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『小豆坂の戦い編』 天文十一年(一五四二年)
第58話 親子二代何の恨みが?
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龍泉寺に置かれた今川軍本陣に五郎八郎が現れた。
正直言って五郎八郎は槍も刀もさっぱり。それでも身を守るために精鋭に囲まれて必死に応戦した。そのせいで鎧はぼろぼろ。
弥三に代わって新たに召し抱えた小姓の喜八は五郎八郎の楯となって若い命を散らした。兵庫助の小姓も同様である。
五郎八郎が陣幕に入ると、諸将は視線を反らした。雪斎禅師もその姿に痛ましいという目を向ける。備中守が立ち上がって「そなたが無事で本当に良かった」と声をかけた。
そんな備中守を無視し、五郎八郎は真っ直ぐ雪斎禅師の前に歩み出た。
「禅師。これはどういう事ですか? 何故本陣がここにあるのです? もしかして、それがしを戦場で謀殺しようとなさったのですか? 返答次第ではそれがしにも覚悟というものがありますぞ?」
五郎八郎が問いただすと、雪斎禅師は慌てて床几を立った。
「軍議の決定を急場で覆したのは謝る。だが、変更になったと急使を送ったはず。敵兵を前にして退く難しさはわかるが、従わなかったらこうなるのは当たり前ではないか」
雪斎禅師がそう述べると、我らも突然急使が来て変更を知らされ、ここに陣を変えたのだと三浦左馬助たちが言い出した。
「……我が隊にはそのような急使は来てはおらぬ!」
地獄の釜の音かのような低く恨ましい声を五郎八郎は発した。
そんな馬鹿なと驚いた雪斎禅師だったが、何かを察し、恐る恐る朝比奈丹波守の方に視線を移す。諸将の視線が一斉に丹波守に注がれる。
「そ、それがしは……退却がなるべく自然に見えるようにと……」
震えるような声で言い訳を始めた丹波守にじりじりと五郎八郎は近づいていく。床几から立ち上がり後ずさる丹波守の顔面を思い切り殴りつけた。丹波守の鼻から鮮血がほとばしる。
床几に足を引っかけて地面に転がった丹波守を五郎八郎は何度も何度も踏みつけた。さらに腰から太刀を引き抜き丹波守が動けぬように足で踏みつけ刀を持ち上げた。敵を斬った時に付いた血がぽたりと丹波守の顎に落ちる。
そこで備中守に背後から抱きつかれ制止を受けた。
「離せ! あんただって今の戦いで家人を何人か失っただろ! こいつの、こんな奴の入れ知恵で、死ななくて良い家人たちは死んでいったんだぞ!」
腰には大沢左衛門佐が、胸には天野安芸守が抱き着いている。二人とも必死の形相である。
「気持ちはわかる。それがしが逆の立場なら地位も家督も捨てて問答無用で斬り捨てたであろう。だが、そなたは禅師と共に今や今川家にはなくてはならない者だ。ここでその者を殺めれば、駿府に帰ってそなたが処罰を受ける事になるやもしれぬ。気持ちはわかるが頼むから落ち着かれよ」
備中守の必死の説得に五郎八郎は何とか振り上げた刀をゆっくりと腰まで下げ、丹波守の顔の横の地面に突き刺した。足下では丹波守は股間をびしょびしょに濡らして打ち震えている。
すまなかった。
小さいが確かにそんな声が聞こえた。声の主は雪斎禅師であった。
「総大将として土壇場で判断を変えた拙僧の責だ。竜美台では乱戦になりこちらにも少なくない犠牲が出る。龍泉寺であれば一方的に迎撃ができ、その上、織田弾正の首が取れるかもしれんと言われ、そちらに傾いてしまったのだ」
松井五郎八郎ならここまで誘引して来れるはずだから問題無い。松井軍は多少の犠牲をはらうかもしれないが、織田弾正忠の首と秤にかければ考慮する程の事ではない。
丹波守のみならず一宮出羽守も本陣にやってきて丹波守の案を採用すべしと提案してきた。
既に各軍は出発してしまっており軍議を開く事はできないから、急使を送って作戦替えを知らせればよい。もし松井殿が承服されなければ軍を引き払って戻って来るだろうと。
「つまり……それがしに反対されるのが嫌で急使を送らなかった。そういう事か……」
五郎八郎は脇差を抜くと、丹波守の前に放り投げた。それを見て丹波守が小さく悲鳴をあげる。
