに天蓋の柱を巻いて外からの街道に沿って邸宅を目指す。セレール家の本宅は元来農地だった雑踏を離れた一角にある。
敢えて町中の利便にこだわるまでもない。必要な物はゴンドラと馬車で運べば良いとあれば、デカートの富裕層は運河と街道で仕切られた扇状の一角に住まうことを貴富の証としていた。
ワングは機関車の値段が高過ぎると言っていたが、グレンはそうでもないと思っていた。理由はデカートのあちこちで行われる会合は価値が有るのかないのか足を運んでみないとわからない、という点にあった。もちろん、この小さな機関車にくつろがせるべきお客様を乗せることはありえないが、自らが出向くには充分だったし、とくに会合に価値が無いということであれば、さっさと切り上げて別の場所に移ることも不可能ではなくなる。
商品を運ぶことはなくとも、情報とグレン自身の時間を濃密に使うことができるようになることは大きな意味があった。
もちろん値切ってみせるためのやり取りというばかりではなく、機関車の運用には色々な疑問や難点もあるわけだけれど、それは二両目以降を導入してゆくことで解決することだったし、ローゼンヘン館とヴィンゼを往復するのに使った貨客用の機関車が手に入るならそれはまた大きく変わる。
そういうことだった。
グレンもユーリも天蓋付きの車内にどこからか風が送られていることに驚いたが、それが夏の日差しに似合わぬさわやかな涼しさを持ったものであることにしばし困惑していた。そして、グレンは通ったことのある館とヴィンゼまでのあまり均されていない道を機関車がかなりの速度で走りだしたことに改めて驚いた。
朝、食事をして、ユーリが殆ど初めての乗馬を体験し、太陽が屋敷の辺りを上から照らすようになってからヴィンゼに向けて出発したというのに、驚くことに昼前には狼虎庵にたどり着いていた。それもあまりの振動にユーリが途中で気分が悪くなって途中でしばらく休憩したのにである。
狼虎庵に寄ってグレンを紹介しがてら、めまいを起こしていたユーリにアイスクリンを食べさせていると、用人たちは来訪を歓迎したが客人の様子を見れば一様に気の毒そうな風でもあった。
「早馬駆けを思えばあんなものですな。それにしても早い。以前デカートの町中で見かけた時はこれほどとは思いませんでしたが、機関車というものは容赦なく走らせるとこれほど早いものだったのですか」
「町中では危ないのであまり飛ばせませんが、このあたりであれば人馬にぶつかるということもありませんから、だいぶ気楽に走らせられます。この機関車は一昨日のものと操作は一緒ですから、すぐに慣れると思いますよ。自分で運転したほうが調子もつかみやすいので楽だと思います」
「それで、売り物にされるつもりはお持ちですか」
グレンはアイスクリンを舐めながら言った。
「本当はあれこそ売りたいところなのですが、数を出すのが難しそうなのでなんともですね」
「予価としてはどの程度を」
「一千万タレル。と言っておかないとたぶんボクが苦しむだろうと思っています」
「ちなみに年でいくつほど売れますか」
「舟よりは小さいのでいくらかはマシですが、年で数台。調子が出てきても二十を超えるかどうかは怪しいですかね。小さい方は倍は無理でもだいぶ作れると思いますよ」
ふむ。と満足気にグレンは鼻を鳴らした。
「燃料はおいくらになりますか」
「手元で混ぜていただく形のものが、十パウンで一タレル。それを九倍の大豆油と合わせていただいて燃料にします。大豆油はまぁ時価ですがお店では安いかと」
「どのくらい厳密ですか」
「正直わかりません。千台も作ってみれば、偶然なのか、故障なのか、不具合なのか、扱いなのか、といったことがわかるようになると思いますが、まだ十両もないものなので。ただ、うちの連中が誰でも扱えるようなものなので無事の間は扱えるものだと思います。それに前の機関車よりは操舵も車輪も格段に良くなっているので、そうそうあちこちがへし折れることはないと思います」
熱流体振り子機関車は足回りの脆弱さからしばしば車輪が割れ舵輪が軸からへし折れるという事件が起きていた。木製の車輪を銅管で支えるという構造上の妥協によるものだが、立体織機による鋼線の軸と石炭ゴムで作った空気バネの皮を軽金属の車輪で支えるものにしたことで、様々に改善されていた。ともかくわかり易いのはゴムによって滑らなくなったということと、いきなり壊れる前に空気が抜けるということだった。
