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第21話 邂逅
第21話・1 初めまして、レイラちゃん
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女悪魔のような龍──クオントワを討った翌日午後の龍調査機関。
曇天の灰色が差し込む中、広い作戦会議室には複数の報告資料と映像記録が並べられていた。
「……これが、最終記録です」
スクリーンに映されたのは、クオントワの出現、そして崩壊の瞬間。
画面が砂のように崩れていくその映像を前に、誰も言葉を発せなかった。
「異常値は確かに確認されましたが……今なお、あの個体に類する“反応”は観測されていません」
そう口にしたのは、解析班職員のひとり。
冷静に報告書を読み上げる声に、僅かな安堵と警戒が入り混じっていた。
「つまり……」
「あれきりです。クオントワ以降、新たな龍の発生は確認されていません」
部屋の中央、モニターを睨みつけていたセセラが小さく舌を打つ。
「静かすぎる……。なあ、先生……。あれって本当に自然発生のイレギュラーだったのか?」
「……違うと思っている」
そう答えたシエリは手にしていた記録端末を閉じ、隣に座るセセラへとまっすぐに向き直った。
「クオントワは生まれたのではない。創られた。私たちが扱っている既知の龍とは構造が違いすぎる」
「誰かの手によって、だよな?」
「そう、としか考えられない」
その一言に、室内の空気が僅かに引き締まる。
「……だとすれば、あれは警告でもあったのかもしれない。『こんなこともできるんだよ』っていうね」
◇
会議は粛々と終了──。
セセラとシエリは会議室を出てもなお、廊下を歩きながら会話を続けていた。
「龍を人工的に創り出すなんてさ……相変わらずふざけた話だな」
「……ただのおふざけで済まないのが厄介だね」
「マジでそれ。……で、肝心のふたりは?」
「安定している。リルの再生力は想定以上、でも精神は消耗が激しい。レイラも危うい状態だったけど……」
シエリは少しだけ声を和らげる。
「……あの子は、ギリギリのところで自分を守りきった。今は、深く休んでいるだけ」
──そして、療養室。
ベッドの上、穏やかに二度寝をしているレイラと、うつ伏せの姿勢ですやすやと眠るリル。
カーテン越しの光が淡く注ぐ中、生きて帰ってきたふたりの静かな寝息が、微かな生命の証として響いていた。
「リルくん……レイラちゃん……」
扉の外、そっと様子を見にきたラショウ。
誰にも気づかれぬように微笑んで呟く。
「……ほんと、無茶ばっかりするんだから……」
その声は涙ではなく、誇りに近かった。
しかし、“創られた龍”という輪郭だけが──静かに、確かに、浮かび上がっていた。
◇
──時は進み、数日後。
日が傾き始めた黄昏時。
夕焼けに染まる空の下で、レイラは静かに立っていた。
「…………」
──そこは、数日前に激戦の爪痕を残した公園跡地。
今や封鎖されたその一角は、機関によって再調査の対象となっていた。
(……この辺りだけ、未だにクオントワの“龍因子反応”が微弱に確認されたって報告があった)
(……どうして? もうあの龍は……いないのに)
体調はようやく落ち着いてきたばかり。
リルもまだ療養中で、今回はレイラ単独での探索だった。
今回は軽い探索・調査。中継は繋がれていない。
多少の不安はあったが、剣の柄に添えた指先は冷静で、気配を探る視線には迷いが無かった。
(……空気が淀んでる。風も、音も……止まってる)
異様な静けさ。
まるで、あの戦いの残響が今もこの場を支配しているかのようだった。
──そして。
かつて、あの女悪魔と対峙した広場の中心にレイラが歩を進めた──その時だった。
「……こんにちは~、レイラ、ちゃん」
「ッ!!?」
朗らかな声が、不意に背後から降ってくる。
驚きながらレイラは即座に振り返った。
そこにいたのは、見覚えの無い男。
黒いキャスケットの下で束ねられた赤い長髪が夕陽に揺れ、切れ長の瞳は深紅に光っている。
「……!?」
「あっ、突然声かけちゃってごめんなさい」
軽く謝罪するその男の瞳──。
瞳孔は異様に縦長で、口元には獣じみた犬歯が覗いていた。
だが、その笑顔はあまりに人懐こく、同時に掴み所が無かった。
「……誰……どうして、私の名前を」
レイラは剣の柄を握り警戒を強めると、男は両手を上げておどけたように肩をすくめる。
「まぁまぁ、そんな物騒なもの持たないでよ。取って食うわけじゃないんだし」
「……信用できない。……こんな所にいて、私の名前を知っていて……」
「フフ……、オレ、ジキルっていうの。君のこと……ずっと前から知ってるんだ」
「……は?」
男──ジキルは、幻のように音も無く近づいてくる。
「……っ」
その一歩一歩は、不自然なほど静かで──。
