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第24話 こんにちは、リル
第24話・2 それぞれの準備
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ふたりきりの空間に、しばしの沈黙が流れる。
リルは少しだけ姿勢を崩し、背を椅子に預けて天井を見上げた。目が少し赤い。
「……『ちょっとだけ』って言われたんだっけか」
不意に呟いた声に、アシュラが小さく笑う。
「おう。最初はな。でも……長くなるのは慣れてるから」
「……そうかよ」
リルは僅かに目を伏せたあと、ぽつりと本心を零した。
「……もう少し、いてくれ……。オレ……お前の隣にいるのが、今一番落ち着くんだ」
その言葉は、リル自身が驚くほど素直だった。
どこか照れたように、耳が僅かに赤い。
アシュラはそれに何も言わず、隣でゆっくりと頷いた。
「俺も今、ここにいるのが一番自然だ。……お前の隣は、昔からしっくりくるからな」
「……昔は、よく隣で寝てたっけ」
「お前が勝手に俺の布団に入り込んできたんだろ」
「寒かったんだよ、あの部屋。お前のとこだけやたらあったかくてムカついた」
「……ああ、そういえばラショウも『兄様の布団は魔法がかかってる』とか言ってたな」
「……んだそれ……」
ふたりの間に、小さな笑いが戻っていた。
心の奥ではまだ、痛みも迷いもある。
でも、ほんの少しの温度が、そこに確かに届いていた。
リルは目を細めて、吐息をひとつ漏らす。
「……ありがとな、アシュラ」
「礼なんていらねぇよ。俺が勝手にやってるだけだ」
そう言ってアシュラは立ち上がることもなく、ただそのまま隣に座り続けた。
何時間も。ずっと。
ちっとも『ちょっとだけ』ではなかった。
そして、他に誰もいない静かな資料閲覧室に、夜の灯りが穏やかに揺れていた。
◇
カーテンの隙間から、やわらかな朝日が射し込んでくる。
壁掛け時計の針は、既に朝の6時を回っていた。
重ねられた資料の山、その傍ら──ふたりは並んで椅子にもたれるようにして眠っていた。
リルは椅子の背に頭を預け、静かな寝息を立てている。
疲れ切った心がようやく少しだけ休まったのだろう。その顔にはどこか無防備な安堵が宿っていた。
隣のアシュラも、背を少し丸めながら椅子に座ったまま微睡んでいた。
腕を組んだまま浅い眠りに落ちていたが、ふと気配に反応し、片目を開く。
「……もう、朝か……」
ぼそりと呟いてから、すぐに横を見る。
リルはまだ眠っていた。
(……よく寝てる)
アシュラはその顔を見つめ、ふっと微笑む。
先日聞いたあの荒れた様子など嘘のように今は静かだった。まるで、小さな子供のように。
(……お前がこうやってちゃんと眠れてるだけで、俺は嬉しいよ)
そっと目を伏せ、アシュラは深く息をつく。
そしてズボンのポケットから通信端末を取り出し、画面を確認した。
『了解! 皆によろしくね!』
今日は機関の世話になると夜中に送った連絡に、ラショウからの返事が届いていた。
顔文字や絵文字などは無いが、それだけで十分だった。
「まったく……お前も優しいな」
そう呟いて、端末をしまう。
やがて小鳥の鳴き声が窓の外から聞こえ始める。資料閲覧室の朝は、静かで、温かい。
アシュラは深く背もたれに体を預け、再びリルの寝顔を見た。
「……まだもうちょっと寝てろ。大丈夫だ……今は隣にいるからな」
その言葉は、もはや誰に聞かせるでもなく、ただそこに在るための祈りのようなものだった。
──朝が始まる。
しかし、ここではまだ夜の名残が優しくふたりを包んでいた。
◇
「……全員揃ったな。じゃ、始めるぞ」
セセラの低くもはっきりした声が、静かな朝の会議室に響く。
機関の職員複数人が並ぶ中、最前列にはレイラとラショウの姿があった。
レイラの右腕はまだ固定されているものの、表情には少しだけ張りが戻っている。
その横、ラショウは小さく目を細めてレイラを見た。
(……あの日より、顔色がいい。リハビリが順調なんだ……)
