30 / 40
8-2:図書館の午後と、小さな旅支度
しおりを挟む
王宮からの招待状を受け取って以来、変わらぬ日々の中にも、どこか少しずつ変化の兆しを感じていた。
アシュベリーの町は相変わらず穏やかで、石畳の道を風が撫でる音や、遠くの教会の鐘の音さえも、以前より心に染み入る気がする。
図書館の扉を開けば、そこにはいつもの静寂が広がっている。木の香りと紙の匂いが、私の心をそっと落ち着けてくれる。慣れ親しんだ空気の中で、私は一冊一冊の背表紙を撫でながら、日常に小さく別れを告げる準備をしていた。
「王都へ行くんですって?」
受付カウンターの奥から顔を覗かせたのはリリアだった。彼女はすでに何もかも知っているような顔で、にやりと笑う。
「リュカさんの様子を見れば、黙っていられるはずないもの。ふふ、クラリスさん、いよいよ“お披露目”ね」
「そ、そんな大げさな……」
私が慌てて言うと、リリアは手をひらひらと振って笑った。
「でもね、無理に飾る必要なんてないと思う。いつものクラリスさんでいれば、きっと大丈夫よ。だって、王子様が惚れたのは、そのままのクラリスさんなんだから」
その言葉に、思わず顔が熱くなる。
そう、彼は――リュカは、何ひとつ着飾らない私を、優しく受け入れてくれたのだった。
旅支度といっても、持っていくものは多くはない。
数着の上品なドレスに、図書館長から譲り受けた年季の入った旅行鞄。そして、リリアが焼いてくれた保存のきく焼き菓子。布にくるまれたそれは、見た目も可愛らしく、何より彼女の気持ちが込められていて、心が温かくなる。
けれど、何より大切なのは――私自身の覚悟だった。
「クラリスさん、こちらを」
図書館長のエルネスト氏が手渡してくれたのは、革表紙の古ぼけた手帳だった。だが、その手入れは行き届いていて、長く大切に使われてきたことが伝わってくる。手帳の角は少し丸まり、背表紙には彼の手による書き込みが薄く残っていた。
「これは、私が若い頃、王都で研究していたときに使っていた記録帳です。王宮の図書室には、あなたのような人がきっと必要になります」
「……ありがとうございます、館長」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
私がこの町で得たものは、静けさだけじゃなかった。
出会い、信頼、そして、ここに根を下ろしたという実感――。
「アシュベリーは、いつでもあなたの帰る場所です。無理をせず、どうか、ありのままのクラリス嬢でいてください」
私は深く頭を下げた。
夕暮れの図書館に、柔らかな光が差し込む。
本棚の隙間から覗くその光は、まるで「行ってらっしゃい」と背中を押してくれているようだった。
旅立ちの時は、もうすぐそこだ。
それでも――不安より、少しだけ大きな期待が、私の心を満たしていた。
アシュベリーの町は相変わらず穏やかで、石畳の道を風が撫でる音や、遠くの教会の鐘の音さえも、以前より心に染み入る気がする。
図書館の扉を開けば、そこにはいつもの静寂が広がっている。木の香りと紙の匂いが、私の心をそっと落ち着けてくれる。慣れ親しんだ空気の中で、私は一冊一冊の背表紙を撫でながら、日常に小さく別れを告げる準備をしていた。
「王都へ行くんですって?」
受付カウンターの奥から顔を覗かせたのはリリアだった。彼女はすでに何もかも知っているような顔で、にやりと笑う。
「リュカさんの様子を見れば、黙っていられるはずないもの。ふふ、クラリスさん、いよいよ“お披露目”ね」
「そ、そんな大げさな……」
私が慌てて言うと、リリアは手をひらひらと振って笑った。
「でもね、無理に飾る必要なんてないと思う。いつものクラリスさんでいれば、きっと大丈夫よ。だって、王子様が惚れたのは、そのままのクラリスさんなんだから」