もちろん滑らなくなったことで色々細かな機構が必要になっているわけであるが、ともかくそういったところは今のところ上手く動いている。
車輪全体が小さく軽くなったことでバネや腕の動きが軽くなり、車輪に掛かる衝撃が減り、乗り心地もずいぶんマシになったことで、乗り物の速度を上げても危険が随分と減った。
空気の漏れについても枠を歪みにくい金属にしたことで随分と減っている。
「一息にどれくらい走れるものですか」
「それもまだなんとも。今のところ大きい方が燃料を二ストンでだいたい五百リーグほど走れそうですが、油が悪くなるのが先か燃料が切れるのが先かという感じです」
「対策はありますか」
「割り物を増やしていけば、ある程度は。あまり増やしても効果は頭打ちなので、不調を感じたら足してみるということをさせていますが、その辺は試してみないとという感じですね。小さい方は四十パウンくらいの燃料しか入らないので、痛むより先に使いきれています。ナタネ油やごま油・オリーブ油などでは今ひとつ上手くいっていません。産地や銘柄までは充分に実験できていないのでなんともですが」
「いまのところ大豆油だけですか」
「大豆油だけです。成分を特定してもよいのですが、そうすると面倒も増えますので今のところは大豆油だけです。本当はもっと良い燃料があるのだろうと思いますが」
「石炭ガスや骸炭よりは私どもにとってはありがたいですな。大豆油の産地だけで二十はある。良い銘柄を選べれば商売にも繋がる」
「本当にこのみつきほどの新しいモノなのでお譲りするのは吝かではないのですが、当然に知見が足りなくて不調や故障が起こってもご寛恕いただいた上で、更にご協力頂きたいという、ひどくお客様を選ぶ種類の商品になるのは間違いないのです」
「しかし、使えるならその価値がある」
「そうです。馬より軽くより早い。二人を載せ百リーグほど一息に走る乳母車は使えるなら、商会では使い出のある絡繰になると思います」
グレンはニヤリと笑った。
「使えますね。ところで、この絡繰を何処かが真似をしても構わないと思っていらっしゃいますか」
グレンは口元を笑いの形に歪めてそう言った。
マジンはそれを聞いてちょっと不思議そうな顔をしたがニヤリと笑った。
「どうぞ。上手く解体が出来て組み立てられるなら、それもよろしいかと思います。ただ、全く同じものを作るのはよほどの手練の工房でもしばらくは難しいかと思います。まずは蒸気圧機関から勉強していただくのが近道かと。バラバラにしてみたはいいが組み立てられませんでした、と泣きつかれてもそれはいただけません」
「例えば以前の機関車をお譲りいただくことは」
「それはおすすめしません。あれは生半可なことで解体すると家一軒が吹き飛んでもおかしくないものですから。車体は大したものではありませんが、機関としてはかなり手の込んだシロモノになっています」
乗り物向けに最初に作ったものが一番仕組みとしては大したものだというのは、燃料による制限によるところが大きかった。そしてその制限のために技術的に高度にならざるを得なかった。
グレンは少し不思議そうな顔をしたが、追及はしなかった。
「ごちそうさまでした。だいぶ落ち着きましたわ。それでこのあとはまたあの車でご案内くださるのかしら」
ユーリが気取った口調で話に割り込んだ。生意気な声が出せるくらいには回復したということらしい。なかなか頼もしいとも感じられた。
「いえ。狭い町ですので歩きましょう。大したものがあるわけではありませんが、雑貨屋と町役場くらいはありますし、目の前のパン屋は田舎にしてはそこそこ気の利いた店です。先ほどのアイスクリンの付け合せに出したのはそこのパン屋の品です」
今日はついてきているワングが興味を惹かれた顔をした。
塩味のきいた固すぎず噛みごたえのあるパンはアイスクリンの冷たさを適度に和らげ甘みを引き立てる。
一行はまず市場を訪れた。
市場といっても単に屋根のあるところに露天が勝手に陣取っているだけの壁のない吹きさらしであったが、今日は二十軒ほどが店を出していた。マジンが挨拶をするまでもなく子供たちが挨拶するのに、もってけもってけ、で土産が集まりただでは悪いからとカネを払うと抱えるのが難しいほどの農作物が集まった。
