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第五章 館林へ
第一話 佐野と伊賀衆
火山灰は空を分厚い布のように覆い尽くしていた。
昼のはずの街道は、夕暮れの残り火に沈む山道のように薄暗い。
陽はどこかでまだ生きているのだろうが、灰の膜に遮られ、地上には届かない。
風が吹くたび、灰がさらさらと舞い、木々の梢を乾いた音で鳴らした。
葉はすでに灰をかぶり、重みに耐えかねたように垂れ、緑の色は鈍く濁っている。
街道の脇では、畑に残っていた農夫たちが鍬を投げ捨て、頭巾で口元を覆いながら、家族の名を呼んで逃げ惑っていた。
遠くで赤子の泣き声が混じり、それさえ灰に吸われて、すぐにかき消える。
地も空も、生き物の気配も、すべてが“灰の色”へ均されていくようだった。
その荒れた道を、ひとつの一団が進んでいた。
馬上の先頭にいるのは佐野政親(さの まさちか)。
黒塗りの鞍に腰を据え、なびく羽織の裾すら乱れない。
薄闇の中でも、その姿だけは異様なほど静かで、整っている。
まるでこの災厄の世界が、自分のために敷かれた舞台だと言わんばかりだ。
佐野の周囲を囲むように、黒装束の伊賀衆が歩む。
足取りは驚くほど軽く、音というものを持たない。
しかし纏う気配は冷たく、乾き切った刃のように鋭い。
道行く旅人とすれ違えば、彼らは呼吸を止めたまま闇へ溶け、草むらや崩れた岩陰にすっと身を隠して気取らせない。
次の瞬間にはまた隊列へ戻り、何事もなかったように歩を進める。
それが伊賀の“影の歩き方”だった。
だが、その中心に、ひとりだけ“影ではない男”がいた。
隻眼にして六尺五寸を超える巨躯。
並の人間なら肩を竦めるしかないほどの大男が、背に黒鉄の鉞(まさかり)を担いで、伊賀衆の間をゆっくりと歩く。
鉞の刃の奥には赤黒い紫の珠がめり込み、心臓のようにどくどくと脈動して、鈍い光を吐いていた。
丑の珠を宿す荒谷武蔵――。
武蔵が一歩進むたび、土がわずかに沈む。
その重さは、歩みそのものに圧を宿していた。
伊賀衆でさえ、本能的に一歩距離を取り、武蔵の影が自分たちの影に触れぬよう避けている。
「佐野様よぉ」
武蔵が低く声をかけた。
喉の奥で岩を転がすような声。
薄暗い街道で、その響きだけが濃く重く残った。
「館林の巫女とやら……本当にいるのかぁ。
俺の腕を無駄に振るわせることはあるまいな」
佐野は馬上で僅かに口元を緩め、扇を開いて口を隠した。
笑っているように見えて、その目は寸分も笑っていない。
「巫女は確かにいる」
佐野の声は静かだった。
しかし言葉の端々に、確信と支配の匂いが滲む。
「田保家の血筋、松平定信の妹――。
彼女さえ手に入れば、必ず封印は揺らぐ」
武蔵の口元が、獣のように吊り上がった。
隻眼の奥に、飢えの色が燃える。
「……ならば早く血を啜らせてもらおう」
その生々しい言葉に、近くの伊賀衆のひとりが眉をひそめる。
武蔵の強さを知っているからこそ、
その“欲のままの言葉”が不穏だった。
「荒谷殿。
あまりに目立つ行動は……」
佐野の側近が武蔵をいさめようとする。
だが佐野は、扇を閉じる前に軽く手を上げて制した。
見た目は穏やかな仕草なのに、そこに逆らう選択肢はない。
「よい。武蔵はこうでなくては」
佐野はわずかに首を傾け、武蔵を見下ろすように視線を落とした。
「ただ、忘れるな。
この世は腕力だけで動くものではない」
その瞳は、灰の闇よりも冷たく光っている。
「力は剣に宿る。
だが世を握るのは知恵だ。
……珠を集めるのも同じことよ」
武蔵はふんと鼻を鳴らした。
理屈を噛むより先に、腹が動く男の返事だ。
「知恵も腹も、満たされねば使い物にならん。
俺は食う。飲む。……そして斬る」
そう言うや否や、武蔵は腰の袋から干し肉を引きちぎった。
口へ放り込み、骨ごと噛み砕く。
酒袋をあおると、喉がごくりと鳴り、酒がこぼれて顎を濡らした。
ごきり、ごきり――
肉が盛り上がる不気味な音がした。
先刻の戦で裂けた腕の傷が、
膨れた筋肉に押し上げられるように塞がっていく。
赤い血は瞬く間に止まり、
皮膚が引き締まり、傷跡だけを残して元の太さへ戻った。
伊賀衆の何人かが、目を逸らした。
忍びは感情を押し殺すのが務めだが、それでも“人ならざる再生”は本能をざわつかせる。
佐野だけが、冷ややかにそれを眺め、口元に薄い笑みを刻んだ。
「……獣じみた真似を」
武蔵は酒袋を投げ捨て、口の端を吊り上げる。
「獣で結構だ。
斬れりゃそれでいい」
佐野は扇をぱたりと閉じ、馬上から視線を落とした。
その声は淡々としているのに、刃のように冷たい。
「ならば、せいぜい役に立て」
武蔵は低く笑い、黒鉄の鉞を担ぎ直す。
背の珠が脈動し、刃が赤黒い光をひとしずく吐いた。