一方、レイラはまだリルの姿が見えないことに、どこか落ち着かない心を抱えていた。
(……昨日のあのあと、どうなったんだろう)
それでも、黙って椅子に座り、前を向く。
その視線の先──セセラが手元の端末でスクリーンを操作しながら、静かに言葉を紡いだ。
「先日の“擬似個体”の件……現段階では未確認種とされるが、構造や能力の一部がレイラおよびリルと酷似しているという報告が上がってる」
「…………!」
「まだコードネームは未決定だが、内部では“擬似レイラ”、“擬似リル”として整理されてる」
小さく息を呑むレイラ。ラショウも隣で固まる。
「そいつらの出所は依然不明だが……関与の可能性がある組織として、Z.EUS──ジキルが主導する秘密結社の名前が浮上してる」
「……っ」
レイラの中で、その名前が明確に結びついた瞬間、胸の奥に冷たい杭が打たれるような感覚が走った。
セセラはレイラの表情に一瞥を送りつつ、あえて平然と続ける。
「今後、Z.EUSの調査を最優先とする。……ただし、リルは現在精神不調で休職中、レイラも負傷中。アシュラとラショウの戦力投入には規約の制限がある。慎重に、かつ確実に動く必要がある」
「……了解」
レイラの声は震えていなかった。
その声音に、セセラは少しだけ目を細める。
(……ちゃんと、前を向けてるじゃねえか。大したもんだよ)
◇
──同時刻、資料閲覧室。
「……ん……」
リルが目を覚ました。
ぼんやりと視界を焦点に合わせ、隣にアシュラの姿を見つけた瞬間、思わず息を呑む。
(……まだ、いてくれたのか)
「おはよ、リル」
アシュラが肩越しに、目だけでリルに微笑みかけた。
リルはしばらく黙ってから、少しだけ声を絞り出す。
「……悪かったな。昨日、勝手に引き止めて」
「いいや、勝手じゃないよ。俺がいたかっただけだ」
そのアシュラの一言に、リルはもう何も言えなくなった。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
……だが。
(……Z.EUS……、擬似体……)
リルの脳裏に、悪夢のような記憶がよぎった。
──自分の姿に酷似した“何か”。
──あの異常な気配。
(……いずれ、戦うことになる。……なら)
「……オレ、ちょっと外、歩いてくる」
そう言ってリルは立ち上がる。
アシュラは何も言わず、ただ見送った。
「無理はするなよ」
「わかってる」
◇
リルは無言で廊下を歩いていた。
太陽は高く昇り、外では木々の緑が眩しく揺れる。
室内へ吹き込む風がカーテンを揺らし、僅かに熱を帯びた外気がリルの頬を撫でた。
(……静かだ)
先日の自分の錯乱が嘘のようだった。いや、本当は何も解決していない。ただ、体が動くだけ。
歩いているという実感だけが、リルを辛うじて現実に繋ぎ止めていた。
(……あんな醜態晒したのに、よく機関から追放されなかったもんだ)
自嘲気味に小さく息を吐いたとき──。
「……リルくん?」
その声が、不意に届いた。
聞き慣れた柔らかな声。振り返ると、そこにはラショウの姿。
薄い水色のカーディガンを羽織り、少し驚いたようにリルを見つめていた。
「……お前、なんで」
「今日は、会議に来ただけ……。リルくんこそ……大丈夫……?」
気を遣うようなラショウの問いかけに、リルは少しだけ目を伏せる。
「……見りゃわかるだろ。元気そうには見えねえって、みんな口を揃えて言うんだから」
「……ううん。元気じゃなくてもいい。……でも、生きててよかったって……思ってるよ。私……すごく」
「…………」
リルの眼差しが、微かに揺れる。
(……薊野さんも、レイラも、アシュラも……)
(ラショウも……)
「……何で、そんなふうに言えるんだよ。お前らは何も知らないくせに……」
「知らないよ。でも、知ろうとすることはできる……。私はそうしたい。リルくんが話してくれるなら、私は何でも受け止める」
ラショウの言葉は飾られていない。まっすぐで、優しい。
「…………」
リルはそれ以上言葉にできず、ただ小さく頷いた。