正直なところセレール商会で並んでいるものに比べれば形の悪いものがほとんどだったが、グレンは気にせず幾つかの作物を生で囓って感想をいちいち述べたりしていた。旨いだの不味いだのというよりも、水が多かったか少なかっただの摘むのが早いだの遅いだのという如何にも玄人くさいことを言うので、店の者共が学者先生かと尋ねるのに、デカートのセレール商会の若旦那がローゼンヘン館に遊びに来ているとマジンが明かすことになった。
アルジェンとアウルムに手を開けてもらうために一旦狼虎庵に戻ってもらって町役場に向かうことにした。ワングも気を利かせて手伝ってくれたので、町役場まで身軽に向かうことができた。
夏の町役場の中は何となくだらしない雰囲気だったが、マジンが見慣れない身なりの正しい人物と少女を連れてきたことで慌てて身繕いをした町長が出てきた。
「ようこそ、ゲリエの。今日はなんのようで。冬の雇い口の話でも、という雰囲気ではないね。こちらの紳士はどちらです」
セゼンヌは興味をどう示して良いものか迷った風に言った。
「こちらはデカートのセレール商会のグレン・セレール氏。我が家に遊びに来たのだが、ヴィンゼの町を案内して欲しいということだったので一応こちらにも挨拶にきた。さっき軽く市場も回ってみたところだ。日が昇りきってしまっているから、市場としてはまぁ残念なところだろうが、ウチは町からはちょっと遠いからね」
そんな風に控えめに説明するとセゼンヌは鼻を鳴らして頷いた。
最初、セレール商会の名前にピンとこなかったようだが、季節や土地の作物の話がひとしきり話が回ったところで、セゼンヌが恐る恐る商いになりそうな作物はありましたか、と問いかけるのにグレンは町の作物のすべてを買い上げても商会の商いには全く不足しており、まずは町の拡充を図ってほしい、とだけ述べた。
酒場に立ち寄って昼食を取り意外にマトモなお茶とお菓子が出てくるのにユーリが驚いたが、ゲリエ家の娘達が甘いモノが大好きでマジンの放蕩に付き合わされて酒場で手持ちぶたさにしているのが気の毒でツケで食わせてやるからと始めたのが、一つの看板料理になっていた。
最初は単に甘いオムレツだったものが、氷屋が立ち上がりソラとユエが配達を始め、人を雇った辺りでは季節の果物をあしらい、冷たいものから温かいものまで時間があれば実に幅広く扱うようになっていた。それでも娘達のイチオシは少しの小麦で支えた塩を利かせたバターとハチミツたっぷりの甘いスフレオムレツだった。
次に回ったミストブルの雑貨屋はひとつの町の目玉でもあった。
当たり前の品の間にあまりよその街では見かけない品が並んでいた。
丸薬めいた散弾や肥料も不思議なものだったが、簡素な遠眼鏡や鏡に並んで小さな方位磁石が手頃な値段で並べられていることなどもグレンには驚きだった。他の街で売られているモノは大抵は仰々しく少しばかり高価だったから、二つ買ってもひどく安く感じられた。
ユーリは透明なガラスにしてはやわらかな膜に包まれた押し花に興味を惹かれたらしい。
ミストブルはマジンの顔を見ると少し言いにくそうな顔をして預かっていた脱穀機が壊れたと告げた。
店の表に置かれていた脱穀機を見てみると、なるほど誰かが乱暴に扱ったらしく壊れている。明日引き取りに来る、と言って店を引き上げた。
押し花のカードを買い求めたユーリをニコニコして見つめていたソラとユエにユーリが、二人が作ったの、と尋ねると、アルジェン姉様の作品、とふたりは嬉しそうに答えた。
グレンは興味深げに脱穀機を眺めていた。
「先ほどのアレは」
「ああ。脱穀機ですか」
「脱穀機。察すると脱穀ということは籾を外してくれる機械ということですか」
「干した藁束から籾を外し揉んで籾殻まで外してくれる仕掛けです。が、この辺りでは何故か評判が悪いらしくて、ただで使わせてみていたのですが、誰かが小石と木の枝あたりを突っ込んで壊したようですね」
肩をすくめるようにマジンは笑った。
「便利なものであろうに、心ないことを」
「ま、そうなるだろうという予想はしていました」
「どうされるのですか」
「まぁ、引き上げますよ。どのみちウチでも一台必要なものですし、壊れたと云ってもあの程度なら工具と材料があれば、すぐ直るようなモノです」
帰りは買ったりもらったりした野菜や果物で多少車内が狭くなっていた。そういえば八人乗れると言っても初日に面白半分で詰め込んで以来、八人載せたことはなかった、などと思いだしていた。