「がはは……任せとけ」
火山灰の風が二人の間を抜け、
街道に沈黙が落ちた。
伊賀衆は言葉を交わさず、灰色の空の下、ただ館林へと進んでいった。
その隊列の先に待つのが、巫女か、珠か、あるいはもっと深い混沌か――誰ひとり、口にはしなかった。
第二話 灰の国
館林の領地に足を踏み入れた途端、金之助たちは思わず足を止め、息を呑んだ。
これまで歩いてきた道中でも、火山灰は容赦なく降り続いていた。空は薄暗く、風に混じる灰が目と喉を刺した。
だが――藩境を越えた瞬間、空気の“重さ”が変わった。
ここだけは、別の災厄に呑まれている。そう感じさせる沈み方があった。
街道脇の田畑は、まるで冬の霜が降りたように白く覆われている。
だがその白さは、清らかさとは真逆のものだった。
苗は灰の重みに押し潰され、土の中に沈み、葉の緑はすでに息絶えている。
水路は灰と土砂で詰まり、流れるべき水はどこにも見えず、ただ濁った溜まりが点々と残っていた。
土手には、山から転げ落ちたのだろう大きな岩が無造作に横たわり、脇の小屋や納屋を押し潰している。
木は折れ、柿の実も桑の実も、枝ごと落ちて灰に埋もれていた。
集落に近づくほど、破壊は露骨になった。
崩れた屋根、あらぬ方向へ折れ曲がった柱、裂けた板壁。
かつて人の暮らしの音を抱えていたはずの家々が、骨組みだけを晒し、灰の中に沈んでいる。
火の回った跡も、熱に炙られた痕跡もある。
それでも、炎の匂いより先に、湿った土と灰の匂いが鼻を塞いだ。
“燃えた”というより、“押し潰され、埋もれた”町だった。
そして――道端には、動かぬ人影。
灰にまみれ、顔も判別できぬまま倒れた者が、いくつも散らばっている。
手を伸ばした姿のまま固まっている者。
家の梁の下敷きになり、半身だけ覗いている者。
幼子を抱えたまま膝をつき、祈るような姿勢で眠るように動かぬ女もいた。
獣に荒らされた跡が残るものもあれば、ただ灰に覆われて静かに横たわっているものもある。
どちらにせよ――生きた人の気配は、ない。
鳴き声も、喧騒も、泣き声も、ここには残っていなかった。
鉄之介が奥歯を噛みしめ、吐息の間から声を絞り出す。
「……ひでぇな。
生きてる奴は……残ってんのか?」
その言葉が灰の空気に吸い込まれ、返事のない静けさだけが残る。
金之助は喉の奥が熱くなるのを感じた。
胸の辰の珠がかすかに脈を早める。
だが、それは力の呼応というより、目の前の惨状に応じた痛みのようだった。
(こんな……これが噴火の力か……)
今まで聞いてきた“災い”の言葉のどれよりも、現実のほうが重かった。
忠壽は無言のまま馬を進めていた。
背筋は凛と伸び、手綱を握る指に迷いがない。
しかしその横顔は、どこか硬く、冷たく引き締まっている。
眼差しはただ城下の方角を射抜き、周囲の惨状に飲まれていない。
飲まれぬよう、意志で支えている、とも見えた。
「城下はどうなっているか……」
金之助が、思わず唇からこぼす。
自分に言い聞かせるような、弱い呟きだった。
忠壽は馬上から低く答えた。
「急ぐぞ」
それだけで、十分だった。
三人と一行は、灰に埋もれた街道を踏みしめ、館林の城下へと足を速める。
視線の先、空はなお灰に覆われ、陽の色を失っている。
まるで闇の帳が、地上へ降り切ってしまったかのようだった。
灰に覆われた街道を急ぐ一行の前に、ふいに小さな影がよろめき出た。
それは土煙のような灰の中から、転がり出るように現れた。
まだ七つか八つほどの少女である。
着物はあちこち裂け、袖も裾も灰と泥で真っ黒だ。
裸足の足裏は血に滲み、走ってきた道の痕が、そのまま体の痛みとして刻まれている。
煤けた頬には涙の筋が幾本も残り、声を出そうとするたびに喉がひゅうと鳴った。
少女はよろめきながら金之助の前に辿り着くと、倒れ込むようにしがみついた。
細い腕が必死に着物を掴む。
その体温の薄さに、金之助は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
「おとうと……おかあを……助けて……!」
言葉は途切れ途切れで、息に混じって灰が吐き出される。
泣き声というより、喉を裂きながら絞り出す助けの叫びだった。
忠壽は即座に馬を止め、鞍上から鋭く少女を見下ろした。
情に呑まれぬ冷静さがまず動く。
視線は少女の背後、街道の脇の崩れた家並み、土手の陰、灰の窪み――あらゆる場所へ一瞬で走った。
「どうした」
声は低く、落ち着いている。命令というより、確かめる響きだった。
「何があった。……どこにいる?」
だが少女は嗚咽を繰り返すばかりで、言葉が形にならない。
肩が小刻みに震え、ただ首を振る。
恐怖が喉を塞いで、説明より先に涙が溢れている。
鉄之介が耐えきれず、苛立ちをぶつけるように声を荒げた。
「おい、ガキ!
