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09、クリス兄様の秘密の恋人
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「まあ僕は、リラが危険な婚姻をしなくて済んでホッとしているけれどね」
兄は憑き物が落ちたように表情をゆるめたが、私は逆に口をとがらせた。
「貴重な機会を失ってしまいましたのに」
「妹がスパイまがいのことをするなんて、僕は反対だったんだよ」
「その件なんですが、お兄様。すでに公爵家に入って、こっそり調査を進めている者がいたのです」
私は兄に、アルカンジェロ・ディベッラのことを打ち明けた。
「なんと」
話を聞き終わったクリス兄様は目を見開いた。
「実際、音楽家たちの中には政治や領地経営に深く関わる者もいるからな」
貴族の私的な場に入り込み、時には主人の心に深く影響を及ぼすのが、音楽家や画家などの芸術家たちだ。大きな信頼を得て要職を任されることも珍しくない。
兄は物語に出てくる探偵のように目を輝かせた。
「公爵邸の仕事を任せてもらえば、過去の帳簿をのぞいたり、公爵の日記を盗み見たりもできそうだもんな」
「それで考えたのですが、フィオレッティはお母様と過ごす時間が最優先でしょう? あの方はお母様専属のマエストロになっていいただいて、アルカンジェロ・ディベッラを私の音楽教師として招くことはできないでしょうか?」
私の提案に、兄はあごを撫でながらうなずいた。
「ふむ、それはよい考えだ。でも噂では確か―― 彼は大建国祭が終わったらブリタンニア王国へ旅立つんじゃなかったかな?」
「それでしたら急がねばなりませんね」
少しずつ親しくなって、アルカンジェロが大教主様だけに報告する機密情報も打ち明けてもらえるように――などと考えていたが、悠長なことは言っていられない。大建国祭はほんの半月後。噂が本当ならば、アルカンジェロがこの国にいる時間はあと一ヵ月もない。
「リラの言う通りだ。大聖堂聖歌隊の音楽監督に手紙を書こう。アルカンジェロ・ディベッラ氏のスケジュールが許すなら、ぜひプリマヴェーラ家の令嬢に音楽を教えに来て欲しいとね」
兄はランプの灯りに照らされた書斎机へ向き直った。私の視線は秘密を暴くような琥珀色の光に吸い寄せられる。
雑然とした机の上には分厚い本が置いてあり、ページの途中から便箋が飛び出していた。部屋に入る前、大きな本を閉じる音が聞こえたとき、しおり代わりに手紙を挟んだのだろう。
見慣れた兄の筆跡だが、数行だけのぞいている言葉の断片に、私は息を呑んだ。「夢の中でもあなたを想って」という文章がちらりと見え、その下には「僕の心は永遠にエルヴィーラ様の」というフレーズがのぞく。
エルヴィーラ・セグレート侯爵令嬢――!
彼女は、現在寝たきりの第二王子ジルベルト殿下の婚約者だ。
毒殺事件が起きたとき、エルヴィーラ嬢はすでにジルベルト殿下と婚約していた。
それから十年間、エルヴィーラ嬢は婚約者に会うことも許されず、延々と待たされている。口の悪いグイードなどは、「王家の飼い殺し令嬢」と嘲笑していた。
未来の王妃と秘密の恋人になっているらしい兄に、私は青くなった。
机に向かったままの兄は何も気づかずに、のんびりと言葉を続けた。
「北の海を越えた先にある島国、ブリタンニア王国は新大陸の植民地経営で潤っているんだ。だから多くのエージェントを海外に派遣して、優秀な音楽家に高額で契約を持ちかけているんだよ」
兄の言葉は私の耳に入らず、頭上をすり抜けていった。
エルヴィーラ嬢の生家であるセグレート侯爵家は代々王家を支えてきた家であり、地位向上のために王子と娘の婚約に固執するような家柄ではない。だからこそ、娘に対する王家の扱いに不信感を募らせている。
とはいえ、兄と秘密の恋に興じてよい立場ではない。
「ブリタンニア王国のエージェントと契約したとかいう噂が本当かどうかも分からない。本当だったなら、ディベッラ氏に教えてもらっている間に次の音楽家を探したってよいんだから」