脱穀機を引き上げてくるように言うと、マキンズは色々言いたいところがあるような顔をしたが、そこは取り合わなかった。
脱穀機は軒代の十タレルで雑貨屋から引き上げてくるとその日の夕刻までには修理も終わり、ユーリに種籾を籾殻と穀粒とに試しにより分けてさせてみていた。
「これはすごい。扱き屋どころか穀叩きもなくなる」
グレンはなぜ壊されたかを一瞬で悟ったようだった。
「ヴィンゼあたりだと寒農が多く、人を雇うよりは自前でやりたいだろうと思ったのですが、そうでもないようですね」
マジンは宛が外れたことを認めた。
「うちのような商売ですと、籾のまま引き取って自前で脱穀するほうが保存がはるかに利くので、とても便利ですね。場所もこれ以上には取らないということなら、軒の片隅で脱穀が出来ますし。これも引き取って帰ってよろしいですか」
グレンはユーリがよりわけられた穀粒を楽しげに改めているのを眺めながら言った。
「値段は聞かないでよろしいのですか」
「雑貨屋では千二百タレルとありました。これなら知った大工に頼めば直せそうですし、娘が遊び半分に数パウンを脱穀できるなら、冗談でなく扱き屋や穀叩きは要らなくなります。店で扱う全量をということになれば、一台では足りなくなるのでしょうが、値段を聞けば百台は言い過ぎでも二十台は欲しくなります」
「部品の準備はあるので、あと三台は組めます。要り用なら四台はお持ち帰りになれますよ」
「四台とも頂きます。これは文句はないな、ワング」
「旦那様のお望みに文句をつけたことはないと思います」
ワングはすまして応えた。
「だが機関車については、文句を言っていたろう」
「誰にどのように使わせるおつもりかと、お尋ねしたまでです」
「高過ぎるとも言っていたぞ」
「単に旦那様の早駆けのオモチャとしてはと言いました。ヴィンゼとこちらのお屋敷の道程を経て使い方があればその価値はあることは実感いたしました。どことどこをどのようにお繋ぎになるつもりですか。お買い上げのつもりの機関車は積み荷が恐らく二三ストンまでと言ったところでしょう。確かに馬一頭で数十リーグを長駆するのは至難ですが、一樽数万タレルといった品がそうそうあるわけではございません。それでも急ぎの用を考えれば、百万タレルであれば使い出のある安い品ですが、三百万タレルは大旦那様への弁明をご一考いただいたほうがよろしい額と感じます」
理路整然としたワングの言葉にグレンは口を尖らかす。
「オヤジも分けのわからん壺や彫刻に数百万タレル出しているだろう」
「アチラは美術品。門外に出すことはなく壊れることは念頭にありません。こちらは実用品です。しかも乱暴に扱うことが大前提の馬引どもの早駆けに使われることが間違いないシロモノです。こちらのお屋敷の様にゲリエ様の手当が常に受けられるわけではありません」
ワングの言葉は冷静にグレンを追い詰めていた。
「機械の丈夫さに関しては槌や銃で撃ったりどこから転げ落とさないかぎりは、四万リーグ、負荷運転時間で連続二百日を念頭にしています。毎日ヴィンゼと当館を四往復もするようであれば半年ほどであちこちにガタが来ると思いますが、それほどに重宝していただけるなら、それは光栄な事だと思います」
ワングはマジンの言葉に目を吸い寄せられたがその表情は静かなままだった。だが、数値を意識した予測を示したことで、商家のふたりはそれぞれに思うところは増えた。
「半年で世界を何周かできるほどには丈夫だということですね」
そう言ったグレンの言葉にワングは分かりやすく顔を顰めた。
「適切な燃料があり、乗っているヒトが怪我をしないかぎりは。乗って帰られるということであればデカートまで遠乗りにお付き合いいたしましょう。理屈の上では当館からデカートまで、日の出から出れば夕刻までには走りきれるはずなのですが、試したことはないので、丁度良い試験になります」
マジンがそう言葉を継いだ時、グレンの顔は明るくなった。
「――用途が思いつかないということであれば、こういたしましょう。機関車を五万タレルで一両だけひとつきお貸しします。自走可能な状態であれば預かり金として二万タレルはお返しして引き取ります。お気にめせばお買い上げください」
ワングは多少驚いた顔をした。が、怒りや憤りを感じさせる雰囲気ではなかった。
