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第3話 小さなはじまり
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小さな部屋に、鳥のさえずりが優しく響いていた。木の窓枠の隙間から差し込む朝の光は、どこか懐かしさを感じさせる温もりを帯びていた。布団の上でまどろむユーリの瞳が、ゆっくりと開く。
(……ああ、そうだ。俺は……)
夢の中にいたような気がした。だが目覚めたこの世界は、現実だった。肌に触れる布の質感、薪の燃える匂い、鳥たちの声――どれも作り物ではない、確かな“生”の感触があった。
隣にはマーシャがいた。すでに起きていて、縫い物のような作業をしている。彼女の手元からは、規則正しい針の音が聞こえ、時折、微笑むようにこちらを見やった。
「おはよう、ユーリ。今日もいいお天気よ」
言葉は当然理解できないはずだったが、不思議と意味は通じたような気がした。そう、まるで音ではなく“気配”で伝わってくるような優しさが、そこにはあった。
彼女は手を止め、ユーリの顔にそっと手を添える。
「いい子ね。ルドルフも、畑から帰ってきたらすぐに会いに来るわよ」
昨日から何度も聞いた名前――ルドルフ。自分を拾ってくれたあの大きな背中の男の名だ。
(あの人が、俺をこの家に連れてきてくれた)
“死”という非日常を経て、こうして“日常”が始まろうとしていることに、ユーリの心はまだ戸惑いを隠せなかった。しかし、その胸の内にあった冷たい空洞は、マーシャの手のひらと、木造の家の温もりで、少しずつ埋まり始めていた。
午前中は、マーシャが家の中で家事をする様子を、ユーリは揺りかごの中から静かに見ていた。
薪をくべる手つき、野菜を切る音、水を汲むために外へ出る背中――どれもが丁寧で、暮らしの一つひとつがしっかりと“生きている”と感じさせる。
(こんな生活、前は想像もしなかったな……)
目覚ましのアラームに飛び起き、満員電車に揺られ、昼食はコンビニおにぎりを立ち食い。終電で帰り、干からびた神経でソファに崩れ落ちていた日々。
今は、誰も怒鳴らない。誰も急かさない。ただ、ゆっくりと時間が流れている。
そんな中、ユーリの小さなお腹がぐぅと鳴った。反射的に声が漏れる。
「んー……あ、ふぁ……」
するとすぐにマーシャが気づき、駆け寄ってきた。
「あら、もうお腹すいたのね。ちょっと待ってて、ミルクを用意するから」
(……俺、泣いたのか?)
少し恥ずかしい。だが、赤ん坊の姿では仕方がない。思うように動けず、思うように言葉を伝えられない日々。それでも、こうして誰かがそばにいてくれるだけで、救われる。
やがてマーシャが哺乳瓶を持って戻ってきて、ユーリを抱き上げた。腕の中でミルクを飲みながら、彼はまた一つ、穏やかな記憶を胸に刻んでいく。
昼過ぎ。裏の畑から、土の匂いとともに足音が近づいてきた。
「ただいま。今日もよく陽が出てるなあ」
ルドルフの声だった。がっしりとした体躯に土まみれの手、それでも穏やかに笑うその姿は、どこか頼もしい。
「おかえりなさい。ユーリもお昼のミルクを飲んだところよ」
「そうか、こりゃ元気そうでなによりだ」
ルドルフが手を洗って戻ると、ユーリを抱き上げて、何とも不器用な笑みを浮かべた。
「んー……よしよし。重くなったな?」
(さすがにそれは早いだろ)
思わず心の中でツッコミを入れるユーリ。けれど、抱かれた腕は優しくて、大きくて、温かかった。
午後になると、マーシャとルドルフは庭先に洗濯物を干したり、木陰でひと息ついたりしていた。ユーリは揺りかごに揺られながら、その様子をじっと見ていた。
遠くでは、子供たちの遊ぶ声が聞こえる。風に乗って漂うのは、草の香りと土の匂い。
(……平和だな)
こんな世界が本当に存在するのかと、時折思う。けれど今、自分は確かにここにいる。
突然、視界に白い何かがひらりと舞い込んできた。風に乗って飛んできた花びらだ。ユーリの鼻先に触れそうな距離でふわりと踊る。
(きれいだ……)
前世で、こんなふうに季節の変化を感じたことがあっただろうか。風を愛おしいと思ったことがあっただろうか。
目の前にあるのは、ただの一瞬。それでも、その一瞬に確かな価値があると、今は思える。
夜。暖炉に火が灯り、ルドルフが編み物をするマーシャの隣で、椅子に腰掛けている。家の中は静かで、落ち着いた空気に包まれていた。
「なあ、マーシャ」
「なに?」
「この子……うちに来て、よかったんだよな」
マーシャは少し驚いたように顔を上げ、それからゆっくりとうなずいた。
「もちろんよ。だって、こんなに可愛い子、放っておけるはずないもの」
「そうか……なら、よかった」
