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16話 深夜のピアノ教室
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浩平兄家族は、りのちゃんを連れて帰っていった。
明日は、晩御飯が済んだら送ってくれることになった。
時間はそう多くないから、私は早速ピアノ教室用の地下室に行った。
淡いライトに照らされたグランドピアノが私を迎えてくれた。昔と変わらない姿で、『おかえり』と言われたように感じた。
ピアノの蓋を開くと、赤い鍵盤フェルト。それを丁寧にたたみ、椅子を自分の高さに合わせる。
静寂の中でピアノへ向かう準備の音が、発表会のあの静寂を思い出させ、自然と背筋が伸びる。
観客は誰もいない。心地よい緊張感だ。
1音奏でる。
ピアノの音が耳に響く。
この音だ。この感触だ。
朝、家で弾いてから何時間も触れていなかったからか、それとも求めていた音と再会できたからか、胸がジンっとして、また、1音を奏でる。
体に染み渡る音。
指の状態を確認するよう、鍵盤を弾く。
指が、もっと鍵盤と戯れたいとせがむように、リズミカルに音を奏でる。
一通り指のウォーミングアップをし、また、静寂を楽しむ。何を奏でよう……。
思い出の曲が有りすぎる。そんな中、私は『愛の夢第3番』に決めた。
この曲は、7年前のピアノコンクールで入賞した曲だ。
何度も何度も練習し、彼の前でも奏でた。
『俺、ピアノはよくわからないけど、なんか胸にドンてくる感じ?どう言ったらいいかな~。ずっと見ていたいって思うよ』
『見ていたいって……。ピアノは聴くのよ』
『もちろん聴いてるけど、美咲が楽しそうに弾いてるのを見ると、なんていうかな……。うまく言えないけど、ずっと見ていたいんだよ。目が離せないって感じ』
うん。蓮の言った通りだよ。
あの時、確かに楽しくて、もっとこう弾きたい。もっと指を解き放ちたい。そんな思いが音に乗っていたと思う。顔つきも違ったんじゃないかな。
目が離せないピアノが、そこにあったんだと、今なら思える。
そして、楽しいだけじゃない。
傷ついて、血を流して、泣いて……。
あなたが私に残したモノが、今のこの音に繋がっている。
ありがとう、蓮。
楽しさを、そして悲しみを教えてくれて。
最後の1音を奏でると、静寂と、自分の呼吸音がした。少し息を整えて、次は何を弾こうかと鍵盤に指を乗せたとき「色気付いちゃって」と母さんの声がした。
ピアノに夢中で、母さんが部屋にいたことに気がつかなかった。
「ビックリした~……」
驚いて心臓が止まるかと思った。
まったく。入るならノックしなさいよ。
恨めしそうに見ると、母さんは私の隣に腰を下ろし、譜面台にバッハの楽譜を置いた。
「ほら、昔よく弾いてたでしょ。インベンションの13番」
「え……これ?」
「そう。軽く指慣らし代わりに弾いてみなさい」
私は譜面を眺め、指を鍵盤に置いた。
指が自然に動く。音の流れも、転調の感覚も、体が覚えている。
でも、途中で母の声がした。
「止めて」
ピアノの音が空気の中で消える。
「綺麗に弾こうとしすぎ。まるで録音よ。技術はしっかり身に付いてるし、音も安定してる。音大生ならなかなかじゃない?だけど、美咲が弾きたいのは違うでしょ?『あなたの音』は、どこにあるの?」
母の視線がまっすぐ刺さる。
さらにその言葉が胸の奥をチクリと刺した。
「……あなた、昔はもっと自由だったのよ」
「自由?」
「間違えることを怖がらなかった。音で遊んでた。それが、今は……誰かの顔を伺ってる音」
心臓がどくんと鳴る。
母は静かに次の譜面を差し出した。
「ショパンの《別れの曲》。覚えてる?」
「うん……高校のときに弾いた」
「なら、もう一度弾いてごらんなさい。“綺麗に”じゃなく、“何かを伝えたくて仕方がない”人のように」
私はそっと鍵盤に触れた。
旋律が流れるたび、心の奥に沈めてきた想いが少しずつ浮かび上がる。
伝えたい人。
もう……届かない人。
泣きそうになったが、グッと堪えて弾いた。
最後の音が響き、静寂が戻る。
母は何も言わず、ただ小さく頷いた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……今のは悪くなかったわ。でも、まだ途中で迷ってる。誰かに“これでいい?”って聞きながら弾いてるの」
