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『桶狭間の戦い編』 天文十八年(一五四九年)
第71話 米を売ってください
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遠征軍の編制には非常に銭がかかる。さらに準備に時間もかかる。
まず米を買って前線の城に送り届けないといけない。米の購入は狭い地域で行ってしまうと、その地域の領民が米不足にあえぐことになってしまう。その為、広い地域で購入し送り届けないといけない。
さらには現地で何かと物入りになる為、大量の軍資金が必要となる。これも事前に前線近くの城に送り届けておかないといけない。
動員をかけられる人数も把握しておかないといけないし、こういう時期に代替わりする家が現れるとそれも把握しておかないといけない。
例えば、遠江では秋葉城の天野小四郎が病で急死している。嫡男の宮内右衛門尉という者が後を継いだのだが、小四郎に比べ経験不足の感は否めず、戦力としては数えられなくなってしまった。
さらには堀江城の大沢左衛門佐が亡くなった。実は先の三河での戦の前に嫡男の治部少輔が家督を継いではいたのだが、この者はあまり武働きに向いた人物とは言い難く、戦場には隠居の左衛門佐が出てきていた。
隠居していた天方山城守も亡くなっている。さらに馬伏塚館の小笠原信濃守も老衰で亡くなっており、嫡男の左京太夫に代替わりしている。
尾張遠征の準備に明け暮れていたある日の事。
陽はとうに落ち、駿府の城下は静まり返り、灯りといえば夜空に鎮座する月くらい。五郎八郎も菘と二人で寝所で眠りに付いている。侍女たちも屋敷内の灯火を消し、眠りに付いていた。
そんな静けさの中、突然屋敷の柱がみしみしと音を立てた。パラパラと天井から埃が落ちてくる。
突然ずどんという何か突き上げるような音がしたと思ったら、屋敷全体が大きく揺れた。五郎八郎は布団をかぶり、とっさに菘を庇うように覆いかぶさった。
ゆらりゆらりと屋敷が揺れ、みしみしと悲鳴をあげる。飛び起きた侍女たちが金切り声をあげて泣き叫んでいる。
永遠とも思えた揺れは徐々に収まり、五郎八郎は菘と無事を喜び合った。
少しだけ気分が落ち着くと、菘は「苫は大丈夫かしら」と言って、次女の苫の寝所へと駆けて行った。
入れ替わりに和田八郎二郎が無事を確かめにやってきた。
「それがしは大丈夫だ。それより家人と郎党を引き連れ、城下の様子を見に行って来てくれ。恐らく狂乱になっているだろうから武器を持って行け。それと狼藉者を見つけたら構わんからその場で処分しろ」
屋敷内の事は女性たちが何とかするから、男性たちは城下の警護と家屋に潰されている人の救助をするようにと八郎二郎に命じた。
五郎八郎が憂慮したように城下は大混乱であった。八郎二郎と篠瀬藤三郎は区画を区切って通りを封鎖。松井家の屋敷に近い所から徐々に安静な区画を広げていった。その一方で常葉又六が近隣の武家屋敷を回って、五郎八郎が八郎二郎に下した命を次々に伝えていった。
どうやら雪斎禅師と山本勘助も同様の事を行ってくれていたようで、朝方にはかなりまで混乱は鎮まった。
翌日から徐々に被害状況が駿府城に寄せられてきた。
どうやら遠江から西ではほぼ影響は無かったらしい。少し揺れたがそちらは大丈夫かという程度の書状ばかりであった。遠江に近い朝日山城の岡部美濃守の報告が、かなりまで被害が少ないように感じる。
どうやら宇津山峠から東、駿府城の城下も含め、特に河東郡でかなり甚大な被害が報告されている。田が崩れてしまった、家屋が倒壊してしまった、川の堤が崩れた等々、被害状況は多岐にわたっている。城壁が崩れた、本丸の地面に大きな亀裂が入ったという報告も入っている。
被害の状況からするに、恐らくは関東の直下地震だと五郎八郎は推測した。となると、恐らくは北条家の被害は甚大な事になっているであろう。
****
五郎八郎の推測は的中していた。
北条家はその領内で広く地震の被害を出しており、住む家を失った者が大量に発生。そういった場合、普段であれば寺社が面倒をみるものだが、その寺社も倒壊してしまっている。さらには火災も起こったようで、焼け野原になってしまった村も各地で出ている。
それでも城はそれなりに頑丈に作られており、多くの領民が城内に避難しているらしいのだが、そこまでの人数を養えるほど城内に米の備蓄は無い。さらに悪い事に、田畑が深刻な被害を受けてしまっている。
