殿下の婚約者は、記憶喪失です。

有沢真尋

文字の大きさ
4 / 6

【4】

しおりを挟む
「その猶予期間は、俺にとってはつまらないな。結婚後、妃が子どもを産まぬとあれば、妾を持つことは大いに推奨される。だが、婚前の火遊びは歓迎されていない。跡継ぎ問題が複雑になる上に、『不誠実な男』として人心を失う――と。何度言われてきたことか。アメリアは、精神が退行したとはいえ、体はすでに健康なのだろう? 子どもを生めるのなら、結婚自体は予定通り進めても良いのではないか」

 自室で葡萄酒の注がれたグラスを傾けながら、リチャードは不機嫌そのものの様子で言った。
 椅子に座ることもなく、公爵邸で見たままのことを報告したヒースは、わずかに眉をひそめつつも平静を装って声をかける。

「心は完全に幼児です。たとえ美しい衣装や甘いお菓子で興味をひき、式を乗り切ったとしても、今のあの方と寝所を共にすることはできないでしょう。男女の営みなど知らぬ子どもをだまし討ちするようなものです。肉体年齢が伴っていて、夫婦の誓いをしていたとしても、許されることではないかと。あの方はいま、ご自身に婚約者がいることすら知らず、理解も出来ないであろう子どもなんです」

「ふん。その忠告に従うとすれば、この先十年、この国の王家は正統なる跡継ぎを得る可能性を捨て去らねばならぬことになる。国家の危機ではないのか?」

 グラスをテーブルに置き、沈み込むほどに寄りかかっていたソファからリチャードは身軽に立ち上がる。
 背筋を伸ばしたまま立っていたヒースの顔を、首を傾けながら下から覗き込み、目を合わせた。

「お前、騙されていないか? 記憶が都合よく飛ぶなんてことあるか? あの女、俺と結婚したくないだけじゃないのか」
「殿下、もしお疑いならご自身での確認をお願い申し上げます。あの方は殿下との出会いからその後のすべてを忘れてしまっています。今からよく気遣い、優しいお兄様のように振る舞えば、この十年間のお二人のわだかまりも消えて、良きご夫婦となられることでしょう」

 激しい音に痛みが伴い、ヒースは訓練時の怪我以外で初めて目から星が飛ぶという体験を味わった。
 頬を打たれた。避けるつもりもなかったが、あまりにも容赦のない一撃。

「王太子妃が嫌で、子ども時代に逃げ込む女など、用はない。見舞いには今後もお前ひとりで行け」
「しかし、婚約者は殿下です。アメリア様が心待ちにしているのは殿下なのでは」
「それは嘘だ。お前らしくもない。心にもないことをまっすぐな目をして言うな。頬はさっさと冷やせ」

 いつも通りの、横暴で、鷹揚な言い様。

(悪いだけの方ではないのだ。ただ少し、何かが欠けている。それはおそらく、あの公爵のもとで育ったアメリア嬢にとっては、欠けてはいけない何かであって)

「これからは、俺の『女遊び』にも大義名分が成り立つな。その中から王太子妃候補が出てくるかもしれない」
「できればお止めしたいところです。アメリア様ほど完璧に、音を上げず妃教育に耐えられる御令嬢がどれほどいらっしゃるか」
「いい加減にしろ。あの女は耐えられなかったから、心が壊れたふりまでして逃げ出したんだ。俺は追わない」

 痛む頬をおさえることもなく、ヒースはリチャードの物憂い横顔を見た。
 見間違いでなければ、傷ついた顔をしていた。

 * * *
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】ええと?あなたはどなたでしたか?