「お前はそのくだらない功名心で、数多の兵と今川家の威信を大きく損ねたのだ。責任の取り方くらいは、そなたの父から聞いて心得ておるのであろう? まったく、親子二代で当家にそこまで何の恨みがあるというのやら」
その一言を聞き、備中守は五郎八郎を押しのけ前に歩み出た。その顔は完全に鬼の形相のそれ。
備中守は地に這いつくばっている丹波守の襟首を強引に引き上げ、胸倉を掴んで持ち上げた。
「まさかきさま! 蟄居している父から五郎八郎殿を戦場で消せと仰せつかって来たのではあるまいな! もしそうであれば、それがしは朝比奈宗家の当主として断じてきさまら親子を許さぬぞ!」
「どうなんだ!」と備中守は震えて泣いている丹波守を問い詰めた。丹波守の股からぽたぽたと雫が落ちる。
「父には確かにそう言われました。これ以上遠江衆に大きな顔をさせておくなと……ですが、それがしは本当にこれが最善の策と信じて……」
備中守は丹波守の顔面を思い切り殴りつけた。その衝撃で丹波守は気絶してしまった。
「五郎八郎殿、此度は大変申し訳なかった。この詫びは駿府に帰ったらしっかりとさせていただく。……駿河朝比奈家は別の者に継がせる。丹波守親子の処遇は駿府に帰るまでに考える。そなたが望むなら、それがしも腹を切る。だから、だから今は気分を収めてくだされ」
そう言うと備中守は跪き、五郎八郎が放った脇差を拾い、両手で掲げて五郎八郎に返した。
****
遠江に戻る間、五郎八郎は兵庫助に、孫二郎と相談し家人を何人か雇用するようにと命じた。また此度の事で夫を失った寡婦が多く出ているから、源信和尚と相談して城の銭と米を放出して十分に労うようにとも指示した。
孫二郎には、せっかく鍛え上げてくれた精鋭を失った事を謝罪し、堤城から兵を融通してもらうから再度精鋭を鍛え直してくれとお願いした。
「こういう事は今の乱れた世であれば頻繁に起こりうる事です。あまり気に病まないでくだされ。彼らには常日頃、殿、若殿に功績をあげさせる為に身を捧げろと命じておりました。お二人をお守りできて、彼らは満足しておる事でしょう」
そう言って孫二郎は微笑んだのだった。
****
駿府に帰った五郎八郎は雪斎禅師と二人、即座にお館様に呼び出された。寿桂尼と山本勘助も呼び出しを受けている。
此度の敗戦で三河の情勢はどうなると見るか。それがお館様が敗戦の詳細よりも知りたがった事であった。
「恐らく、今後三河は大きく織田家になびく事でしょう。今川は弱兵。彼らはそう認識したはずです」
神之郷城の鵜殿三郎はお館様と婚姻関係があるので容易には裏切らないかもしれない。東条城、西尾城の吉良家は共に当主は幼子だが両者は兄弟であり、母はお館様の姉上である事から、ここも大丈夫ではないかと推測する。
だが他は恐らく織田家になびくか中立化してしまうだろうというのが雪斎禅師の推測であった。五郎八郎、寿桂尼、勘助も概ね同感であった。
「いずれにしても、三年前の大風、一昨年の大飢饉、そして今年の二度の敗戦と、遠江はぼろぼろです。立て直しには暫く時間がかかるでしょう。当家の二俣城もほとんどの精鋭を失い、立て直しにどれほどかかるやら……」
恐らくは井伊家、懸川城、宇津山城の朝比奈家も同様であり、匂坂家も似たような状況であろう。
田原城の戸田家は完全にこちらを離れるであろうから、暫くは曳馬城の飯尾家に踏ん張ってもらわないといけない。
その五郎八郎の現状報告に、お館様は悲痛な表情を浮かべた。
「此度はご苦労であった」
そう言うのが精一杯であった。
こうして河東郡の攻防の裏で大きく支配力を伸ばした三河は、また元の木阿弥となってしまったのだった。
****
数日後、駿府城下の松井家の屋敷に朝比奈備中守がやってきた。傍らには一人の若者を連れている。
大広間に通された備中守は、まだ酒も来ぬうちから平伏して謝罪した。こういうのは『しらふ』のうちにするべき事だと言って。
「色々と本当に申し訳なかった。弟は自害したよ……せめてそなたへの謝罪の手紙くらい書いてくれていればな、それがしも顔が立つというに。あの馬鹿者は……」
丹波守は駿河朝比奈家当主を退かせ、処分が下るまでは懸川城の地下牢に収監する事となった。
雪斎禅師と五郎八郎が退席した後、お館様は敗戦の詳細報告を三浦左馬助から受けたらしい。
お館様は真っ青な顔で立ち上がり、そのまま左馬助と二人で寿桂尼の下に向かったのだそうだ。
『今川家崩壊の危機』