「……オレ、ちょっとだけ、散歩続けてくる。……またあとでな」
「うん。気をつけてね……」
ラショウの言葉に背を向け、リルは再びゆっくりと歩き出す。
──どこへ行くでもなく、ただ歩く先に、何かがあることを信じて。
◇
──同時刻。
観測室の奥にて。
「おい、先生。見ろよこれ」
セセラがシエリへ手元の端末を示す。そこには、今朝方に取得された高感度観測機器のログが並んでいた。
「……やはり動いている。擬似体の反応。先日だけの偶発的な現象ではないね」
「マジで気味が悪ィ。擬似レイラ、擬似リル……どうせまた現れる」
シエリは静かに首を縦に振る。
「レイラたちに似たあの龍……そして、ジキルの動きも。この数日で事態は一気に動き出した」
「奴らの狙いがまだ見えねえのが気に入らねえな……」
警戒心が滲むセセラの声。
そしてふたりの間に、ほんの一瞬、沈黙が流れた。
「…………」
やがてシエリが、囁くように口を開く。
「……レイラ、リル……ふたりがこの渦に巻き込まれる運命なら……」
「止めるしかねえだろ。俺たちが」
セセラの言葉にシエリもまた、目を細めて静かに頷いた。
◇
──Z.EUS実験棟・訓練区画。
爆音が、実験棟の無機質な空間にこだまする。
破壊された鉄骨の骸に囲まれ、ふたりの少女がそこに立っていた。
「……ふうん。終わり?」
訓練用の“失敗作”と呼ばれる龍型個体たちは、もう動かない。
擬似レイラ──レイは、蒼白い光を纏った指先で灰となった龍の残骸を軽く払う。
その隣で、赤色に近いピンク色の髪を振りながら、静かに息をつく少女──リウもまた、服に付いた返り血を無感情に拭っていた。
「倒したね、リウ」
「……ああ。でも、物足りねえよ。もっと強いのが欲しい」
「ふふ……怖いね、リウは」
「あ?」
「私は……どっちかっていうと、見てる人がどう感じるかが気になるの。驚いた顔、嬉しそうな顔、怖がる顔……全部、素敵だから」
よく理解ができないその言葉にリウは虚ろな瞳を一度だけレイに向けたが、特に何も言わず、再び足元の残骸に視線を落とす。
そして──。
上方の観測ブースでは、その光景をジキルとスカルのふたりが見下ろしていた。
「……あのふたり、仕上がってきたね」
ジキルの声は上機嫌そのもの。
「実戦データに関しては十分です。すぐにでも投入可能」
その隣で淡々と報告をするのはスカル。
「じゃあ、そろそろだね。次の舞台に立ってもらわなきゃ。あの子たちには、親の顔を見に行ってもらおうかな」
「…………」
その言葉の意味を、スカルはすぐに理解した。
「……まさか、接触任務を?」
「そう。レイとリウたちに……本物を見せてあげよう。……リル、レイラちゃん……あの子たちが持っていないものを、あの子たち自身の姿でぶつけてあげる」
ジキルの瞳が妖しく光を帯びる。
「感情と理性のぶつかり合いって、芸術だよね。しかも、主役はもう……用意した」
彼が見つめる先、訓練区画の中央に佇むふたりの模造品。
だがその背には、生まれながらの“龍の気配”が確かに蠢いていた。
──そして時刻は正午を少し回った頃。
場所は、都市部・旧商業区エリア跡地。
一見すると何の変哲もない、整備されず放置された一角。
「……ここから、行けって」
冷たい風の中に佇むリウが、淡々と呟く。その瞳は僅か揺れている。
「そっか。じゃあ……行こうか」
隣に立つレイは、風に靡く蒼白い髪をふわりと撫で上げ、うっすらと笑みを浮かべていた。
「ねぇリウ。怖くない?」
「怖くはねえよ。でも、どんな顔するのか……それはちょっと興味ある」
「……!」
レイはクスッと笑った。
「……うん、それなら大丈夫。だって、ちゃんと本物に教えてもらわなきゃいけないもんね。どうして泣くのかとか、どうして笑うのかとか……」
──ふたりの行き先は、機関の監視が薄い、中間地点──郊外の物流廃棄場跡。
小さく目を伏せるレイ。
「よし、行こう。……『こんにちは』の練習、しなきゃね」
「……ああ」
──そしてふたりは、世界へと歩き出した。