「では、まずはひとつきお借りします。これからですと月末までは多少半端ですが、日割りがよろしいですか、それとも当日を起算日としましょうか」
申し出を予想していたわけではあるまいが、グレンはワングに確認せずそのまま受けた。
「十日もないですし、起算は一日からで月末締めにいたしましょう。再来月一日に回収に伺います。冷凍庫の点検もありますし、引き取らないですむことを期待して伺いましょう」
翌日からユーリは乗馬のグレンは機関車の稽古にそれから半月ほどを費やし、少し上流の鴨の営巣地で狩りに出掛けられるくらいまで上達した。
ユーリは馬上に慣れてくると帰路で馬に任せて居眠りができるくらいまですぐに上達していた。
重量わずか三ストンの機関車は大人一人で持ち上げるのは無理でも後輪の接続を切ればグレンはおろかユーリひとりでも押して転がすのは可能で、コツさえ掴めば短い斜面を押して上ることもできるようなモノだった。グレンの大胆と無謀の狭間の運転は芯入りの乗馬帽と肩首から頭の後まで張り出した乗馬用のつけ襟のおかげで事なきを得ていた。
乗馬帽と付け襟はその丈夫さを示すために、グレンの持つ拳銃で銃撃を受けたが、無事であったことで、ユーリもグレンも素直に防具をつけるようになった。
ユーリは自分用と父用に二組をマジンに求め、値段を改めて乗馬帽は五百タレルつけ襟は三百タレルというマジンの言葉に少し驚いたようだった。
「お高いですか」
「命を守る防具としてはお安いと思ったの。機関車を一台買うくらいなら馬丁に配ったほうがよほど良いかと思って」
「お聡いですね。うちの連中にも云って聞かせたいところです」
「お家の方も着けないことがあるの」
ユーリは不思議そうに言った。
「乗馬帽の方は機関車の座席に括りつけるようにしたので、皆つけていますが、つけ襟の方はコルセットと組なので、いい加減にする者が多いですね。ぶつかったり落ちたりしなければ確かに不要のものですが」
「コルセットはおいくらなの」
「ご婦人用は作っておりません。というか、合わせて仕立ててつくるので、出来合いで置いていないのです。お父上のは試しに作ったものが体にあったのでそのままお譲りできますが、ユーリさんのはお仕立てしないと、アウルムのものではやはり窮屈でしょう」
「でも、おかげで正しい姿勢で居眠りができますわよ」
ユーリは気取った風にそう言った。
「――不思議な大工さんだと思っていたのに、お仕立てもなさるのね。お部屋の押し入れやタンスを見せていただいてお話を聞いた時にはほんとうに驚いたわ」
ユーリは改めてマジンの顔を見上げてそう言った。
「田舎の広い家に住んでいますからね。手遊びといっても実用ができれば、暮らしの足しになります」
「必要や闘争だけが進歩を産むというなら、弟ではないけど勉強をする必要とか意味について考えてしまいますね」
ユーリはそんな風に感想を述べた。
グレンはデカートまで機関車を自走して帰ることにした。ユーリはグレンの後ろに乗って帰ることになった。どう考えても舟で帰ったほうが楽だと薦めたのだが、本当に一日で帰れるなら確かめたい、ということでグレンの後ろに乗ることになった。
正直、足手まといになるだろうと思っていたのだが、ユーリはやはり足手まといではあった。
疲れただのめまいがするだのと速度が下がり休憩が増え、予定の倍ほども時間がかかっていた。日が落ちるというのに、まだデカートの天蓋が見える位置にたどり着いていなかった。
正直なところユーリが一生懸命起きていようとする努力自体が激しく揺れる機関車の後部座席では防具と座席に守られていてさえ彼女を翻弄し続け体力を削っていた。
運転席側のグレンはそれでも自らの意識と体力の限界とを道程と速度に競わせることで緊張の釣り合いを取り続けていたが、旅慣れ様々な騎乗や乗り物の経験があってさえ法外な振動には道中の食事を手控えるほどだった。
しかし明るい前照灯と後輪を照らしている尾灯が夜道を導き、ようやく疲れきったユーリがおとなしくなってから機関車は本来のペースで走れるようになり、夜が明けないうちにマジンは燃料改質添加剤を入れた琺瑯引きの金樽をグレンの邸宅に下し、帰路についた。
明け方燃料を足したあとは一気に走りきり、昼前にローゼンヘン館に帰り着いた。
その旅程の意味は機関車にとってはある意味物足りないものだった。途中十数回の休憩の結果、日の出前に帰り着いているという計画は潰えた。だがもちろんそんな目論見はユーリが同行することになった瞬間に諦めていたし、別の機会にいくらでも試みることができる企みだった。
当然に、セレール商会或いはグレンとユーリにとっては全く別の印象の旅程だった。
旅の当日は証文と代金を執事に言いつけ準備させるまでで精一杯で、娘を預けると用人には説明らしい説明もほとんどせぬままに機関車の荷は解かずグレンは翌日の午後まで眠っていた。
ユーリは翌日朝早く異様にすっきりとした気分で目が覚めた。
昨日一日は結局吐いて吐き続け、吐くものがなくなって上からも下からも出るものがなくなってからは空気を吐くようにして鼻水と涙で汚した顔を土埃にまみれさせ気を失ったまま家に帰り着き、マジンとは挨拶をすることもなく別れた。口にしたものといえば水で薄めたぶどう酒で口を濯ぐくらいで旅としては船旅の比ではない苦痛に満ちた、今思えば恥辱に満ちた旅程だった。
その恥辱はなんということか自らが望んでのことで、マジンは再三にわたって翻意を促していた。
それは、ワングの諫言の様に家格や立場を慮ってというものではなく、もっとユーリ個人の資質に直結した危惧であったから却ってユーリは意地になったし、最後は父と恨み言は言わないとだけ約束をして後部座席に収まった。
結果として拷問と変わらない一日を味わった。だが一日で一気に八十五リーグを駆け抜けた。という実感はあった。しかも、父がだ。
そのことは奇妙な高揚感として感じられた。
商家の子女として身の回りの一通りは嗜みとして身につけていたが、優雅な怠惰と裕福な無責任を生まれに備え、膜がかかったような世界の調和を感じて熱心なものではなかった。
往きの旅に使った機関船というものが舟遊びの舟と違うということを理解はしたが、正直それが物語の海を往く舟と何が違うのかという感想であったし、そうであるにしては厠がないのは不思議な片手落ちであるように感じていた。
それに比べれば帰りの旅に使った機関車の荒々しくもわかりやすい速さはなんたることだったか。優しげな気遣いさえ見せることのある馬とは全く異なる、荒野を吹きすさぶ旋風の如き傍若なそれは、しかし只人の扱う道具にすぎないものであることは、父が示してみせた。
そのことがユーリの心に深くなにかを刻みつけた。
ユーリは部屋着に外套を羽織ったまま、館の馬舎に足を向ける。馬丁の多くは出払っているらしく、馬も少なかった。
そばに建っている馬車小屋を覗いてみると砂塵にまみれた機関車がそこにいた。
ユーリは思いつく限りの始動手順をしてみたが機関車はうんともすんとも言わなかった。思い返してみると、そういえばユーリは鍵の存在を忘れていた。
鍵は電灯のスイッチであるばかりでなくあちこちの動きを止める働きをしていた。鍵がないままには制動器も戻らず押して転がすのも苦労する、というよりも酷く良く出来た車輪は石畳に張り付くように吸い付き、ユーリの力では揺らすのすら苦労する有様だった。
色々苦心して機関車を持ち出すことには失敗したわけだが、隣が馬舎であることを思い出した。
ユーリは鞍を自分でつけて、ちょっと出掛けてみることにした。
馬を牽いて出るところで年老いた馬丁に見咎められた。馬丁はユーリが馬を扱えることを知らなかったが鞍と鐙の様子を見ると、出先だけだけを尋ねた。
ユーリは川沿いの風車の辺りを目指してみるとだけ言った。あまりに曖昧な言い方に馬丁は朝食までにはお戻りなさいよ、と笑って引っ込んでしまった。
ユーリは学志館まで行って異様な熱気というべき学会の始まる前の朝の雰囲気を味わって、家まで戻ってきた。朝食までには戻れなかった。
戻ってきたユーリに祖父は朝食に出てこなかったことを咎めたが、学志館の様子を見てきたと告げると、学志館の学会の価値や有り様に一家言くらいはあるストーン家の総代としては孫娘にあまり強く云う気は消えてしまったし、そもそも家督を継がせるべき嫡子が未だに寝ているだらしなさを思えば、同じ旅をしていた孫娘が散歩で朝食に出てこれなかったことくらいで怒る気にはなれなかった。
祖父はユーリの遅い朝食に付き合いながら、昨日なにがあったかの顛末を尋ねた。
孫娘は荒野を吹きすさぶ風を追い抜くようにして、ヴィンゼの北の外れから一気にデカートまで駆け抜けたことを祖父に語って聞かせた。
