【完結】王宮勤めの騎士でしたが、オメガになったので退職させていただきます

大河

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29話

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「──ようやく、効いてきたようだな」

 レオン殿下の感情のない声に、部屋にいた皆が息をのんだ。

 床に倒れ込んだカイル殿下の顔はみるみる血の気が引き、全身が小刻みに震えている。彼の身に尋常でない何かが起こったのは、誰の目に見ても明らかだった。

 そんな彼の様子を、レオン殿下は驚くでもなく観察するように見下げている。

「な、何をした……」

 カイル殿下は苦しそうに言葉を絞り出した。その声は震え、つい先ほどまでの高圧的な物腰は完全に失われている。

「もしやお前、私に……毒を?」

 カイル殿下の口から発せられた「毒」という単語に、彼の隣にいた主治医が慌てた様子で声を張り上げた。

「カ、カイル殿下のお食事はすべて毒見役が事前に確認しております! 毒を混入することなど不可能のはずです!」

 だが、そんな主治医の言葉にレオン殿下は口元にかすかな笑みを浮かべた。その彼らしくない非情さを感じさせる笑みに、オレは思わず身震いを覚える。

「──私が使った毒は、発症するまでに数時間がかるものだ。だから毒見役が口にしても、すぐには症状が出ない。毒見役が気づけなくても当然だろうな」
「お、お前は……本当に毒を盛ったというのか……?」

 カイル殿下は地面に手をつき、なんとか起き上がろうとするが、また体が痙攣し、その場に崩れるように倒れ込んだ。彼の顔には冷や汗が浮かび、呼吸が荒くなっていく。

「王族に毒を盛るなど……兄弟であっても極刑は免れないぞ! お前、気は確かか!?」

 カイル殿下の形相は激しく、怒りと恐怖が入り混じっている。しかし、レオン殿下はまるでそんな兄の様子など気にも留めない態度で静かに言い放った。

「そんなことは承知の上だ。私には、もう失うものは何もない。……お前を道連れに地獄に堕ちるのなら、それもまた良し」

 その言葉に、カイル殿下は絶句した。

 成り行きを見守っていたオレは思わず息を呑んだ。すぐ近くにいるフリードリヒ殿下も、レオン殿下の態度を見て動揺しているように見える。

 レオン殿下がこんな捨て身の行動に出るなんて考えてもみなかった。でも、レオン殿下はいつも慎重に行動するタイプのはず。そんな彼がこんな危険な橋を渡るなんて、何かがおかしい気がする。

 心配な気持ちでアドリアンに視線を向けると、彼はオレに安心しろとばかりに小さく頷いた。

(……なるほど。何か作戦があるんだな)

 今は二人を信じて、静観するべきだろう。アドリアンの目くばせに、オレはそう納得することにした。

 オレがアドリアンに視線を向けている間も、カイル殿下の隣で主治医の男は動揺しながらも彼の診察を進めていた。脈拍を確かめ、額の冷や汗を拭い、瞳孔を覗き込む。

 数分の診察を終えると、主治医は眉間に深い皺を寄せながら顔を上げた。

「レオンハルト殿下! 一体、どのような毒を使われたのですか? 症状からしてすぐにお命が失われるようなものではないようですが……」

 レオン殿下は主治医を一瞥すると、再びカイル殿下に視線を戻した。

「カイル兄上こそ、この毒に詳しいのではないか?」
「どういう……意味だ?」
「これは東の砦に隠されていた『ルーンベイン』という毒だ」

 レオン殿下の言葉にカイルの表情が一瞬だけ引きつった。しかし、彼はすぐに表情を取り繕い、うめくような声で返す。

「ル、ルーンベイン……? 聞いたことも……ない……」

 主治医も同様に首を横に振る。

「わ、私もそのような毒薬は存じ上げません……」

 ここでアドリアンが二人の間に割って入った。

「ルーンベインは、ソルデーリア帝国製で研究されている魔素毒です。この毒は体内の魔素の流れを攪乱し、魔素暴走を引き起こす特殊な毒。最初は発熱と倦怠感だけですが、次第に幻覚、制御不能な魔力放出が起こり、そして……」

 彼はわざとらしく言葉を引き延ばし、カイル殿下をちらりと見下ろしながら続きを口にする。

「最後には内臓出血へと進行します。……医療に携わる者として申し上げますと、内臓出血による死は相当に苦しいものになるでしょう。あまりおススメできる死に方ではありません」

