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第7話 眠りの中で
第7話・3 ラショウの祈り
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静かな医療棟エリアの奥。
セセラは端末に手を伸ばし、通信を開いた。
表示された相手の名は──西城アシュラ。
数秒後、画面の向こうに映ったのは、凛とした青い瞳と白髪を持つ青年。
背景から見て、家の居間だろうか。きちんと整えられた空間がその端に映っていた。
『……薊野さん』
声が落ち着いているのは、いつも通り。
だが、その目の奥には明らかな不安が滲んでいる。
「よう。急に悪いな。今大丈夫か?」
『ええ。……リルは……レイラは、無事ですか?』
セセラは短く息を吐き、正直に言葉を選んだ。
「……レイラは、まだ目を覚ましてない」
一瞬、アシュラの眉が僅かに動いた。
だがすぐに表情を整え、深く頷く。
『そう……ですか……』
「ただ、命に別状は……無い。一応な。検査の結果、いろいろと気になる点はあったが……それは、また追って伝える」
セセラは一拍置いて、視線をまっすぐ画面へ向けた。
「本題は、リルの方だ」
『リル……』
すぐに反応するアシュラの声。
「精神状態が、かなり不安定になってる。本人は気づいてねえかもしれねえが……こっちとしては、正直、見ていて危うい」
『……やはり、レイラの件が……』
「だな。……しばらく、そっちで預かってくんねえか」
『もちろん。……いつでも構いません。……全力であいつを支えます』
「助かる」
セセラは僅かに目を細めた。
「薬も持たせる。安定剤と睡眠薬。毎日、きちんと飲んでるかどうか、確認してやってくれ」
『……はい。俺が責任を持って管理します』
「あと、リルにあまり干渉しすぎないようにな。……あいつ、抱えてるものが多すぎて、ちょっとしたことで潰れちまうかもしれねえ」
『わかっています。……ですが、俺からも伝えさせてください』
「ん?」
アシュラの声は、柔らかいのに、強かった。
『……レイラのこと、よろしくお願いします。あの子の命を救ってくれたこと、心から感謝しています』
「……任せとけ。あいつのことは、機関で診る。リルのことは、お前に任せた」
ふたりの視線が、画面越しにしっかりと交錯した。
それは、保護者と幼なじみ。
それは、研究者と仲間。
──何より、“彼らを守る者同士”の、確かな信頼だった。
通信が切れる直前、アシュラは最後にもう一度だけ。
『……リルのこと、放っておけませんから』
セセラは、小さく頷いた。
「だろうな」
通信が切れた部屋には、再び静寂が戻った。
その静けさの中には、誰かを想う確かな熱が残っていた。
◇
翌日。──西城家。
緑が萌える穏やかな風景の中に建つ瀟洒な屋敷。
その玄関を、ふらりとくぐるリルの姿。
「……ただいま」
その声には力が無かったが、どこかほっとしたような響きも混ざっていた。
肩から下げた荷物を玄関の床に落とすように置くと、すぐに目の前にラショウが現れた。
白いツインテールが揺れ、リルの荷物をひょいと持ち上げる。
「リルくん、おかえりなさい」
「ん。リラックスしてこい、だってさ。……休職だとよ」
「ふふ……。荷物、持っていくね」
「サンキュ。……つーことで、もてなせ、お前ら。リラックスさせろ」
リルは、冗談っぽく手を広げて見せた。
いつものような口調──しかし、その表情にはやはり疲労の色が残っている。
ラショウも、そして居間でその声を聞いていたアシュラも、すぐにそれに気が付いた。
だが、過剰に踏み込んだりはしない。
「おかえり、リル」
アシュラが居間から現れ、笑みを浮かべる。
「しばらく休みか。今日、どうする?」
「……んー、寝る」
短く答えると、リルは靴を脱いで廊下をゆっくり歩き出した。
慣れた足取りで、2階の自室へと向かう。
「“寝られなかった”ら、言えよ」
背後から、アシュラの声が届いた。