そう言ってお館様と寿桂尼は毎日のように左馬助や勘助を交えて対応を協議している。処分次第では国衆の一斉離反も起こりうる事態であると、お館様と寿桂尼は恐々としてしまっているらしい。
丹波守は切腹、いやいや斬首、いやいや松井家に引き渡せと、さまざまな意見が出ており、お館様も処分を決めかねているらしい。
敗戦の責を一将に押し付けるのもどうかという意見もあり、雪斎禅師も何かしらの処分を科すべきという意見もでている。
雪斎禅師はあの敗戦の責を取ると言ってあの後からずっと自室に籠って写経をしているらしい。城からの使者には、どのような処分も甘んじて受けるつもりだと言っているのだそうだ。
処分が定まるまでは五郎八郎を呼ぶわけにもいかないと、お館様は側近二人を欠いて毎日寿桂尼と二人で頭を抱えている。
残念ながら小豆坂での戦の最中に宇津山城の朝比奈下野守が息を引き取った。下野守の嫡男は流行り病で既に亡くなっており、次男である紀伊守が宇津山の家を継ぐ事になった。
「ここに連れて来たのは下野殿の三男の肥後だ。この者に駿河朝比奈家を継がす事にした。駿河朝比奈家は所領没収がもう決まっておるのだが、若くして病死した弟宗左衛門の養子として名跡だけでもという事だ」
肥後守は平伏し、「お初にお目にかかります」と五郎八郎に挨拶をした。
「肥後は幼き頃より宗左衛門のように賢き子であってな。たから、あのような愚かな事にはならないと思う」
備中守は力無く微笑んだ。
「困った事があったら何なりと相談に来ると良い」と五郎八郎が声をかけると、肥後守は「頼もしいお言葉」と言って大喜びした。
その後、酒が入ると備中守はかなり早くに酔った。酔った上でさらに酒を入れ、そこから思い出話を始めた。
――備中守には二人の弟がいた。丹波守と宗左衛門尉。
幼少の頃、備中守は寡黙だったせいか、愚兄賢弟と親族には散々に馬鹿にされた。槍を扱わせれば万夫不当と持て囃された丹波守、いずれはお館様を補佐すると持て囃された宗左衛門尉。そんな二人と比べられて、これといった取り柄の無い備中守は愚兄だ愚兄だと蔑まれ本当に悔しい思いをしてきた。
だが宗左衛門尉は、元服してたった数年で蔓延した流行り病によって世を去った。
丹波守は叔父の弥三郎が他界すると駿河朝比奈家を相続。ところが……
「なぜ賢弟だったはずのお前たちは、それがしを残して先に旅立ってしまったんだ……」
備中守は号泣し、そのまま酔って寝てしまったのだった。
正直言って五郎八郎は槍も刀もさっぱり。それでも身を守るために精鋭に囲まれて必死に応戦した。そのせいで鎧はぼろぼろ。
弥三に代わって新たに召し抱えた小姓の喜八は五郎八郎の楯となって若い命を散らした。兵庫助の小姓も同様である。
五郎八郎が陣幕に入ると、諸将は視線を反らした。雪斎禅師もその姿に痛ましいという目を向ける。備中守が立ち上がって「そなたが無事で本当に良かった」と声をかけた。
そんな備中守を無視し、五郎八郎は真っ直ぐ雪斎禅師の前に歩み出た。
「禅師。これはどういう事ですか? 何故本陣がここにあるのです? もしかして、それがしを戦場で謀殺しようとなさったのですか? 返答次第ではそれがしにも覚悟というものがありますぞ?」
五郎八郎が問いただすと、雪斎禅師は慌てて床几を立った。
「軍議の決定を急場で覆したのは謝る。だが、変更になったと急使を送ったはず。敵兵を前にして退く難しさはわかるが、従わなかったらこうなるのは当たり前ではないか」
雪斎禅師がそう述べると、我らも突然急使が来て変更を知らされ、ここに陣を変えたのだと三浦左馬助たちが言い出した。
「……我が隊にはそのような急使は来てはおらぬ!」
地獄の釜の音かのような低く恨ましい声を五郎八郎は発した。
そんな馬鹿なと驚いた雪斎禅師だったが、何かを察し、恐る恐る朝比奈丹波守の方に視線を移す。諸将の視線が一斉に丹波守に注がれる。
「そ、それがしは……退却がなるべく自然に見えるようにと……」
震えるような声で言い訳を始めた丹波守にじりじりと五郎八郎は近づいていく。床几から立ち上がり後ずさる丹波守の顔面を思い切り殴りつけた。丹波守の鼻から鮮血がほとばしる。
床几に足を引っかけて地面に転がった丹波守を五郎八郎は何度も何度も踏みつけた。さらに腰から太刀を引き抜き丹波守が動けぬように足で踏みつけ刀を持ち上げた。敵を斬った時に付いた血がぽたりと丹波守の顎に落ちる。