おっとうとおっかあ助けてほしいんだろ? なら案内しろって言ってんだ!」
「おとうと……おかあが……」
「わかった、わかった。
だから“どこだ”って!」
その瞬間だった。
少女の瞳が、ふいにぎょろりと揺れた。
鉄之介の肩越し――一行の背後を、凍りついたような目で凝視する。
涙で濡れた瞳の奥が、別の恐怖で急に暗くなる。
「え……?」
金之助が気づき、忠壽の家臣たちも同時に振り返る。
一斉に向けられた視線の先、灰の闇の中に――人の形をした二つの影が立っていた。
ふらつきながら、ゆっくりと前へ出てくる。
着物は破れ、皮膚は灰で斑に汚れ、背を丸めた動きは老人のようだ。
だが生気がない。
顔は俯いたまま、目の焦点は合っておらず、濁った膜が張ったように虚ろだった。
呼吸の音すら聞こえない。
生きているのに、生きていない――
そんな矛盾が、見る者の背筋を冷やした。
「おとう……おかあ!」
少女が絶叫した、その声が空に裂けた瞬間。
影が、あり得ぬ速さで跳ねた。
もつれた足が嘘のように軽く、獣のような跳躍で間合いを潰す。
ガブリ――!
忠壽の家臣のひとりが首筋に喰いつかれ、地面へ押し倒される。
骨を噛む鈍い音が近くで鳴り、灰が跳ね、家臣の叫びが喉の奥でひしゃげた。
「なっ……!」
隣の家臣が刀を抜きながらよろめき後ずさる。
しかし黒い影は怯まず、噛みついたまま首を振り、肉を引き裂こうとする。
唸り声が低く漏れるが、それは人の声でも獣の声でもない。
喉の奥の腐った空洞が鳴っているような、ひどく不吉な響きだった。
他の家臣たちは即座に忠壽の前へ寄り、盾のように周囲を固めた。
忠壽は眉ひとつ動かさず、馬上から冷たく号令を放つ。
「怯むな。討て」
声は鋼のように揺るがない。
恐怖より先に、武士の手足を動かす声だった。
鉄之介は大槌を握りしめたまま、ほんの一刹那、動きを止める。
“親”と呼ばれた影の異様さと、少女の叫びが胸に引っかかったのだ。
金之助は咄嗟に少女を抱き寄せ、背へ回した。
細い肩を守るように腕に力を込める。
「見るな……!」
自分に言うように、少女に言うように、金之助は歯を食いしばった。
「おとう……おかあ!」
少女の叫びが灰の空に裂け、木霊するように尾を引いた。
その声が合図になったかのように、黒い影がぬらりと身をうねらせた。
生きたものが血の匂いで目覚める時の、あの獣じみた反射――
いや、獣よりもなお無機質で、ただ“飢え”だけを残した動きだった。
影は忠壽の家臣へ飛びかかる。
牙が首筋に食い込む瞬間、肉が裂ける生々しい音がした。
「う、うわぁっ!」
悲鳴が潰れ、家臣は馬乗りに押さえつけられる。
影は人の形のまま、しかし人の力ではない重さでのしかかり、首を噛みながらぐいぐいと胴を押し潰していく。
口の端からは灰と涎と、黒い泥のようなものが糸を引いた。
周囲の武士が慌てて抜刀した。
「どけっ、この化け物め!」
一人が斬り下ろす。
刃は確かに影の肩口を断ち割った。
しかし――
血が出ない。
飛び散るべき赤はなく、裂けた肉は黒い泥の塊のように崩れ、ぽとりと落ちた。
そして、落ちたはずの肉片が、灰を吸い込むようにうねり、ぬるりと元の形へ戻っていく。
切られた“傷”だけが、最初から無かったかのように消えた。
「な、なんだこれは……!」
武士の声が震える。
その一瞬の怯みを、影は見逃さない。
のろのろと立ち上がったかと思うと、今度は虚ろな目を据えたまま、真っ直ぐに突進してきた。
「やめろっ!」
別の家臣が槍を突き出す。
穂先は胸を貫いた――はずだった。
だが影は怯まず、むしろその槍を腹に抱え込むように進み、槍を握る家臣の胸元まで間合いを詰める。
ずぶり、と槍がさらに深く入る。
それでも影は止まらない。
そのまま肩で押し倒すように家臣を転がし、顔めがけて牙を寄せた。
「くっ、離せぇッ!」
家臣が槍を引こうとした瞬間、影の手が槍の柄を掴む。
指が“生きてる”のか“死んでる”のか分からない冷たさで絡みつき、
次の瞬間、力任せに引き倒した。
少女の泣き声が、背後で細く震えた。
「お、おとう……おかあ……っ!」
その声が胸を刺し、金之助は少女をさらに強く抱き寄せる。
小さな体が硬直し、喉がひゅうと鳴る。
彼女の視界から、絶対にこの光景を遠ざけたかった。
だが少女は、腕の中で首を振り、震える指で“親”へ伸ばそうとする。
鉄之介が歯噛みし、槌を握り直した。
