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2 襲撃
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第三話 襲撃
金之助は胸を押さえ、囲炉裏端へ崩れ落ちていた。
畳に手をついた瞬間、指先が震える。
息が吸えないわけではない。
だが吸い込んだ空気が胸の奥へ届く前に、熱に押し返される。
喉が乾き、唇がひび割れそうだった。
額から汗が滴り落ち、鼻先を濡らし、畳へ黒い点を作っていく。
背中の着物はすでに湿りきり、肌に張りついている。
まるで体内に炉の火を抱えたように、胸の奥が灼け、その灼ける中心が――珠の鼓動と同じ拍で脈打っている気がした。
「……くっ……」
声にならない呻きが漏れる。
次の息を吸おうとしたところで、熱が一段強く跳ね上がり、
金之助は肩をすぼめたまま声を絞り出した。
「苦しい……熱い……!」
戸兵衛は囲炉裏の向こうから金之助を見据え、顔色ひとつ変えずにすっと寄った。
老いた手が金之助の背へ触れる。
乱れた呼吸に合わせ、落ち着かせるようにゆっくりと撫でさする。
「気をしっかり持て、金之助……」
叱るでも、慰めるでもない。
ただ、命令としての静かな声。
その声だけが、この熱の中で金之助を現実へ繋ぎ止めていた。
――その刹那。
ぎい……
戸口の木戸が、わずかに軋んだ。
風じゃない。
屋敷の古さが鳴った音とも違う。
木と木がこすれる、“人の重みがかかった音”だ。
戸兵衛の背中がぴくりと止まる。
煙管の灰が、火に落ちる前に宙で固まったように静まった。
闇の中から、影が滑り込んだ。
ひとつ、ふたつ、みっつ――五つ。
衣擦れも、足音もなく、
黒ずくめの男たちが土間へにじり入ってくる。
囲炉裏の火だけが彼らの輪郭を赤く縁取り、その顔は布に覆われ、息の白さすら見せない。
影たちは広がった。
まるで火を囲む狼の群れのように、囲炉裏と金之助と戸兵衛を中心に、距離を測りながら円を作る。
戸兵衛は身じろぎひとつせず、ただ目だけを細め、小さく呟いた。
「……伊賀もの、か」
気配の“匂い”で分かる。
山の木こりが持つ湿った動きとは違う。
人を殺すための影の動きだ。
次の瞬間、
ひゅっ。
白刃が走った。
一本ではない。
闇が一斉に牙を剥いたように、五つの刃が光を裂き、戸兵衛の喉元へ迫る。
だが戸兵衛は、老体とは思えぬ俊敏さで立ち上がった。
腰の鉈が、まるで最初からそこにあったかのように手に収まる。
踏み込みは短く、重心は低い。
刃が“届く前”の気配を捉え、すでに先へ出ていた。
ざんっ。
鉈が闇を裂く。
二人の喉が、同時に断たれた。
黒い装束の首元から、血が噴き上がり、囲炉裏の火に散る。
赤い滴が火の上で弾け、ぱち、ぱちと火花のように鳴った。
「なに……!」
油断していた残る三人が、円を引き直す。
ただの木こりではない。
この老人は、隠していたものがある。
三人の身のこなしが変わった。
肩の角度、足の置き方、呼吸の浅さ。
熟練の暗殺者――伊賀衆忍びの刺客、その動き。
戸兵衛は一度だけ背後を振り向き、金之助へ叫んだ。
「金之助!
その珠を持って逃げろ!」
「じいさま……!」
「よいか、あれはおまえを守ってくださ る。
代々受け継いできた、黒脛巾(くろはばき)の守り神じゃ」
金之助は震える腕で珠の箱を抱え込んだ。
朱の珠が熱を放ち、苦しみをさらに煽るように脈打つ。
胸の奥の熱と、珠の熱が混じり合って、視界が白く滲む。
「ど、どこへ逃げれば……!」
「伊達様のもとへ行け!
必ずやおまえを守ってくださる」
言い放つと同時に、戸兵衛は腰を低く構え直し、残る三人へ向けて土間へ踏み出した。
老いた背中が囲炉裏の炎に浮かぶ。
その背中が一歩踏み出すたび、畳と土間の境が戦場の線へ変わっていく。
がきんッ! ざんッ!
