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01、リラとアルカンジェロの出会い
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公爵邸の夜会は優雅な音楽に彩られていた。
木管フルートが鳥のさえずりを模倣し、ビオラ・ダ・ガンバの奏でる低弦の響きが対旋律を描き出す。時折鍵盤楽器の分散和音が光の粒のごとく舞い上がった。
「リラ・プリマヴェーラ――」
だが、私の名を呼ぶグイード様の声は恐ろしく冷たい。
かすかに眉をひそめた私の耳に、男性歌手が歌う流行りのオペラアリアが聞こえて来た。深みのあるコントラルトが大広間を包み込んだとき、不機嫌な言葉が歌声をかき消した。
「お前と交わした婚約を破棄させてもらう」
私は言葉を失った。この男は馬鹿なのかしら? 私たちの婚約は両家が決めたもの。簡単に破棄などできないのに。
視界の端で、長身の男性歌手が楽団に合図を出すのが見えた。すぐに音楽が止まり、異変に気が付いた人々が遠巻きに私たちを囲む。
内心呆れ返った私に、グイード様が言葉を重ねた。
「お前のような真面目くさった女はいらない。僕は一緒に人生を楽しめるパメラ嬢と婚約する!」
グイードのうしろから、宝石をいくつも縫い付けた目に痛いドレス姿の男爵令嬢が現れた。
「グイード様、わがバンキエーリ家が力添えいたしますから、お好きなだけ賭け事をお楽しみくださいまし」
数代前の当主が高利貸しで財を成したバンキエーリ家は、王家に多額の寄付をして男爵位を手に入れた新興貴族だ。
「パメラ、きみは僕にとって理想的な女性だ。それにひきかえリラ・プリマヴェーラ、お前はさんざん僕を苛立たせた!」
グイードは憎々しげに私をにらんだ。
「リラ、何か言うことはないのか!」
発言を求められた私は仕方なく口を開いた。
「大変残念ですわ。賭博場に通いつめるグイード様をお諫めしたのが間違っておりましたのね」
「ふん、騎士団長の娘だけあって心臓も強いようだな」
唇の端に冷笑を浮かべるグイードの言葉を受けて、周りの令嬢たちがひそひそと耳打ちし合う。
「本当ですわね。わたくしでしたら気を失ってしまいますわ」
「まったくですわ。こんな社交の場で恥をかかされて、顔色一つ変えずに立っていらっしゃるなんて」
「堅物令嬢という二つ名に恥じぬ豪胆さですわね。心が石でできているのかしら?」
どうやらここは卒倒すべき場面だったらしい。私は観衆の求めに応じることにした。
手の甲を額に当て、もう一方の手で苦しげに胸を抑える。
「よよよ……」
腹筋で体を支え、ゆらぁりと床に倒れ込んでみた。大理石の床に頭を打ち付けたら大変だ。ぐっと下腹部に力を込めたとき、美貌の青年が宙を翔けるがごとく走り寄ってきた。
「お嬢様、お気を確かに」
力強い腕で抱きとめられる。驚いて顔を上げると、愁いを帯びたチョコレートブラウンのまなざしと目が合った。
どなた、と尋ねようとして、私は思い出した。彼はさっきまで器楽アンサンブルと共にオペラアリアを歌っていたアルト歌手だ。
彼は私の背中を片膝に乗せ、大きな手のひらで私の頭を支えてくれる。もう一方の手で、ウエストコートの下に提げていたペンダントを取り出した。銀細工の香壺のふたを指先で開け、私の鼻先に近づける。
「お嗅ぎなさい。気付け薬です」
ツンとした香りが鼻孔を鋭く刺激する。だが後頭部に添えられたあたたかい手のひらに、私は安心感を覚えていた。
「ん――」
意識が戻ってきた風を装って伏し目がちにしていたまぶたを見開くと、彫刻のごとく整った顔立ちが視界に入った。黒々とした長い睫毛に縁どられた瞳は、シャンデリアが振りまく光の粒を反射してカラメルのように甘く輝いている。
「少し横になっていたほうがよさそうですね」
彼は一瞬ためらいを見せたが、自分のジュストコールを脱いで私の肩にかけた。彼の体温が残る絹織物が、素肌にあたたかい。
「失礼します」
彼が私を抱き上げて初めて、私の肌に触れないための配慮から服をかけてくれたのだと気が付いた。
「控室で彼女を看病してまいります」
私を抱きかかえ、颯爽と大広間を横切る歌手の左右で、貴婦人たちがざわめき出した。
「まあご覧になって! アルカンジェロ・ディベッラの優雅な足運び! 私も彼に介抱されたいわ」
「アルカンジェロの価値も分からない堅物令嬢にはもったいないですわ!」
意地の悪い発言が突き刺さる。だが実際、今初めて彼の名を知った私が流行に疎いのは事実だ。アルカンジェロは歌声も顔立ちも美しく、所作も洗練されているから、王都の貴婦人たちからもてはやされるのだろう。
「ふん、半人前が」
他方で男たちは嘲笑を浮かべている。
「なぜご婦人方というのは、あのように五体満足でない男を好むのかね」
「ディベッラ氏は大聖堂聖歌隊でソリストを務めるほどの実力があるから、人気があるのだろうよ」
アルカンジェロの中性的な歌声は、彼が去勢歌手であることを物語っていた。声変わりが起こる前に禁断の手術を受けた彼らは、女声の甘美さと男声の力強さを併せ持つ歌声で王都を席巻している。
アルカンジェロにお姫様抱っこされたまま、ようやく大広間の出口が見えてきた。胸をなでおろした私の前に、邪魔者が立ちはだかる。