「くそっ……なんだってんだ、こいつらは!」
大槌がうなりを上げて振り抜かれる。
影の胴が、ぐしゃりと潰れた。
骨の手応えではない。泥を叩き割ったような、嫌な感触だ。
肉片が飛び散り、灰の中へ落ちる。
――だが、終わらない。
砕けた肉片が灰の上で蠢いた。
まるで小さな虫が集まるように、黒い泥が寄り、形を結び、再び“人の輪郭”へ戻っていく。
「ひるまねぇ……! 人間じゃねえ!」
鉄之介の叫びに、周囲の家臣たちの顔色が変わった。
理解できないものは、恐怖に直結する。
目の前のそれは、まさしく“理解の外”だった。
忠壽は馬上から冷徹に状況を見据え、声を裂く。
「下がるな! 斬り続けろ!
足を止めたら死ぬぞ!」
命令は鋼の杭のように、家臣たちの背骨へ突き刺さった。
彼らは泥と灰に足を取られながらも必死に刃を振るう。
だが相手は痛みも恐れも知らぬ。
ただ噛みつき、押し倒し、腕を掴み、地へ引きずり込もうとする。
戦というより、崩壊だった。
何が起こっているのか誰もわからない。
わかるのは――ここで止まれば喰われる、という一点だけ。
「うおぉぉぉっ!」
鉄之介の雄叫びが響き渡る。
赤黒い珠を宿した大槌が唸り、影の頭を真正面から叩き潰す。
ぐしゃり、と泥の塊が弾けた。
影はしばらく床に這うように蠢いたが――
次の瞬間、ふっと芯を失ったように崩れ、黒い灰となって粉々に砕け、風に散った。
しかし、勝利の感触が広がる前に、別の惨事が起きる。
首筋を噛まれていた家臣が、血を噴きながら地へ崩れ落ちた。
助けようと手を伸ばす者がいるが、
家臣は呼吸を荒くし、目を見開いたまま、言葉にならない声を漏らす。
「ぐっ……あ……」
その瞳の光が、ふっと消えた。
息が止まり、体から力が抜けた、その瞬間――家臣の身体がざらりと崩れた。
黒い灰が、皮膚の下から噴き出すように広がり、
人の形を保てぬまま、土の上へ砂の山として落ちていく。
ほんの数呼吸の間に、“人だったもの”は跡形もなくなった。
鉄之介も家臣たちも、言葉を失った。
熱い戦場の喧噪の中で、
冷たい風が灰を舞い散らす“さらさら”という音だけが妙に耳についた。
残ったもう一つの影は、刀を浴びせられても止まらない。
斬られ、裂かれ、崩れ、戻り、
ただ無言で、馬上の忠壽へと迫っていく。
「殿!」
家臣たちの叫びが重なる。
鉄之介が駆け出そうとした。
「くそっ、間に合わねぇ!」
影は忠壽の馬の足元へ躍りかかる。
刹那――金之助が飛び出した。
「うああっ!」
体当たりで影を引き剥がす。
土と灰が舞い、金之助の腕が衝撃で痺れる。
彼は短刀を抜き、反射のまま振り上げた。
刃は影の左目へ深々と突き立った。
――初めて、影が呻いた。
鈍い、濁った、喉の奥から絞り出すような声。
人が痛む時の声とは違う。
それでも“痛みの反応”だけは確かにあった。
影はのけぞり、数歩ふらついて後ずさる。
その隙に金之助は息を吸い、短刀を構え直した。
刃が――鈍く朱色に光っていた。
焚き火でも、血でもない朱。
胸の奥で辰の珠が脈を早め、熱が腕から掌へ流れ込んでいる。
金之助は喉の奥で唸り、短刀を突き出す。
「来い……!」
影が再び踏み込む。
鋭い、狂った速度。
だが金之助の身体が、先ほどの山中と同じ感覚で動いた。
影の胸の中心へ、吸い込まれるように刃が走る。
深々と刺さった瞬間、
朱の光が爆ぜた。
影は悲鳴を上げる暇もなく弾け、黒い灰となって空気に溶けた。
粉々に崩れ、風に流され、
そこに“人の形”はもう残らない。
金之助は呼吸すら忘れたまま立ち尽くし、やがて膝が抜け、その場に崩れ落ちた。
朱の鈍い光を帯びた短刀だけが、なおも胸の鼓動に合わせるように、かすかに脈を刻んで揺らめいていた。
第一話 佐野と伊賀衆
火山灰は空を分厚い布のように覆い尽くしていた。
昼のはずの街道は、夕暮れの残り火に沈む山道のように薄暗い。
陽はどこかでまだ生きているのだろうが、灰の膜に遮られ、地上には届かない。
風が吹くたび、灰がさらさらと舞い、木々の梢を乾いた音で鳴らした。
葉はすでに灰をかぶり、重みに耐えかねたように垂れ、緑の色は鈍く濁っている。
街道の脇では、畑に残っていた農夫たちが鍬を投げ捨て、頭巾で口元を覆いながら、家族の名を呼んで逃げ惑っていた。
遠くで赤子の泣き声が混じり、それさえ灰に吸われて、すぐにかき消える。
地も空も、生き物の気配も、すべてが“灰の色”へ均されていくようだった。
