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44.誤算
しおりを挟む違う。こんなはず……こんなはずじゃなかったのに……!
◇◆◇
ルイーゼは今、ヘルタ夫人の親戚――コルテス伯が王都に作った町屋敷・コルテス邸で生活をしている。昔はオフシーズンには使われることのなかった町屋敷だが、今ではオフシーズンでも普通に利用されている。
母が計略を巡らせたメーベルト邸へ、無防備な状態で戻るのは抵抗がある。一見すると反省したように見えるが、母の性格を熟知しているルイーゼは、安易に信用することはできなかった。
今はもう反省しているし、あのような無理をする必要がなくなったから落ち着いている……と父親は言っていたが。
父の妄言もあり、ルイーゼと長男ジェヒューが納得するまで、彼女の居場所は両親には隠された。
今のルイーゼの暇つぶし相手になってくれるのは、ヘルタ夫人と彼女の親類だけだ。ご近所さんにも、念のために、ルイーゼの存在は隠されている。
「メーベルト伯夫人も、今は、大人しくしているように見えますね……夫はまだまだ信用できないと申しておりますが」
ルイーゼにメーベルト邸の様子を伝えるのは、ヘルタ夫人だ。
オフシーズンの今、ヘルタ夫人の生活拠点はメーベルト別邸だが、現状をルイーゼに知らせるために、無理を押してやってきていた。
「何度もご迷惑をおかけして申し訳ありません」
前回の別荘なんか、聖女様殺人未遂事件まで起こしてしまった。完全な事故物件だ。お詫びしてもしきれない。
「そんなにお気になさらないで。あなたの気持ち、分からないわけではないもの」
ヘルタ夫人とジェヒューは政略結婚ではあるが、幸運にも、結婚前にお互いに恋愛感情を抱いていた。昔は素直に憧れているだけだったが、今は彼女たちが羨ましくて仕方がない。
「エルウィンは……元気でやってますか? ソフィアはまぁ、元気ですよね」
「……」
ルイーゼの問いに、ヘルタ夫人は少し考え込むような顔をした。
気を使って言いにくい――とは明らかに異なるヘルタ夫人の反応に、ルイーゼは不思議に思い問いかけた。
「何か……あったんですか?」
◇◆◇
『記憶消去』の刑はあまり適用されたことがない。前例が少なく、エルウィンの記憶がなくなった確認をどうとったらいいのかと、周囲は考えていたのだが……その必要はなかった。
変化は誰の目にも明らかなほどに起こっていたから。
「待って、エルウィン様!」
シュティーフェル邸の一階廊下――ソフィアは必死にエルウィンを追いかけていた。
ソフィアが社交界デビューを果たすまで、正式な婚約を結ぶことはできない。だが、ソフィアは毎日シュティーフェル邸へ通い、エルウィンに愛を告げていた。
エルウィンとの婚約が決まってから、ソフィアはシュティーフェル領内にある、メーベルト家の別荘を生活の拠点としている。
婚約者とはいえ、社交界デビューも果たしていない貴族の娘が、他家の領地内にある別荘を生活の拠点にするというのは異常事態だ。何かありましたと、周囲に言うようなもの。
メーベルト伯も、まさか彼女がそんなことを考えているとは夢にも思わなかったのか、気づいた時に既に遅かった。彼女の決意は固く、メーベルト伯にはとても説得などできなかった。
ソフィアのために、彼女の非常識な行動を咎めようという者は、メーベルト家にはいなかった。
追いすがるソフィアに対し、エルウィンは冷たく一瞥するだけ。
「君は聖女だろう、こんなところで遊ぶ前に、すべきことがあるんじゃないのか?」
「どうでもいいことだわ! エルウィン様が一番大事なんだもの。エルウィン様もそうでしょう? わたしのこと……一番愛してるでしょう?」
誰からも愛らしいと言われた笑みを浮かべ、色っぽいと言われた腰つきで歩み寄り、エルウィンにすがりつく。ドレスもアクセサリーも、身につけているものは一流品だ。
ドレスやアクセサリーは、聖女と任命されたソフィアに取り入ろうとする、多くの高位貴族たちから贈られた品々。父親であるメーベルト伯では到底購入できないような、最新のデザインを用いた豪華なドレスを好んで身につけるようになった。
それ自体は悪いことではないのだが、徐々に、ソフィアは実の父すら見下すようになっていった。
ソフィアは自分の容姿に自信があった。市井育ちの彼女にとって、それは非常に大きなアドバンテージだった。社会に対する義務だの奉仕だの、そんな意識は彼女にはない。
メーベルト伯も、それを彼女に言い聞かせるようなことはしなかった。
しかし、ソフィアが自信満々で伸ばした手を、エルウィンが取ることはなかった。
