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第26話 愛するという渇き
第26話・1 あの人と話してみたい
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新たな龍の発生は、先日のレイとリウの討伐を境にぴたりと沈静化していた。
龍調査機関の職員たちは、束の間の平穏を機にデータ整理や経過観察、普段は行き届かない細かい箇所の清掃等に精を出している。
そんな中、フロアの隅でそっと小さく息を吐いているひとりの女性職員の姿。
「……ふぅ……」
肩までの落ち着いた茶髪、控えめなメイク、シンプルな眼鏡。
白衣のポケットに書類をしまいながら、廊下をすれ違う職員たちに頭を小さく下げて挨拶。
名は、真壁アオイ。年齢はおそらく30手前。
臨床データの分析や報告の補佐を担う、静かで目立たない存在だ。
しかし真壁は、ひとつだけ個人的な悩みを抱えている。
──薊野セセラ、という人物の存在。
「あ……っ」
廊下の角を曲がった瞬間に見つけた、スラッとした後ろ姿。
まさにそのセセラが、端末を片手に歩いている。今日は白衣を羽織っておらず、シャツの袖をまくっただけのラフな出で立ちだった。
「…………」
(……今日も、カッコいいな……)
そう思ってしまう自分自身を心の中で叱る。
(ダメダメ……業務中にこんな……)
だが。
セセラはふと立ち止まり、「……ん?」と真壁の方へ振り返った。
バチッと合う視線。
「…………っ!」
真壁は思わず、頭を下げる。
「お、お疲れ様です……!」
「あー……ああ、お疲れ」
気怠げに手を軽く挙げるセセラ。そのまま歩き去っていく。
「…………」
真壁はその背中が見えなくなるまで、じっとその場に立ち尽くしていた。
(……はぁ……話すなんて、無理だよね……)
胸の中で、小さな火が燻っている。
それは恋か、憧れか。
それとも──。
職務に戻らなければと歩き出す真壁。
しかしその背中からは、何気ない日常に小さな異変が芽吹いているようだった。
そして、真壁の中で静かに積み重ねられていた想いが、ひとつの行動へと繋がることになる。
その行動は、Z.EUSの目を惹く隙となるか。
あるいは、全く別の波紋を呼ぶものとなるか──。
◇
「……これ、この前の戦闘記録……」
解析室で真壁は、画面に映るリルのデータを整理しながらメモを取っていた。
その奥のタブレット端末には、セセラが指示していた検査項目が並ぶ。
(……紅崎さん、本当にすごい……あの状態で、任務に出て、帰ってきて……)
尊敬。憧れ。
そして、少しの羨望。
だがその意識は、そこにはあまり長く留まらなかった。
──バサッ……
「……っ」
机の下のファイルが1冊、滑り落ちる。
しゃがみ込んで拾い上げようとした──そのとき。
「……?」
足元の床。
ふと、そこに小さな影のようなものが一瞬揺らいだ気がした。
(…………?)
気のせいかと首を傾げる。
だが──その一瞬、真壁の背筋に冷たいものが走った。
……心臓の音が、唐突にひとつだけ大きく跳ねる。
(な……んだろう……?)