グレンは旅を愛していたし、必ずしも計算高い性格ではないことは知っていた。というか、計算を無視したがる癖があるのはよく知っていたから、体が無事なうちはなかなか当主の座を明け渡す気にはなれなかった。もちろん、計算を無視したがるというのは無謀な遊びを好むということではあるが、結局は貿易の利益なぞそう厳密なものではない。と云うのは一面でもあった。
損害は出費を積算することで計算ができるが、利益は将来の出費を見越したものであるから、厳密に言えばある程度の窓の区切り方で自在に設定される。本来利益は年次を区切って狙うべきものではない。
そういう一般則の範囲でグレンの新奇を求める旅は商人としては間違いではなかったし、大目に見れた。しかし、機関船や冷凍庫というものは度を過ごしている。あまりに根幹的な新技術で無視をすれば振り落とされかねず、かと言ってそれにどれほどの投資を求められるのかがわからない。
一昨年の冬、ハリス・ストーンに共同事業として百万タレルの出資を持ちかけられたときには断った。
物事がうまく行けば激しく大事になることがわかっていたからだ。
一つの成功が新たな成果を生み、一つの成果が新たな革新を、一つの革新が新たな混乱を生む。
そういう予感があった。
事業そのものの損益はどうでもよい。
事業の波及効果が例えば自宅の裏に突然天まで突き立つ巨大な山が出現するようなものだからだ。
次に思ったことは、それを生み出す泉か渦の如き人物をどう扱うべきかということだった。
具体的にはどうやって殺すかどうやって手元に寄せるかだったが、積極的な妨害はおこなわなかった。
糧秣の商いがなかったわけではない賊共が一党アッサリと片付けられるような腕の賞金稼ぎでは半端な暴力ではケリがつかない。
やったことといえばせいぜい裁判が起きたときにワーズ・リンスという正義漢にあたるようにしてみたくらいだ。
当然に多くの葛藤があった。
そもそも遠方の話であったし、経由地を考えれば近隣でもあるヴィンゼという田舎の出来事は奇貨でもある。
価値を思えば、得てみたいという判断もあったし、数百万タレルという金額ははっきりいえばストーン商会にとってもセレール商会にとっても月次の決算の中ではひとつの穀倉、ひとつの鉱山でのちょっとした事件という程度の投資でしかない。もちろん個人との取引としてみれば破格ではあるが、金額そのものが面倒のもとではない。
山師でない詐欺師であっても、或いは文字通りの山師であっても一回限りであれば損益はその場その件で確定する。
全く単純にゼィド・セレールとしては成功した老人として守りに入る贅沢が許されていただけだ。
臆病怯懦は一身を為した者にこそ必要な資質だとゼィドは考えていた。
セレール商会は穀物を軸に扱う商会でその利益は広く大きく手堅い。だがその鎖の網は複雑で脆い。
農民という天候任せの博打の胴元でもある穀物商は変化に敏感かつ自発的積極的ではならないとゼィドは考えていた。一年水が枯れず土地をひっかくことができる農民一軒は無能不作でも三軒、有能豊作なら五十軒に迫る食い扶持を実りとして得る。
土地を持っている農民はよほどの小規模農でも町住みの過半の連中よりも生活に先行きがある。その先行きは太陽が一日で巡り季節が順当に巡り、土地の水が枯れることなく、土が痩せることなく、戦の炎が襲うことがないことを前提にしている。
デカート周辺は全く幸いな事にこの数十年戦の炎にさらされることはなかった。
不幸なことにヴィンゼは近年町が壊滅と云って良い被害を受けたが、セレール商会としては全く幸いな事に大きな取引先はなかった。未だに穀倉としては控えめに言っても魅力が殆ど無いヴィンゼをどう扱うべきかについては、ゼィドは興味が無い。
問題は結局、ゲリエ家という奇妙な実業家がどういうものであるのか、という話だけであった。
孫娘はローゼンヘン館の様々に心酔しているようだったが、その説明は今ひとつ要領を得たものではなかった。
ただ一日でヴィンゼからデカートまで暴れ馬のように駆け抜けた機関車とやらの話は興味を惹かれざるを得なかった。
よく鍛えた馬でも一日十リーグを超えて走り続けるのは難しかったし、時に人が走ったほうが早くなることもあるから、五十リーグ以上を一日で駆け抜けるという騎馬伝令は継馬をよほど上手く配してもなかなかに難しい。
聞けば何やら云う薬液の入った樽を積んで駆け抜けたという。一日でデカートの領域を一気にまたげるというのは素晴らしいと思った。