刃と刃が打ち合う鋭い音が、狭い家に響き渡った。
金之助は叫びを飲み込み、
珠を胸に抱いたまま裏口へ走った。
熱と恐怖で足元がふらつく。
それでも――ここを離れねばならない。
じいさまの声が背中を押す。
木戸を抜けた瞬間、夜気が肌を刺した。
金之助は闇を裂くように駆けた。
木々の間を縫い、岩場を飛び越え、獣道を踏みしめる。
このあたりの地理には明るい。幼い頃から山を駆け回って育ったのだ。
息は荒く、胸の奥は灼けるように熱い。
それでも振り返ることなく、ただひたすらに走り続けた。
やがて山陰に身を伏せ、耳を澄ます。
追っ手の気配は遠のいた。どうやら逃げ切ったらしい。
だが、心は安堵には向かわなかった。
――じいさまは。
あの老いた体で、伊賀の刺客を相に……。
囲炉裏端で煙管をくゆらせる姿が脳裏に浮かぶ。
厳しくも、どこか温かな眼差し。
あれから一刻はとうに過ぎただろう。
まさか、もう――。
金之助は歯を食いしっかり噛み締めた。
戸兵衛に託された言葉が、脳裏をよぎる。
「伊達様のもとへ行け。必ずおまえを守ってくださる」
約束を守るべきか。
それとも、あの背中を見捨ててよいのか。
逡巡の末、金之助は懐の珠を取り出した。
なおも脈打ち、朱い光を弱く放つそれを、山中の古木の根元に掘った穴へと埋め隠す。
「……待っていてくれ、じいさま」
唇を噛む。
胸の熱はもはや珠のせいか、焦燥のせいか分からなかった。
金之助は来た道を戻った。
闇の中へ、再び飛び込むように。
第四話 戸兵衛の最期
金之助は駆け戻った。
闇を裂くように走った足が、庵の前でふいに止まる。
鼻先に、鉄と土と、そして生臭い血の匂いがまとわりついたからだ。
月明かりの薄い庭先に、伊賀ものが二人――倒れていた。
黒装束が泥に汚れ、喉元に刻まれた裂け目から血が乾き始めている。
つい先ほどまで息をしていたものが、いまはただの影の塊と化しているのがわかる。
金之助は足を縺れさせながら土間へ踏み込んだ。
囲炉裏の火はまだ生きていたが、炎は弱々しく揺れ、そこに落ちた血が黒く滲んで、
部屋の中がまるで別の場所のように歪んで見える。
その奥――
血に染まった土間に、戸兵衛が横たわっていた。
「……じいさま!」
呼び声は喉でひっくり返り、金之助自身の耳にも遠く聞こえた。
駆け寄り、膝をつく。
戸兵衛は辛うじて目を開き、
揺れる炎の向こうから金之助の姿を捉えた。
胸は大きく上下し、
血に濡れた口元から荒い息が漏れている。
呼吸のたびに喉の奥がひゅう、と鳴るのがわかった。
「……金之助……なぜ……もどった……」
声は掠れ、風にさらわれそうなほど細い。
「じいさま……!」
言葉が出ない。
胸の奥が冷え、喉が塞がれる。
戸兵衛はかすかに笑うような顔を作ろうとした。
だが笑みにはならず、
かわりに咳き込み、赤黒い血が口端から滴った。
「よく……聞け……時間がない……」
戸兵衛の手が震えながら宙を掴む。
何かを伝えねばという執念だけが、身体を起こしている。
「伊賀もの……一人……逃げおった……。
覚悟せよ……おまえは……追われる……」
「なぜ……!」
金之助の声が震える。
答えが怖いのに、聞かずにいられない。
「……珠じゃ。
さきほどの珠が……奴らの目当て……」
戸兵衛は一息ごとに言葉を切り、それでも必死に繋いだ。
「……あれが……伊賀に渡れば……世は……乱れる……」
「そんなに大事なものなの?」
金之助が問うと、戸兵衛はうなずこうとして、また咳き込み、血が喉を塞ぐ。
その苦しさの中で、ようやく一つ頷いた。