ドクンと脈打つ胸。
それは緊張か、不安か、判別がつかなかった。
「真壁さーん? すみませーん! 昨日の追加データ確認お願いできます?」
別の職員からの声に、ハッとして立ち上がる。
「っ、あ、はいっ……すみません、すぐに……!」
慌ててファイルをまとめて歩き出す真壁。
しかしその背後──。
彼女の机の下には、誰のものでもないはずの“影”がほんの一瞬そこに留まり──そして静かに消えていった。
……それはまだ、誰の目にも映らない。
“それ”は、まだ名前すら持たない。
だが、それは感じていた。
この女は、寂しい。
この女は、脆い。
この女は──強い想いを、持っている。
その感情を、もっと膨らませてくれれば──食べられる。
それは、音も無く“感情の匂い”を追って、静かに動き始めた。
◇
「……じゃあ、今日はここまでやって終わりな」
「ん……!」
レイラは右腕を丁寧に動かしながら、リハビリメニューをこなしていた。その隣でセセラは気楽そうに椅子へ腰掛け、タブレットをいじっている。
「……だいぶ善くなったな」
「うん。……もうすぐ剣も握れるかも」
笑ってみせるレイラに、セセラは小さく頷いた。
「お前が怪我してくたばってた時、リルがどんだけ焦ってたか。あん時こそ検査すりゃよかったわ、脈とか絶対おかしかった」
「……ふふ、そんなに?」
「お前のことになると、あいつ極端だからなァ」
「……っ……」
レイラは少し照れたように笑いながら、「……皆がいてくれてよかった」と小さく呟く。
その言葉にセセラは驚いた顔を見せた後、フッと目を細めて「……なんだよ、素直じゃん」とからかうように返した。
「んじゃ、ちょっと……そんなリルちゃんのとこ行ってくるわ」
「あ、……うん。お疲れさま……」
◇
──同時刻、休憩ラウンジ。
(……ねむ……)
ソファに沈んでいたのは、リル。
検査も任務も龍の発生も無い自由時間。
レイラがリハビリしている間、リルは暫しの休息を取っていた。
すると──カラン、とグラスの音。
「よぉ、おつかれ……これ俺からのサービスな」
挨拶と共にセセラが現れ、テーブルにグラスを置いていく。中身は冷えた緑茶。
「……お、薊野さん優しいじゃん」
「俺も反省したんだよ。胃カメラはやりすぎた」
「やりすぎだわ。二度とやりたくねえよ」
「またいつかやるけどな」
「……最悪」
「俺ももうすぐ健康診断あるわ。最悪」
「うわめっちゃ見に行きてえ」
「ダメでーす」
他愛ない会話でふたりがケラケラと笑い合う、その空間はとても穏やかだった。
そして、そっとセセラたちの様子を遠巻きに眺めているひとりの女性職員。
──真壁。
ガラス越し。視線を合わせることすら、できない。
(……やっぱり……素敵な人……)
聡明で、冷静で、厳しくて。
なのに、時折見せるあの優しい姿。
(……あんな風に笑うんだ……)
レイラやリルに見せるセセラのその笑顔が、あたたかいものだと知ってしまった。
その事実が、胸の中をチクリと刺す。
(……私、薊野さんのあんな笑顔……、目の前で見たことない)
指先がギュッとファイルの角を掴んだ。
その瞬間、背後で──誰かに見られているような感覚が走る。
「……っ……?」
振り返る。
……誰もいない。
だが、誰かが、確かに共鳴している。
真壁の中の、もっと近づきたい、振り向いてほしい──そんな想いが静かに……だが確実に膨らんでいた。
それはまだ、小さな渦。
しかし確かに真壁の想いを喰っていた。
この女が抱える一方的な感情は、とても甘く、深く、香る。
──もっと。
──もっと欲しい。
それは形を持たぬまま、真壁の背後に寄り添っていた。
◇
ゆるやかな風が吹く夕刻の中庭。
花壇のチューリップが揺れ、木陰のベンチにはレイラとリルの姿。
「……あ、見て。あの猫、また来てる」
レイラが指で指す先には、中庭の主(?)らしい野良猫が。
リルはちらりと目を向けて、「ああ、昨日もいたな」とぼそり。
「名前つける?」
「やめとけ。情が移る」
「……ふふ。そういうとこ、優しいよね」
「うっせ」
やり取りはいつも通り。けれど、そこに漂う空気はあたたかい。
レイラの右腕はもう固定具が外れていた。
リルも、どこか表情に柔らかさが戻っている。
「……あのさ、リル」
「ん」
「また……一緒に任務、出れるといいね」
その言葉にリルは数秒沈黙したあと、ふっと目を細めた。
