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『河東の乱編』 天文六年(一五三七年)
第45話 河東郡を返せ
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年明け早々、恐れていた事態が発生した。
河東郡を引き渡していただきたいと北条家が言ってきたのだ。
『河東郡』という単語自体聞いた事が無い。お館様も、寿桂尼も、雪斎禅師も聞いた事が無いという。
使者として訪れた宗哲和尚の話によると、『河東郡』とは宗哲和尚の父宗瑞入道が、生前に先々代の今川のお館様より託された富士川より東側の土地の事を指すらしい。宗瑞入道はこの『河東郡』を拠点に伊豆の足利茶々丸を撃ち、伊豆一国の領有を許された。
伊豆は相模同様実力で切り取った土地であり、河東郡も働きによって与えられた土地。それゆえ河東郡は元々北条領なのだから、今川家に領有権があるとはならないはずである。
現にかの地には兄の葛山中務少輔がいる。それこそがまさしく河東郡が北条家のものである何よりの証。
富士川の東部全域を引き渡せという事はつまるところ駿河の東半分をよこせと言っている事と同義。宗瑞入道が今川家の家人であった頃ならいざ知らず、すでに独立した今になって旧領をよこせと言われて、はいわかりましたと言うわけがないだろう。
つまりは『宣戦布告』という事。『外交上の手切れ』も意味するだろう。
当たり前のように改修中の駿府城に呼び出された五郎八郎は、いつもの三人組、お館様、雪斎禅師、寿桂尼から此度の事をどう思うかと聞かれた。
どう思うかも何も、五郎八郎としては前回指摘した通りである。それみた事かと声を大にして言いたい気分であった。だがその気持ちをぐっと飲み込み、まずは現状についてたずねた。
「恐らくは、かの家が『旧領』回復を大儀に攻めてくるとしたら、その最大の目標は『興国寺城』でしょうね。今、かの城はどうなっているのですか?」
興国寺城は先々代のお館様が当主の座に就いた際、その功績大として正式に宗瑞入道に褒美として与えた城である。
宗瑞入道は伊豆入りしてからは韮山城を居城とし、さらには小田原城に居城を移し、結局一度も興国寺城を領地のように扱ってはいない。だからといって、今川家側も返却の交渉などはしていない。
何となく両者の間では宙に浮いた状態となっており、興国寺というお寺の寺領という事になっている。これまで今川家としても手を付けなかったし、北条家も手を付けてはこなかった。
「であれば、まずは真っ先に興国寺城を確保し、近隣の城と連絡線を繋げて早急に防衛体制を整える事が肝要かと」
五郎八郎の意見に雪斎禅師はなるほどと頷き、すぐに北松野城の萩図書助と蒲原城の蒲原宮内少輔に伝令を送り、興国寺城と長久保城を接収させましょうとお館様に進言。花沢城の関口刑部大輔に一軍を率いらせ興国寺城に入城させ守備に当たらせようとも。
雪斎禅師がそこまで言った時であった。部屋の外に慌てて駆けてくる足音が響いた。
「申し上げます! 北条軍がこちらに向けて進軍を開始したとの報告有り!」
近習の一人が部屋の外でそう報告したのだった。
完全に後手に回ってしまったらしい。その場の四人は感じた。
「早急に興国寺城に向かわねば!」
お館様が雪斎禅師に向かって言う。だが雪斎禅師は腕を組み深く思案に入った。五郎八郎も口元に手を当て思案に入る。そんな熟考に入った二人を寿桂尼が心配そうな目で見ている。
「遠交近攻は戦略の基本と申しますから、ここは扇谷の上杉家に使者を送って小田原に攻め込んでもらったらどうかと思います。五郎八郎はどう思う?」
敵に二方面作戦を強いるというのは最良の手だと思う。悔しいがここでそれがすっと出てくるのは、さすがは雪斎禅師だと感心する。