「……唯一……黒脛巾(くろはばき)に託された珠……。
代々……おまえの先祖が……守ってきた……」
戸兵衛の目が、金之助の胸元の暗がりを見据える。
「……あれは……おまえの血でしか……応えぬ……」
「どういうこと……じいさま!」
金之助の声が裏返る。
戸兵衛の言葉は、重すぎて理解が追いつかない。
戸兵衛は息を整えるように目を閉じ、次の息で、まるで最後の釘を打つように言った。
「……とにかく……
恐れていた……混沌の時代が……とうとう……来た……」
炎がぱちりと爆ぜる。
その音がやけに大きく響いた。
「仲間を……探せ……
十二の珠が……悪に……染まる前に……」
金之助は目を見開いた。
「仲間……? 十二……?」
「……十二ある……干支の珠……」
戸兵衛は一つずつ数えるように、重く言葉を落とす。
「おまえは……辰の珠……。
ほかにも……寅……巳……未……ある……」
そして、金之助の目をまっすぐに見た。
「とにかく……仲間を……探すのじゃ……」
金之助は唇を噛み締める。
「伊達様のもとへは……」
戸兵衛は首を横に振るのではなく、
ただ静かに息を吐いた。
その吐息に、年老いた悔しさと焦りが混じる。
「……伊賀は……幕府の使いの……影……。
どの藩が……味方か……今は……わからぬ……」
一拍。
「西へ……行け……
江戸を避け……西を目指せ……いいな……」
「じいさまも一緒に行こう!」
金之助が身を乗り出すと、戸兵衛はかすかに首を振り、自分の脚元へ視線を落とした。
「……もう……歩けぬ……この通り……」
血に濡れた床に、老いた身体が沈んでいる。
それが現実だった。
「じいさま!」
「……いいか、金之助……」
戸兵衛の声が、さらに細くなる。
だがその芯は、最後まで折れなかった。
「おまえは……立派な……黒脛巾の子孫じゃ……戦い方も……教えた……
鍛錬を怠るな……」
戸兵衛の手が、金之助の腕をぎゅっと掴む。
驚くほど強い力が、一瞬だけ戻った。
「強くなれ……
その珠を……守れ……」
その言葉で力が尽きた。
掴んでいた手が、ふっとほどけ、
畳に落ちる音もなく垂れ下がった。
「……じいさま?」
返事がない。
「じいさま……!
じいさまぁぁぁ!」
金之助の慟哭が、夜の山へ突き抜けた。
風が吹き抜け、囲炉裏の炎が大きく揺れ、その光が戸兵衛の顔を一度だけ赤く照らした。
金之助は、戸兵衛の亡骸を裏庭へ運んだ。
夜の冷気がまだ土に残る。
鍬を入れるたび、湿った土が重く返ってくる。
手は震え、息は乱れ、
それでも掘るのをやめられなかった。
鍬の柄が掌に食い込み、やがて皮が割れ、血が滲む。
だが痛みは、今の胸の痛みに比べれば取るに足りない。
夜が明けかけていた。
東の空がわずかに白み、鳥の声が、恐る恐る戻りはじめる。
掘り上げた穴に、じいさまの体を横たえた。
長年、薪を割り、木を伐り、自分を育ててくれた背中。
あの背中が、もう動かない。
そのことが、金之助の胸を裂いた。
「じいさま……」
膝をつき、両手を合わせる。
涙が頬を伝い、土に落ちる。
戸兵衛の言葉が、頭の中で鳴り続けた。
――西へ行け。
――仲間を探せ。
――珠を守れ。
土を戻すたびに、胸の奥が軋むように痛んだ。
だが、これが最後の孝行だと自分に言い聞かせ、金之助は黙って土を重ねた。
穴を埋め終えるころ、太陽が顔を出した。
山の端から差す朝日の光が、赤く濡れた金之助の手を照らす。
金之助はゆっくり立ち上がり、深く一礼した。
「……じいさま。
必ずや守ってみせます」
振り返らず、庵を後にする。
背にかかった朝露の光が、静かに煌めいていた。