その荒れた道を、ひとつの一団が進んでいた。
馬上の先頭にいるのは佐野政親(さの まさちか)。
黒塗りの鞍に腰を据え、なびく羽織の裾すら乱れない。
薄闇の中でも、その姿だけは異様なほど静かで、整っている。
まるでこの災厄の世界が、自分のために敷かれた舞台だと言わんばかりだ。
佐野の周囲を囲むように、黒装束の伊賀衆が歩む。
足取りは驚くほど軽く、音というものを持たない。
しかし纏う気配は冷たく、乾き切った刃のように鋭い。
道行く旅人とすれ違えば、彼らは呼吸を止めたまま闇へ溶け、草むらや崩れた岩陰にすっと身を隠して気取らせない。
次の瞬間にはまた隊列へ戻り、何事もなかったように歩を進める。
それが伊賀の“影の歩き方”だった。
だが、その中心に、ひとりだけ“影ではない男”がいた。
隻眼にして六尺五寸を超える巨躯。
並の人間なら肩を竦めるしかないほどの大男が、背に黒鉄の鉞(まさかり)を担いで、伊賀衆の間をゆっくりと歩く。
鉞の刃の奥には赤黒い紫の珠がめり込み、心臓のようにどくどくと脈動して、鈍い光を吐いていた。
丑の珠を宿す荒谷武蔵――。
武蔵が一歩進むたび、土がわずかに沈む。
その重さは、歩みそのものに圧を宿していた。
伊賀衆でさえ、本能的に一歩距離を取り、武蔵の影が自分たちの影に触れぬよう避けている。
「佐野様よぉ」
武蔵が低く声をかけた。
喉の奥で岩を転がすような声。
薄暗い街道で、その響きだけが濃く重く残った。
「館林の巫女とやら……本当にいるのかぁ。
俺の腕を無駄に振るわせることはあるまいな」
佐野は馬上で僅かに口元を緩め、扇を開いて口を隠した。
笑っているように見えて、その目は寸分も笑っていない。
「巫女は確かにいる」
佐野の声は静かだった。
しかし言葉の端々に、確信と支配の匂いが滲む。
「田保家の血筋、松平定信の妹――。
彼女さえ手に入れば、必ず封印は揺らぐ」
武蔵の口元が、獣のように吊り上がった。
隻眼の奥に、飢えの色が燃える。
「……ならば早く血を啜らせてもらおう」
その生々しい言葉に、近くの伊賀衆のひとりが眉をひそめる。
武蔵の強さを知っているからこそ、
その“欲のままの言葉”が不穏だった。
「荒谷殿。
あまりに目立つ行動は……」
佐野の側近が武蔵をいさめようとする。
だが佐野は、扇を閉じる前に軽く手を上げて制した。
見た目は穏やかな仕草なのに、そこに逆らう選択肢はない。
「よい。武蔵はこうでなくては」
佐野はわずかに首を傾け、武蔵を見下ろすように視線を落とした。
「ただ、忘れるな。
この世は腕力だけで動くものではない」
その瞳は、灰の闇よりも冷たく光っている。
「力は剣に宿る。
だが世を握るのは知恵だ。
……珠を集めるのも同じことよ」
武蔵はふんと鼻を鳴らした。
理屈を噛むより先に、腹が動く男の返事だ。
「知恵も腹も、満たされねば使い物にならん。
俺は食う。飲む。……そして斬る」
そう言うや否や、武蔵は腰の袋から干し肉を引きちぎった。
口へ放り込み、骨ごと噛み砕く。
酒袋をあおると、喉がごくりと鳴り、酒がこぼれて顎を濡らした。
ごきり、ごきり――
肉が盛り上がる不気味な音がした。
先刻の戦で裂けた腕の傷が、
膨れた筋肉に押し上げられるように塞がっていく。
赤い血は瞬く間に止まり、
皮膚が引き締まり、傷跡だけを残して元の太さへ戻った。
伊賀衆の何人かが、目を逸らした。
忍びは感情を押し殺すのが務めだが、それでも“人ならざる再生”は本能をざわつかせる。
佐野だけが、冷ややかにそれを眺め、口元に薄い笑みを刻んだ。
「……獣じみた真似を」
武蔵は酒袋を投げ捨て、口の端を吊り上げる。
「獣で結構だ。
斬れりゃそれでいい」
佐野は扇をぱたりと閉じ、馬上から視線を落とした。
その声は淡々としているのに、刃のように冷たい。
「ならば、せいぜい役に立て」
武蔵は低く笑い、黒鉄の鉞を担ぎ直す。
背の珠が脈動し、刃が赤黒い光をひとしずく吐いた。
「がはは……任せとけ」
火山灰の風が二人の間を抜け、
街道に沈黙が落ちた。
伊賀衆は言葉を交わさず、灰色の空の下、ただ館林へと進んでいった。
その隊列の先に待つのが、巫女か、珠か、あるいはもっと深い混沌か――誰ひとり、口にはしなかった。
第二話 灰の国
館林の領地に足を踏み入れた途端、金之助たちは思わず足を止め、息を呑んだ。
これまで歩いてきた道中でも、火山灰は容赦なく降り続いていた。空は薄暗く、風に混じる灰が目と喉を刺した。
だが――藩境を越えた瞬間、空気の“重さ”が変わった。
ここだけは、別の災厄に呑まれている。そう感じさせる沈み方があった。
街道脇の田畑は、まるで冬の霜が降りたように白く覆われている。
だがその白さは、清らかさとは真逆のものだった。
苗は灰の重みに押し潰され、土の中に沈み、葉の緑はすでに息絶えている。
水路は灰と土砂で詰まり、流れるべき水はどこにも見えず、ただ濁った溜まりが点々と残っていた。
土手には、山から転げ落ちたのだろう大きな岩が無造作に横たわり、脇の小屋や納屋を押し潰している。
木は折れ、柿の実も桑の実も、枝ごと落ちて灰に埋もれていた。
集落に近づくほど、破壊は露骨になった。
崩れた屋根、あらぬ方向へ折れ曲がった柱、裂けた板壁。
かつて人の暮らしの音を抱えていたはずの家々が、骨組みだけを晒し、灰の中に沈んでいる。
火の回った跡も、熱に炙られた痕跡もある。
それでも、炎の匂いより先に、湿った土と灰の匂いが鼻を塞いだ。
“燃えた”というより、“押し潰され、埋もれた”町だった。
そして――道端には、動かぬ人影。
灰にまみれ、顔も判別できぬまま倒れた者が、いくつも散らばっている。
手を伸ばした姿のまま固まっている者。
家の梁の下敷きになり、半身だけ覗いている者。
幼子を抱えたまま膝をつき、祈るような姿勢で眠るように動かぬ女もいた。
獣に荒らされた跡が残るものもあれば、ただ灰に覆われて静かに横たわっているものもある。
どちらにせよ――生きた人の気配は、ない。
鳴き声も、喧騒も、泣き声も、ここには残っていなかった。
鉄之介が奥歯を噛みしめ、吐息の間から声を絞り出す。
「……ひでぇな。
生きてる奴は……残ってんのか?」
その言葉が灰の空気に吸い込まれ、返事のない静けさだけが残る。
金之助は喉の奥が熱くなるのを感じた。
胸の辰の珠がかすかに脈を早める。
だが、それは力の呼応というより、目の前の惨状に応じた痛みのようだった。
(こんな……これが噴火の力か……)
今まで聞いてきた“災い”の言葉のどれよりも、現実のほうが重かった。
忠壽は無言のまま馬を進めていた。
背筋は凛と伸び、手綱を握る指に迷いがない。
しかしその横顔は、どこか硬く、冷たく引き締まっている。
眼差しはただ城下の方角を射抜き、周囲の惨状に飲まれていない。
飲まれぬよう、意志で支えている、とも見えた。
「城下はどうなっているか……」
金之助が、思わず唇からこぼす。
自分に言い聞かせるような、弱い呟きだった。
忠壽は馬上から低く答えた。
「急ぐぞ」
それだけで、十分だった。
三人と一行は、灰に埋もれた街道を踏みしめ、館林の城下へと足を速める。
視線の先、空はなお灰に覆われ、陽の色を失っている。
まるで闇の帳が、地上へ降り切ってしまったかのようだった。
灰に覆われた街道を急ぐ一行の前に、ふいに小さな影がよろめき出た。
それは土煙のような灰の中から、転がり出るように現れた。
まだ七つか八つほどの少女である。
着物はあちこち裂け、袖も裾も灰と泥で真っ黒だ。
裸足の足裏は血に滲み、走ってきた道の痕が、そのまま体の痛みとして刻まれている。
煤けた頬には涙の筋が幾本も残り、声を出そうとするたびに喉がひゅうと鳴った。
少女はよろめきながら金之助の前に辿り着くと、倒れ込むようにしがみついた。
細い腕が必死に着物を掴む。
その体温の薄さに、金之助は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
「おとうと……おかあを……助けて……!」
言葉は途切れ途切れで、息に混じって灰が吐き出される。
泣き声というより、喉を裂きながら絞り出す助けの叫びだった。
忠壽は即座に馬を止め、鞍上から鋭く少女を見下ろした。
情に呑まれぬ冷静さがまず動く。
視線は少女の背後、街道の脇の崩れた家並み、土手の陰、灰の窪み――あらゆる場所へ一瞬で走った。
「どうした」
声は低く、落ち着いている。命令というより、確かめる響きだった。
「何があった。……どこにいる?」
だが少女は嗚咽を繰り返すばかりで、言葉が形にならない。
肩が小刻みに震え、ただ首を振る。
恐怖が喉を塞いで、説明より先に涙が溢れている。
鉄之介が耐えきれず、苛立ちをぶつけるように声を荒げた。
「おい、ガキ!
おっとうとおっかあ助けてほしいんだろ? なら案内しろって言ってんだ!」