「遊び行こーぜ。付き合ってやる」
リルは、振り返らずに手を軽く挙げて──。
「ん」
とだけ返事をして、自室の扉を静かに閉めた。
その音が、ひとつの安心の証のように、屋敷の空気に優しく馴染んでいく。
ラショウはリルの荷物をそっと部屋の前に置くと、アシュラのもとへと戻ってきた。
「……少し、元気無さそうだったね」
「……ああ。でもそういう時は、そっとしておくのが一番だよ」
アシュラはそう言って、視線を階上に向けた。
そこには、家族として、友人として、“守ってやりたい誰か”がいる──。
そう実感できる、ささやかな夕暮れが広がっていた。
◇
──リルの自室。
西城家の一角にあるその部屋は、木目調の落ち着いた内装で統一されていた。
シンプルなベッドに、小さなデスクと本棚。隅には古びた黒いギターケース。
そして、窓からは淡い陽の光が射し込んでいる。
リルは、ベッドの上に横になっていた。
腕を枕にしている。
目は閉じられているが、眠ってはいない。
「…………」
風が、窓越しのカーテンをそっと揺らす。
部屋は静かだった。あまりにも。
リルの胸の奥では、まだうっすらと重さが残っていた。
(……西城家、か)
(昔から変わんねーな。静かで、あったかくて……)
(でも……それでも……オレの中は、こんなにも騒がしいんだな……)
目を閉じても浮かぶのは、先日の記憶。
血に染まったレイラの姿。倒れ込んで動かなくなった姿。
心が何度もその映像に引き戻される。
「…………っ……」
(……クソッ……)
リルは額に手を当て、ぎゅっと目を閉じた。
寝ると言ったのに、眠れない。
──そしてリルの部屋の前。
ラショウは、そっと扉の前に立っていた。
ノックはしない。
けれど、どうしても離れることができなかった。
レイラのことがあったからこそ、ラショウの心配は拭えない。
兄であるアシュラには「そっとしておけ」と言われた。
だけど、それでも──。
(……あんな顔、してたんだもん)
帰ってきたときのリルの目。
冗談を飛ばしてはいたけれど、全然、いつものいたずらっ子のような目じゃなかった。
(リルくん、レイラちゃんのこと、すごく気にしてるよね……。なのに、今はここに帰って会いに行ってもいない……)
(……きっと、自分を責めてる)
ラショウは、そっと胸の前で手を重ねた。
(お願い……少しでも、眠れていますように)
(せめて今だけは、苦しまずに)
そう心の中で願うと、ラショウは音を立てずに、静かにその場を離れた。
◇
静かな、夜。
天井を見上げて、しばらく。
リルは寝返りを打ち、シーツをくしゃりと乱した。
「……やっぱ、無理だな」
ぽつりと呟いて、視線をずらす。
その先にあったのは──部屋の隅に立てかけてあった、ギターケース。
少しだけ埃を被っている。けれど、それは確かにリルのものだった。
(……爪が伸びるようになってから……自分の指先、見るのが嫌で……弾かなくなったんだっけ)
そう思いながら、無意識に自分の爪に目をやる。
鋭く黒く、まるで獣のそれ。もはや人間の爪ではない。
(……でも)
(……久しぶりだけど、弾けっかな……)
リルはゆっくりと体を起こし、ギターケースに手を伸ばす。
中から取り出したのは、やや古びたアコースティックギター。ネックには小さな傷があり、ペグは少し錆びていた。
(……ったく、懐かしすぎんだろ)
苦笑しながら、音を確かめるように、低音弦をゆっくり鳴らす。チューニングが狂っていた。
記憶を頼りに、指先でペグを回す。爪が長くても、弾き方は覚えていた。
昔は、それこそ毎晩のように爪弾いていたのだから。
やがて──。
リルの指が、弦の上を滑る。
音が、生まれる。
低く、物悲しく、どこか壊れそうで。
だけど確かに、優しい旋律。
リルの心の中にあるもの──苦しみ、寂しさ、後悔。
それらが全部、音になって零れ出していく。
激しくかき鳴らすフレーズの後には、沈むような静寂。
リルの呼吸が、そのまま音楽に乗っているようだった。
(……やっぱ、いい音すんな)