その言葉に、思わず顔が熱くなる。
そう、彼は――リュカは、何ひとつ着飾らない私を、優しく受け入れてくれたのだった。
旅支度といっても、持っていくものは多くはない。
数着の上品なドレスに、図書館長から譲り受けた年季の入った旅行鞄。そして、リリアが焼いてくれた保存のきく焼き菓子。布にくるまれたそれは、見た目も可愛らしく、何より彼女の気持ちが込められていて、心が温かくなる。
けれど、何より大切なのは――私自身の覚悟だった。
「クラリスさん、こちらを」
図書館長のエルネスト氏が手渡してくれたのは、革表紙の古ぼけた手帳だった。だが、その手入れは行き届いていて、長く大切に使われてきたことが伝わってくる。手帳の角は少し丸まり、背表紙には彼の手による書き込みが薄く残っていた。
「これは、私が若い頃、王都で研究していたときに使っていた記録帳です。王宮の図書室には、あなたのような人がきっと必要になります」
「……ありがとうございます、館長」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
私がこの町で得たものは、静けさだけじゃなかった。
出会い、信頼、そして、ここに根を下ろしたという実感――。
「アシュベリーは、いつでもあなたの帰る場所です。無理をせず、どうか、ありのままのクラリス嬢でいてください」
私は深く頭を下げた。
夕暮れの図書館に、柔らかな光が差し込む。
本棚の隙間から覗くその光は、まるで「行ってらっしゃい」と背中を押してくれているようだった。
旅立ちの時は、もうすぐそこだ。
それでも――不安より、少しだけ大きな期待が、私の心を満たしていた。
23
あなたにおすすめの小説
婚約破棄されたので田舎で猫と暮らします
たくわん
恋愛
社交界の華と謳われた伯爵令嬢セレスティアは、王太子から「完璧すぎて息が詰まる」と婚約破棄を告げられる。傷心のまま逃げるように向かったのは、亡き祖母が遺した田舎の小さな屋敷だった。
荒れ果てた屋敷、慣れない一人暮らし、そして庭に住みついた五匹の野良猫たち。途方に暮れるセレスティアの隣には、無愛想で人嫌いな青年医師・ノアが暮らしていた。
「この猫に構うな。人間嫌いだから」
冷たく突き放すノアだが、捨て猫を保護し、傷ついた動物を治療する彼の本当の姿を知るうちに、セレスティアの心は少しずつ惹かれていく。
猫の世話を通じて近づく二人。やがて明かされるノアの過去と、王都から届く縁談の催促。「完璧な令嬢」を脱ぎ捨てた先に待つ、本当の自分と本当の恋——。
「影が薄い」と 捨てられた地味令嬢は、王太子に見初められました ~元婚約者と妹は、どうぞご勝手に~
有賀冬馬
恋愛
「君は影が薄い」――そう言って、婚約者の騎士様は華やかな妹を選び、私を捨てた。
何もかもを諦めて静かに暮らそうと決めた私を待っていたのは、孤児院での心温まる出会いだった。
そこで素性を隠して旅をしていたのは、なんと隣国の王太子様。
「君こそ、僕の唯一の光だ」そう言って、私のありのままを受け入れてくれる彼。その彼の隣で、私は生まれ変わる。
数年後、王国間の会議で再会した元婚約者は、美しく気品あふれる私を見て絶句する……
地味子と蔑まれた私ですが、公爵様と結ばれることになりましたので、もうあなたに用はありません
有賀冬馬
恋愛
「君は何の役にも立たない」――そう言って、婚約者だった貴族青年アレクは、私を冷酷に切り捨てた。より美しく、華やかな令嬢と結婚するためだ。
絶望の淵に立たされた私を救ってくれたのは、帝国一の名家・レーヴェ家の公爵様。
地味子と蔑まれた私が、公爵様のエスコートで大舞踏会に現れた時、社交界は騒然。
そして、慌てて復縁を申し出るアレクに、私は……
