奥遠の龍 ~今川家で生きる~

浜名浅吏

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『小豆坂の戦い編』 天文十一年(一五四二年)

第57話 後の事は頼んだ!

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 当初、誘引部隊は天野安芸守にやらせようという話になっていた。だが天野軍では明らかに兵数が少ない。それでは全軍が誘引できないかもしれないという話になり、兵数の多い松井軍がその任に当たる事となった。

 乙川おとかわを挟んだ先に岡崎城を見渡すことのできる、踊山おどりやまというちょっとした台地に松井軍は兵を進めた。

 五郎八郎は部隊の中から魚松弥次郎に弓箭きゅうぜん兵を繰り出させ、乙川の南に陣取っている兵に向かって矢を一斉射撃させた。ところが矢には露骨に威力が無く敵兵の下まで届かない。するとそれを見た敵の将が大笑いし、街道一の弓取りの名が泣くぞと叫んだ。
 再度矢を射かけさせるが今度は辛うじて敵に届いた程度。敵の将はさらに大笑いし、今川の兵は弱兵だと言って攻撃命令を下した。

 川南の兵たちが一斉に動き出した時であった。第三射が放たれた。
 織田軍の兵はその三射目に動揺し一部には潰走を始める者まで出た。なんとその三射目に弓の達人の放った矢が紛れていて、正確に敵将の眉間を撃ち抜いたのである。
 少なくとも兵たちの足並みは完全に崩れた。
 そこに第四射目が射込まれた。

 わずか四射。
 あっという間の川南の部隊の潰走に、織田弾正忠は焦って全軍に乙川の渡河を命じた。全軍で向かえば、いかな敵といえども圧倒的な兵力差は覆せまいと考えたのであろう。敵の良将は早急に刈り取っておくに限るという判断もあったかもしれない。

 敵の渡河を見て、弥次郎は弓箭兵を後方に退かせた。
 敵の騎馬隊が一斉に乙川を渡河しこちらに向かってくる。

「敵は数が多い! 一旦引くぞ!」

 松井軍は踊山から南東へ整然と後退を始めた。
 織田軍はそれを好機と見たらしい。全軍に追撃を命じたのだった。

 薮田権八の長槍隊が最後方にあって敵の先鋒の攻撃を凌いでいる。敵の先鋒の多くは騎馬隊であり、追撃戦と見て士気も高い。松井軍にもそれなりに犠牲は出ている。

 松井軍の撤退は実に巧妙であった。後退に際し、わざと乙川にそって竜美台に向かって行軍している。その為、織田軍は東から回り込むという事ができないでいる。後方の部隊は北と西だけの兵を相手に後退すれば良いという状況。

 松井軍はなるべくわざとらしく無いように士気が落ちている風を装いながら撤退した。だがそれも途中までで、竜美台が見えると兵たちは我先にと走り出し、隊列が崩れ、潰走に近い状態となってしまった。

 上手い演技だ。この木々の生い茂る台地の先で反撃だ。松井家の家人の誰もがそう考えていた。

 ところが谷に差し掛かっても味方の部隊が一兵も現れない。

「殿! これは一体!!」

 横見藤四郎が焦燥しきった顔で五郎八郎の顔を見る。五郎八郎もきっと焦っているはず。だが藤四郎が見た五郎八郎の顔は焦りよりも怒りの形相であった。

「……ここから南の龍泉寺まで退く。恐らく味方はそこにいるはずだ」

 だが竜美台から龍泉寺となると、今までの倍近い距離を後退しないといけない。しかもここから先は広い平地、視界を遮るものはほとんど何も無い。さらには乙川がここから東に蛇行してしまっていて、敵を川で遮る事もできない。
 悔しそうに言う五郎八郎に、藤四郎はやるしかないし一刻の猶予も無いと強く指摘した。

 藤四郎は精鋭たちを呼び集めた。
 兵には精鋭と農兵がいる。それはどの家のどの部隊も同様で、こういう場面では農兵は役には立たない。藤四郎たちは精鋭で農兵を守らせながら、南方の龍泉寺を目指し撤退を開始したのだった。