絶望した領民たちは流民となって北条領から逃げ出してしまっており、今川領内にも大量の流民が押し寄せてきたのだった。報告を受けた五郎八郎は、すぐさま荻図書助と一宮出羽守に書状を送り、流民たちを一旦興国寺城下へ集結させるように命じた。
お館様を中心に雪斎禅師、五郎八郎たち重臣が集まって協議し、兵として募兵に応じるのであれば受け入れ食料も与える、そうでないのなら山賊として討伐するという選択を突き付けた。流民のほとんどが家族の食を貰えるのならと募兵に応じ、当座の食料を得て遠江や三河に向かって行った。
当然のように、この動きは武田領にも波及している。甲斐では流民が地元民の家から物を盗んだり、勝手に畑の野菜を食べてしまったりして大混乱に陥っているらしい。
甲斐でも北条領ほどではないにしてもかなりまで地震の被害は出ている。信濃はほとんど被害は無かったが、そこまで米の生産が盛んというわけではない。結果として深刻な米不足に陥ってしまっている。
****
ある程度今川家での混乱が収まった日のことだった。駿府城に北条家の外交僧、宗哲和尚がやってきた。その面持ちは非常に悲壮的であり、主である新九郎からかなり難航しそうな交渉をお願いされた事が容易に察せられる。
お館様も雪斎禅師も、宗哲和尚を見る目が非常に冷たい。
実は先日、地震にかこつけて、流民に紛れて風間の乱破が送り込まれていた事が発覚した。既に勘助の手の者によって処分はされている。だが、災害を利用してその行為に及んだ事に、二人は腹を立て続けているのである。
宗哲和尚が来たと聞いた時にも、二人はどの面下げてと声を荒げていた。
宗哲和尚は主の新九郎を左京太夫と呼んだ。どうやら河東郡の争乱の後で、父の官位を相続したらしい。
「左京太夫は、先代が貴家に対して行った非礼の数々を大変悔いております。左京太夫は上総介様の姉婿です。その縁を大事とし、今川家との協力を密にしたいと所望しております」
龍王丸君元服のみぎりには、是非とも当家の姫を正妻として迎えていただきたいと考えている。宗哲和尚は床に額を擦り付けてそう懇願した。
宗哲和尚は平伏したままであるのだが、誰も何の声もかけない。宗哲和尚の言が所詮は上辺だけのものだと感じているからである。
皆が黙っているので渋々お館様が声をかけた。
「和尚。残念だが和尚の言葉は軽いのだ。我らには謝罪の言葉は何も響いておらん。故にその後の話も入ってこぬ。匕首を懐に隠して頭を下げたとて、誰も信用はしないであろうよ」
そこを曲げてと、宗哲和尚はなおも額を床に擦り付ける。
外交の話ということで同席していた五郎八郎の父山城入道が口を開いた。
「和尚。本当に当家との関係を良くしていこうというのであれば、何故に火事場泥棒かのように乱破を差し向けた? 何かあった時にいつでも牙を向けるためと思われても仕方あるまい。かような口先の小細工よりも本当の要求をさっさと申した方が良いのではないか?」
山城入道の指摘に、宗哲和尚は「乱破の件は頭領が勝手にやった事」と言い訳した。
だがその言い訳に一同が不快な顔をすると、「ただし、勝手にやった事ではあるが左京太夫の責任は免れぬ」と付け加えた。「帰ったらそれ相応の対処をするから勘弁していただきたい」と。
それがどこまで信用できるというのだ。今川家の一同の顔にはそう書いてあるかのようであった。
これはもう駄目かもしれないと宗哲和尚も感じたのだろう。暗い顔でうつむき吐息を漏らした。
「先日の地震で、領内はぼろぼろ、このままでは未曾有の飢饉は必死。米を買おうにもその米が無いという有様です。恥を忍んでお願いします。武田家にお売りになる残りで構いません。当家にも米を売ってはいただけないでしょうか?」
先代のむき出しの野望のせいで、周辺の家々全てと揉めており頼れる家は今川家だけ。この御恩は子々孫々にわたって語り継いでいくので、関東の民草の為だと思ってお願いしたい。
そう言った宗哲和尚の声は震え、肩も震えている。ここで否と言われたら、その場で自害でもする気なのだろう。
そこでようやく雪斎禅師が口を開いた。
「全ては自業自得ではないか」
そう宗哲和尚に聞こえるように呟いた後で言葉を続けた。
「先日、武田家は当家の姫を嫡男の正妻に迎えさせて欲しいと言ってきた。そちらの家にもそれなりに成長した世継ぎがおろう。武田家の姫を正妻に迎えて三家の結びを強くするというのはどうであろうな?」