「勝手な振る舞いは、この僕が許さん!」
グイードは脅しのつもりか、あろうことか腰の剣を抜き放った。
木管フルートが鳥のさえずりを模倣し、ビオラ・ダ・ガンバの奏でる低弦の響きが対旋律を描き出す。時折鍵盤楽器の分散和音が光の粒のごとく舞い上がった。
「リラ・プリマヴェーラ――」
だが、私の名を呼ぶグイード様の声は恐ろしく冷たい。
かすかに眉をひそめた私の耳に、男性歌手が歌う流行りのオペラアリアが聞こえて来た。深みのあるコントラルトが大広間を包み込んだとき、不機嫌な言葉が歌声をかき消した。
「お前と交わした婚約を破棄させてもらう」
私は言葉を失った。この男は馬鹿なのかしら? 私たちの婚約は両家が決めたもの。簡単に破棄などできないのに。
視界の端で、長身の男性歌手が楽団に合図を出すのが見えた。すぐに音楽が止まり、異変に気が付いた人々が遠巻きに私たちを囲む。
内心呆れ返った私に、グイード様が言葉を重ねた。
「お前のような真面目くさった女はいらない。僕は一緒に人生を楽しめるパメラ嬢と婚約する!」
グイードのうしろから、宝石をいくつも縫い付けた目に痛いドレス姿の男爵令嬢が現れた。
「グイード様、わがバンキエーリ家が力添えいたしますから、お好きなだけ賭け事をお楽しみくださいまし」
数代前の当主が高利貸しで財を成したバンキエーリ家は、王家に多額の寄付をして男爵位を手に入れた新興貴族だ。
「パメラ、きみは僕にとって理想的な女性だ。それにひきかえリラ・プリマヴェーラ、お前はさんざん僕を苛立たせた!」
グイードは憎々しげに私をにらんだ。
「リラ、何か言うことはないのか!」
発言を求められた私は仕方なく口を開いた。
「大変残念ですわ。賭博場に通いつめるグイード様をお諫めしたのが間違っておりましたのね」
「ふん、騎士団長の娘だけあって心臓も強いようだな」
唇の端に冷笑を浮かべるグイードの言葉を受けて、周りの令嬢たちがひそひそと耳打ちし合う。
「本当ですわね。わたくしでしたら気を失ってしまいますわ」
「まったくですわ。こんな社交の場で恥をかかされて、顔色一つ変えずに立っていらっしゃるなんて」
「堅物令嬢という二つ名に恥じぬ豪胆さですわね。心が石でできているのかしら?」
どうやらここは卒倒すべき場面だったらしい。私は観衆の求めに応じることにした。
手の甲を額に当て、もう一方の手で苦しげに胸を抑える。
「よよよ……」
腹筋で体を支え、ゆらぁりと床に倒れ込んでみた。大理石の床に頭を打ち付けたら大変だ。ぐっと下腹部に力を込めたとき、美貌の青年が宙を翔けるがごとく走り寄ってきた。
「お嬢様、お気を確かに」
力強い腕で抱きとめられる。驚いて顔を上げると、愁いを帯びたチョコレートブラウンのまなざしと目が合った。
どなた、と尋ねようとして、私は思い出した。彼はさっきまで器楽アンサンブルと共にオペラアリアを歌っていたアルト歌手だ。
彼は私の背中を片膝に乗せ、大きな手のひらで私の頭を支えてくれる。もう一方の手で、ウエストコートの下に提げていたペンダントを取り出した。銀細工の香壺のふたを指先で開け、私の鼻先に近づける。
「お嗅ぎなさい。気付け薬です」
ツンとした香りが鼻孔を鋭く刺激する。だが後頭部に添えられたあたたかい手のひらに、私は安心感を覚えていた。
「ん――」
意識が戻ってきた風を装って伏し目がちにしていたまぶたを見開くと、彫刻のごとく整った顔立ちが視界に入った。黒々とした長い睫毛に縁どられた瞳は、シャンデリアが振りまく光の粒を反射してカラメルのように甘く輝いている。
「少し横になっていたほうがよさそうですね」
彼は一瞬ためらいを見せたが、自分のジュストコールを脱いで私の肩にかけた。彼の体温が残る絹織物が、素肌にあたたかい。
「失礼します」
彼が私を抱き上げて初めて、私の肌に触れないための配慮から服をかけてくれたのだと気が付いた。
「控室で彼女を看病してまいります」
私を抱きかかえ、颯爽と大広間を横切る歌手の左右で、貴婦人たちがざわめき出した。
「まあご覧になって! アルカンジェロ・ディベッラの優雅な足運び! 私も彼に介抱されたいわ」
「アルカンジェロの価値も分からない堅物令嬢にはもったいないですわ!」
意地の悪い発言が突き刺さる。だが実際、今初めて彼の名を知った私が流行に疎いのは事実だ。アルカンジェロは歌声も顔立ちも美しく、所作も洗練されているから、王都の貴婦人たちからもてはやされるのだろう。
「ふん、半人前が」
他方で男たちは嘲笑を浮かべている。
「なぜご婦人方というのは、あのように五体満足でない男を好むのかね」
「ディベッラ氏は大聖堂聖歌隊でソリストを務めるほどの実力があるから、人気があるのだろうよ」
アルカンジェロの中性的な歌声は、彼が去勢歌手であることを物語っていた。声変わりが起こる前に禁断の手術を受けた彼らは、女声の甘美さと男声の力強さを併せ持つ歌声で王都を席巻している。
アルカンジェロにお姫様抱っこされたまま、ようやく大広間の出口が見えてきた。胸をなでおろした私の前に、邪魔者が立ちはだかる。
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