値段を聞けば三百万タレルという。バカなことを、と言いかけたところで、ひとつきだけ五万タレルで貸してくれた、と孫娘が言うのに、小賢しいと口の中で噛み潰した。
それだけの時間で八十五リーグに馬を並べるとして一日で人二人と一樽運ぼうと思えば、馬百頭では心もとないことを計算して、ため息を答えにした。
孫娘を嫁にやって縁戚でも結んでしまおうかとも考えていたが、ゲリエ・マキシマジンのことはなんとなく気に入れそうもなかった。
午後を過ぎ、静かな邸宅の中では雨音とも人の騒がしさとも異なる音がかすかに聞こえ、ゼィドが窓の外を眺めると奇妙な手カゴのような乗り物がかなりの速さで庭先から門を抜けて出て行った。
機関車であることはすぐに思い至った。荷馬車の代わりになるとは思えない大きさであったが、なるほど景気のよさ気な走りっぷりは、しかし話に聞くより随分滑らかであるように見えた。
午後になって目を覚ましたグレンはあちこちが突っ張るような痛みを感じていた。とくに革張りの座席に押し付けるようにしていた背中から太腿にかけてのこわばりは尋常でなく、馬のように内ももに力を必要としていなかったはずなのに神経を集中させていた足の裏から膝のスジは奇妙な疲労を感じていた。
八十五リーグを地を這う風のように駆け抜けた機関車は、石畳が敷かれたデカートの町は郊外の荒れた道とは全く違って、自分のペースで走る限り馬よりもなめらかに荷馬車の流れを追い抜けた。
本店から順番に三つの支店をすべて回り、運河口を訪れると上流から曳船を曳いた機関船がやってくるのが見えた。
機関船はなれた雰囲気で運河の外側の船着場の外桟橋に舟を寄せると荷のやり取りを始めた。
グレンが運河の中に入ってこない舟を慌てて迎えにゆくとちょうど綱をかけて舟を寄せ終わったところだった。ワングはグレンの顔を見かけると一礼して、迎えに待ち構えていた者達に指図をして積み荷の下しを差配した。積み荷はセレール家のものだけではなかったらしく曳船にいっぱいの積み荷を別の家の手代が積み下ろしの差配をしていた。
家の荷物の受け取りが終わったところでユーリが馬に乗ってあらわれたのはグレンにとって少しばかり嬉しい驚きだった。
ユーリは馬をワングに預けると父の後ろに収まった。
「馬はもう良いのかい」
「お父様が起きたら機関車をお借りするつもりだったのにいつの間にかいらっしゃらないのだもの」
グレンが尋ねるのにユーリは口を尖らかせるように言った。
「それは悪かった。しかしすっかり乗馬がうまくなったね」
「町中ですもの」
ユーリは見え透いたお世辞を言われたかのように応えたが、グレンとしては娘の成長を頼もしく感じた。
「だが自分で鞍や鐙を合わせたのだろう。そんなことはついこの間まで出来なかったじゃないか」
「そうですけど」
ワングは短すぎる鐙に苦労していたけれど、間に合わせられないということでもない。
グレンはするりと速度を上げ、街の中心の雑踏を通らない道で遠回りをして自宅に向かう。川沿いに天蓋の柱を巻いて外からの街道に沿って邸宅を目指す。セレール家の本宅は元来農地だった雑踏を離れた一角にある。
敢えて町中の利便にこだわるまでもない。必要な物はゴンドラと馬車で運べば良いとあれば、デカートの富裕層は運河と街道で仕切られた扇状の一角に住まうことを貴富の証としていた。
ワングは機関車の値段が高過ぎると言っていたが、グレンはそうでもないと思っていた。理由はデカートのあちこちで行われる会合は価値が有るのかないのか足を運んでみないとわからない、という点にあった。もちろん、この小さな機関車にくつろがせるべきお客様を乗せることはありえないが、自らが出向くには充分だったし、とくに会合に価値が無いということであれば、さっさと切り上げて別の場所に移ることも不可能ではなくなる。
商品を運ぶことはなくとも、情報とグレン自身の時間を濃密に使うことができるようになることは大きな意味があった。
もちろん値切ってみせるためのやり取りというばかりではなく、機関車の運用には色々な疑問や難点もあるわけだけれど、それは二両目以降を導入してゆくことで解決することだったし、ローゼンヘン館とヴィンゼを往復するのに使った貨客用の機関車が手に入るならそれはまた大きく変わる。
そういうことだった。
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