 暫く織田軍の猛追を凌ぎながら撤退していると、弥次郎が『あれ』をやろうと言い出した。
 藤四郎も薮田権八も蛭田孫二郎も、それだけは駄目だと即座に反対した。

「良いも悪いも無い! ここで若殿を失ったら亡き殿に会わせる顔が無いんだよ!」

 弥次郎の決死の覚悟に藤四郎は涙を零した。

「お前には、若殿の為にまだやらねばならぬ事がある。だから生きて合流しろ」

 そう言って肩を叩いた。権八も「先に行って待ってるから必ず来い」と言って背を叩いた。孫二郎は無言であった。

 松井軍は弥次郎と精鋭の半数を残し、龍泉寺に向けて撤退を急いだ。


 最後方は孫二郎と権八。藤四郎が五郎八郎と兵庫助を守って、辛うじて隊列を整えて後退していく。
 だが、徐々に追撃する織田軍が増えてくる。すると今度は「どうやらそれがしの出番が来たようだ」と言って権八が足を止めた。

「藤四郎殿! 後は頼み申したぞ!」

 それが聞こえた藤四郎は、「御免」と言って五郎八郎と兵庫助の下を離れ最後方へと向かって行った。


 既に松井軍は精鋭の五分の四を失った。
 一方で敵の数はほとんど減っておらず、もはや松井軍が飲み込まれるのは時間の問題という状況になっていた。

 あと少し、あと少しで龍泉寺が見えてくる。
 ところが、そのあと少しというところで突然ガクンと行軍速度が落ちた。小豆坂あずきざかと呼ばれる山の裾野へとさしかかったのである。

 織田の大軍が一斉に松井軍に襲い掛かって来る。
 すると藤四郎が孫二郎の所に走って来た。

「孫二郎、そなたは生きろ! 生きて殿と若殿をお支えしてくれ!」

 さっさと二人の下へ行け。藤四郎はそう叫んで、孫二郎を後ろに押しのけた。
 振り返って藤四郎の背を見た孫二郎は涙が止まらなかった。

 そこからはまさに死闘であった。農兵は次々に倒されていき、精鋭たちも一人また一人と地に伏せていく。
 五郎八郎と兵庫助のいる本陣にも敵兵が肉薄している。それを孫二郎が雄叫びをあげながら一人一人薙ぎ払っていく。
 だが、あからさまに敵は士気が高く数が多い。親衛隊も一人また一人と敵の功績に変わっていく。見渡せば松井家の『竹輪に九枚笹』の旗指物がもうほとんど見えなくなってしまっていた。
 疲労が徐々に孫二郎の動きを鈍らせていく。このままでは……

「「「「うをおおおおおおおお!!」」」」

 後方から雄叫びと共に大軍がやってきた。
 先頭に見える旗印は『左三つ巴』。朝比奈軍の増援であった。さらには『丸に内花杏葉』の大沢軍。『三階松』の天野軍。
 織田軍と今川軍、両軍入り乱れての大乱戦となった。

 援軍を得た事で孫二郎は突然息を吹き返したかのように奮起。腰の瓢箪から水をぐいっと飲むと、槍を持つ手に力を込めて、兵庫助を取り囲む敵兵を次々に薙ぎ払っていく。


 時間と共に徐々に乱戦は解けていき、織田軍は小豆坂の途中で足を止め、松井軍、朝比奈軍、天野軍、大沢軍は坂の上、龍泉寺に向かって退いて行った。

「勝どきをあげろ!!」

「「おおおおおおおお!!」」

 織田軍に号令がかかり、織田軍の兵たちは一斉に雄叫びをあげた。


 大敗北。
 松井家は宿老ともいえる三人の家人を失い、朝比奈家も天野家も大沢家も幾人かの家人を失った。さらには、恐らくこの敗戦によって今川家は、三河での影響力を大きく削がれてしまう事になるだろう。
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