それは米の件も承諾だと暗に言っているという事であった。宗哲和尚は平伏したまま何度も何度も礼を述べ、目に涙を浮かべながら退室した。
まず米を買って前線の城に送り届けないといけない。米の購入は狭い地域で行ってしまうと、その地域の領民が米不足にあえぐことになってしまう。その為、広い地域で購入し送り届けないといけない。
さらには現地で何かと物入りになる為、大量の軍資金が必要となる。これも事前に前線近くの城に送り届けておかないといけない。
動員をかけられる人数も把握しておかないといけないし、こういう時期に代替わりする家が現れるとそれも把握しておかないといけない。
例えば、遠江では秋葉城の天野小四郎が病で急死している。嫡男の宮内右衛門尉という者が後を継いだのだが、小四郎に比べ経験不足の感は否めず、戦力としては数えられなくなってしまった。
さらには堀江城の大沢左衛門佐が亡くなった。実は先の三河での戦の前に嫡男の治部少輔が家督を継いではいたのだが、この者はあまり武働きに向いた人物とは言い難く、戦場には隠居の左衛門佐が出てきていた。
隠居していた天方山城守も亡くなっている。さらに馬伏塚館の小笠原信濃守も老衰で亡くなっており、嫡男の左京太夫に代替わりしている。
尾張遠征の準備に明け暮れていたある日の事。
陽はとうに落ち、駿府の城下は静まり返り、灯りといえば夜空に鎮座する月くらい。五郎八郎も菘と二人で寝所で眠りに付いている。侍女たちも屋敷内の灯火を消し、眠りに付いていた。
そんな静けさの中、突然屋敷の柱がみしみしと音を立てた。パラパラと天井から埃が落ちてくる。
突然ずどんという何か突き上げるような音がしたと思ったら、屋敷全体が大きく揺れた。五郎八郎は布団をかぶり、とっさに菘を庇うように覆いかぶさった。
ゆらりゆらりと屋敷が揺れ、みしみしと悲鳴をあげる。飛び起きた侍女たちが金切り声をあげて泣き叫んでいる。
永遠とも思えた揺れは徐々に収まり、五郎八郎は菘と無事を喜び合った。
少しだけ気分が落ち着くと、菘は「苫は大丈夫かしら」と言って、次女の苫の寝所へと駆けて行った。
入れ替わりに和田八郎二郎が無事を確かめにやってきた。
「それがしは大丈夫だ。それより家人と郎党を引き連れ、城下の様子を見に行って来てくれ。恐らく狂乱になっているだろうから武器を持って行け。それと狼藉者を見つけたら構わんからその場で処分しろ」
屋敷内の事は女性たちが何とかするから、男性たちは城下の警護と家屋に潰されている人の救助をするようにと八郎二郎に命じた。
五郎八郎が憂慮したように城下は大混乱であった。八郎二郎と篠瀬藤三郎は区画を区切って通りを封鎖。松井家の屋敷に近い所から徐々に安静な区画を広げていった。その一方で常葉又六が近隣の武家屋敷を回って、五郎八郎が八郎二郎に下した命を次々に伝えていった。
どうやら雪斎禅師と山本勘助も同様の事を行ってくれていたようで、朝方にはかなりまで混乱は鎮まった。
翌日から徐々に被害状況が駿府城に寄せられてきた。
どうやら遠江から西ではほぼ影響は無かったらしい。少し揺れたがそちらは大丈夫かという程度の書状ばかりであった。遠江に近い朝日山城の岡部美濃守の報告が、かなりまで被害が少ないように感じる。
どうやら宇津山峠から東、駿府城の城下も含め、特に河東郡でかなり甚大な被害が報告されている。田が崩れてしまった、家屋が倒壊してしまった、川の堤が崩れた等々、被害状況は多岐にわたっている。城壁が崩れた、本丸の地面に大きな亀裂が入ったという報告も入っている。
被害の状況からするに、恐らくは関東の直下地震だと五郎八郎は推測した。となると、恐らくは北条家の被害は甚大な事になっているであろう。
****
五郎八郎の推測は的中していた。
北条家はその領内で広く地震の被害を出しており、住む家を失った者が大量に発生。そういった場合、普段であれば寺社が面倒をみるものだが、その寺社も倒壊してしまっている。さらには火災も起こったようで、焼け野原になってしまった村も各地で出ている。
それでも城はそれなりに頑丈に作られており、多くの領民が城内に避難しているらしいのだが、そこまでの人数を養えるほど城内に米の備蓄は無い。さらに悪い事に、田畑が深刻な被害を受けてしまっている。
絶望した領民たちは流民となって北条領から逃げ出してしまっており、今川領内にも大量の流民が押し寄せてきたのだった。報告を受けた五郎八郎は、すぐさま荻図書助と一宮出羽守に書状を送り、流民たちを一旦興国寺城下へ集結させるように命じた。