誰にも聴かせるつもりじゃない。
──けれど、それは確かに誰かに届く音だった。
そして、屋敷の中にある洋室のリビングにて。
ソファに腰掛けていたアシュラの耳に、微かな音が届いた。
ラショウが淹れたハーブティーを飲みかけたその時──。
ふと、音に気が付いて動きを止める。
「……ギター?」
静かに呟くラショウ。
アシュラは窓の外に視線を向けながら、小さく頷いた。
「……久しぶりに聴いたな、あいつの音」
切なげな旋律。時折、荒れるように鳴る強いストローク。
(……眠れないんだな)
アシュラの心にも、少しだけ苦いものが残った。
だが、どこか懐かしくて、温かい。
「……リルの部屋、前よりもよく響くようになったかな」
「うん。……でも」
ラショウはカップを置きながら、言葉を洩らす。
「リルくんの心の音みたいに聴こえるよね……」
アシュラは優しく目を細め、妹の横顔を見つめた。
「……ラショウ。後で、少しだけ話せるか?」
「うん。……リルくんのこと、でしょう?」
ラショウはゆっくりと頷いた。
音色は、まだ止まない。
けれど、それがこの家に響いている限り。
きっとリルは、まだ、壊れていない。
そう信じたい夜だった。
◇
──数十分程経ってもリルのギターは、まだ微かに鳴っていた。
それはもう、誰に聴かせるでもない、彼自身のための音。
ラショウはカップを両手で包みながら、静かに吐息を漏らす。
「……ねえ、兄様」
「ん?」
「リルくんって、やっぱり……自分のこと、責めてるのかな」
アシュラは答えを急がず、しばらく天井を見上げていた。
そして、落ち着いた声で呟くように答える。
「……あいつは、自分が思ってる以上に優しい。人との距離をとるのも、自分が誰かを傷つけるのが怖いからだ」
「……うん、わかるよ。ずっと一緒にいるから」
ラショウの横顔は、どこか寂しげだった。
それでも、その目には強い意志も宿っている。
「レイラちゃんを助けられなかったって思ってるなら……、……誰よりも、心が痛んでるよね。でも、それを隠してるんだよね……」
「……隠してるつもりでも、全部バレバレなんだけどな。昔から」
そう言ってアシュラは小さく笑うと、ラショウもふっと微笑んだ。
しばらく、ふたりは言葉を交わさず、音に耳を澄ませていた。
やがて──アシュラがぽつりと呟く。
「……俺、久々にベース弾きたくなったな」
ラショウが目を丸くした。
「兄様が? ……ふふっ、珍しい」
「……リルのギター、久々に聴いたら、なんかムズムズしてきた。手が覚えてる気がして」
「……じゃあ、私も。なんか……ピアノ弾きたくなってきちゃった」
ラショウは嬉しそうに微笑んで、手を胸の前でぎゅっと握った。
「……昔、3人でよくセッションしてたよね。夜中までやって、パパに怒られたりして」
「……懐かしいな。ラショウのピアノ、ちゃんと音量抑えてたのに、最後リルが調子乗ってかき鳴らしてバレたんだよな」
「うん……あの時の顔、今でも思い出せる」
ふたりは自然と笑みを交わした。
それは、遠い過去の話ではなかった。
まだここにある。
音と思い出で、今も繋がっている。
「……またやろうか」
「うん。……きっと、リルくんも笑ってくれるよね」
その言葉に、アシュラは静かに頷いた。
窓の外では月が静かに瞬いている。
そして、西城家の夜は、少しだけ優しい音に包まれていた。
──ギターを弾き終えたあと、リルはしばらくベッドに横になっていた。
しかし──やはり眠れなかった。
(……ダメだ。目が冴えちまってる)
深く吐き出した息と共に、リルは起き上がる。
空になったボトルに水でも汲みに行こうかと部屋を出て階段を下りると、ふと、音が耳に届いた。
ベースの低音。
それに重なる、穏やかなピアノの旋律。
「…………」
洋室の扉の前で、リルは立ち止まる。
開けるか、戻るか──。
ほんの一瞬、迷って。
「……なにやってんだよ、お前ら」
ぽつりと呟いて、扉を静かに開けた。
そこには、アシュラが椅子に座り、ベースを抱えていた。
隣にはラショウ。キーボードを机に置いて、そっと指を動かしている。
ふたりとも、リルに気づいていたのか、いなかったのか。
けれど──その音は、止まらなかった。
「ふっ……、オレ抜きで勝手にやってんじゃねーよ……」
リルは苦笑まじりにぼそりと文句を言いながら、また自室に戻りギターを手に、壁際に腰を下ろす。
音は続く。
静かに、ゆっくりと、3人の間に流れていく。
言葉は無い。
でも、それで十分だった。
ベースの深いリズム。ピアノの優しい旋律。
そしてリルのギターが繋いだ、この夜の音。
3人は、それぞれの場所で、確かに音楽を共有していた。
そして、リルはその中で──。
ようやく、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
(……あー、そっか)
(こういうのが、“普通”の一部だったんだな)
爪のことも、血のことも、龍のことも、今だけは、少しだけ遠ざけて。
ただ、音に身を任せていた。
そしてリルは、ギターを片しベッドに体を預けて、目を閉じる。
少しだけ微笑んだその表情は、久しく見られなかった、穏やかな寝顔だった。
セセラは端末に手を伸ばし、通信を開いた。
表示された相手の名は──西城アシュラ。
数秒後、画面の向こうに映ったのは、凛とした青い瞳と白髪を持つ青年。
背景から見て、家の居間だろうか。きちんと整えられた空間がその端に映っていた。
『……薊野さん』
声が落ち着いているのは、いつも通り。
だが、その目の奥には明らかな不安が滲んでいる。
「よう。急に悪いな。今大丈夫か?」
『ええ。……リルは……レイラは、無事ですか?』
セセラは短く息を吐き、正直に言葉を選んだ。
「……レイラは、まだ目を覚ましてない」
一瞬、アシュラの眉が僅かに動いた。
だがすぐに表情を整え、深く頷く。
『そう……ですか……』
「ただ、命に別状は……無い。一応な。検査の結果、いろいろと気になる点はあったが……それは、また追って伝える」
セセラは一拍置いて、視線をまっすぐ画面へ向けた。
「本題は、リルの方だ」
『リル……』
すぐに反応するアシュラの声。
「精神状態が、かなり不安定になってる。本人は気づいてねえかもしれねえが……こっちとしては、正直、見ていて危うい」
『……やはり、レイラの件が……』
「だな。……しばらく、そっちで預かってくんねえか」
『もちろん。……いつでも構いません。……全力であいつを支えます』
「助かる」
セセラは僅かに目を細めた。
「薬も持たせる。安定剤と睡眠薬。毎日、きちんと飲んでるかどうか、確認してやってくれ」
『……はい。俺が責任を持って管理します』
「あと、リルにあまり干渉しすぎないようにな。……あいつ、抱えてるものが多すぎて、ちょっとしたことで潰れちまうかもしれねえ」
『わかっています。……ですが、俺からも伝えさせてください』
「ん?」
アシュラの声は、柔らかいのに、強かった。
『……レイラのこと、よろしくお願いします。あの子の命を救ってくれたこと、心から感謝しています』
「……任せとけ。あいつのことは、機関で診る。リルのことは、お前に任せた」
ふたりの視線が、画面越しにしっかりと交錯した。
それは、保護者と幼なじみ。
それは、研究者と仲間。
──何より、“彼らを守る者同士”の、確かな信頼だった。
通信が切れる直前、アシュラは最後にもう一度だけ。
『……リルのこと、放っておけませんから』
セセラは、小さく頷いた。
「だろうな」
通信が切れた部屋には、再び静寂が戻った。
その静けさの中には、誰かを想う確かな熱が残っていた。
◇
翌日。──西城家。
緑が萌える穏やかな風景の中に建つ瀟洒な屋敷。
その玄関を、ふらりとくぐるリルの姿。
「……ただいま」
その声には力が無かったが、どこかほっとしたような響きも混ざっていた。
肩から下げた荷物を玄関の床に落とすように置くと、すぐに目の前にラショウが現れた。
白いツインテールが揺れ、リルの荷物をひょいと持ち上げる。
「リルくん、おかえりなさい」
「ん。リラックスしてこい、だってさ。……休職だとよ」
「ふふ……。荷物、持っていくね」
「サンキュ。……つーことで、もてなせ、お前ら。リラックスさせろ」
リルは、冗談っぽく手を広げて見せた。
いつものような口調──しかし、その表情にはやはり疲労の色が残っている。
ラショウも、そして居間でその声を聞いていたアシュラも、すぐにそれに気が付いた。
だが、過剰に踏み込んだりはしない。
「おかえり、リル」
アシュラが居間から現れ、笑みを浮かべる。
「しばらく休みか。今日、どうする?」
「……んー、寝る」
短く答えると、リルは靴を脱いで廊下をゆっくり歩き出した。
慣れた足取りで、2階の自室へと向かう。
「“寝られなかった”ら、言えよ」
背後から、アシュラの声が届いた。
「遊び行こーぜ。付き合ってやる」
リルは、振り返らずに手を軽く挙げて──。
「ん」
とだけ返事をして、自室の扉を静かに閉めた。
その音が、ひとつの安心の証のように、屋敷の空気に優しく馴染んでいく。
ラショウはリルの荷物をそっと部屋の前に置くと、アシュラのもとへと戻ってきた。
「……少し、元気無さそうだったね」
「……ああ。でもそういう時は、そっとしておくのが一番だよ」
アシュラはそう言って、視線を階上に向けた。
そこには、家族として、友人として、“守ってやりたい誰か”がいる──。
そう実感できる、ささやかな夕暮れが広がっていた。
◇
──リルの自室。
西城家の一角にあるその部屋は、木目調の落ち着いた内装で統一されていた。
シンプルなベッドに、小さなデスクと本棚。隅には古びた黒いギターケース。
そして、窓からは淡い陽の光が射し込んでいる。
リルは、ベッドの上に横になっていた。
腕を枕にしている。
目は閉じられているが、眠ってはいない。
「…………」
風が、窓越しのカーテンをそっと揺らす。
部屋は静かだった。あまりにも。
リルの胸の奥では、まだうっすらと重さが残っていた。
(……西城家、か)
(昔から変わんねーな。静かで、あったかくて……)
(でも……それでも……オレの中は、こんなにも騒がしいんだな……)
目を閉じても浮かぶのは、先日の記憶。
血に染まったレイラの姿。倒れ込んで動かなくなった姿。
心が何度もその映像に引き戻される。
「…………っ……」
(……クソッ……)
リルは額に手を当て、ぎゅっと目を閉じた。
寝ると言ったのに、眠れない。
──そしてリルの部屋の前。
ラショウは、そっと扉の前に立っていた。
ノックはしない。
けれど、どうしても離れることができなかった。
レイラのことがあったからこそ、ラショウの心配は拭えない。
兄であるアシュラには「そっとしておけ」と言われた。
だけど、それでも──。
(……あんな顔、してたんだもん)
帰ってきたときのリルの目。
冗談を飛ばしてはいたけれど、全然、いつものいたずらっ子のような目じゃなかった。
(リルくん、レイラちゃんのこと、すごく気にしてるよね……。なのに、今はここに帰って会いに行ってもいない……)
(……きっと、自分を責めてる)
ラショウは、そっと胸の前で手を重ねた。
(お願い……少しでも、眠れていますように)
(せめて今だけは、苦しまずに)
そう心の中で願うと、ラショウは音を立てずに、静かにその場を離れた。
◇
静かな、夜。
天井を見上げて、しばらく。
リルは寝返りを打ち、シーツをくしゃりと乱した。
「……やっぱ、無理だな」
ぽつりと呟いて、視線をずらす。
その先にあったのは──部屋の隅に立てかけてあった、ギターケース。
少しだけ埃を被っている。けれど、それは確かにリルのものだった。
(……爪が伸びるようになってから……自分の指先、見るのが嫌で……弾かなくなったんだっけ)
そう思いながら、無意識に自分の爪に目をやる。
鋭く黒く、まるで獣のそれ。もはや人間の爪ではない。
(……でも)
(……久しぶりだけど、弾けっかな……)
リルはゆっくりと体を起こし、ギターケースに手を伸ばす。
中から取り出したのは、やや古びたアコースティックギター。ネックには小さな傷があり、ペグは少し錆びていた。
(……ったく、懐かしすぎんだろ)
苦笑しながら、音を確かめるように、低音弦をゆっくり鳴らす。チューニングが狂っていた。
記憶を頼りに、指先でペグを回す。爪が長くても、弾き方は覚えていた。
昔は、それこそ毎晩のように爪弾いていたのだから。
やがて──。
リルの指が、弦の上を滑る。
音が、生まれる。
低く、物悲しく、どこか壊れそうで。
だけど確かに、優しい旋律。
リルの心の中にあるもの──苦しみ、寂しさ、後悔。
それらが全部、音になって零れ出していく。
激しくかき鳴らすフレーズの後には、沈むような静寂。
リルの呼吸が、そのまま音楽に乗っているようだった。
(……やっぱ、いい音すんな)
誰にも聴かせるつもりじゃない。
──けれど、それは確かに誰かに届く音だった。
そして、屋敷の中にある洋室のリビングにて。
ソファに腰掛けていたアシュラの耳に、微かな音が届いた。
ラショウが淹れたハーブティーを飲みかけたその時──。
ふと、音に気が付いて動きを止める。
「……ギター?」
静かに呟くラショウ。
アシュラは窓の外に視線を向けながら、小さく頷いた。
「……久しぶりに聴いたな、あいつの音」
切なげな旋律。時折、荒れるように鳴る強いストローク。
(……眠れないんだな)
アシュラの心にも、少しだけ苦いものが残った。
だが、どこか懐かしくて、温かい。
「……リルの部屋、前よりもよく響くようになったかな」
「うん。……でも」
ラショウはカップを置きながら、言葉を洩らす。
「リルくんの心の音みたいに聴こえるよね……」
アシュラは優しく目を細め、妹の横顔を見つめた。
「……ラショウ。後で、少しだけ話せるか?」
「うん。……リルくんのこと、でしょう?」
ラショウはゆっくりと頷いた。
音色は、まだ止まない。
けれど、それがこの家に響いている限り。
きっとリルは、まだ、壊れていない。
そう信じたい夜だった。
◇
──数十分程経ってもリルのギターは、まだ微かに鳴っていた。
それはもう、誰に聴かせるでもない、彼自身のための音。
ラショウはカップを両手で包みながら、静かに吐息を漏らす。
「……ねえ、兄様」
「ん?」
「リルくんって、やっぱり……自分のこと、責めてるのかな」
アシュラは答えを急がず、しばらく天井を見上げていた。
そして、落ち着いた声で呟くように答える。
「……あいつは、自分が思ってる以上に優しい。人との距離をとるのも、自分が誰かを傷つけるのが怖いからだ」
「……うん、わかるよ。ずっと一緒にいるから」
ラショウの横顔は、どこか寂しげだった。
それでも、その目には強い意志も宿っている。
「レイラちゃんを助けられなかったって思ってるなら……、……誰よりも、心が痛んでるよね。でも、それを隠してるんだよね……」
「……隠してるつもりでも、全部バレバレなんだけどな。昔から」
そう言ってアシュラは小さく笑うと、ラショウもふっと微笑んだ。
しばらく、ふたりは言葉を交わさず、音に耳を澄ませていた。
やがて──アシュラがぽつりと呟く。
「……俺、久々にベース弾きたくなったな」
ラショウが目を丸くした。
「兄様が? ……ふふっ、珍しい」
「……リルのギター、久々に聴いたら、なんかムズムズしてきた。手が覚えてる気がして」
「……じゃあ、私も。なんか……ピアノ弾きたくなってきちゃった」
ラショウは嬉しそうに微笑んで、手を胸の前でぎゅっと握った。
「……昔、3人でよくセッションしてたよね。夜中までやって、パパに怒られたりして」
「……懐かしいな。ラショウのピアノ、ちゃんと音量抑えてたのに、最後リルが調子乗ってかき鳴らしてバレたんだよな」
「うん……あの時の顔、今でも思い出せる」
ふたりは自然と笑みを交わした。
それは、遠い過去の話ではなかった。
まだここにある。
音と思い出で、今も繋がっている。
「……またやろうか」
「うん。……きっと、リルくんも笑ってくれるよね」