「おとうと……おかあが……」
「わかった、わかった。
だから“どこだ”って!」
その瞬間だった。
少女の瞳が、ふいにぎょろりと揺れた。
鉄之介の肩越し――一行の背後を、凍りついたような目で凝視する。
涙で濡れた瞳の奥が、別の恐怖で急に暗くなる。
「え……?」
金之助が気づき、忠壽の家臣たちも同時に振り返る。
一斉に向けられた視線の先、灰の闇の中に――人の形をした二つの影が立っていた。
ふらつきながら、ゆっくりと前へ出てくる。
着物は破れ、皮膚は灰で斑に汚れ、背を丸めた動きは老人のようだ。
だが生気がない。
顔は俯いたまま、目の焦点は合っておらず、濁った膜が張ったように虚ろだった。
呼吸の音すら聞こえない。
生きているのに、生きていない――
そんな矛盾が、見る者の背筋を冷やした。
「おとう……おかあ!」
少女が絶叫した、その声が空に裂けた瞬間。
影が、あり得ぬ速さで跳ねた。
もつれた足が嘘のように軽く、獣のような跳躍で間合いを潰す。
ガブリ――!
忠壽の家臣のひとりが首筋に喰いつかれ、地面へ押し倒される。
骨を噛む鈍い音が近くで鳴り、灰が跳ね、家臣の叫びが喉の奥でひしゃげた。
「なっ……!」
隣の家臣が刀を抜きながらよろめき後ずさる。
しかし黒い影は怯まず、噛みついたまま首を振り、肉を引き裂こうとする。
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「おとう……おかあ!」
少女の叫びが灰の空に裂け、木霊するように尾を引いた。
その声が合図になったかのように、黒い影がぬらりと身をうねらせた。
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影は忠壽の家臣へ飛びかかる。
牙が首筋に食い込む瞬間、肉が裂ける生々しい音がした。
「う、うわぁっ!」
悲鳴が潰れ、家臣は馬乗りに押さえつけられる。
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口の端からは灰と涎と、黒い泥のようなものが糸を引いた。
周囲の武士が慌てて抜刀した。
「どけっ、この化け物め!」
一人が斬り下ろす。
刃は確かに影の肩口を断ち割った。
しかし――
血が出ない。
飛び散るべき赤はなく、裂けた肉は黒い泥の塊のように崩れ、ぽとりと落ちた。
そして、落ちたはずの肉片が、灰を吸い込むようにうねり、ぬるりと元の形へ戻っていく。
切られた“傷”だけが、最初から無かったかのように消えた。
「な、なんだこれは……!」
武士の声が震える。
その一瞬の怯みを、影は見逃さない。
のろのろと立ち上がったかと思うと、今度は虚ろな目を据えたまま、真っ直ぐに突進してきた。
「やめろっ!」
別の家臣が槍を突き出す。
穂先は胸を貫いた――はずだった。
だが影は怯まず、むしろその槍を腹に抱え込むように進み、槍を握る家臣の胸元まで間合いを詰める。
ずぶり、と槍がさらに深く入る。
それでも影は止まらない。
そのまま肩で押し倒すように家臣を転がし、顔めがけて牙を寄せた。
「くっ、離せぇッ!」
家臣が槍を引こうとした瞬間、影の手が槍の柄を掴む。
指が“生きてる”のか“死んでる”のか分からない冷たさで絡みつき、
次の瞬間、力任せに引き倒した。
少女の泣き声が、背後で細く震えた。
「お、おとう……おかあ……っ!」
その声が胸を刺し、金之助は少女をさらに強く抱き寄せる。
小さな体が硬直し、喉がひゅうと鳴る。
彼女の視界から、絶対にこの光景を遠ざけたかった。
だが少女は、腕の中で首を振り、震える指で“親”へ伸ばそうとする。
鉄之介が歯噛みし、槌を握り直した。
「くそっ……なんだってんだ、こいつらは!」
大槌がうなりを上げて振り抜かれる。
影の胴が、ぐしゃりと潰れた。
骨の手応えではない。泥を叩き割ったような、嫌な感触だ。
肉片が飛び散り、灰の中へ落ちる。
――だが、終わらない。
砕けた肉片が灰の上で蠢いた。
まるで小さな虫が集まるように、黒い泥が寄り、形を結び、再び“人の輪郭”へ戻っていく。
「ひるまねぇ……! 人間じゃねえ!」
鉄之介の叫びに、周囲の家臣たちの顔色が変わった。
理解できないものは、恐怖に直結する。
目の前のそれは、まさしく“理解の外”だった。
忠壽は馬上から冷徹に状況を見据え、声を裂く。
「下がるな! 斬り続けろ!