兄の最後の言葉がまた宙に浮いて、たゆたっていった。
兄は憑き物が落ちたように表情をゆるめたが、私は逆に口をとがらせた。
「貴重な機会を失ってしまいましたのに」
「妹がスパイまがいのことをするなんて、僕は反対だったんだよ」
「その件なんですが、お兄様。すでに公爵家に入って、こっそり調査を進めている者がいたのです」
私は兄に、アルカンジェロ・ディベッラのことを打ち明けた。
「なんと」
話を聞き終わったクリス兄様は目を見開いた。
「実際、音楽家たちの中には政治や領地経営に深く関わる者もいるからな」
貴族の私的な場に入り込み、時には主人の心に深く影響を及ぼすのが、音楽家や画家などの芸術家たちだ。大きな信頼を得て要職を任されることも珍しくない。
兄は物語に出てくる探偵のように目を輝かせた。
「公爵邸の仕事を任せてもらえば、過去の帳簿をのぞいたり、公爵の日記を盗み見たりもできそうだもんな」
「それで考えたのですが、フィオレッティはお母様と過ごす時間が最優先でしょう? あの方はお母様専属のマエストロになっていいただいて、アルカンジェロ・ディベッラを私の音楽教師として招くことはできないでしょうか?」
私の提案に、兄はあごを撫でながらうなずいた。
「ふむ、それはよい考えだ。でも噂では確か―― 彼は大建国祭が終わったらブリタンニア王国へ旅立つんじゃなかったかな?」
「それでしたら急がねばなりませんね」
少しずつ親しくなって、アルカンジェロが大教主様だけに報告する機密情報も打ち明けてもらえるように――などと考えていたが、悠長なことは言っていられない。大建国祭はほんの半月後。噂が本当ならば、アルカンジェロがこの国にいる時間はあと一ヵ月もない。
「リラの言う通りだ。大聖堂聖歌隊の音楽監督に手紙を書こう。アルカンジェロ・ディベッラ氏のスケジュールが許すなら、ぜひプリマヴェーラ家の令嬢に音楽を教えに来て欲しいとね」
兄はランプの灯りに照らされた書斎机へ向き直った。私の視線は秘密を暴くような琥珀色の光に吸い寄せられる。
雑然とした机の上には分厚い本が置いてあり、ページの途中から便箋が飛び出していた。部屋に入る前、大きな本を閉じる音が聞こえたとき、しおり代わりに手紙を挟んだのだろう。
見慣れた兄の筆跡だが、数行だけのぞいている言葉の断片に、私は息を呑んだ。「夢の中でもあなたを想って」という文章がちらりと見え、その下には「僕の心は永遠にエルヴィーラ様の」というフレーズがのぞく。
エルヴィーラ・セグレート侯爵令嬢――!
彼女は、現在寝たきりの第二王子ジルベルト殿下の婚約者だ。
毒殺事件が起きたとき、エルヴィーラ嬢はすでにジルベルト殿下と婚約していた。
それから十年間、エルヴィーラ嬢は婚約者に会うことも許されず、延々と待たされている。口の悪いグイードなどは、「王家の飼い殺し令嬢」と嘲笑していた。
未来の王妃と秘密の恋人になっているらしい兄に、私は青くなった。
机に向かったままの兄は何も気づかずに、のんびりと言葉を続けた。
「北の海を越えた先にある島国、ブリタンニア王国は新大陸の植民地経営で潤っているんだ。だから多くのエージェントを海外に派遣して、優秀な音楽家に高額で契約を持ちかけているんだよ」
兄の言葉は私の耳に入らず、頭上をすり抜けていった。
エルヴィーラ嬢の生家であるセグレート侯爵家は代々王家を支えてきた家であり、地位向上のために王子と娘の婚約に固執するような家柄ではない。だからこそ、娘に対する王家の扱いに不信感を募らせている。
とはいえ、兄と秘密の恋に興じてよい立場ではない。
「ブリタンニア王国のエージェントと契約したとかいう噂が本当かどうかも分からない。本当だったなら、ディベッラ氏に教えてもらっている間に次の音楽家を探したってよいんだから」
兄の最後の言葉がまた宙に浮いて、たゆたっていった。
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