その言葉に、アシュラは静かに頷いた。
窓の外では月が静かに瞬いている。
そして、西城家の夜は、少しだけ優しい音に包まれていた。
──ギターを弾き終えたあと、リルはしばらくベッドに横になっていた。
しかし──やはり眠れなかった。
(……ダメだ。目が冴えちまってる)
深く吐き出した息と共に、リルは起き上がる。
空になったボトルに水でも汲みに行こうかと部屋を出て階段を下りると、ふと、音が耳に届いた。
ベースの低音。
それに重なる、穏やかなピアノの旋律。
「…………」
洋室の扉の前で、リルは立ち止まる。
開けるか、戻るか──。
ほんの一瞬、迷って。
「……なにやってんだよ、お前ら」
ぽつりと呟いて、扉を静かに開けた。
そこには、アシュラが椅子に座り、ベースを抱えていた。
隣にはラショウ。キーボードを机に置いて、そっと指を動かしている。
ふたりとも、リルに気づいていたのか、いなかったのか。
けれど──その音は、止まらなかった。
「ふっ……、オレ抜きで勝手にやってんじゃねーよ……」
リルは苦笑まじりにぼそりと文句を言いながら、また自室に戻りギターを手に、壁際に腰を下ろす。
音は続く。
静かに、ゆっくりと、3人の間に流れていく。
言葉は無い。
でも、それで十分だった。
ベースの深いリズム。ピアノの優しい旋律。
そしてリルのギターが繋いだ、この夜の音。
3人は、それぞれの場所で、確かに音楽を共有していた。
そして、リルはその中で──。
ようやく、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
(……あー、そっか)
(こういうのが、“普通”の一部だったんだな)
爪のことも、血のことも、龍のことも、今だけは、少しだけ遠ざけて。
ただ、音に身を任せていた。
そしてリルは、ギターを片しベッドに体を預けて、目を閉じる。
少しだけ微笑んだその表情は、久しく見られなかった、穏やかな寝顔だった。
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花鳥見聞録
木野もくば
ファンタジー
花の妖精のルイは、メジロのモクの背中に乗って旅をしています。ルイは記憶喪失でした。自分が花の妖精だったことしか思い出せません。失くした記憶を探すため、さまざまな世界を冒険します。
『イージス艦長、インパール最前線へ。――牟田口廉也に転生した俺は、地獄の餓死作戦を「鉄壁の兵站要塞」に変える』
月神世一
SF
【あらすじ】
「補給がなければ、戦場に立つ資格すらない」
坂上真一(さかがみ しんいち)、50歳。
かつてイージス艦長として鉄壁の防空網を指揮し、現在は海上自衛隊で次世代艦の兵站システムを設計する男。
背中には若き日の過ちである「仁王」の刺青を隠し持ち、北辰一刀流の達人でもある彼は、ある日、勤務中に仮眠をとる。
目が覚めると、そこは湿気と熱気に満ちた1944年のビルマだった。
鏡に映っていたのは、小太りで口髭の男――歴史の教科書で見た、あの「牟田口廉也」。
しかも時期は、日本陸軍史上最悪の汚点とされる「インパール作戦」決行の直前。
部下たちは「必勝の精神論」を叫び、無謀な突撃を今か今かと待っている。
(……ふざけるな。俺に、部下を餓死させろと言うのか?)
現代の知識と、冷徹な計算、そして海自仕込みのロジスティクス能力。
すべてを駆使して、坂上(中身)は歴史への介入を開始する。
精神論を振りかざすふりをして上層部を欺き、現地改修で兵器を強化し、密かに撤退路を整備する。
これは、「史上最も無能な指揮官」の皮を被った「現代の有能な指揮官」が、確定した敗北の運命をねじ伏せ、数万の命を救うために戦う、逆転の戦記ドラマ。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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