リルは少しだけ姿勢を崩し、背を椅子に預けて天井を見上げた。目が少し赤い。
「……『ちょっとだけ』って言われたんだっけか」
不意に呟いた声に、アシュラが小さく笑う。
「おう。最初はな。でも……長くなるのは慣れてるから」
「……そうかよ」
リルは僅かに目を伏せたあと、ぽつりと本心を零した。
「……もう少し、いてくれ……。オレ……お前の隣にいるのが、今一番落ち着くんだ」
その言葉は、リル自身が驚くほど素直だった。
どこか照れたように、耳が僅かに赤い。
アシュラはそれに何も言わず、隣でゆっくりと頷いた。
「俺も今、ここにいるのが一番自然だ。……お前の隣は、昔からしっくりくるからな」
「……昔は、よく隣で寝てたっけ」
「お前が勝手に俺の布団に入り込んできたんだろ」
「寒かったんだよ、あの部屋。お前のとこだけやたらあったかくてムカついた」
「……ああ、そういえばラショウも『兄様の布団は魔法がかかってる』とか言ってたな」
「……んだそれ……」
ふたりの間に、小さな笑いが戻っていた。
心の奥ではまだ、痛みも迷いもある。
でも、ほんの少しの温度が、そこに確かに届いていた。
リルは目を細めて、吐息をひとつ漏らす。
「……ありがとな、アシュラ」
「礼なんていらねぇよ。俺が勝手にやってるだけだ」
そう言ってアシュラは立ち上がることもなく、ただそのまま隣に座り続けた。
何時間も。ずっと。
ちっとも『ちょっとだけ』ではなかった。
そして、他に誰もいない静かな資料閲覧室に、夜の灯りが穏やかに揺れていた。
◇
カーテンの隙間から、やわらかな朝日が射し込んでくる。
壁掛け時計の針は、既に朝の6時を回っていた。
重ねられた資料の山、その傍ら──ふたりは並んで椅子にもたれるようにして眠っていた。
リルは椅子の背に頭を預け、静かな寝息を立てている。
疲れ切った心がようやく少しだけ休まったのだろう。その顔にはどこか無防備な安堵が宿っていた。
隣のアシュラも、背を少し丸めながら椅子に座ったまま微睡んでいた。
腕を組んだまま浅い眠りに落ちていたが、ふと気配に反応し、片目を開く。
「……もう、朝か……」
ぼそりと呟いてから、すぐに横を見る。
リルはまだ眠っていた。
(……よく寝てる)
アシュラはその顔を見つめ、ふっと微笑む。
先日聞いたあの荒れた様子など嘘のように今は静かだった。まるで、小さな子供のように。
(……お前がこうやってちゃんと眠れてるだけで、俺は嬉しいよ)
そっと目を伏せ、アシュラは深く息をつく。
そしてズボンのポケットから通信端末を取り出し、画面を確認した。
『了解! 皆によろしくね!』
今日は機関の世話になると夜中に送った連絡に、ラショウからの返事が届いていた。
顔文字や絵文字などは無いが、それだけで十分だった。
「まったく……お前も優しいな」
そう呟いて、端末をしまう。
やがて小鳥の鳴き声が窓の外から聞こえ始める。資料閲覧室の朝は、静かで、温かい。
アシュラは深く背もたれに体を預け、再びリルの寝顔を見た。
「……まだもうちょっと寝てろ。大丈夫だ……今は隣にいるからな」
その言葉は、もはや誰に聞かせるでもなく、ただそこに在るための祈りのようなものだった。
──朝が始まる。
しかし、ここではまだ夜の名残が優しくふたりを包んでいた。
◇
「……全員揃ったな。じゃ、始めるぞ」
セセラの低くもはっきりした声が、静かな朝の会議室に響く。
機関の職員複数人が並ぶ中、最前列にはレイラとラショウの姿があった。
レイラの右腕はまだ固定されているものの、表情には少しだけ張りが戻っている。
その横、ラショウは小さく目を細めてレイラを見た。
(……あの日より、顔色がいい。リハビリが順調なんだ……)
一方、レイラはまだリルの姿が見えないことに、どこか落ち着かない心を抱えていた。
(……昨日のあのあと、どうなったんだろう)
それでも、黙って椅子に座り、前を向く。
その視線の先──セセラが手元の端末でスクリーンを操作しながら、静かに言葉を紡いだ。
「先日の“擬似個体”の件……現段階では未確認種とされるが、構造や能力の一部がレイラおよびリルと酷似しているという報告が上がってる」
「…………!」
「まだコードネームは未決定だが、内部では“擬似レイラ”、“擬似リル”として整理されてる」
小さく息を呑むレイラ。ラショウも隣で固まる。
「そいつらの出所は依然不明だが……関与の可能性がある組織として、Z.EUS──ジキルが主導する秘密結社の名前が浮上してる」
「……っ」
レイラの中で、その名前が明確に結びついた瞬間、胸の奥に冷たい杭が打たれるような感覚が走った。
セセラはレイラの表情に一瞥を送りつつ、あえて平然と続ける。
「今後、Z.EUSの調査を最優先とする。……ただし、リルは現在精神不調で休職中、レイラも負傷中。アシュラとラショウの戦力投入には規約の制限がある。慎重に、かつ確実に動く必要がある」
「……了解」
レイラの声は震えていなかった。
その声音に、セセラは少しだけ目を細める。
(……ちゃんと、前を向けてるじゃねえか。大したもんだよ)
◇
──同時刻、資料閲覧室。
「……ん……」
リルが目を覚ました。
ぼんやりと視界を焦点に合わせ、隣にアシュラの姿を見つけた瞬間、思わず息を呑む。
(……まだ、いてくれたのか)
「おはよ、リル」
アシュラが肩越しに、目だけでリルに微笑みかけた。
リルはしばらく黙ってから、少しだけ声を絞り出す。
「……悪かったな。昨日、勝手に引き止めて」
「いいや、勝手じゃないよ。俺がいたかっただけだ」
そのアシュラの一言に、リルはもう何も言えなくなった。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
……だが。
(……Z.EUS……、擬似体……)
リルの脳裏に、悪夢のような記憶がよぎった。
──自分の姿に酷似した“何か”。
──あの異常な気配。
(……いずれ、戦うことになる。……なら)
「……オレ、ちょっと外、歩いてくる」
そう言ってリルは立ち上がる。
アシュラは何も言わず、ただ見送った。
「無理はするなよ」
「わかってる」
◇
リルは無言で廊下を歩いていた。
太陽は高く昇り、外では木々の緑が眩しく揺れる。
室内へ吹き込む風がカーテンを揺らし、僅かに熱を帯びた外気がリルの頬を撫でた。
(……静かだ)
先日の自分の錯乱が嘘のようだった。いや、本当は何も解決していない。ただ、体が動くだけ。
歩いているという実感だけが、リルを辛うじて現実に繋ぎ止めていた。
(……あんな醜態晒したのに、よく機関から追放されなかったもんだ)
自嘲気味に小さく息を吐いたとき──。
「……リルくん?」
その声が、不意に届いた。
聞き慣れた柔らかな声。振り返ると、そこにはラショウの姿。
薄い水色のカーディガンを羽織り、少し驚いたようにリルを見つめていた。
「……お前、なんで」
「今日は、会議に来ただけ……。リルくんこそ……大丈夫……?」
気を遣うようなラショウの問いかけに、リルは少しだけ目を伏せる。
「……見りゃわかるだろ。元気そうには見えねえって、みんな口を揃えて言うんだから」
「……ううん。元気じゃなくてもいい。……でも、生きててよかったって……思ってるよ。私……すごく」
「…………」
リルの眼差しが、微かに揺れる。
(……薊野さんも、レイラも、アシュラも……)
(ラショウも……)
「……何で、そんなふうに言えるんだよ。お前らは何も知らないくせに……」
「知らないよ。でも、知ろうとすることはできる……。私はそうしたい。リルくんが話してくれるなら、私は何でも受け止める」
ラショウの言葉は飾られていない。まっすぐで、優しい。
「…………」
リルはそれ以上言葉にできず、ただ小さく頷いた。
「……オレ、ちょっとだけ、散歩続けてくる。……またあとでな」
「うん。気をつけてね……」
ラショウの言葉に背を向け、リルは再びゆっくりと歩き出す。
──どこへ行くでもなく、ただ歩く先に、何かがあることを信じて。
◇
──同時刻。
観測室の奥にて。
「おい、先生。見ろよこれ」
