冷徹社長の「契約」シンデレラ~一夜の過ちから始まる溺愛ルート!? 嘘つきな私と不器用な御曹司のオフィスラブ~

藤森瑠璃香

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第4話(最終話):契約の終わりと、本当の始まり

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「君といると、なぜか心が安らぐ」――あの夜、蓮が不意に漏らした言葉は、私の心に深く刻み込まれ、何度も何度も反芻された。それは、まるで暗闇に差し込んだ一筋の光のように、私の胸に淡い期待を灯した。けれど、その光が強ければ強いほど、契約という現実の影もまた色濃く感じられてしまう。

 そんな日々が続いていたある日、蓮から社長室に呼び出された。彼の表情はいつになく硬く、私はこれから告げられる言葉を予感して、心臓が早鐘を打つのを感じた。
「桜井くん、君との契約だが…本日をもって終了としたい」
 彼の口から放たれた言葉は、私の頭の中でゆっくりと反響した。
「祖母の容態も安定し、先日、綾小路家との縁談も正式にお断りすることができた。これも全て、君が協力してくれたおかげだ。心から感謝している」
 そう言って、彼はデスクの引き出しから分厚い封筒を取り出し、私の前に置いた。契約書で約束された報酬。そして、おそらくそれ以上の金額が入っているであろう、感謝のしるし。
「本当に、ありがとう。君には、多大な迷惑と負担をかけた」
 彼の声は、いつも通り冷静だった。けれど、その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、何か言い淀むような、名残惜しむような色がよぎった気がしたのは、私の願望が見せた幻だったのだろうか。

「…いいえ。私の方こそ、貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました」
 私は、震える声で何とかそれだけを絞り出し、深く頭を下げた。顔を上げることができなかった。今、顔を上げたら、きっと涙がこぼれてしまうから。
 契約が終わる。それは、最初から分かっていたこと。むしろ、彼の「事情」が解決したのだから、喜ぶべきことなのだ。なのに、胸にぽっかりと穴が開いたような、この途方もない喪失感は何だろう。
 もう、「蓮さん」と呼ぶことも、彼の隣を歩くことも、彼の意外な一面に心ときめかせることもないのだ。

 その日から、私は意識して蓮を避けるようになった。オフィスで見かけても、気づかないふりをして俯く。彼もまた、私に話しかけてくることはなかった。私たちは、社長と派遣社員という、元の関係に戻ったのだ。いや、一度「婚約者」という特別な関係を演じてしまった以上、元通りになることなど、できるはずもなかった。

 蓮のいない日常は、驚くほど色褪せて見えた。彼が淹れてくれたコーヒーの香りも、時折見せる不器用な笑顔も、私を守ってくれた頼もしい背中も、もうそこにはない。彼への想いは、契約が終わったことで消えるどころか、ますます鮮明に、そして切実に、私の中で育っていくのを感じていた。
(このままじゃ、だめだ…)
 私は、派遣契約の更新を辞退し、この会社を去ることを決意した。この場所にいたら、いつまでも彼への想いを断ち切れない。彼にとっても、私がそばにいることは、もう何のメリットもないはずだ。

 一方、蓮もまた、美月がいない日常に、言いようのない違和感と胸の疼きを覚えていた。完璧に整えられた社長室も、寸分の狂いもなく進むスケジュールも、以前と何も変わらないはずなのに、何かが足りない。それは、彼女の太陽のような笑顔であり、時折見せるドジなところであり、そして、自分でも気づかぬうちに求めていた、彼女の温もりだったのかもしれない。
「社長、最近少しお疲れのようですが…」
 秘書の言葉に、蓮は初めて自分の内面の変化に気づかされる。美月との「契約」は、彼にとっても、ただのビジネスではなかったのだ。彼女の存在が、凍りついていた彼の心を少しずつ溶かし、人間らしい感情を取り戻させてくれていたことに、彼はようやく気がついた。
(俺は…桜井くんを…)
 その想いに気づいた時、蓮はいてもたってもいられなくなった。

 最終出社日。私は、お世話になった人たちへの挨拶を済ませ、ひっそりと会社を後にしようとしていた。最後に、社長室のドアを遠くから眺める。彼に一言、お礼を言うべきかもしれない。でも、会ってしまったら、決意が鈍ってしまう。
 踵を返そうとした、その時だった。
「桜井くん!」
 背後から聞こえたのは、紛れもない、彼の声だった。驚いて振り返ると、息を切らした蓮が、普段の彼からは想像もつかないような必死の形相で立っていた。その手には、私があの日受け取らなかった、報酬の封筒が握られている。

「社長…どうして…」
「君に、渡さなければならないものがある。そして…伝えなければならないことがある」
 彼は数歩で私の目の前に来ると、私の両肩を掴んだ。その瞳は、熱を帯びて、まっすぐに私を見つめている。
「契約は、今日で終わりだ。それは違いない。だが、俺たちの関係は、終わりにできない」
「え…?」
「君がいなくなって、初めて気づいた。俺にとって、君がどれほど大切な存在だったか。君の笑顔が、君の優しさが、俺にとってどれほどの救いだったか…!」
 彼の言葉は、いつもの冷静沈着な彼からは想像もつかないほど、情熱的で、不器用で、そして、あまりにもストレートだった。
「桜井美月さん…いや、美月。俺は、君を愛している。契約なんかじゃない。本当の気持ちだ。俺のそばにいてほしい。俺の…本当の恋人に、なってほしい」
 その言葉は、私の心に降り積もっていた全ての不安やためらいを、一瞬にして溶かしていくようだった。溢れ出す涙を止めることができない。
「蓮…さん…」
「蓮でいい」
 彼は私の涙を指で優しく拭うと、そっとその唇を重ねた。それは、契約でも、偽りでもない、初めての、本物のキスだった。

 数ヶ月後。
 私は、一条蓮の正式な「恋人」として、そして一人の正社員として、彼の隣で働いている。もちろん、社内では相変わらず「社長の溺愛っぷりがすごい」と噂されているけれど、もうそれを気にする必要はない。
 週末には、二人で静子お祖母様のお見舞いに行ったり、時にはあの日のように現代美術館を訪れたりする。彼は相変わらず不器用で、甘い言葉も得意ではないけれど、その行動の端々から、私への深い愛情が伝わってくる。

「美月、この間の新作パン、また焼いてくれないか。あれは絶品だった」
 ある日の夕食後、リビングでくつろいでいると、蓮が真顔でそう言った。私が趣味で焼いた、少し不格好なパンのことだ。
「もう、蓮ったら、おだてすぎよ。でも、喜んでくれるなら、また焼くね」
 私たちは顔を見合わせて笑い合う。
 氷の彫刻だと思っていた彼は、実は誰よりも温かくて、優しい心の持ち主だった。そして、そんな彼の隣にいられることが、今の私の何よりの幸せだ。

 契約から始まった、嘘の関係。けれど、その嘘の中に芽生えたのは、紛れもない本物の愛だった。
 これからも、この不器用で優しい社長と、甘くて少し刺激的な、そして何よりも幸せな毎日が続いていくのだろう。そう思うと、私の心は、焼きたてのパンのようにふっくらと温かい気持ちで満たされるのだった。
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