「驚いたなぁ。まさか憑依を受けたまま正気を保ってる子がいるなんてね」
「……!!」
レイラの瞳が鋭く光った。
「……ッ、龍のことを、知って……?」
「もちろん。君のことも、リルのことも──全部、調べ尽くしてる」
「……『リル』?」
その名が出た瞬間、レイラの指先に更に力がこもる。
ジキルはレイラのその様子を見ても、にっこりと微笑んで首を傾けた。
「うん。あの子は……オレの宝物だったんだ。ほんの少し前まではね」
「……だった?」
「オレは死んだってことにしてもらった。こっちも色々事情があってさ」
「……!!」
レイラの瞳が見開かれ、口が開く。
一瞬で──察した。
「……嘘……っ、リルの父親は、死んだって聞いた」
「だーかーら、そういうことになってるんだって。オレ嫌われてるから」
ジキルの瞳が一瞬、冷たく細められる。
それは今までの朗らかさとは明らかに異なる、底知れぬ狂気の色だった。
「君たちの“生存例”は、オレにとっては奇跡なんだよ」
「…………ッ……」
「ねえ、レイラちゃん。君の中の龍──君自身は、あれに喰われそうになったこと、あるでしょ?」
「……!!」
レイラは無言のまま、剣を抜く。
「……あなた、何が目的……?!」
「目的?」
ジキルは楽しげに目を細め、さらに一歩、レイラに顔を近づけた。
眉目秀麗なその顔立ちが、逆に恐ろしくもある。
「……“龍の命”を、人の命に換える。それができるなら──死なんて、超えられると思わない?」
「ッ、そんなこと……誰にも許されない」
「フフッ……それを誰が決めたの?」
ピンと張り詰めた空気。
ジキルの笑みに渦巻くものは、紛れも無く“執着”だった。
「また会おうね、レイラちゃん。今度はもっと楽しい話ができるといいな」
そう言い残すと、ジキルはスラッとレイラに背を向けて歩き出す。
空気に溶けるように、この場を去っていった。
「…………ッ……」
広場に残されたレイラは、立ち尽くしたまま動けない。
握り締めた剣の柄に、微かな震えが走っていた。
◇
龍調査機関・報告室。
まだ落ち着かぬ表情でレイラが席に座ると、セセラとシエリが向かい合うように腰を下ろした。
室内のモニターには、レイラが調査していた公園跡地の座標データと、最新の龍因子反応ログが表示されている。
「…………」
──だが今、注目されているのはそこではなかった。
「……レイラ。お前が遭遇したっていう、その男の名前……本当に『ジキル』と名乗ったのか?」
静かに訊ねたのはセセラ。
その声には、明らかな動揺が滲んでいた。
隣のシエリもレポートを握った小さな手をピタリと止めている。
レイラは戸惑いながらも、頷いた。
「うん……。妙に朗らかで……でも、底が見えない感じの人だった。私の名前も、リルのことも、知ってた……」
「……リルのことも……」
「『憑依されたまま正気を保ってる子がいるなんて』って……」
言いながら、レイラの指先が無意識に揺れる。
あの男の笑顔がまだどこか、頭から離れない。
シエリは一拍置いてから、低く呟いた。
「……ジキル。あの男は、かつてこの機関に在籍していた研究員だよ」
「えっ……?」
「今は、もういない。……だけど、今でも“要注意人物”として名を残してはある」
目を見開くレイラ。
「じゃあ……正真正銘の、関係者……」
「ただし、それ以上のことは話せない」
僅かに視線を伏せたシエリ。その目線の動きを見たレイラは、とても追求をしようとは思えなかった。
そこで、「それとな……レイラ」と間に入るセセラ。
その声が一段低くなったかと思うと──。
「約束しろよ」
冗談の色の無い目が鋭くなり、念を押すように。
「そいつの名を、リルの前では絶対に口にするな」
「ッ……!!」
見開かれたレイラの目が揺れる。
(やっぱり……リルの……)
自分でも口にしたくない言葉が、胸の奥から滲み出しそうになるのを必死に堪えていた。
だが、セセラもシエリもそれ以上は何も言わなかった。
レイラの視線の奥にあるものがどれほど鋭く、痛みを伴っていようとも、触れられなかった。
やがて沈黙を破るようにセセラが息を細く吐き、小さく聞く。
「……会って、少し話をしただけだな?」
「え……う、うん」
レイラは少し驚いたようにセセラを見た。
今自分の目の前にいる大人の目は、真剣で、それでいてどこか“心配している”色が混ざっていた。
その眼差しに戸惑い、レイラは息を呑む。
「…………」
──が、すぐにセセラは自分の表情に気づいたように顔を逸らし、軽く笑ってみせた。
「……あー、いや、あの人、初対面だろうが急に話しかけてくるタイプだしさ。ちょっと難しい話したりすることあるからさぁ、大丈夫だったかなって思ったんだよ」
わざとらしく笑うでもなく、けれどどこか誤魔化すような声色。
レイラはその態度に、ほんの僅かな違和感を覚えた。
(……嘘は……ついてない)
(けど、薊野さん……、何かを……隠してる……?)
だが、それを問うことはできなかった。
なぜなら──自分の胸の奥でも、あの“ジキル”という存在に対する、説明できない嫌悪と恐怖が渦巻いていたから。
「……なんか……怖かった。あの人」
レイラがぽつりと呟いたとき、セセラの指が一瞬だけピクリと動いた。
しかしセセラは、ただ静かに頷く。
「……それでいい。その感覚は、忘れない方がいい」
空気が重く、鈍く張り詰めたまま、誰もそれ以上言葉を発さなかった。
それぞれの胸に、言葉にならない予感だけを残して。
「じゃ……、私はこれで。報告は……以上」
レイラは立ち上がり、軽く一礼して報告室を後にした。
ガチャンと扉が閉まる。
その瞬間、それまで張りつめていた空気が、ひとつ息を詰まらせるように沈んだ。
「……まさか、ジキルが出てくるとはな……」
セセラは低く呟く。
「…………マジかよ…………」
椅子に深く背を預けると、右手で眉間を押さえながら、心底うんざりした顔をしていた。
「ここを狙ったわけじゃねえ。たまたま……それとも“気まぐれ”か。どっちにしても悪趣味だ」
シエリは小さな手で書類を捲ることもなく、ただじっとモニターを見つめていた。
「ジキルの活動が姿を見せるレベルにまで表出するとは、予想外だね。……しかもよりによって、レイラの前に」
その声には、小さな見た目にそぐわない程の冷徹さが宿っている。
「……あいつがどこまで把握しているかはわかんねえ。けど、あの言い方……リルの存在に、まだ執着してる。そう見て間違いねぇだろ」
「レイラの前では何も語らなかったがね……ジキルが動いたとなれば……周辺の監視を強化すべきだ」
セセラは一度だけ、しかし確かに深く頷いた。
「そんで……リルには……。絶対に、まだその名前を聞かせちゃダメだ……絶対……」
「……当然。今のあの子には、刃にすらなりかねない名前だ」
それから暫く、ふたりの間に沈黙が落ちた。
ただ、ジキルという名の影だけが、ゆらりと機関の奥深くに忍び込んでいくように感じられた。
◇
その頃。
廊下をひとり歩くレイラは、自分の胸の鼓動がまだ落ち着かないことに気づいていた。
(……ジキル……あの人……本当に何者……?)