母はそう言って、譜面台にリストの楽譜を置いた。
「《愛の夢》第3番」
言われるまま弾き始めると「止めて」と母さんに止められた。
「私に媚びなくていい」
「え?」
「私の期待に応えようとしなくていいの。誰のためでもない、自分のために弾きなさい」
母の目が静かに笑った。
「心が音を選ぶから」
私は息を吸い、目を閉じた。
そして、鍵盤に触れた瞬間──
音が、部屋の空気を優しく震わせた。
母の存在も、自分の迷いも消えていく。
残ったのは、音と、私だけ。
最後の1音が消えたとき、母は静かに言った。
「それよ。技術ならある程度まで誰でも磨ける。でも『美咲の音に命を吹き込む』のは、あなたの心よ。目薬で涙を演出する女優より、本当の涙を流す女優の演技に、人は感動するものよ」
母さんは譜面台にパッヘルベルの《カノン》のを置いた。
指導椅子を私の横につけて座る。
母さんの指が柔らかく鍵盤に触れると、澄んだ音が部屋を満たした。
「はい、美咲、私に合わせるんじゃなくて、一緒に音を重ねるのよ」
私は息を整え、母の横で同じ旋律に手を重ねた。
指が交差するたび、笑いがこみ上げる。
「ちょっと、手がぶつかるじゃない!」
「ふふ、そっちが早いのよ!」母さんが軽く茶化す。
2人の音が絡み合い、カノンの穏やかで流れるような旋律が地下室いっぱいに広がる。
母さんは楽しそうに目を細めながら、時折私の目を見て合図を送る。
「リズムは感じて。機械的じゃなく、呼吸を合わせるの」
母さんの音に身を委ね、少しずつ自分の音を溶け込ませていく。途中で失敗しても、母さんは笑いながら手を添えてくれるだけ。
「大丈夫、怖がらなくていいのよ。音は間違いじゃない、会話なの」
やがて2人の指が迷わず鍵盤を駆け抜け、連弾の旋律は柔らかく、温かく、互いを支え合うように重なり合った。
深夜の教室は2人だけの世界になり、外の冷たい空気は忘れられた。
曲が終わり、静寂が戻る。
母さんはゆっくりと私の肩に手を置き、笑った。
「ほらね、息が合うとこんなに楽しいでしょ?」
「うん……!すごく……楽しい」
母さんの笑顔に包まれながら、私は思った。
連弾は音を重ねるのではなく、心も重ねて響かせるコミュニケーションアートであると、改めて感じた。
明日は、晩御飯が済んだら送ってくれることになった。
時間はそう多くないから、私は早速ピアノ教室用の地下室に行った。
淡いライトに照らされたグランドピアノが私を迎えてくれた。昔と変わらない姿で、『おかえり』と言われたように感じた。
ピアノの蓋を開くと、赤い鍵盤フェルト。それを丁寧にたたみ、椅子を自分の高さに合わせる。
静寂の中でピアノへ向かう準備の音が、発表会のあの静寂を思い出させ、自然と背筋が伸びる。
観客は誰もいない。心地よい緊張感だ。
1音奏でる。
ピアノの音が耳に響く。
この音だ。この感触だ。
朝、家で弾いてから何時間も触れていなかったからか、それとも求めていた音と再会できたからか、胸がジンっとして、また、1音を奏でる。
体に染み渡る音。
指の状態を確認するよう、鍵盤を弾く。
指が、もっと鍵盤と戯れたいとせがむように、リズミカルに音を奏でる。
一通り指のウォーミングアップをし、また、静寂を楽しむ。何を奏でよう……。
思い出の曲が有りすぎる。そんな中、私は『愛の夢第3番』に決めた。
この曲は、7年前のピアノコンクールで入賞した曲だ。
何度も何度も練習し、彼の前でも奏でた。
『俺、ピアノはよくわからないけど、なんか胸にドンてくる感じ?どう言ったらいいかな~。ずっと見ていたいって思うよ』
『見ていたいって……。ピアノは聴くのよ』
『もちろん聴いてるけど、美咲が楽しそうに弾いてるのを見ると、なんていうかな……。うまく言えないけど、ずっと見ていたいんだよ。目が離せないって感じ』
うん。蓮の言った通りだよ。
あの時、確かに楽しくて、もっとこう弾きたい。もっと指を解き放ちたい。そんな思いが音に乗っていたと思う。顔つきも違ったんじゃないかな。
目が離せないピアノが、そこにあったんだと、今なら思える。
そして、楽しいだけじゃない。
傷ついて、血を流して、泣いて……。
あなたが私に残したモノが、今のこの音に繋がっている。
ありがとう、蓮。
楽しさを、そして悲しみを教えてくれて。
最後の1音を奏でると、静寂と、自分の呼吸音がした。少し息を整えて、次は何を弾こうかと鍵盤に指を乗せたとき「色気付いちゃって」と母さんの声がした。
ピアノに夢中で、母さんが部屋にいたことに気がつかなかった。
「ビックリした~……」
驚いて心臓が止まるかと思った。
まったく。入るならノックしなさいよ。
恨めしそうに見ると、母さんは私の隣に腰を下ろし、譜面台にバッハの楽譜を置いた。
「ほら、昔よく弾いてたでしょ。インベンションの13番」
「え……これ?」
「そう。軽く指慣らし代わりに弾いてみなさい」
私は譜面を眺め、指を鍵盤に置いた。
指が自然に動く。音の流れも、転調の感覚も、体が覚えている。
でも、途中で母の声がした。
「止めて」
ピアノの音が空気の中で消える。
「綺麗に弾こうとしすぎ。まるで録音よ。技術はしっかり身に付いてるし、音も安定してる。音大生ならなかなかじゃない?だけど、美咲が弾きたいのは違うでしょ?『あなたの音』は、どこにあるの?」
母の視線がまっすぐ刺さる。
さらにその言葉が胸の奥をチクリと刺した。
「……あなた、昔はもっと自由だったのよ」
「自由?」
「間違えることを怖がらなかった。音で遊んでた。それが、今は……誰かの顔を伺ってる音」
心臓がどくんと鳴る。
母は静かに次の譜面を差し出した。
「ショパンの《別れの曲》。覚えてる?」
「うん……高校のときに弾いた」
「なら、もう一度弾いてごらんなさい。“綺麗に”じゃなく、“何かを伝えたくて仕方がない”人のように」
私はそっと鍵盤に触れた。
旋律が流れるたび、心の奥に沈めてきた想いが少しずつ浮かび上がる。
伝えたい人。
もう……届かない人。
泣きそうになったが、グッと堪えて弾いた。
最後の音が響き、静寂が戻る。
母は何も言わず、ただ小さく頷いた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……今のは悪くなかったわ。でも、まだ途中で迷ってる。誰かに“これでいい?”って聞きながら弾いてるの」
母はそう言って、譜面台にリストの楽譜を置いた。
「《愛の夢》第3番」
言われるまま弾き始めると「止めて」と母さんに止められた。
「私に媚びなくていい」
「え?」
「私の期待に応えようとしなくていいの。誰のためでもない、自分のために弾きなさい」
母の目が静かに笑った。
「心が音を選ぶから」
私は息を吸い、目を閉じた。
そして、鍵盤に触れた瞬間──
音が、部屋の空気を優しく震わせた。
母の存在も、自分の迷いも消えていく。
残ったのは、音と、私だけ。
最後の1音が消えたとき、母は静かに言った。
「それよ。技術ならある程度まで誰でも磨ける。でも『美咲の音に命を吹き込む』のは、あなたの心よ。目薬で涙を演出する女優より、本当の涙を流す女優の演技に、人は感動するものよ」
母さんは譜面台にパッヘルベルの《カノン》のを置いた。
指導椅子を私の横につけて座る。
母さんの指が柔らかく鍵盤に触れると、澄んだ音が部屋を満たした。
「はい、美咲、私に合わせるんじゃなくて、一緒に音を重ねるのよ」
私は息を整え、母の横で同じ旋律に手を重ねた。
指が交差するたび、笑いがこみ上げる。
「ちょっと、手がぶつかるじゃない!」
「ふふ、そっちが早いのよ!」母さんが軽く茶化す。
2人の音が絡み合い、カノンの穏やかで流れるような旋律が地下室いっぱいに広がる。
母さんは楽しそうに目を細めながら、時折私の目を見て合図を送る。
「リズムは感じて。機械的じゃなく、呼吸を合わせるの」
母さんの音に身を委ね、少しずつ自分の音を溶け込ませていく。途中で失敗しても、母さんは笑いながら手を添えてくれるだけ。
「大丈夫、怖がらなくていいのよ。音は間違いじゃない、会話なの」
やがて2人の指が迷わず鍵盤を駆け抜け、連弾の旋律は柔らかく、温かく、互いを支え合うように重なり合った。
深夜の教室は2人だけの世界になり、外の冷たい空気は忘れられた。
曲が終わり、静寂が戻る。
母さんはゆっくりと私の肩に手を置き、笑った。
「ほらね、息が合うとこんなに楽しいでしょ?」
「うん……!すごく……楽しい」
母さんの笑顔に包まれながら、私は思った。
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