お館様を中心に雪斎禅師、五郎八郎たち重臣が集まって協議し、兵として募兵に応じるのであれば受け入れ食料も与える、そうでないのなら山賊として討伐するという選択を突き付けた。流民のほとんどが家族の食を貰えるのならと募兵に応じ、当座の食料を得て遠江や三河に向かって行った。
当然のように、この動きは武田領にも波及している。甲斐では流民が地元民の家から物を盗んだり、勝手に畑の野菜を食べてしまったりして大混乱に陥っているらしい。
甲斐でも北条領ほどではないにしてもかなりまで地震の被害は出ている。信濃はほとんど被害は無かったが、そこまで米の生産が盛んというわけではない。結果として深刻な米不足に陥ってしまっている。
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ある程度今川家での混乱が収まった日のことだった。駿府城に北条家の外交僧、宗哲和尚がやってきた。その面持ちは非常に悲壮的であり、主である新九郎からかなり難航しそうな交渉をお願いされた事が容易に察せられる。
お館様も雪斎禅師も、宗哲和尚を見る目が非常に冷たい。
実は先日、地震にかこつけて、流民に紛れて風間の乱破が送り込まれていた事が発覚した。既に勘助の手の者によって処分はされている。だが、災害を利用してその行為に及んだ事に、二人は腹を立て続けているのである。
宗哲和尚が来たと聞いた時にも、二人はどの面下げてと声を荒げていた。
宗哲和尚は主の新九郎を左京太夫と呼んだ。どうやら河東郡の争乱の後で、父の官位を相続したらしい。
「左京太夫は、先代が貴家に対して行った非礼の数々を大変悔いております。左京太夫は上総介様の姉婿です。その縁を大事とし、今川家との協力を密にしたいと所望しております」
龍王丸君元服のみぎりには、是非とも当家の姫を正妻として迎えていただきたいと考えている。宗哲和尚は床に額を擦り付けてそう懇願した。
宗哲和尚は平伏したままであるのだが、誰も何の声もかけない。宗哲和尚の言が所詮は上辺だけのものだと感じているからである。
皆が黙っているので渋々お館様が声をかけた。
「和尚。残念だが和尚の言葉は軽いのだ。我らには謝罪の言葉は何も響いておらん。故にその後の話も入ってこぬ。匕首を懐に隠して頭を下げたとて、誰も信用はしないであろうよ」
そこを曲げてと、宗哲和尚はなおも額を床に擦り付ける。
外交の話ということで同席していた五郎八郎の父山城入道が口を開いた。
「和尚。本当に当家との関係を良くしていこうというのであれば、何故に火事場泥棒かのように乱破を差し向けた? 何かあった時にいつでも牙を向けるためと思われても仕方あるまい。かような口先の小細工よりも本当の要求をさっさと申した方が良いのではないか?」
山城入道の指摘に、宗哲和尚は「乱破の件は頭領が勝手にやった事」と言い訳した。
だがその言い訳に一同が不快な顔をすると、「ただし、勝手にやった事ではあるが左京太夫の責任は免れぬ」と付け加えた。「帰ったらそれ相応の対処をするから勘弁していただきたい」と。
それがどこまで信用できるというのだ。今川家の一同の顔にはそう書いてあるかのようであった。
これはもう駄目かもしれないと宗哲和尚も感じたのだろう。暗い顔でうつむき吐息を漏らした。
「先日の地震で、領内はぼろぼろ、このままでは未曾有の飢饉は必死。米を買おうにもその米が無いという有様です。恥を忍んでお願いします。武田家にお売りになる残りで構いません。当家にも米を売ってはいただけないでしょうか?」
先代のむき出しの野望のせいで、周辺の家々全てと揉めており頼れる家は今川家だけ。この御恩は子々孫々にわたって語り継いでいくので、関東の民草の為だと思ってお願いしたい。
そう言った宗哲和尚の声は震え、肩も震えている。ここで否と言われたら、その場で自害でもする気なのだろう。
そこでようやく雪斎禅師が口を開いた。
「全ては自業自得ではないか」
そう宗哲和尚に聞こえるように呟いた後で言葉を続けた。
「先日、武田家は当家の姫を嫡男の正妻に迎えさせて欲しいと言ってきた。そちらの家にもそれなりに成長した世継ぎがおろう。武田家の姫を正妻に迎えて三家の結びを強くするというのはどうであろうな?」
それは米の件も承諾だと暗に言っているという事であった。宗哲和尚は平伏したまま何度も何度も礼を述べ、目に涙を浮かべながら退室した。
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