 その言葉にカイル殿下の表情が歪む。アドリアンは彼の様子など意に介さない表情で、さらに追い打ちをかけるように言葉を続けていく。

「──そして最も重要なのは、この毒は24時間以内に解毒薬を投与しないと、ほぼ確実に死に至るということです」

 カイル殿下の顔から血の気が引いていく。その隣で、レオン殿下が再び口を開いた。

「この毒は東の砦の調査の際、我が騎士団員たちに使用されたものだ。砦の管理者であったヴァレン・キルシュタインが、隠し倉庫にその毒と解毒薬を隠し持っていた」

 ここでレオン殿下が突然膝をつき、床に這いつくばっている兄の目の前まで顔を寄せた。

「ヴァレン・キルシュタインは兄上に傾倒していた貴族の一人であることは周知の事実。そのことから考えて──」

 レオン殿下は凍てつくような青い瞳で、カイル殿下をまっすぐに見据えた。

「兄上も、この毒の存在を御存じだったのでは?」

 カイル殿下は激しく首を横に振った。白い顔がさらに青ざめていく。

「私は……知らない! そんな毒……知るはずがない!」
「否定するなら、それはそれで結構だ」

 レオン殿下は立ち上がりながらそう言うと、再びレオン殿下を静かに見下ろす。

「だが、このままでは確実に死ぬぞ」

 主治医が慌てて立ち上がり、レオン殿下に詰め寄った。

「殿下! もし解毒薬をお持ちであれば、すぐに出しなさい!」
「……愚かな。私はこの兄と心中覚悟で毒を盛ったのだ。例え持っていたとしても、解毒薬をやすやすと渡すはずがないだろう?」

 オレは思わず身震いした。殿下、いくらなんでも恐ろしすぎる。これは演技だと思いたいが、まるで本気にしか見えない。

 レオン殿下は再びカイル殿下に向き直った。

「お前は恐らく、かなり昔から隣国のソルデーリア帝国と密約を交わしていたのだろう。一年前、東の砦の視察の際に私が隣国の兵に毒矢で狙われたのも、お前が仕組んだことだったのではないか?」

 しかし、カイル殿下は口を閉ざしたまま返事をしなかった。今や彼の肩は激しく上下し、呼吸を整えるだけで精一杯のようだった。

「まあいい」

 レオン殿下はため息をついた。

「このまま口を閉ざしていても、兄上に待つのは死だけだ。今からではどんなに急いでも、命が尽きるまでに隣国から解毒薬を手に入れることは不可能だ」

 そして、彼は冷笑を浮かべながら付け加えた。

「──兄上が解毒薬を持っていなければ、の話だが」

 そのレオン殿下の言葉に、カイル殿下の肩が一瞬だけ震える。

「それは、どういうことだ……?」

 今まで茫然と成り行きを見ていたフリードリヒ殿下が疑問を口にすると、それに対しアドリアンが補足するように言葉を続けた。

「もしカイル殿下が帝国と密約を結び、ヴァレン卿を通じてこの毒を入手できる立場にあったのなら、おそらく解毒薬は今も彼の手元に保管されているはず。その解毒薬を使えば殿下の命は救われる。……ただし、そうなれば当然、なぜ殿下が帝国の禁制品である毒薬を所持していたのか、公式な審問の対象となることでしょう」

 アドリアンの説明に、カイル殿下は完全に言葉を失っていた。

 オレはここにきてようやく、レオン殿下の作戦の意図に気が付いた。カイル殿下にルーンベインの毒を飲ませ、彼が恐らく隠し持っているだろうルーンベインの解毒薬をこの場に持ってこさせるのが目的なのか。カイル殿下が解毒薬を所持していれば、それこそが隣国との密約の動かぬ証拠となる。

 重苦しい沈黙が部屋を支配した。

 全員の視線が、一斉にカイル殿下へと注がれる。突き刺さるような無言の圧力に、彼の肩が震えた。

 次の瞬間、カイル殿下は倒れ込むように上体を沈めた。額が床に触れ、彼の喉の奥からくぐもった声が漏れる。

「くそっ! くそくそくそっ! こんなはずじゃなかったのに……っ!!」
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