婚約破棄された夜、最強魔導師に「番」だと告げられました
有賀冬馬
恋愛
学院の祝宴で告げられた、無慈悲な婚約破棄。
魔力が弱い私には、価値がないという現実。
泣きながら逃げた先で、私は古代の遺跡に迷い込む。
そこで目覚めた彼は、私を見て言った。
「やっと見つけた。私の番よ」
彼の前でだけ、私の魔力は輝く。
奪われた尊厳、歪められた運命。
すべてを取り戻した先にあるのは……
ざまぁに失敗したけど辺境伯に溺愛されています
木漏れ日
恋愛
天才魔術師セディが自分の番である『異界渡りの姫』を召喚したとき、16歳の少女奈緒はそれに巻き込まれて、壁外という身分を持たない人々が住む場所に落ちました。
少女は自分を異世界トリップに巻き込んだ『異界渡り姫』に復讐しようとして失敗。なぜかロビン辺境伯は少女も『異界渡りの姫』だと言って溺愛するのですが……
陰陽の姫シリーズ『図書館の幽霊って私のことですか?』と連動しています。
どちらからお読み頂いても話は通じます。
ご愁傷様です~「冴えない女」と捨てられた私が、王妃になりました~
有賀冬馬
恋愛
「地味な君とは釣り合わない」――私は、婚約者の騎士エルマーにそう告げられ、婚約破棄された。病弱で目立たない私は、美しい妹と比べられ、家族からも冷遇されてきた。
居場所を失い、ひっそり暮らしていたある日、市場で助けた老人が、なんとこの国の若き国王陛下で!?
彼と私は密かに逢瀬を重ねるように。
「愚かな男には一生かかっても分かるまい。私は、彼女のような女性を誇りに思う」妃選びの場で告げられた国王陛下の一言に、貴族社会は騒然。
婚約破棄?結構ですわ。公爵令嬢は今日も優雅に生きております
鍛高譚
恋愛
婚約破棄された直後、階段から転げ落ちて前世の記憶が蘇った公爵令嬢レイラ・フォン・アーデルハイド。
彼女の前世は、ブラック企業で心身をすり減らして働いていたOLだった。――けれど、今は違う!
「復讐? 見返す? そんな面倒くさいこと、やってられませんわ」
「婚約破棄? そんなの大したことじゃありません。むしろ、自由になって最高ですわ!」
貴族の婚姻は家同士の結びつき――つまりビジネス。恋愛感情など二の次なのだから、破談になったところで何のダメージもなし。
それよりも、レイラにはやりたいことがたくさんある。ぶどう園の品種改良、ワインの販路拡大、新商品の開発、そして優雅なティータイム!
そう、彼女はただ「貴族令嬢としての特権をフル活用して、人生を楽しむ」ことを決めたのだ。
ところが、彼女の自由気ままな行動が、なぜか周囲をざわつかせていく。
婚約破棄した王太子はなぜか複雑な顔をし、貴族たちは彼女の事業に注目し始める。
そして、彼女が手がけた最高級ワインはプレミア化し、ついには王室から直々に取引の申し出が……!?
「はぁ……復讐しないのに、勝手に“ざまぁ”になってしまいましたわ」
復讐も愛憎劇も不要!
ただひたすらに自分の幸せを追求するだけの公爵令嬢が、気づけば最強の貴族になっていた!?
優雅で自由気ままな貴族ライフ、ここに開幕!
ごめんなさい、私、今すごく幸せなので、もう貴方には興味ないんです
有賀冬馬
恋愛
「君は聖女に不相応だ」。
その言葉と共に、私は婚約者だった神殿騎士団長に捨てられ、都を追放された。
絶望の中、辿り着いた山奥の村で出会ったのは、私を誰よりも大切にしてくれる竜騎士様。
優しい彼との出会いが、私の世界を変えてくれた。
一方、私を切り捨てた都の神殿では、汚職が発覚し、元婚約者と新しい聖女は破滅へ。
落ちぶれ果てた彼が私の前に現れた時、私の隣には、かけがえのない人がいました。
もう貴方には、微塵も未練なんてありませんから。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる