社畜の異世界再出発

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第29話 間話 まだ小さな手

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ティリス町の診療院の一室。小さな窓から差し込む朝の光が、真っ白なシーツの上をそっと照らしていた。

その中央で眠る――いいえ、眠るというよりも意識を失っている息子の姿から、私は一度たりとも目を離せずにいる。

微かに上がる胸の動き。何度も確認した鼓動の音。それらが確かに生きていると伝えてくれてはいるのに、それでも、どうしても不安は拭えない。

「ユーリ……」

呼びかけても、返事はない。変わらない寝顔。ただ、少しだけ赤みを取り戻した頬が、ほんのわずかな希望だった。

私は、そっとその手を握った。包帯に覆われた左腕。斜めに巻かれたガーゼの下には、深く抉られた傷があるのだと、医師から聞かされた。

「信じられないわよ……あの子が、たった1人で……あんな魔獣と……」

そう口にすると、胸の奥がずきんと痛む。怖かった。もう二度と会えないかもしれないと思った。名前を呼んでも届かないかもしれないと、心のどこかで思いかけてしまった。

けれど――

「……ちゃんと、帰ってきたじゃない」

微笑んでみた。でも、自分でもわかる。まるで笑えてなんかいなかった。

この三日間、ろくに眠れていない。食事も、ただ胃に入れているだけ。診療院のベッドの傍らに椅子を出し、私はただ、手を握ることしかできなかった。

それでも。

(この手を放したくないの。もう二度と、いなくならないように……)

そう願っている自分がいた。

その時、そっと扉が開き、医師が静かに入ってきた。

「……経過は良好です。ただ、意識が戻るまで、もう少し時間がかかるかもしれません」

「はい……ありがとうございます」

そう答える声にも、力は入らない。でも、少しだけ救われた気がした。だって、良好って言ってくれたから。

ベッドの横に置かれた小さな花瓶には、村から持ってきた花を一輪差してある。リノアちゃんのお母さん――ミーナさんが持たせてくれたものだ。

「きっと、目を覚ましたとき、見て安心すると思って」

彼女はそう言って、ぎゅっと私の手を握ってくれた。村の人たちもみんな、心配してくれていた。けれど今は――

(……早く、あの子の声が聞きたい)

優しい声で「母さん」と呼ぶ、あの響き。

けれど次の瞬間、私は思わず胸に手を当てる。ぐっと苦しさが込み上げてきた。

(どうして……私、あの子に何もできなかった)

助けたのはユーリだった。守ったのも、ユーリだった。自分よりも小さな子たちを、身体ひとつで――。

本当は、抱きしめて「よく頑張ったね」って言いたい。けれど、それ以上に、心の奥にわだかまる罪悪感が消えない。

(あの子が危ない目に遭っている時、私は何も知らずに……)

――その時だった。微かに、指が動いた。

「……ユーリ?」

私は思わず顔を近づけた。もう一度、手を握る。すると、ほんの少しだけ、その指が返してくるように動いた気がした。

「……ユーリ、母さんよ。聞こえる?」

返事は、なかった。

でも、それでも――私は泣きそうになった。

「もう……もう、無茶しないでね……!」

涙が頬をつたった。それでも、笑っていた。今度こそ、ちゃんと、笑えていた。



部屋の扉の外から、そっと中の様子をうかがっていた俺は、マーシャの言葉に耳を傾ける。

俺はそっと扉を開け、足音を立てぬように中へ入る。椅子に座る彼女の肩が、少しだけ震えていた。

「……交代するか?」

そう声をかけると、マーシャはゆっくりと振り返り、涙を拭いて笑った。

「ううん、大丈夫。……でも、ありがとう」

その笑顔が、なんとも痛々しくて、俺は胸の奥で何かが締めつけられるのを感じた。

(……こんなときに、父親ってのは無力だな)

あの夜、ガルドたちがユーリを抱えて戻ってきたとき、俺は震えた。血まみれで、目を閉じたままの息子を見て、思わず地面に膝をついた。

(どうして……どうして、あんな小さな身体で……)

けれど、同時に。

(……よく、生きててくれた)

そうも思った。いや、そう思わずにはいられなかった。

医師から話を聞いたとき、「信じがたい」と言われた。たしかに、俺だって信じられない。相手はナイトウルフ。成人の戦士でも苦戦する魔獣だ。――しかも、ただのナイトウルフじゃない。話によれば、あれは“大型種”だったらしい。
動きも鋭く、踏み込みの重さも段違い。下手をすれば、村の自警団が複数名でかかっても、被害が出る可能性は十分にある――それほどの相手だった。そんな相手に、あの子は――ユーリは、たった一人で立ち向かった。

その横で、息をしていたのが、俺の息子だった。

(……お前、どれだけ無茶をしてきたんだ)

こんな体で、あんな魔獣を倒してすごい。本当にすごいよ。
けど、それでも胸の奥がずっと痛ぇんだ。

(お前が……こんなことを背負わなきゃいけなかったなんて)

誇らしいなんて思っちゃいけない。
本当は――守られるべき存在だったのに。

椅子に座り、そっとマーシャと交代する。ベッドの傍で、俺はしばらく何も言わず、ただその顔を見つめていた。

(おい……目ぇ覚ましたら、ちゃんと叱ってやるからな)

森に勝手に入ったこと、危険なことをしたこと、全部。

けれど――

(でも、それが終わったら……ちゃんと、抱きしめてやる)

どんな言葉よりも、きっと、あいつが必要としているもの。

俺はふと、机の上に置かれた折れた木剣の残骸を見た。傷だらけで、ぼろぼろの木剣。これが、あいつが命懸けで握り続けたものだ。

(立派に、戦ったんだな)

そう思うと、涙が滲みそうになって、慌ててぐっと堪えた。

「……帰ってきたら、また一緒に畑でもやろうぜ。お前の好きな豆、今年はよく育ってるぞ」

そう呟いて、そっとその手を握った。

まだ小さなその手が、いつの間にか、鍛えられていて。泥だらけになりながら、剣を振っていた姿を思い出す。

「……強くなったな、ユーリ」

でも、強さだけじゃなく、無事で、笑って帰ってきてくれるのが、一番なんだよ。

俺はそう願いながら、その手を、離さなかった。
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