だが……
「できれば駿河国内での大戦は避けたいですね。民が疲弊しますから。北条軍が河東郡を接収し、扇谷上杉軍の迎撃に向かった所を武田軍と組んで占領し返してしまうのが最良な気がします」
駿河の国人に広く動員をかけて蒲原城に集結させ、扇谷上杉軍が攻め込むのを待つ。それを基本方針としようという事で即席の軍議は終了した。
お館様がすたと立ち上がった。
「家の一大事じゃ。それがし自らが出る! ここで武者姿を披露もしておきたいからな。五郎八郎、瀬名陸奥守と義母上と共に駿府城の留守居を頼む」
****
また当分二俣には帰れなさそうだな……
はっきりと不機嫌という顔をして、五郎八郎は案内された一室で書状を書いていた。書状は二俣城宛てではあるが、残念ながら家族に対してではない。当然友江に対してでも無い。
それが終わると久野三郎、天方山城守、匂坂六右衛門、大沢左衛門佐、天野小四郎の五名に書状を書き、早馬で届けてもらった。
留守居を始めて五日ほど経った日の事。五郎八郎の部屋に面会者が訪れた。瀬名陸奥守様がお越しと小姓の弥三が伝える。
見た感じで朝比奈備中守と同じくらいの年齢だろうか。かなり恰幅の良い人物。これで本当に鎧を着て戦場に出れるのか不安になってくる。しきりに胸を押さえているが、体調でも悪いのだろうか?
「こうして話をするのは初めての事ですな。お館様や雪斎禅師が一目置いているというそなたと、こうして共に留守居とは何とも光栄な話だ」
陸奥守は豊かな腹部を上下させながら嬉しそうに笑う。部屋が暑いのか、懐から扇子を取り出しパタパタと仰ぎ始めた。
「しかし何ですな。留守居というのはやる事が無くていけませんな。だからと言って気を抜いて城内で何かあったら、それこそどんな処分を下されるかわかったものではありませんからなあ」
陸奥守は五郎八郎も暇をしているであろうからと来たと言っているが、ようは自分が暇を持て余しただけの事である。留守居役の緊張も五日しか続かなかったというところだろうか。
最初はお館様たちはどうなるであろうと河東郡の戦線の話をしていた。それも話題として枯れてくると、二人の話は二俣の話へと移った。
――瀬名陸奥守の父は瀬名睡足軒。つまり堀越治部少輔は叔父と言う事になる。当時、瀬名家は二俣に住んでおり、陸奥守も生まれたのは二俣らしい。陸奥守の父睡足軒は、長男ではあったが母は妾ですらなく、世継ぎはおろか実子にも数えてもらえず、見附館からも追い出されていたのだそうだ。
だが遠江で戦乱が起きた。斯波家と争う事になってしまった。
その戦乱で睡足軒の父が討死。堀越家はその時点で滅びたような状況になってしまった。
問題は突如まとめ役を失う事になった遠江衆である。
このままでは、斯波家に各個に潰されてしまいかねない。そこで睡足軒は、駿河の宗家に出向き何とか遠江衆を庇護してやって欲しいと懇願。駿河の宗家はその懇願を聞き入れてくれた。
睡足軒は駿河瀬名(JR草薙駅の北西)の地を与えられ、今川の一門として優遇される事になった。
一方の睡足軒の弟で嫡男の堀越治部少輔は、遠江の一国衆として見附城を与えられる事になった――
「今でもたまに思い出すよ。あの夏場の天竜川のゴウゴウという流れの音を。幼い頃はまるで竜が嘶いているように感じて本当に怖かった。実際よく氾濫もしてたしなあ」
五郎八郎が城主となってから、天竜川は氾濫していないが、支流の二俣川が何度も氾濫している。
川の様子を見た五郎八郎は、すぐに川の深さが足らないと感じた。そこで、川底の砂は栄養があるから畑の土に混ぜると良いかもしれないという噂を流した。するとそれを信じた領民が頻繁に川の底土を掘ってくれて、大規模な氾濫の回数はぐっと減っている。
それを説明すると陸奥守は、何とも賢いやり方だと言って大笑いした。