そこで備中守に背後から抱きつかれ制止を受けた。
「離せ! あんただって今の戦いで家人を何人か失っただろ! こいつの、こんな奴の入れ知恵で、死ななくて良い家人たちは死んでいったんだぞ!」
腰には大沢左衛門佐が、胸には天野安芸守が抱き着いている。二人とも必死の形相である。
「気持ちはわかる。それがしが逆の立場なら地位も家督も捨てて問答無用で斬り捨てたであろう。だが、そなたは禅師と共に今や今川家にはなくてはならない者だ。ここでその者を殺めれば、駿府に帰ってそなたが処罰を受ける事になるやもしれぬ。気持ちはわかるが頼むから落ち着かれよ」
備中守の必死の説得に五郎八郎は何とか振り上げた刀をゆっくりと腰まで下げ、丹波守の顔の横の地面に突き刺した。足下では丹波守は股間をびしょびしょに濡らして打ち震えている。
すまなかった。
小さいが確かにそんな声が聞こえた。声の主は雪斎禅師であった。
「総大将として土壇場で判断を変えた拙僧の責だ。竜美台では乱戦になりこちらにも少なくない犠牲が出る。龍泉寺であれば一方的に迎撃ができ、その上、織田弾正の首が取れるかもしれんと言われ、そちらに傾いてしまったのだ」
松井五郎八郎ならここまで誘引して来れるはずだから問題無い。松井軍は多少の犠牲をはらうかもしれないが、織田弾正忠の首と秤にかければ考慮する程の事ではない。
丹波守のみならず一宮出羽守も本陣にやってきて丹波守の案を採用すべしと提案してきた。
既に各軍は出発してしまっており軍議を開く事はできないから、急使を送って作戦替えを知らせればよい。もし松井殿が承服されなければ軍を引き払って戻って来るだろうと。
「つまり……それがしに反対されるのが嫌で急使を送らなかった。そういう事か……」
五郎八郎は脇差を抜くと、丹波守の前に放り投げた。それを見て丹波守が小さく悲鳴をあげる。
「お前はそのくだらない功名心で、数多の兵と今川家の威信を大きく損ねたのだ。責任の取り方くらいは、そなたの父から聞いて心得ておるのであろう? まったく、親子二代で当家にそこまで何の恨みがあるというのやら」
その一言を聞き、備中守は五郎八郎を押しのけ前に歩み出た。その顔は完全に鬼の形相のそれ。
備中守は地に這いつくばっている丹波守の襟首を強引に引き上げ、胸倉を掴んで持ち上げた。
「まさかきさま! 蟄居している父から五郎八郎殿を戦場で消せと仰せつかって来たのではあるまいな! もしそうであれば、それがしは朝比奈宗家の当主として断じてきさまら親子を許さぬぞ!」
「どうなんだ!」と備中守は震えて泣いている丹波守を問い詰めた。丹波守の股からぽたぽたと雫が落ちる。
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備中守は丹波守の顔面を思い切り殴りつけた。その衝撃で丹波守は気絶してしまった。
「五郎八郎殿、此度は大変申し訳なかった。この詫びは駿府に帰ったらしっかりとさせていただく。……駿河朝比奈家は別の者に継がせる。丹波守親子の処遇は駿府に帰るまでに考える。そなたが望むなら、それがしも腹を切る。だから、だから今は気分を収めてくだされ」
そう言うと備中守は跪き、五郎八郎が放った脇差を拾い、両手で掲げて五郎八郎に返した。
****
遠江に戻る間、五郎八郎は兵庫助に、孫二郎と相談し家人を何人か雇用するようにと命じた。また此度の事で夫を失った寡婦が多く出ているから、源信和尚と相談して城の銭と米を放出して十分に労うようにとも指示した。
孫二郎には、せっかく鍛え上げてくれた精鋭を失った事を謝罪し、堤城から兵を融通してもらうから再度精鋭を鍛え直してくれとお願いした。
「こういう事は今の乱れた世であれば頻繁に起こりうる事です。あまり気に病まないでくだされ。彼らには常日頃、殿、若殿に功績をあげさせる為に身を捧げろと命じておりました。お二人をお守りできて、彼らは満足しておる事でしょう」
そう言って孫二郎は微笑んだのだった。
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駿府に帰った五郎八郎は雪斎禅師と二人、即座にお館様に呼び出された。寿桂尼と山本勘助も呼び出しを受けている。
此度の敗戦で三河の情勢はどうなると見るか。それがお館様が敗戦の詳細よりも知りたがった事であった。
「恐らく、今後三河は大きく織田家になびく事でしょう。今川は弱兵。彼らはそう認識したはずです」
神之郷城の鵜殿三郎はお館様と婚姻関係があるので容易には裏切らないかもしれない。東条城、西尾城の吉良家は共に当主は幼子だが両者は兄弟であり、母はお館様の姉上である事から、ここも大丈夫ではないかと推測する。
だが他は恐らく織田家になびくか中立化してしまうだろうというのが雪斎禅師の推測であった。五郎八郎、寿桂尼、勘助も概ね同感であった。
「いずれにしても、三年前の大風、一昨年の大飢饉、そして今年の二度の敗戦と、遠江はぼろぼろです。立て直しには暫く時間がかかるでしょう。当家の二俣城もほとんどの精鋭を失い、立て直しにどれほどかかるやら……」
恐らくは井伊家、懸川城、宇津山城の朝比奈家も同様であり、匂坂家も似たような状況であろう。
田原城の戸田家は完全にこちらを離れるであろうから、暫くは曳馬城の飯尾家に踏ん張ってもらわないといけない。
その五郎八郎の現状報告に、お館様は悲痛な表情を浮かべた。
「此度はご苦労であった」
そう言うのが精一杯であった。
こうして河東郡の攻防の裏で大きく支配力を伸ばした三河は、また元の木阿弥となってしまったのだった。
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数日後、駿府城下の松井家の屋敷に朝比奈備中守がやってきた。傍らには一人の若者を連れている。
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「色々と本当に申し訳なかった。弟は自害したよ……せめてそなたへの謝罪の手紙くらい書いてくれていればな、それがしも顔が立つというに。あの馬鹿者は……」
丹波守は駿河朝比奈家当主を退かせ、処分が下るまでは懸川城の地下牢に収監する事となった。
雪斎禅師と五郎八郎が退席した後、お館様は敗戦の詳細報告を三浦左馬助から受けたらしい。
お館様は真っ青な顔で立ち上がり、そのまま左馬助と二人で寿桂尼の下に向かったのだそうだ。
『今川家崩壊の危機』
そう言ってお館様と寿桂尼は毎日のように左馬助や勘助を交えて対応を協議している。処分次第では国衆の一斉離反も起こりうる事態であると、お館様と寿桂尼は恐々としてしまっているらしい。
丹波守は切腹、いやいや斬首、いやいや松井家に引き渡せと、さまざまな意見が出ており、お館様も処分を決めかねているらしい。
敗戦の責を一将に押し付けるのもどうかという意見もあり、雪斎禅師も何かしらの処分を科すべきという意見もでている。
雪斎禅師はあの敗戦の責を取ると言ってあの後からずっと自室に籠って写経をしているらしい。城からの使者には、どのような処分も甘んじて受けるつもりだと言っているのだそうだ。
処分が定まるまでは五郎八郎を呼ぶわけにもいかないと、お館様は側近二人を欠いて毎日寿桂尼と二人で頭を抱えている。
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肥後守は平伏し、「お初にお目にかかります」と五郎八郎に挨拶をした。
「肥後は幼き頃より宗左衛門のように賢き子であってな。たから、あのような愚かな事にはならないと思う」
備中守は力無く微笑んだ。
「困った事があったら何なりと相談に来ると良い」と五郎八郎が声をかけると、肥後守は「頼もしいお言葉」と言って大喜びした。
その後、酒が入ると備中守はかなり早くに酔った。酔った上でさらに酒を入れ、そこから思い出話を始めた。
――備中守には二人の弟がいた。丹波守と宗左衛門尉。
幼少の頃、備中守は寡黙だったせいか、愚兄賢弟と親族には散々に馬鹿にされた。槍を扱わせれば万夫不当と持て囃された丹波守、いずれはお館様を補佐すると持て囃された宗左衛門尉。そんな二人と比べられて、これといった取り柄の無い備中守は愚兄だ愚兄だと蔑まれ本当に悔しい思いをしてきた。
だが宗左衛門尉は、元服してたった数年で蔓延した流行り病によって世を去った。
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