ここ
恋愛
アリサの婚約者ミゲルは、婚約のときから、平凡なアリサが気に入らなかった。 アリサはそれに気づいていたが、政略結婚に逆らえない。 15歳と16歳になった2人。ミゲルには恋人ができていた。マーシャという綺麗な令嬢だ。邪魔なアリサにこわい思いをさせて、婚約解消をねらうが、事態は思わぬ方向に。

記憶がないなら私は……

しがと
恋愛
ずっと好きでようやく付き合えた彼が記憶を無くしてしまった。しかも私のことだけ。そして彼は以前好きだった女性に私の目の前で抱きついてしまう。もう諦めなければいけない、と彼のことを忘れる決意をしたが……。  *全4話

婚約する前から、貴方に恋人がいる事は存じておりました

Kouei
恋愛
とある夜会での出来事。 月明りに照らされた庭園で、女性が男性に抱きつき愛を囁いています。 ところが相手の男性は、私リュシュエンヌ・トルディの婚約者オスカー・ノルマンディ伯爵令息でした。 けれど私、お二人が恋人同士という事は婚約する前から存じておりましたの。 ですからオスカー様にその女性を第二夫人として迎えるようにお薦め致しました。 愛する方と過ごすことがオスカー様の幸せ。 オスカー様の幸せが私の幸せですもの。 ※この作品は、他投稿サイトにも公開しています。

記憶が戻ったのは婚約が解消された後でした。

しゃーりん
恋愛
王太子殿下と婚約している公爵令嬢ダイアナは目を覚ますと自分がどこにいるのかわからなかった。 眠る前と部屋の雰囲気が違ったからだ。 侍女とも話が噛み合わず、どうやら丸一年間の記憶がダイアナにはなかった。 ダイアナが記憶にないその一年の間に、王太子殿下との婚約は解消されており、別の男性と先日婚約したばかりだった。 彼が好きになったのは記憶のないダイアナであるため、ダイアナは婚約を解消しようとするお話です。

【完結】可愛いのは誰?

ここ
恋愛
公爵令嬢の私、アリドレア・サイド。王太子妃候補とも言われますが、王太子には愛する人がいますわ。お飾りの王太子妃にはなりたくないのですが、高い身分が邪魔をして、果たして望むように生きられるのでしょうか?

身代わりの恋だと思っていました〜記憶を失った私に、元婚約者が泣いて縋る理由〜

恋せよ恋
恋愛
「君を愛している。一目惚れだったんだ」 18歳の伯爵令嬢エリカは、9歳年上のリヒャルト伯爵から 情熱的な求婚を受け、幸せの絶頂にいた。 しかし、親族顔合わせの席で運命が狂い出す。 彼の視線の先にいたのは、エリカの伯母であり、 彼の学生時代の恋人で「初めての女性」だった……ミレイユ。 「あの子は私の身代わりでしょう」「私はあなただけなの」 伯母ミレイユの甘い誘惑と、裏切りの密会。 衝撃の事実を目撃したエリカは、階段から転落し、 彼と過ごした愛しくも残酷な二年間の記憶だけを失ってしまう。 「……あの、どちら様でしょうか?」 無垢な瞳で問いかけるエリカに、絶望し泣き崩れるリヒャルト。 裏切った男と、略奪を企てた伯母。 二人に待ち受けるのは、甘い報復と取り返しのつかない後悔だった。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!

【完結】シュゼットのはなし

ここ
恋愛
子猫(獣人)のシュゼットは王子を守るため、かわりに竜の呪いを受けた。 顔に大きな傷ができてしまう。 当然責任をとって妃のひとりになるはずだったのだが‥。

【完結】私の事は気にせずに、そのままイチャイチャお続け下さいませ ~私も婚約解消を目指して頑張りますから~

山葵
恋愛
ガルス侯爵家の令嬢である わたくしミモルザには、婚約者がいる。 この国の宰相である父を持つ、リブルート侯爵家嫡男レイライン様。 父同様、優秀…と期待されたが、顔は良いが頭はイマイチだった。 顔が良いから、女性にモテる。 わたくしはと言えば、頭は、まぁ優秀な方になるけれど、顔は中の上位!? 自分に釣り合わないと思っているレイラインは、ミモルザの見ているのを知っていて今日も美しい顔の令嬢とイチャイチャする。 *沢山の方に読んで頂き、ありがとうございます。m(_ _)m

処理中です...