二人の視線が、眠りかけているユーリに向けられる。彼はすでにまどろみの中で、ほんのりと微笑んでいた。
(……やり直せるかもしれない)
焦らず、ゆっくりとでいい。今はこの温かさに、身を委ねよう。
赤ん坊として始まった新たな人生。その第一歩が、こうして静かに刻まれていくのだった。
(……ああ、そうだ。俺は……)
夢の中にいたような気がした。だが目覚めたこの世界は、現実だった。肌に触れる布の質感、薪の燃える匂い、鳥たちの声――どれも作り物ではない、確かな“生”の感触があった。
隣にはマーシャがいた。すでに起きていて、縫い物のような作業をしている。彼女の手元からは、規則正しい針の音が聞こえ、時折、微笑むようにこちらを見やった。
「おはよう、ユーリ。今日もいいお天気よ」
言葉は当然理解できないはずだったが、不思議と意味は通じたような気がした。そう、まるで音ではなく“気配”で伝わってくるような優しさが、そこにはあった。
彼女は手を止め、ユーリの顔にそっと手を添える。
「いい子ね。ルドルフも、畑から帰ってきたらすぐに会いに来るわよ」
昨日から何度も聞いた名前――ルドルフ。自分を拾ってくれたあの大きな背中の男の名だ。
(あの人が、俺をこの家に連れてきてくれた)
“死”という非日常を経て、こうして“日常”が始まろうとしていることに、ユーリの心はまだ戸惑いを隠せなかった。しかし、その胸の内にあった冷たい空洞は、マーシャの手のひらと、木造の家の温もりで、少しずつ埋まり始めていた。
午前中は、マーシャが家の中で家事をする様子を、ユーリは揺りかごの中から静かに見ていた。
薪をくべる手つき、野菜を切る音、水を汲むために外へ出る背中――どれもが丁寧で、暮らしの一つひとつがしっかりと“生きている”と感じさせる。
(こんな生活、前は想像もしなかったな……)
目覚ましのアラームに飛び起き、満員電車に揺られ、昼食はコンビニおにぎりを立ち食い。終電で帰り、干からびた神経でソファに崩れ落ちていた日々。
今は、誰も怒鳴らない。誰も急かさない。ただ、ゆっくりと時間が流れている。
そんな中、ユーリの小さなお腹がぐぅと鳴った。反射的に声が漏れる。
「んー……あ、ふぁ……」
するとすぐにマーシャが気づき、駆け寄ってきた。
「あら、もうお腹すいたのね。ちょっと待ってて、ミルクを用意するから」
(……俺、泣いたのか?)
少し恥ずかしい。だが、赤ん坊の姿では仕方がない。思うように動けず、思うように言葉を伝えられない日々。それでも、こうして誰かがそばにいてくれるだけで、救われる。
やがてマーシャが哺乳瓶を持って戻ってきて、ユーリを抱き上げた。腕の中でミルクを飲みながら、彼はまた一つ、穏やかな記憶を胸に刻んでいく。
昼過ぎ。裏の畑から、土の匂いとともに足音が近づいてきた。
「ただいま。今日もよく陽が出てるなあ」
ルドルフの声だった。がっしりとした体躯に土まみれの手、それでも穏やかに笑うその姿は、どこか頼もしい。
「おかえりなさい。ユーリもお昼のミルクを飲んだところよ」
「そうか、こりゃ元気そうでなによりだ」
ルドルフが手を洗って戻ると、ユーリを抱き上げて、何とも不器用な笑みを浮かべた。
「んー……よしよし。重くなったな?」
(さすがにそれは早いだろ)
思わず心の中でツッコミを入れるユーリ。けれど、抱かれた腕は優しくて、大きくて、温かかった。
午後になると、マーシャとルドルフは庭先に洗濯物を干したり、木陰でひと息ついたりしていた。ユーリは揺りかごに揺られながら、その様子をじっと見ていた。
遠くでは、子供たちの遊ぶ声が聞こえる。風に乗って漂うのは、草の香りと土の匂い。
(……平和だな)
こんな世界が本当に存在するのかと、時折思う。けれど今、自分は確かにここにいる。
突然、視界に白い何かがひらりと舞い込んできた。風に乗って飛んできた花びらだ。ユーリの鼻先に触れそうな距離でふわりと踊る。
(きれいだ……)
前世で、こんなふうに季節の変化を感じたことがあっただろうか。風を愛おしいと思ったことがあっただろうか。
目の前にあるのは、ただの一瞬。それでも、その一瞬に確かな価値があると、今は思える。
夜。暖炉に火が灯り、ルドルフが編み物をするマーシャの隣で、椅子に腰掛けている。家の中は静かで、落ち着いた空気に包まれていた。
「なあ、マーシャ」
「なに?」
「この子……うちに来て、よかったんだよな」
マーシャは少し驚いたように顔を上げ、それからゆっくりとうなずいた。
「もちろんよ。だって、こんなに可愛い子、放っておけるはずないもの」
「そうか……なら、よかった」
二人の視線が、眠りかけているユーリに向けられる。彼はすでにまどろみの中で、ほんのりと微笑んでいた。
(……やり直せるかもしれない)
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