二人で談笑していると、突然、お館様の近習の一人が大慌てで五郎八郎の部屋へと駆けこんで来た。
「大変です! 見附館の堀越様、井伊谷城の井伊様が御謀反!」
河東郡を引き渡していただきたいと北条家が言ってきたのだ。
『河東郡』という単語自体聞いた事が無い。お館様も、寿桂尼も、雪斎禅師も聞いた事が無いという。
使者として訪れた宗哲和尚の話によると、『河東郡』とは宗哲和尚の父宗瑞入道が、生前に先々代の今川のお館様より託された富士川より東側の土地の事を指すらしい。宗瑞入道はこの『河東郡』を拠点に伊豆の足利茶々丸を撃ち、伊豆一国の領有を許された。
伊豆は相模同様実力で切り取った土地であり、河東郡も働きによって与えられた土地。それゆえ河東郡は元々北条領なのだから、今川家に領有権があるとはならないはずである。
現にかの地には兄の葛山中務少輔がいる。それこそがまさしく河東郡が北条家のものである何よりの証。
富士川の東部全域を引き渡せという事はつまるところ駿河の東半分をよこせと言っている事と同義。宗瑞入道が今川家の家人であった頃ならいざ知らず、すでに独立した今になって旧領をよこせと言われて、はいわかりましたと言うわけがないだろう。
つまりは『宣戦布告』という事。『外交上の手切れ』も意味するだろう。
当たり前のように改修中の駿府城に呼び出された五郎八郎は、いつもの三人組、お館様、雪斎禅師、寿桂尼から此度の事をどう思うかと聞かれた。
どう思うかも何も、五郎八郎としては前回指摘した通りである。それみた事かと声を大にして言いたい気分であった。だがその気持ちをぐっと飲み込み、まずは現状についてたずねた。
「恐らくは、かの家が『旧領』回復を大儀に攻めてくるとしたら、その最大の目標は『興国寺城』でしょうね。今、かの城はどうなっているのですか?」
興国寺城は先々代のお館様が当主の座に就いた際、その功績大として正式に宗瑞入道に褒美として与えた城である。
宗瑞入道は伊豆入りしてからは韮山城を居城とし、さらには小田原城に居城を移し、結局一度も興国寺城を領地のように扱ってはいない。だからといって、今川家側も返却の交渉などはしていない。
何となく両者の間では宙に浮いた状態となっており、興国寺というお寺の寺領という事になっている。これまで今川家としても手を付けなかったし、北条家も手を付けてはこなかった。
「であれば、まずは真っ先に興国寺城を確保し、近隣の城と連絡線を繋げて早急に防衛体制を整える事が肝要かと」
五郎八郎の意見に雪斎禅師はなるほどと頷き、すぐに北松野城の萩図書助と蒲原城の蒲原宮内少輔に伝令を送り、興国寺城と長久保城を接収させましょうとお館様に進言。花沢城の関口刑部大輔に一軍を率いらせ興国寺城に入城させ守備に当たらせようとも。
雪斎禅師がそこまで言った時であった。部屋の外に慌てて駆けてくる足音が響いた。
「申し上げます! 北条軍がこちらに向けて進軍を開始したとの報告有り!」
近習の一人が部屋の外でそう報告したのだった。
完全に後手に回ってしまったらしい。その場の四人は感じた。
「早急に興国寺城に向かわねば!」
お館様が雪斎禅師に向かって言う。だが雪斎禅師は腕を組み深く思案に入った。五郎八郎も口元に手を当て思案に入る。そんな熟考に入った二人を寿桂尼が心配そうな目で見ている。
「遠交近攻は戦略の基本と申しますから、ここは扇谷の上杉家に使者を送って小田原に攻め込んでもらったらどうかと思います。五郎八郎はどう思う?」
敵に二方面作戦を強いるというのは最良の手だと思う。悔しいがここでそれがすっと出てくるのは、さすがは雪斎禅師だと感心する。
だが……
「できれば駿河国内での大戦は避けたいですね。民が疲弊しますから。北条軍が河東郡を接収し、扇谷上杉軍の迎撃に向かった所を武田軍と組んで占領し返してしまうのが最良な気がします」