金之助は胸を押さえ、囲炉裏端へ崩れ落ちていた。
畳に手をついた瞬間、指先が震える。
息が吸えないわけではない。
だが吸い込んだ空気が胸の奥へ届く前に、熱に押し返される。
喉が乾き、唇がひび割れそうだった。
額から汗が滴り落ち、鼻先を濡らし、畳へ黒い点を作っていく。
背中の着物はすでに湿りきり、肌に張りついている。
まるで体内に炉の火を抱えたように、胸の奥が灼け、その灼ける中心が――珠の鼓動と同じ拍で脈打っている気がした。
「……くっ……」
声にならない呻きが漏れる。
次の息を吸おうとしたところで、熱が一段強く跳ね上がり、
金之助は肩をすぼめたまま声を絞り出した。
「苦しい……熱い……!」
戸兵衛は囲炉裏の向こうから金之助を見据え、顔色ひとつ変えずにすっと寄った。
老いた手が金之助の背へ触れる。
乱れた呼吸に合わせ、落ち着かせるようにゆっくりと撫でさする。
「気をしっかり持て、金之助……」
叱るでも、慰めるでもない。
ただ、命令としての静かな声。
その声だけが、この熱の中で金之助を現実へ繋ぎ止めていた。
――その刹那。
ぎい……
戸口の木戸が、わずかに軋んだ。
風じゃない。
屋敷の古さが鳴った音とも違う。
木と木がこすれる、“人の重みがかかった音”だ。
戸兵衛の背中がぴくりと止まる。
煙管の灰が、火に落ちる前に宙で固まったように静まった。
闇の中から、影が滑り込んだ。
ひとつ、ふたつ、みっつ――五つ。
衣擦れも、足音もなく、
黒ずくめの男たちが土間へにじり入ってくる。
囲炉裏の火だけが彼らの輪郭を赤く縁取り、その顔は布に覆われ、息の白さすら見せない。
影たちは広がった。
まるで火を囲む狼の群れのように、囲炉裏と金之助と戸兵衛を中心に、距離を測りながら円を作る。
戸兵衛は身じろぎひとつせず、ただ目だけを細め、小さく呟いた。
「……伊賀もの、か」
気配の“匂い”で分かる。
山の木こりが持つ湿った動きとは違う。
人を殺すための影の動きだ。
次の瞬間、
ひゅっ。
白刃が走った。
一本ではない。
闇が一斉に牙を剥いたように、五つの刃が光を裂き、戸兵衛の喉元へ迫る。
だが戸兵衛は、老体とは思えぬ俊敏さで立ち上がった。
腰の鉈が、まるで最初からそこにあったかのように手に収まる。
踏み込みは短く、重心は低い。
刃が“届く前”の気配を捉え、すでに先へ出ていた。
ざんっ。
鉈が闇を裂く。
二人の喉が、同時に断たれた。
黒い装束の首元から、血が噴き上がり、囲炉裏の火に散る。
赤い滴が火の上で弾け、ぱち、ぱちと火花のように鳴った。
「なに……!」
油断していた残る三人が、円を引き直す。
ただの木こりではない。
この老人は、隠していたものがある。
三人の身のこなしが変わった。
肩の角度、足の置き方、呼吸の浅さ。
熟練の暗殺者――伊賀衆忍びの刺客、その動き。
戸兵衛は一度だけ背後を振り向き、金之助へ叫んだ。
「金之助!
その珠を持って逃げろ!」
「じいさま……!」
「よいか、あれはおまえを守ってくださ る。
代々受け継いできた、黒脛巾(くろはばき)の守り神じゃ」
金之助は震える腕で珠の箱を抱え込んだ。
朱の珠が熱を放ち、苦しみをさらに煽るように脈打つ。
胸の奥の熱と、珠の熱が混じり合って、視界が白く滲む。
「ど、どこへ逃げれば……!」
「伊達様のもとへ行け!
必ずやおまえを守ってくださる」
言い放つと同時に、戸兵衛は腰を低く構え直し、残る三人へ向けて土間へ踏み出した。
老いた背中が囲炉裏の炎に浮かぶ。
その背中が一歩踏み出すたび、畳と土間の境が戦場の線へ変わっていく。
がきんッ! ざんッ!