「……そうだな。今なら、ちゃんと戦えそうだ」
(……あの時、ブッ壊れたオレが、こうして今ここに座ってるのは……)
レイラが隣にいたからだ。
何も言わず、何も責めず、傍にいてくれたから。
「お前……マジで、ありがとうな」
「え?」
「ん、なんでもない。猫逃げるぞ」
「えっ! あっ、待って!」
猫を追いながら中庭の奥へと駆けていくレイラを、薄く微笑みながら見つめるリル。
「…………」
──カツ、カツ……と小さく響くヒールの音。
真壁は、レポートを提出するため廊下を歩いていた。
途中、窓から見えたベンチ。
そこで肩を並べるふたりの姿。
(……レイラちゃんと、紅崎さん……)
あの距離感。
あの自然なやり取り。
(……ああいうの、いいな……)
そういうのに、なりたいわけじゃない。
でも、誰かの傍にいられるって──羨ましかった。
そして、その一瞬。
不意に耳元で、誰かが囁いたような錯覚。
(──『いいの? そのままで……?』)
「……っ!?」
目を見開く。
誰も、いない。
だが、“感情”の奥底に、小さなヒビが入った。
(──『薊野セセラさんがもし、誰かと特別な関係になったら?』)
「…………!!」
(……その時、私は……どうすれば……)
一瞬だけ、資料を持つ手が震える。
静かに蠢く、黒い“輪郭の無いもの”は、真壁の背後にまた一歩近づいた。
(──『もっと、近づきたいんでしょう?』)
「…………!!!」
「……あれ、真壁さん?」
低めの声に振り返る真壁。
声の主は、同じ解析班の同僚・八島。
「こんな時間まで残ってたんですか?」
「え……あ、うん。ちょっと整理が立て込んでて」
そう微笑んで返す真壁だが、八島はふと眉を寄せる。
真壁の頬が、少しやつれて見えたからだ。
「最近……寝てます? なんか、顔色悪いような」
「……ふふ、大丈夫だよ。気にしないで」
(──そう。気にしないで。気にされたら困るの)
真壁の瞳は笑っているのに、どこか芯が冷たいような、不自然さがあった。
八島はそれ以上言えず、「お疲れさまです」とだけ告げて去っていく。
残された真壁はそっと資料の束を抱え──。
「……誰にも、渡さないから……」
低く、呟いた。
「……ッ、くしっ……」
その少し奥の廊下で可愛らしいくしゃみをひとつしたのはセセラ。
ズビ、と鼻をすすりながら腕組みで歩いていると、誰かが中庭を見ているのが見えた。
白衣、茶髪の後ろ姿──真壁だ。
「…………」
セセラは、なんとなく違和感を覚えた。
ただの職員のひとりにしては、どこか雰囲気が張り詰めていたような──。
(……気のせい、か)
頭を軽く振る。
今は、リルやレイラの回復の方が優先だ。
だがその背に、知らぬうちに視線が向けられていたことには、まだ気づいていない。
◇
──翌日。
朝のリハビリを終えたレイラ。右腕を軽く振りながら、リルと並んでロビーのベンチに腰掛けていた。
「ふー……もう随分、動かせるようになったよ」
「……無理すんなよ。もうちょいで善くなりそうだからって、調子乗ってやるとまた痛める」
「わかってるってば。……あ、心配してくれた?」
「してる」
「っ、あぇ?」
素直な言葉に素っ頓狂な声を上げたあと、レイラは頬を染めて「……へへ」と小さく笑う。
一方のリルは、今日も体調が善さそうだった。
表情も穏やかで、ほんの少しだけ目元の鋭さが和らいで見える。
「あ、ねえ……そういえば……、最近ラショウは?」
「……家のことが忙しいんだと。あー……でも午後からは空くかもな」
「……そっか……!」
ふたりの間に流れる風は、柔らかかった。
まるで、一時の安らぎを象徴するように。
だが──。
解析室にて真壁は、端末に表示される数値をじっと見つめていた。
(……また、変動してる。……でも……この反応、どこにも該当データが無い)
正規の解析網には何も引っかからない。
だが確かに、付近に何かがいる。
「…………!」
指先が震えた。
しかしその震えに気づかないまま、真壁は壁にかかる時計に目をやる。
(……もうすぐ……お昼休憩……)
と、そのとき。
「真壁さん、お疲れさまです!」
同僚の八島が、明るい声で声をかけてきた。
が──。
「………………ああ」
一拍の間のあと、応じる真壁。その笑みは変わらない。
ただ、声色がどこか──無機質だった。
八島は「?」と小さく首を傾げたが、気のせいと思い直して立ち去っていく。