心の中で、小さく呟く。
不意に、腰に差したままの剣の柄に触れた指先が、ギュッと強く握られた。
握り締めたのは、“もしもの時”のための冷静な反射──。
──ではなかった。
これは、恐怖だった。
背筋に這い上がってくる、説明のつかない寒気。
“あれ以上、近づいてはいけない”と、本能が警鐘を鳴らしていた。
(リル……)
ふと、思考がそこへ辿り着いた瞬間、胸が苦しくなる。
(……傷付けたくない)
自分自身にも、リルにも。
そのまま、レイラは小さく息を吸い込み、前を向いて歩き出した。
──だが、ジキルという男の影は、もう既に深く心に刻まれ始めていた。
曇天の灰色が差し込む中、広い作戦会議室には複数の報告資料と映像記録が並べられていた。
「……これが、最終記録です」
スクリーンに映されたのは、クオントワの出現、そして崩壊の瞬間。
画面が砂のように崩れていくその映像を前に、誰も言葉を発せなかった。
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そう口にしたのは、解析班職員のひとり。
冷静に報告書を読み上げる声に、僅かな安堵と警戒が入り混じっていた。
「つまり……」
「あれきりです。クオントワ以降、新たな龍の発生は確認されていません」
部屋の中央、モニターを睨みつけていたセセラが小さく舌を打つ。
「静かすぎる……。なあ、先生……。あれって本当に自然発生のイレギュラーだったのか?」
「……違うと思っている」
そう答えたシエリは手にしていた記録端末を閉じ、隣に座るセセラへとまっすぐに向き直った。
「クオントワは生まれたのではない。創られた。私たちが扱っている既知の龍とは構造が違いすぎる」
「誰かの手によって、だよな?」
「そう、としか考えられない」
その一言に、室内の空気が僅かに引き締まる。
「……だとすれば、あれは警告でもあったのかもしれない。『こんなこともできるんだよ』っていうね」
◇
会議は粛々と終了──。
セセラとシエリは会議室を出てもなお、廊下を歩きながら会話を続けていた。
「龍を人工的に創り出すなんてさ……相変わらずふざけた話だな」
「……ただのおふざけで済まないのが厄介だね」
「マジでそれ。……で、肝心のふたりは?」
「安定している。リルの再生力は想定以上、でも精神は消耗が激しい。レイラも危うい状態だったけど……」
シエリは少しだけ声を和らげる。
「……あの子は、ギリギリのところで自分を守りきった。今は、深く休んでいるだけ」
──そして、療養室。
ベッドの上、穏やかに二度寝をしているレイラと、うつ伏せの姿勢ですやすやと眠るリル。
カーテン越しの光が淡く注ぐ中、生きて帰ってきたふたりの静かな寝息が、微かな生命の証として響いていた。
「リルくん……レイラちゃん……」
扉の外、そっと様子を見にきたラショウ。
誰にも気づかれぬように微笑んで呟く。
「……ほんと、無茶ばっかりするんだから……」
その声は涙ではなく、誇りに近かった。
しかし、“創られた龍”という輪郭だけが──静かに、確かに、浮かび上がっていた。
◇
──時は進み、数日後。
日が傾き始めた黄昏時。
夕焼けに染まる空の下で、レイラは静かに立っていた。
「…………」
──そこは、数日前に激戦の爪痕を残した公園跡地。
今や封鎖されたその一角は、機関によって再調査の対象となっていた。
(……この辺りだけ、未だにクオントワの“龍因子反応”が微弱に確認されたって報告があった)
(……どうして? もうあの龍は……いないのに)
体調はようやく落ち着いてきたばかり。
リルもまだ療養中で、今回はレイラ単独での探索だった。
今回は軽い探索・調査。中継は繋がれていない。
多少の不安はあったが、剣の柄に添えた指先は冷静で、気配を探る視線には迷いが無かった。
(……空気が淀んでる。風も、音も……止まってる)
異様な静けさ。
まるで、あの戦いの残響が今もこの場を支配しているかのようだった。
──そして。
かつて、あの女悪魔と対峙した広場の中心にレイラが歩を進めた──その時だった。
「……こんにちは~、レイラ、ちゃん」
「ッ!!?」
朗らかな声が、不意に背後から降ってくる。
驚きながらレイラは即座に振り返った。
そこにいたのは、見覚えの無い男。
黒いキャスケットの下で束ねられた赤い長髪が夕陽に揺れ、切れ長の瞳は深紅に光っている。
「……!?」
「あっ、突然声かけちゃってごめんなさい」
軽く謝罪するその男の瞳──。
瞳孔は異様に縦長で、口元には獣じみた犬歯が覗いていた。
だが、その笑顔はあまりに人懐こく、同時に掴み所が無かった。
「……誰……どうして、私の名前を」
レイラは剣の柄を握り警戒を強めると、男は両手を上げておどけたように肩をすくめる。
「まぁまぁ、そんな物騒なもの持たないでよ。取って食うわけじゃないんだし」
「……信用できない。……こんな所にいて、私の名前を知っていて……」
「フフ……、オレ、ジキルっていうの。君のこと……ずっと前から知ってるんだ」
「……は?」