足を止めたら死ぬぞ!」
命令は鋼の杭のように、家臣たちの背骨へ突き刺さった。
彼らは泥と灰に足を取られながらも必死に刃を振るう。
だが相手は痛みも恐れも知らぬ。
ただ噛みつき、押し倒し、腕を掴み、地へ引きずり込もうとする。
戦というより、崩壊だった。
何が起こっているのか誰もわからない。
わかるのは――ここで止まれば喰われる、という一点だけ。
「うおぉぉぉっ!」
鉄之介の雄叫びが響き渡る。
赤黒い珠を宿した大槌が唸り、影の頭を真正面から叩き潰す。
ぐしゃり、と泥の塊が弾けた。
影はしばらく床に這うように蠢いたが――
次の瞬間、ふっと芯を失ったように崩れ、黒い灰となって粉々に砕け、風に散った。
しかし、勝利の感触が広がる前に、別の惨事が起きる。
首筋を噛まれていた家臣が、血を噴きながら地へ崩れ落ちた。
助けようと手を伸ばす者がいるが、
家臣は呼吸を荒くし、目を見開いたまま、言葉にならない声を漏らす。
「ぐっ……あ……」
その瞳の光が、ふっと消えた。
息が止まり、体から力が抜けた、その瞬間――家臣の身体がざらりと崩れた。
黒い灰が、皮膚の下から噴き出すように広がり、
人の形を保てぬまま、土の上へ砂の山として落ちていく。
ほんの数呼吸の間に、“人だったもの”は跡形もなくなった。
鉄之介も家臣たちも、言葉を失った。
熱い戦場の喧噪の中で、
冷たい風が灰を舞い散らす“さらさら”という音だけが妙に耳についた。
残ったもう一つの影は、刀を浴びせられても止まらない。
斬られ、裂かれ、崩れ、戻り、
ただ無言で、馬上の忠壽へと迫っていく。
「殿!」
家臣たちの叫びが重なる。
鉄之介が駆け出そうとした。
「くそっ、間に合わねぇ!」
影は忠壽の馬の足元へ躍りかかる。
刹那――金之助が飛び出した。
「うああっ!」
体当たりで影を引き剥がす。
土と灰が舞い、金之助の腕が衝撃で痺れる。
彼は短刀を抜き、反射のまま振り上げた。
刃は影の左目へ深々と突き立った。
――初めて、影が呻いた。
鈍い、濁った、喉の奥から絞り出すような声。
人が痛む時の声とは違う。
それでも“痛みの反応”だけは確かにあった。
影はのけぞり、数歩ふらついて後ずさる。
その隙に金之助は息を吸い、短刀を構え直した。
刃が――鈍く朱色に光っていた。
焚き火でも、血でもない朱。
胸の奥で辰の珠が脈を早め、熱が腕から掌へ流れ込んでいる。
金之助は喉の奥で唸り、短刀を突き出す。
「来い……!」
影が再び踏み込む。
鋭い、狂った速度。
だが金之助の身体が、先ほどの山中と同じ感覚で動いた。
影の胸の中心へ、吸い込まれるように刃が走る。
深々と刺さった瞬間、
朱の光が爆ぜた。
影は悲鳴を上げる暇もなく弾け、黒い灰となって空気に溶けた。
粉々に崩れ、風に流され、
そこに“人の形”はもう残らない。
金之助は呼吸すら忘れたまま立ち尽くし、やがて膝が抜け、その場に崩れ落ちた。
朱の鈍い光を帯びた短刀だけが、なおも胸の鼓動に合わせるように、かすかに脈を刻んで揺らめいていた。
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