駿河の国人に広く動員をかけて蒲原城に集結させ、扇谷上杉軍が攻め込むのを待つ。それを基本方針としようという事で即席の軍議は終了した。
お館様がすたと立ち上がった。
「家の一大事じゃ。それがし自らが出る! ここで武者姿を披露もしておきたいからな。五郎八郎、瀬名陸奥守と義母上と共に駿府城の留守居を頼む」
****
また当分二俣には帰れなさそうだな……
はっきりと不機嫌という顔をして、五郎八郎は案内された一室で書状を書いていた。書状は二俣城宛てではあるが、残念ながら家族に対してではない。当然友江に対してでも無い。
それが終わると久野三郎、天方山城守、匂坂六右衛門、大沢左衛門佐、天野小四郎の五名に書状を書き、早馬で届けてもらった。
留守居を始めて五日ほど経った日の事。五郎八郎の部屋に面会者が訪れた。瀬名陸奥守様がお越しと小姓の弥三が伝える。
見た感じで朝比奈備中守と同じくらいの年齢だろうか。かなり恰幅の良い人物。これで本当に鎧を着て戦場に出れるのか不安になってくる。しきりに胸を押さえているが、体調でも悪いのだろうか?
「こうして話をするのは初めての事ですな。お館様や雪斎禅師が一目置いているというそなたと、こうして共に留守居とは何とも光栄な話だ」
陸奥守は豊かな腹部を上下させながら嬉しそうに笑う。部屋が暑いのか、懐から扇子を取り出しパタパタと仰ぎ始めた。
「しかし何ですな。留守居というのはやる事が無くていけませんな。だからと言って気を抜いて城内で何かあったら、それこそどんな処分を下されるかわかったものではありませんからなあ」
陸奥守は五郎八郎も暇をしているであろうからと来たと言っているが、ようは自分が暇を持て余しただけの事である。留守居役の緊張も五日しか続かなかったというところだろうか。
最初はお館様たちはどうなるであろうと河東郡の戦線の話をしていた。それも話題として枯れてくると、二人の話は二俣の話へと移った。
――瀬名陸奥守の父は瀬名睡足軒。つまり堀越治部少輔は叔父と言う事になる。当時、瀬名家は二俣に住んでおり、陸奥守も生まれたのは二俣らしい。陸奥守の父睡足軒は、長男ではあったが母は妾ですらなく、世継ぎはおろか実子にも数えてもらえず、見附館からも追い出されていたのだそうだ。
だが遠江で戦乱が起きた。斯波家と争う事になってしまった。
その戦乱で睡足軒の父が討死。堀越家はその時点で滅びたような状況になってしまった。
問題は突如まとめ役を失う事になった遠江衆である。
このままでは、斯波家に各個に潰されてしまいかねない。そこで睡足軒は、駿河の宗家に出向き何とか遠江衆を庇護してやって欲しいと懇願。駿河の宗家はその懇願を聞き入れてくれた。
睡足軒は駿河瀬名(JR草薙駅の北西)の地を与えられ、今川の一門として優遇される事になった。
一方の睡足軒の弟で嫡男の堀越治部少輔は、遠江の一国衆として見附城を与えられる事になった――
「今でもたまに思い出すよ。あの夏場の天竜川のゴウゴウという流れの音を。幼い頃はまるで竜が嘶いているように感じて本当に怖かった。実際よく氾濫もしてたしなあ」
五郎八郎が城主となってから、天竜川は氾濫していないが、支流の二俣川が何度も氾濫している。
川の様子を見た五郎八郎は、すぐに川の深さが足らないと感じた。そこで、川底の砂は栄養があるから畑の土に混ぜると良いかもしれないという噂を流した。するとそれを信じた領民が頻繁に川の底土を掘ってくれて、大規模な氾濫の回数はぐっと減っている。
それを説明すると陸奥守は、何とも賢いやり方だと言って大笑いした。
二人で談笑していると、突然、お館様の近習の一人が大慌てで五郎八郎の部屋へと駆けこんで来た。
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