「義務を放棄するならば、君は聖女ではない。聖女ではない君と、婚姻を交わす義務はない。異論があるなら、シュティーフェル伯へ言ってくれ」
「赤の他人なんかどうだっていいわ! エルウィン様は?! エルウィン様は、わたしと引き離されたらいやでしょう?!」
「問題外だな。話がないのであれば失礼する」
義務は果たしたとばかりに、エルウィンはその場にソフィアを一人残し、応接室へと入って行った。中から見知らぬ男性の声が聞こえる。彼らが先客であることなど、ソフィアには考えも及ばない。それを知ったとしても、自分を優先するだろうと……優先すべきだろうとしか思えなかった。
「なんでそんなに……冷たくするの……? ねぇ、どうして?!」
使用人さえいなくなった廊下で、ソフィアは叫んだ。
彼の冷たい変化。
それはソフィアにとっては予想外の変化だった。最悪の変化だ。
ソフィアは、エルウィンの中からルイーゼの記憶を取り去ってしまえば、自分のことを好きになると思っていた。だって、自分は番いなのだから。
エルウィンはソフィアに対し――
「何か勘違いをしていないか? 私は誰かを愛したことなどない。君を含めて。結婚することもこの血を残すことにも興味がない。愛を欲するのならば、他を当たることだ」そう言って憚らない。
――お姉様に邪魔をされていたあの頃は、優しく微笑みかけてくれたのに……!
シュティーフェル伯もボリソヴィチ・バッソも、気まずそうにソフィアから視線をそらす。こうなることは、分かっていた。ルイーゼと初めて会ったあの日、エルウィンは使用人同然の出で立ちでそこにいた。それが全てだ。
そんなエルウィンに真摯に向き合い、惜しみない愛情というものを送った存在がいたのだとしたら、それは間違いなくルイーゼだ。ルイーゼだけだ。
シュティーフェル邸の人間は過去の己を悔やむが、今更何ができる?
「どう……して? わたし達は、番いなのよ……?」
「なんだ、抱いて欲しいのか?」
「違いますっ! ……貴方を愛してるの……どうして……」
「用がないのなら失礼する」
「待って! 待って……どうして……?」
つまらないものを見るようにソフィアを一瞥すると、エルウィンはそのままソフィアをその場に残し、一人で立ち去って行く。
――違う。こんなはずじゃなかった。
ルイーゼがいなくなれば、彼の愛情は自分に注がれるはずだった。
番いの効力は、肉欲を愛情と勘違いさせるようなものだ。愛情を知らないものには効果がない。
ソフィアは、それに気づかなかった。
エルウィンも、正式な婚約者であるソフィアを、無視しているわけではない。義務は果たしている。
ただ、『愛』を知らないため、彼女が望む『愛』を返すことができないだけ。
ルイーゼに対して見せていた――駆け落ちを本気で考えるほどの、狂おしいほどのあの熱量を、ソフィアに向けていないだけ。
ルイーゼを婚約者としていた時との温度差に、エルウィン以外の誰もが気づいていた。けれど、今更どうにもならない。そんな状況に、ソフィアは周囲に当たり散らす。
そして終に、メーベルト伯の目さえ覚まさせてしまうような、傍若無人な態度までとるようになった。
「いや、流石にそれは……」
ソフィアのとんでもない要求に苦い顔をしているのは、父メーベルト伯ディーター・メーベルトだ。
ジェヒューは極力感情を抑えた静かな顔で、事の成り行きを見守ることにした。
父の出方を見ようとも、思っていたから。
「わたしは龍神に愛されている、エルウィン様の番いなんだから、わたしの希望を優先するのは当然のことでしょう?!」
「お姉様を、この家に連れ戻すなんて反対よ! お姉様がまたエルウィン様を誘惑したらどうするの?! わたしは死んでもいいと思ってるのよ!」
「やめてちょうだいっ!!!」
そう叫んだのはメーベルト伯夫人だ。
彼女はそう叫ぶと、もう沢山だと言わんばかりにこの場から立ち去った。
長男も軽く溜め息をつき、この場を後にした。
「実物を見るまでは、俺もそれなりに……番いがもたらす奇跡に畏敬の念を抱いていたんだけどな」
という捨て台詞を残して。
ソフィアは、エルウィンが訪れるこのメーベルト家に、ルイーゼが籍を置いていることもいやだった。自分の懸念事項を解消するのは、義務だとさえ思えた。
エルウィンへの強烈な恋心、そして奇跡を見せつけたことによる、今まで自分を虐げてきた人間達からの、手の平返しの数々……。
手放せるはずがなかった。
負の連鎖のように、ソフィアは周りが見えなくなるほどエルウィンにはまっていった。
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