……その後ろ姿を、真壁はずっと見つめていた。
(余計なこと言わないで……)
真壁の背後、誰にも見えない黒い影が小さく蠢いていた。
まるでその心の奥底に巣食う“想い”を、味わうかのように。
◇
午後の医療棟。
「……っつーわけで、リル……後日また検診の延長分あるからな。逃げんなよ」
「え、また? 薊野さんあんたどんだけ細かいんだよ……」
「俺史上最も緻密に構成された地獄メニューって言ったろ?」
リルとセセラのやり取りは、今日も通常運転。
そこへタイミングを見計らったように、レイラがやってきて合流した。
「ふたりとも……いつもそんなやり取りしてるね」
「……まあな。このおっさんだってオレにとっちゃ……西城家の他にできた家族みてえなもんだし」
「えッ……!!」
やや照れながらのリルの言葉に、セセラは口元を両手で押さえて目をキラキラ。
「……恥ずい……やっぱ、ナシ」
「り、リル……! お前……!! 抱きしめていい!?」
「野郎に抱きつかれたって嬉しくなんかな──うわッ……!!」
その兄弟のようなやり取りに、「ふふ……っ」とレイラが笑う。
リルを半ば強引に抱き締めながら(もはや拘束技)、セセラは内心で──。
(……そうだな。こいつらが、ちゃんと笑えてる今のこの時間が……一番、守るべきもんだ)
そう、思わずにはいられなかった。
──その頃、真壁の端末にはひとつの“新しい警告ログ”が表示されていた。
【感情干渉体反応──未分類領域。識別不能】
警告音は鳴らない。画面の隅に、小さく異質が記録されたまま、誰にも気づかれない。
「……ふふ…………」
ひとり微笑む真壁。
(……セセラさん、今、何してるんだろう……)
そして、真壁の背後。
その黒い何かが、静かに口元だけを吊り上げた。
龍調査機関の職員たちは、束の間の平穏を機にデータ整理や経過観察、普段は行き届かない細かい箇所の清掃等に精を出している。
そんな中、フロアの隅でそっと小さく息を吐いているひとりの女性職員の姿。
「……ふぅ……」
肩までの落ち着いた茶髪、控えめなメイク、シンプルな眼鏡。
白衣のポケットに書類をしまいながら、廊下をすれ違う職員たちに頭を小さく下げて挨拶。
名は、真壁アオイ。年齢はおそらく30手前。
臨床データの分析や報告の補佐を担う、静かで目立たない存在だ。
しかし真壁は、ひとつだけ個人的な悩みを抱えている。
──薊野セセラ、という人物の存在。
「あ……っ」
廊下の角を曲がった瞬間に見つけた、スラッとした後ろ姿。
まさにそのセセラが、端末を片手に歩いている。今日は白衣を羽織っておらず、シャツの袖をまくっただけのラフな出で立ちだった。
「…………」
(……今日も、カッコいいな……)
そう思ってしまう自分自身を心の中で叱る。
(ダメダメ……業務中にこんな……)
だが。
セセラはふと立ち止まり、「……ん?」と真壁の方へ振り返った。
バチッと合う視線。
「…………っ!」
真壁は思わず、頭を下げる。
「お、お疲れ様です……!」
「あー……ああ、お疲れ」
気怠げに手を軽く挙げるセセラ。そのまま歩き去っていく。
「…………」
真壁はその背中が見えなくなるまで、じっとその場に立ち尽くしていた。
(……はぁ……話すなんて、無理だよね……)
胸の中で、小さな火が燻っている。
それは恋か、憧れか。
それとも──。
職務に戻らなければと歩き出す真壁。
しかしその背中からは、何気ない日常に小さな異変が芽吹いているようだった。
そして、真壁の中で静かに積み重ねられていた想いが、ひとつの行動へと繋がることになる。
その行動は、Z.EUSの目を惹く隙となるか。
あるいは、全く別の波紋を呼ぶものとなるか──。
◇
「……これ、この前の戦闘記録……」
解析室で真壁は、画面に映るリルのデータを整理しながらメモを取っていた。
その奥のタブレット端末には、セセラが指示していた検査項目が並ぶ。
(……紅崎さん、本当にすごい……あの状態で、任務に出て、帰ってきて……)
尊敬。憧れ。
そして、少しの羨望。
だがその意識は、そこにはあまり長く留まらなかった。
──バサッ……
「……っ」
机の下のファイルが1冊、滑り落ちる。
しゃがみ込んで拾い上げようとした──そのとき。
「……?」
足元の床。
ふと、そこに小さな影のようなものが一瞬揺らいだ気がした。
(…………?)
気のせいかと首を傾げる。
だが──その一瞬、真壁の背筋に冷たいものが走った。
……心臓の音が、唐突にひとつだけ大きく跳ねる。
(な……んだろう……?)
ドクンと脈打つ胸。
それは緊張か、不安か、判別がつかなかった。
「真壁さーん? すみませーん! 昨日の追加データ確認お願いできます?」
別の職員からの声に、ハッとして立ち上がる。
「っ、あ、はいっ……すみません、すぐに……!」
慌ててファイルをまとめて歩き出す真壁。
しかしその背後──。
彼女の机の下には、誰のものでもないはずの“影”がほんの一瞬そこに留まり──そして静かに消えていった。
……それはまだ、誰の目にも映らない。
“それ”は、まだ名前すら持たない。
だが、それは感じていた。
この女は、寂しい。
この女は、脆い。
この女は──強い想いを、持っている。
その感情を、もっと膨らませてくれれば──食べられる。
それは、音も無く“感情の匂い”を追って、静かに動き始めた。
◇
「……じゃあ、今日はここまでやって終わりな」
「ん……!」
レイラは右腕を丁寧に動かしながら、リハビリメニューをこなしていた。その隣でセセラは気楽そうに椅子へ腰掛け、タブレットをいじっている。
「……だいぶ善くなったな」
「うん。……もうすぐ剣も握れるかも」
笑ってみせるレイラに、セセラは小さく頷いた。
「お前が怪我してくたばってた時、リルがどんだけ焦ってたか。あん時こそ検査すりゃよかったわ、脈とか絶対おかしかった」
「……ふふ、そんなに?」
「お前のことになると、あいつ極端だからなァ」
「……っ……」
レイラは少し照れたように笑いながら、「……皆がいてくれてよかった」と小さく呟く。
その言葉にセセラは驚いた顔を見せた後、フッと目を細めて「……なんだよ、素直じゃん」とからかうように返した。
「んじゃ、ちょっと……そんなリルちゃんのとこ行ってくるわ」
「あ、……うん。お疲れさま……」
◇
──同時刻、休憩ラウンジ。
(……ねむ……)
ソファに沈んでいたのは、リル。
検査も任務も龍の発生も無い自由時間。
レイラがリハビリしている間、リルは暫しの休息を取っていた。
すると──カラン、とグラスの音。
「よぉ、おつかれ……これ俺からのサービスな」
挨拶と共にセセラが現れ、テーブルにグラスを置いていく。中身は冷えた緑茶。
「……お、薊野さん優しいじゃん」
「俺も反省したんだよ。胃カメラはやりすぎた」
「やりすぎだわ。二度とやりたくねえよ」
「またいつかやるけどな」
「……最悪」
「俺ももうすぐ健康診断あるわ。最悪」
「うわめっちゃ見に行きてえ」
「ダメでーす」
他愛ない会話でふたりがケラケラと笑い合う、その空間はとても穏やかだった。
そして、そっとセセラたちの様子を遠巻きに眺めているひとりの女性職員。
──真壁。
ガラス越し。視線を合わせることすら、できない。
(……やっぱり……素敵な人……)
聡明で、冷静で、厳しくて。
なのに、時折見せるあの優しい姿。
(……あんな風に笑うんだ……)
レイラやリルに見せるセセラのその笑顔が、あたたかいものだと知ってしまった。
その事実が、胸の中をチクリと刺す。
(……私、薊野さんのあんな笑顔……、目の前で見たことない)
指先がギュッとファイルの角を掴んだ。
その瞬間、背後で──誰かに見られているような感覚が走る。
「……っ……?」
振り返る。
……誰もいない。
だが、誰かが、確かに共鳴している。
真壁の中の、もっと近づきたい、振り向いてほしい──そんな想いが静かに……だが確実に膨らんでいた。
それはまだ、小さな渦。
しかし確かに真壁の想いを喰っていた。
この女が抱える一方的な感情は、とても甘く、深く、香る。
──もっと。
──もっと欲しい。
それは形を持たぬまま、真壁の背後に寄り添っていた。
◇
ゆるやかな風が吹く夕刻の中庭。
花壇のチューリップが揺れ、木陰のベンチにはレイラとリルの姿。
「……あ、見て。あの猫、また来てる」
レイラが指で指す先には、中庭の主(?)らしい野良猫が。
リルはちらりと目を向けて、「ああ、昨日もいたな」とぼそり。
「名前つける?」
「やめとけ。情が移る」
「……ふふ。そういうとこ、優しいよね」
「うっせ」
やり取りはいつも通り。けれど、そこに漂う空気はあたたかい。
レイラの右腕はもう固定具が外れていた。
リルも、どこか表情に柔らかさが戻っている。
「……あのさ、リル」
「ん」
「また……一緒に任務、出れるといいね」
その言葉にリルは数秒沈黙したあと、ふっと目を細めた。
「……そうだな。今なら、ちゃんと戦えそうだ」
(……あの時、ブッ壊れたオレが、こうして今ここに座ってるのは……)
レイラが隣にいたからだ。
何も言わず、何も責めず、傍にいてくれたから。
「お前……マジで、ありがとうな」
「え?」
「ん、なんでもない。猫逃げるぞ」
「えっ! あっ、待って!」
猫を追いながら中庭の奥へと駆けていくレイラを、薄く微笑みながら見つめるリル。
「…………」
──カツ、カツ……と小さく響くヒールの音。
真壁は、レポートを提出するため廊下を歩いていた。
途中、窓から見えたベンチ。
そこで肩を並べるふたりの姿。
(……レイラちゃんと、紅崎さん……)
あの距離感。
あの自然なやり取り。
(……ああいうの、いいな……)
そういうのに、なりたいわけじゃない。
でも、誰かの傍にいられるって──羨ましかった。
そして、その一瞬。
不意に耳元で、誰かが囁いたような錯覚。
(──『いいの? そのままで……?』)
「……っ!?」
目を見開く。
誰も、いない。
だが、“感情”の奥底に、小さなヒビが入った。
(──『薊野セセラさんがもし、誰かと特別な関係になったら?』)
「…………!!」
(……その時、私は……どうすれば……)
一瞬だけ、資料を持つ手が震える。
静かに蠢く、黒い“輪郭の無いもの”は、真壁の背後にまた一歩近づいた。
(──『もっと、近づきたいんでしょう?』)
「…………!!!」
「……あれ、真壁さん?」
低めの声に振り返る真壁。
声の主は、同じ解析班の同僚・八島。
「こんな時間まで残ってたんですか?」
「え……あ、うん。ちょっと整理が立て込んでて」
そう微笑んで返す真壁だが、八島はふと眉を寄せる。
真壁の頬が、少しやつれて見えたからだ。
「最近……寝てます? なんか、顔色悪いような」
「……ふふ、大丈夫だよ。気にしないで」
(──そう。気にしないで。気にされたら困るの)
真壁の瞳は笑っているのに、どこか芯が冷たいような、不自然さがあった。
八島はそれ以上言えず、「お疲れさまです」とだけ告げて去っていく。
残された真壁はそっと資料の束を抱え──。
「……誰にも、渡さないから……」
低く、呟いた。
「……ッ、くしっ……」
その少し奥の廊下で可愛らしいくしゃみをひとつしたのはセセラ。
ズビ、と鼻をすすりながら腕組みで歩いていると、誰かが中庭を見ているのが見えた。
白衣、茶髪の後ろ姿──真壁だ。
「…………」
セセラは、なんとなく違和感を覚えた。
ただの職員のひとりにしては、どこか雰囲気が張り詰めていたような──。
(……気のせい、か)
頭を軽く振る。
今は、リルやレイラの回復の方が優先だ。
だがその背に、知らぬうちに視線が向けられていたことには、まだ気づいていない。
◇
──翌日。
朝のリハビリを終えたレイラ。右腕を軽く振りながら、リルと並んでロビーのベンチに腰掛けていた。
「ふー……もう随分、動かせるようになったよ」
「……無理すんなよ。もうちょいで善くなりそうだからって、調子乗ってやるとまた痛める」
「わかってるってば。……あ、心配してくれた?」
「してる」
「っ、あぇ?」
素直な言葉に素っ頓狂な声を上げたあと、レイラは頬を染めて「……へへ」と小さく笑う。
一方のリルは、今日も体調が善さそうだった。
表情も穏やかで、ほんの少しだけ目元の鋭さが和らいで見える。