セセラがシエリへ手元の端末を示す。そこには、今朝方に取得された高感度観測機器のログが並んでいた。
「……やはり動いている。擬似体の反応。先日だけの偶発的な現象ではないね」
「マジで気味が悪ィ。擬似レイラ、擬似リル……どうせまた現れる」
シエリは静かに首を縦に振る。
「レイラたちに似たあの龍……そして、ジキルの動きも。この数日で事態は一気に動き出した」
「奴らの狙いがまだ見えねえのが気に入らねえな……」
警戒心が滲むセセラの声。
そしてふたりの間に、ほんの一瞬、沈黙が流れた。
「…………」
やがてシエリが、囁くように口を開く。
「……レイラ、リル……ふたりがこの渦に巻き込まれる運命なら……」
「止めるしかねえだろ。俺たちが」
セセラの言葉にシエリもまた、目を細めて静かに頷いた。
◇
──Z.EUS実験棟・訓練区画。
爆音が、実験棟の無機質な空間にこだまする。
破壊された鉄骨の骸に囲まれ、ふたりの少女がそこに立っていた。
「……ふうん。終わり?」
訓練用の“失敗作”と呼ばれる龍型個体たちは、もう動かない。
擬似レイラ──レイは、蒼白い光を纏った指先で灰となった龍の残骸を軽く払う。
その隣で、赤色に近いピンク色の髪を振りながら、静かに息をつく少女──リウもまた、服に付いた返り血を無感情に拭っていた。
「倒したね、リウ」
「……ああ。でも、物足りねえよ。もっと強いのが欲しい」
「ふふ……怖いね、リウは」
「あ?」
「私は……どっちかっていうと、見てる人がどう感じるかが気になるの。驚いた顔、嬉しそうな顔、怖がる顔……全部、素敵だから」
よく理解ができないその言葉にリウは虚ろな瞳を一度だけレイに向けたが、特に何も言わず、再び足元の残骸に視線を落とす。
そして──。
上方の観測ブースでは、その光景をジキルとスカルのふたりが見下ろしていた。
「……あのふたり、仕上がってきたね」
ジキルの声は上機嫌そのもの。
「実戦データに関しては十分です。すぐにでも投入可能」
その隣で淡々と報告をするのはスカル。
「じゃあ、そろそろだね。次の舞台に立ってもらわなきゃ。あの子たちには、親の顔を見に行ってもらおうかな」
「…………」
その言葉の意味を、スカルはすぐに理解した。
「……まさか、接触任務を?」
「そう。レイとリウたちに……本物を見せてあげよう。……リル、レイラちゃん……あの子たちが持っていないものを、あの子たち自身の姿でぶつけてあげる」
ジキルの瞳が妖しく光を帯びる。
「感情と理性のぶつかり合いって、芸術だよね。しかも、主役はもう……用意した」
彼が見つめる先、訓練区画の中央に佇むふたりの模造品。
だがその背には、生まれながらの“龍の気配”が確かに蠢いていた。
──そして時刻は正午を少し回った頃。
場所は、都市部・旧商業区エリア跡地。
一見すると何の変哲もない、整備されず放置された一角。
「……ここから、行けって」
冷たい風の中に佇むリウが、淡々と呟く。その瞳は僅か揺れている。
「そっか。じゃあ……行こうか」
隣に立つレイは、風に靡く蒼白い髪をふわりと撫で上げ、うっすらと笑みを浮かべていた。
「ねぇリウ。怖くない?」
「怖くはねえよ。でも、どんな顔するのか……それはちょっと興味ある」
「……!」
レイはクスッと笑った。
「……うん、それなら大丈夫。だって、ちゃんと本物に教えてもらわなきゃいけないもんね。どうして泣くのかとか、どうして笑うのかとか……」
──ふたりの行き先は、機関の監視が薄い、中間地点──郊外の物流廃棄場跡。
小さく目を伏せるレイ。
「よし、行こう。……『こんにちは』の練習、しなきゃね」
「……ああ」
──そしてふたりは、世界へと歩き出した。
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克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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