男──ジキルは、幻のように音も無く近づいてくる。
「……っ」
その一歩一歩は、不自然なほど静かで──。
「驚いたなぁ。まさか憑依を受けたまま正気を保ってる子がいるなんてね」
「……!!」
レイラの瞳が鋭く光った。
「……ッ、龍のことを、知って……?」
「もちろん。君のことも、リルのことも──全部、調べ尽くしてる」
「……『リル』?」
その名が出た瞬間、レイラの指先に更に力がこもる。
ジキルはレイラのその様子を見ても、にっこりと微笑んで首を傾けた。
「うん。あの子は……オレの宝物だったんだ。ほんの少し前まではね」
「……だった?」
「オレは死んだってことにしてもらった。こっちも色々事情があってさ」
「……!!」
レイラの瞳が見開かれ、口が開く。
一瞬で──察した。
「……嘘……っ、リルの父親は、死んだって聞いた」
「だーかーら、そういうことになってるんだって。オレ嫌われてるから」
ジキルの瞳が一瞬、冷たく細められる。
それは今までの朗らかさとは明らかに異なる、底知れぬ狂気の色だった。
「君たちの“生存例”は、オレにとっては奇跡なんだよ」
「…………ッ……」
「ねえ、レイラちゃん。君の中の龍──君自身は、あれに喰われそうになったこと、あるでしょ?」
「……!!」
レイラは無言のまま、剣を抜く。
「……あなた、何が目的……?!」
「目的?」
ジキルは楽しげに目を細め、さらに一歩、レイラに顔を近づけた。
眉目秀麗なその顔立ちが、逆に恐ろしくもある。
「……“龍の命”を、人の命に換える。それができるなら──死なんて、超えられると思わない?」
「ッ、そんなこと……誰にも許されない」
「フフッ……それを誰が決めたの?」
ピンと張り詰めた空気。
ジキルの笑みに渦巻くものは、紛れも無く“執着”だった。
「また会おうね、レイラちゃん。今度はもっと楽しい話ができるといいな」
そう言い残すと、ジキルはスラッとレイラに背を向けて歩き出す。
空気に溶けるように、この場を去っていった。
「…………ッ……」
広場に残されたレイラは、立ち尽くしたまま動けない。
握り締めた剣の柄に、微かな震えが走っていた。
◇
龍調査機関・報告室。
まだ落ち着かぬ表情でレイラが席に座ると、セセラとシエリが向かい合うように腰を下ろした。
室内のモニターには、レイラが調査していた公園跡地の座標データと、最新の龍因子反応ログが表示されている。
「…………」
──だが今、注目されているのはそこではなかった。
「……レイラ。お前が遭遇したっていう、その男の名前……本当に『ジキル』と名乗ったのか?」
静かに訊ねたのはセセラ。
その声には、明らかな動揺が滲んでいた。
隣のシエリもレポートを握った小さな手をピタリと止めている。
レイラは戸惑いながらも、頷いた。
「うん……。妙に朗らかで……でも、底が見えない感じの人だった。私の名前も、リルのことも、知ってた……」
「……リルのことも……」
「『憑依されたまま正気を保ってる子がいるなんて』って……」
言いながら、レイラの指先が無意識に揺れる。
あの男の笑顔がまだどこか、頭から離れない。
シエリは一拍置いてから、低く呟いた。
「……ジキル。あの男は、かつてこの機関に在籍していた研究員だよ」
「えっ……?」
「今は、もういない。……だけど、今でも“要注意人物”として名を残してはある」
目を見開くレイラ。
「じゃあ……正真正銘の、関係者……」
「ただし、それ以上のことは話せない」
僅かに視線を伏せたシエリ。その目線の動きを見たレイラは、とても追求をしようとは思えなかった。
そこで、「それとな……レイラ」と間に入るセセラ。
その声が一段低くなったかと思うと──。
「約束しろよ」
冗談の色の無い目が鋭くなり、念を押すように。
「そいつの名を、リルの前では絶対に口にするな」
「ッ……!!」
見開かれたレイラの目が揺れる。
(やっぱり……リルの……)
自分でも口にしたくない言葉が、胸の奥から滲み出しそうになるのを必死に堪えていた。
だが、セセラもシエリもそれ以上は何も言わなかった。
レイラの視線の奥にあるものがどれほど鋭く、痛みを伴っていようとも、触れられなかった。
やがて沈黙を破るようにセセラが息を細く吐き、小さく聞く。
「……会って、少し話をしただけだな?」
「え……う、うん」
レイラは少し驚いたようにセセラを見た。
今自分の目の前にいる大人の目は、真剣で、それでいてどこか“心配している”色が混ざっていた。
その眼差しに戸惑い、レイラは息を呑む。
「…………」
──が、すぐにセセラは自分の表情に気づいたように顔を逸らし、軽く笑ってみせた。
「……あー、いや、あの人、初対面だろうが急に話しかけてくるタイプだしさ。ちょっと難しい話したりすることあるからさぁ、大丈夫だったかなって思ったんだよ」
わざとらしく笑うでもなく、けれどどこか誤魔化すような声色。
レイラはその態度に、ほんの僅かな違和感を覚えた。
(……嘘は……ついてない)
(けど、薊野さん……、何かを……隠してる……?)