「あ、ねえ……そういえば……、最近ラショウは?」
「……家のことが忙しいんだと。あー……でも午後からは空くかもな」
「……そっか……!」
ふたりの間に流れる風は、柔らかかった。
まるで、一時の安らぎを象徴するように。
だが──。
解析室にて真壁は、端末に表示される数値をじっと見つめていた。
(……また、変動してる。……でも……この反応、どこにも該当データが無い)
正規の解析網には何も引っかからない。
だが確かに、付近に何かがいる。
「…………!」
指先が震えた。
しかしその震えに気づかないまま、真壁は壁にかかる時計に目をやる。
(……もうすぐ……お昼休憩……)
と、そのとき。
「真壁さん、お疲れさまです!」
同僚の八島が、明るい声で声をかけてきた。
が──。
「………………ああ」
一拍の間のあと、応じる真壁。その笑みは変わらない。
ただ、声色がどこか──無機質だった。
八島は「?」と小さく首を傾げたが、気のせいと思い直して立ち去っていく。
……その後ろ姿を、真壁はずっと見つめていた。
(余計なこと言わないで……)
真壁の背後、誰にも見えない黒い影が小さく蠢いていた。
まるでその心の奥底に巣食う“想い”を、味わうかのように。
◇
午後の医療棟。
「……っつーわけで、リル……後日また検診の延長分あるからな。逃げんなよ」
「え、また? 薊野さんあんたどんだけ細かいんだよ……」
「俺史上最も緻密に構成された地獄メニューって言ったろ?」
リルとセセラのやり取りは、今日も通常運転。
そこへタイミングを見計らったように、レイラがやってきて合流した。
「ふたりとも……いつもそんなやり取りしてるね」
「……まあな。このおっさんだってオレにとっちゃ……西城家の他にできた家族みてえなもんだし」
「えッ……!!」
やや照れながらのリルの言葉に、セセラは口元を両手で押さえて目をキラキラ。
「……恥ずい……やっぱ、ナシ」
「り、リル……! お前……!! 抱きしめていい!?」
「野郎に抱きつかれたって嬉しくなんかな──うわッ……!!」
その兄弟のようなやり取りに、「ふふ……っ」とレイラが笑う。
リルを半ば強引に抱き締めながら(もはや拘束技)、セセラは内心で──。
(……そうだな。こいつらが、ちゃんと笑えてる今のこの時間が……一番、守るべきもんだ)
そう、思わずにはいられなかった。
──その頃、真壁の端末にはひとつの“新しい警告ログ”が表示されていた。
【感情干渉体反応──未分類領域。識別不能】
警告音は鳴らない。画面の隅に、小さく異質が記録されたまま、誰にも気づかれない。
「……ふふ…………」
ひとり微笑む真壁。
(……セセラさん、今、何してるんだろう……)
そして、真壁の背後。
その黒い何かが、静かに口元だけを吊り上げた。
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王子の不貞、聖女の偽善、王家の腐敗。
すべてを“証拠付き・リアルタイム”で暴露する配信に、
国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。
そして宣言される、前代未聞のルール。
支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。
処刑台は舞台へ。
断罪はエンタメへ。
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これは、
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支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、
それとも――自由か。
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