刃と刃が打ち合う鋭い音が、狭い家に響き渡った。
金之助は叫びを飲み込み、
珠を胸に抱いたまま裏口へ走った。
熱と恐怖で足元がふらつく。
それでも――ここを離れねばならない。
じいさまの声が背中を押す。
木戸を抜けた瞬間、夜気が肌を刺した。
金之助は闇を裂くように駆けた。
木々の間を縫い、岩場を飛び越え、獣道を踏みしめる。
このあたりの地理には明るい。幼い頃から山を駆け回って育ったのだ。
息は荒く、胸の奥は灼けるように熱い。
それでも振り返ることなく、ただひたすらに走り続けた。
やがて山陰に身を伏せ、耳を澄ます。
追っ手の気配は遠のいた。どうやら逃げ切ったらしい。
だが、心は安堵には向かわなかった。
――じいさまは。
あの老いた体で、伊賀の刺客を相に……。
囲炉裏端で煙管をくゆらせる姿が脳裏に浮かぶ。
厳しくも、どこか温かな眼差し。
あれから一刻はとうに過ぎただろう。
まさか、もう――。
金之助は歯を食いしっかり噛み締めた。
戸兵衛に託された言葉が、脳裏をよぎる。
「伊達様のもとへ行け。必ずおまえを守ってくださる」
約束を守るべきか。
それとも、あの背中を見捨ててよいのか。
逡巡の末、金之助は懐の珠を取り出した。
なおも脈打ち、朱い光を弱く放つそれを、山中の古木の根元に掘った穴へと埋め隠す。
「……待っていてくれ、じいさま」
唇を噛む。
胸の熱はもはや珠のせいか、焦燥のせいか分からなかった。
金之助は来た道を戻った。
闇の中へ、再び飛び込むように。
第四話 戸兵衛の最期
金之助は駆け戻った。
闇を裂くように走った足が、庵の前でふいに止まる。
鼻先に、鉄と土と、そして生臭い血の匂いがまとわりついたからだ。
月明かりの薄い庭先に、伊賀ものが二人――倒れていた。
黒装束が泥に汚れ、喉元に刻まれた裂け目から血が乾き始めている。
つい先ほどまで息をしていたものが、いまはただの影の塊と化しているのがわかる。
金之助は足を縺れさせながら土間へ踏み込んだ。
囲炉裏の火はまだ生きていたが、炎は弱々しく揺れ、そこに落ちた血が黒く滲んで、
部屋の中がまるで別の場所のように歪んで見える。
その奥――
血に染まった土間に、戸兵衛が横たわっていた。
「……じいさま!」
呼び声は喉でひっくり返り、金之助自身の耳にも遠く聞こえた。
駆け寄り、膝をつく。
戸兵衛は辛うじて目を開き、
揺れる炎の向こうから金之助の姿を捉えた。
胸は大きく上下し、
血に濡れた口元から荒い息が漏れている。
呼吸のたびに喉の奥がひゅう、と鳴るのがわかった。
「……金之助……なぜ……もどった……」
声は掠れ、風にさらわれそうなほど細い。
「じいさま……!」
言葉が出ない。
胸の奥が冷え、喉が塞がれる。
戸兵衛はかすかに笑うような顔を作ろうとした。
だが笑みにはならず、
かわりに咳き込み、赤黒い血が口端から滴った。
「よく……聞け……時間がない……」
戸兵衛の手が震えながら宙を掴む。
何かを伝えねばという執念だけが、身体を起こしている。
「伊賀もの……一人……逃げおった……。
覚悟せよ……おまえは……追われる……」
「なぜ……!」
金之助の声が震える。
答えが怖いのに、聞かずにいられない。
「……珠じゃ。
さきほどの珠が……奴らの目当て……」
戸兵衛は一息ごとに言葉を切り、それでも必死に繋いだ。
「……あれが……伊賀に渡れば……世は……乱れる……」
「そんなに大事なものなの?」
金之助が問うと、戸兵衛はうなずこうとして、また咳き込み、血が喉を塞ぐ。
その苦しさの中で、ようやく一つ頷いた。
「……唯一……黒脛巾(くろはばき)に託された珠……。
代々……おまえの先祖が……守ってきた……」
戸兵衛の目が、金之助の胸元の暗がりを見据える。
「……あれは……おまえの血でしか……応えぬ……」
「どういうこと……じいさま!」
金之助の声が裏返る。
戸兵衛の言葉は、重すぎて理解が追いつかない。
戸兵衛は息を整えるように目を閉じ、次の息で、まるで最後の釘を打つように言った。
「……とにかく……
恐れていた……混沌の時代が……とうとう……来た……」
炎がぱちりと爆ぜる。
その音がやけに大きく響いた。
「仲間を……探せ……
十二の珠が……悪に……染まる前に……」
金之助は目を見開いた。
「仲間……? 十二……?」
「……十二ある……干支の珠……」