だが、それを問うことはできなかった。
なぜなら──自分の胸の奥でも、あの“ジキル”という存在に対する、説明できない嫌悪と恐怖が渦巻いていたから。
「……なんか……怖かった。あの人」
レイラがぽつりと呟いたとき、セセラの指が一瞬だけピクリと動いた。
しかしセセラは、ただ静かに頷く。
「……それでいい。その感覚は、忘れない方がいい」
空気が重く、鈍く張り詰めたまま、誰もそれ以上言葉を発さなかった。
それぞれの胸に、言葉にならない予感だけを残して。
「じゃ……、私はこれで。報告は……以上」
レイラは立ち上がり、軽く一礼して報告室を後にした。
ガチャンと扉が閉まる。
その瞬間、それまで張りつめていた空気が、ひとつ息を詰まらせるように沈んだ。
「……まさか、ジキルが出てくるとはな……」
セセラは低く呟く。
「…………マジかよ…………」
椅子に深く背を預けると、右手で眉間を押さえながら、心底うんざりした顔をしていた。
「ここを狙ったわけじゃねえ。たまたま……それとも“気まぐれ”か。どっちにしても悪趣味だ」
シエリは小さな手で書類を捲ることもなく、ただじっとモニターを見つめていた。
「ジキルの活動が姿を見せるレベルにまで表出するとは、予想外だね。……しかもよりによって、レイラの前に」
その声には、小さな見た目にそぐわない程の冷徹さが宿っている。
「……あいつがどこまで把握しているかはわかんねえ。けど、あの言い方……リルの存在に、まだ執着してる。そう見て間違いねぇだろ」
「レイラの前では何も語らなかったがね……ジキルが動いたとなれば……周辺の監視を強化すべきだ」
セセラは一度だけ、しかし確かに深く頷いた。
「そんで……リルには……。絶対に、まだその名前を聞かせちゃダメだ……絶対……」
「……当然。今のあの子には、刃にすらなりかねない名前だ」
それから暫く、ふたりの間に沈黙が落ちた。
ただ、ジキルという名の影だけが、ゆらりと機関の奥深くに忍び込んでいくように感じられた。
◇
その頃。
廊下をひとり歩くレイラは、自分の胸の鼓動がまだ落ち着かないことに気づいていた。
(……ジキル……あの人……本当に何者……?)
心の中で、小さく呟く。
不意に、腰に差したままの剣の柄に触れた指先が、ギュッと強く握られた。
握り締めたのは、“もしもの時”のための冷静な反射──。
──ではなかった。
これは、恐怖だった。
背筋に這い上がってくる、説明のつかない寒気。
“あれ以上、近づいてはいけない”と、本能が警鐘を鳴らしていた。
(リル……)
ふと、思考がそこへ辿り着いた瞬間、胸が苦しくなる。
(……傷付けたくない)
自分自身にも、リルにも。
そのまま、レイラは小さく息を吸い込み、前を向いて歩き出した。
──だが、ジキルという男の影は、もう既に深く心に刻まれ始めていた。
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鏡に映っていたのは、小太りで口髭の男――歴史の教科書で見た、あの「牟田口廉也」。
しかも時期は、日本陸軍史上最悪の汚点とされる「インパール作戦」決行の直前。
部下たちは「必勝の精神論」を叫び、無謀な突撃を今か今かと待っている。
(……ふざけるな。俺に、部下を餓死させろと言うのか?)
現代の知識と、冷徹な計算、そして海自仕込みのロジスティクス能力。
すべてを駆使して、坂上(中身)は歴史への介入を開始する。
精神論を振りかざすふりをして上層部を欺き、現地改修で兵器を強化し、密かに撤退路を整備する。
これは、「史上最も無能な指揮官」の皮を被った「現代の有能な指揮官」が、確定した敗北の運命をねじ伏せ、数万の命を救うために戦う、逆転の戦記ドラマ。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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