殿下の婚約者は、記憶喪失です。

有沢真尋

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【3】

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 ひと目見て、過日の佳人はもうそこにはいないのだと思い知らされた。
 ガラス張りの温室を兼ねた談話室。ドアを開けると、植物の鉢を蹴倒しそうな勢いで走り寄ってきたのは、まるで幼い少女。

「お父様! 見てみて、サボテンに花が咲いたの! すっごく可愛いわ!」

 ちらりと、公爵の背後に立つヒースへと、その黒の瞳が向けられた。ヒースはかすかに小首を傾けて、アメリアのきらきらと輝く瞳をのぞきこんだ。
 見た目はうら若き十七歳の乙女のまま、言動は幼児のそれ。
 演技の気配を、探った。

 陶器の鉢を持つ、爪の先まで土が入り込んでいる。汚れた手で拭ったのか、顔にも泥が帯のようについていた。髪は結い上げることなく肩に流している。
 身につけているのは前身頃にくるみボタンが並び、首元にリボンを結んだシンプルなアイボリーのドレス。細い腰に青のサッシュベルト。年頃の御令嬢が来客と顔を合わせるには不向きな、簡素な出で立ち。
 
「ずいぶんと可愛らしい花だ。持ち歩いては植物とて落ち着かないだろう。元の場所に戻して、おとなしく鑑賞しなさい」

 公爵が声をかけると、アメリアは楽しげな声で「はーい」と返事をしてから、ヒースにいたずらっぽいまなざしを向けてきた。
 それは、まったく含むところのない、ただただ好奇心のままに見てしまったという、ぶしつけでまっすぐな視線。
 すぐに、くるりと踵を返して、背を向けられてしまう。ぱたぱたと足音をさせながら、アメリアは丈の高い観葉植物の間に消えてしまった。

「何歳くらいなのでしょう、お嬢様は。今……」
「四、五歳だ。あの子は昔、発音に覚束ないところがあって、いくつか正確に話せない単語があった。今がその状態だ。滑らかに話すようになったのは六歳くらいだったと記憶している」
「お嬢様のことを、お小さい頃からよく見てらしたんですね。自分の子とはいえ、世話は人任せというのが貴族の慣習だと思っていましたが」

 ヒースが控えめに告げると、公爵は植物の間で時折ちらちらと見えるアメリアの姿を目で追いつつ、重い口調で言った。

「殿下とのご婚約は七歳のとき。あの子はそれ以前の、自分に婚約者がいることすら知らない時代に戻ってしまった。厳しく施されてきた王太子妃教育もすべて忘れている」
「……記憶が戻るかどうかについて、医者は匙を投げていると聞いておりますが。戻らなければ、これからまた十年」

 幼児になった御令嬢を、未来の王妃に仕立て上げるための教育にかかる年数。しかもそれは、この状態のアメリアが、きちんと年齢を重ねて精神的に大人びていく、という前提が元となる。
 言葉を飲み込むヒースに、公爵は「あの子はね」とひそやかに囁くような声音で言った。

「婚約が決まったと知らせたとき、初めて会う日をそれはそれは心待ちにしていた。それから数年かけて、ゆっくりとあの子は変わった。殿下と会うことを楽しみとして話すこと無く、笑顔を見せないようになった。やがて結婚の日取りを決めるという段になって、今の状態だ。私は父親としてではなく、この国の王家を支える貴族の一人として、あの子を未来の王妃としては考えられなくなっている」

 お気持ちは、わかりました。
 その一言は、ヒースの口からは言えなかった。立場上、とても口を挟める話題ではない。
 公爵は、前を向いていた。ガラスを透過する光が溢れる談話室を見つめ、重い口調で呟いた。

「君はこの件を、殿下にどのように伝える?」

 * * *
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