戸兵衛は一つずつ数えるように、重く言葉を落とす。
「おまえは……辰の珠……。
ほかにも……寅……巳……未……ある……」
そして、金之助の目をまっすぐに見た。
「とにかく……仲間を……探すのじゃ……」
金之助は唇を噛み締める。
「伊達様のもとへは……」
戸兵衛は首を横に振るのではなく、
ただ静かに息を吐いた。
その吐息に、年老いた悔しさと焦りが混じる。
「……伊賀は……幕府の使いの……影……。
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一拍。
「西へ……行け……
江戸を避け……西を目指せ……いいな……」
「じいさまも一緒に行こう!」
金之助が身を乗り出すと、戸兵衛はかすかに首を振り、自分の脚元へ視線を落とした。
「……もう……歩けぬ……この通り……」
血に濡れた床に、老いた身体が沈んでいる。
それが現実だった。
「じいさま!」
「……いいか、金之助……」
戸兵衛の声が、さらに細くなる。
だがその芯は、最後まで折れなかった。
「おまえは……立派な……黒脛巾の子孫じゃ……戦い方も……教えた……
鍛錬を怠るな……」
戸兵衛の手が、金之助の腕をぎゅっと掴む。
驚くほど強い力が、一瞬だけ戻った。
「強くなれ……
その珠を……守れ……」
その言葉で力が尽きた。
掴んでいた手が、ふっとほどけ、
畳に落ちる音もなく垂れ下がった。
「……じいさま?」
返事がない。
「じいさま……!
じいさまぁぁぁ!」
金之助の慟哭が、夜の山へ突き抜けた。
風が吹き抜け、囲炉裏の炎が大きく揺れ、その光が戸兵衛の顔を一度だけ赤く照らした。
金之助は、戸兵衛の亡骸を裏庭へ運んだ。
夜の冷気がまだ土に残る。
鍬を入れるたび、湿った土が重く返ってくる。
手は震え、息は乱れ、
それでも掘るのをやめられなかった。
鍬の柄が掌に食い込み、やがて皮が割れ、血が滲む。
だが痛みは、今の胸の痛みに比べれば取るに足りない。
夜が明けかけていた。
東の空がわずかに白み、鳥の声が、恐る恐る戻りはじめる。
掘り上げた穴に、じいさまの体を横たえた。
長年、薪を割り、木を伐り、自分を育ててくれた背中。
あの背中が、もう動かない。
そのことが、金之助の胸を裂いた。
「じいさま……」
膝をつき、両手を合わせる。
涙が頬を伝い、土に落ちる。
戸兵衛の言葉が、頭の中で鳴り続けた。
――西へ行け。
――仲間を探せ。
――珠を守れ。
土を戻すたびに、胸の奥が軋むように痛んだ。
だが、これが最後の孝行だと自分に言い聞かせ、金之助は黙って土を重ねた。
穴を埋め終えるころ、太陽が顔を出した。
山の端から差す朝日の光が、赤く濡れた金之助の手を照らす。
金之助はゆっくり立ち上がり、深く一礼した。
「……じいさま。
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振り返らず、庵を後にする。
背にかかった朝露の光が、静かに煌めいていた。
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「影武者が、本物を超えてしまった——」
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やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
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秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
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滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
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これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
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