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第二章
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しおりを挟む「婚約破棄されたの。十年来の婚約者に」
グラスから目を離さず、彼女は淡々と言葉を紡いだ。
破棄ということは、一方的に縁を切られたということだ。十年来の婚約者に…。それは物語の中だけだと思っていた出来事だが、実際にそんな目に遭った人を前にすると、心から気の毒に思う。相手を愛していたのなら、尚更だ。
「その人との婚約は政略的なものだった。最初はお互い家のためと割り切っていたけど、一緒の時間を過ごしていくうちに、少しずつ愛情が芽生えていったわ。でも、たった一人の女性の前では、それも何の意味もなかったみたい」
彼女はどんなに時間をかけて築いた関係も、『真実の愛』には敵わないと皮肉を言いたいんだろう。僕は、こういう時に出る『真実の愛』というものに、どうにも嫌悪感を感じてしまう。それはきっと、それに振り回される人を顧みない身勝手さが、ひどく目につくからかもしれない。
「相手は平民らしくて、彼はその人を追って家を出ていったの。…自分の家を捨ててもいいと思えるくらい、愛していたのかしらね」
顔は辛そうに歪んでも、口元の笑みは絶やさず、彼女は一粒の涙も流さなかった。それは令嬢としての矜持なのか、彼女自身の気質がそうさせているのかは分からない。ただ、一つだけ分かるのは、彼女は愛していた婚約者が自分の元を去り、深く悲しんでいるということだ。
───痛いほどわかる。
「……情動の涙は、心を開放すると聞きます」
僕が口を開くと思っていなかったのか、彼女とウィルさんは少し驚いた様子で僕に視線を向けた。
「あなた様の心が、暁の方へ向かうお手伝いを、僕にもさせていただけませんか?」
僕はウィルさんに近づき、「ピアノ、お借りしますね」とだけ言ってカウンターから出た。するとウィルさんは、ピアノが置いてある場所の照明を点け、女性が演奏を聞きやすいように、ピアノの向きを変えてくれた。
自分の歌と演奏で涙を誘うなんて、おこがましいにもほどがある。でも、それでも彼女のために何かしたかった。それに、僕自身も彼女の話を聞いて、悲しみが湧き上がってきた。完全に自己満足だけど、今はこの悲しみを昇華させたい。
奏でたのは、もう愛されることも、必要とされることもないのに、それでももう一度逢いたいと願う、去っていった愛しい人を想うバラード曲だった。
演奏中、僕はずっとルークの顔を思い浮かべていた。かつての幸せな記憶が蘇る毎に、奏でる旋律がより切なくなる。
自分の感情が上手く音に載ったのか、演奏の合間に女性の嗚咽が聞こえた。もう少しで演奏が終わりそうになる頃、ウィルさんに視線を向けると、彼の唇が無言で「続けて」と動いた。
2曲目からは、気持ちが前向きになれるような曲を続けて演奏した。彼女の悲しみを僕の演奏程度で軽くすることはできないが、ほんの少しでもその手助けができるのならと、優しい旋律を奏でた。
それから数曲演奏を続け、最後の曲を弾き終えると、女性が静かに拍手をしてくれた。目が赤く、周囲が少し腫れていたが、彼女は隠そうとはせず、どこか晴れやかな表情をしていた。
「あなた方の心遣いと、素晴らしい演奏に感謝を」
女性は立ち上がり、上品に会釈をしてそう言った。そして、ドアの近くに控えていた従者に目配せすると、従者は懐から革袋を取り出し、カウンターテーブルに置いた。
「本当はもっと礼を尽くしたいのだけれど、生憎と今夜はこれだけしか持ち合わせがないの」
「これは…、あまりに過分でございます」
「私を暁の方へ導いてくれたお礼よ。それに、美しい夜明けの星も見つけられたしね」
彼女はウィルさんの後ろに控えていた僕の方を見て、軽くウインクをした。気位の高いお嬢様かと思っていたが、実は意外とフランクな方なのかもしれない。
「次は、友人と一緒に寄らせていただくわ」
「またのお越しを、お待ちしております」
従者がドアを開き、彼女は優雅に店をあとにした。馬車に乗り込むと、点々と灯りがともる通りを貴族街の方へ向かって動き出し、やがて夜の闇に消えていった。
僕とウィルさんは緊張の糸が切れて、「ふぅ~っ」と重い息を吐きながらその場に座り込んだ。
「アナタって一体何者?何なの、あの歌!鳥肌が立っちゃったわ」
「ウィルさんこそ、あんな立ち振る舞いができるなんて、僕聞いていませんよ?」
互いの顔をじっと見つめ、何を言い出すでもなく一瞬の沈黙が流れると、どちらからともなく笑い出した。
「とりあえず、今日は一日お疲れさま。片づけを終わらせて、早く休みましょう。話はまた明日ね」
「はい」
それから二人で食器の片づけや、店内の清掃に取り掛かった。終わるころには日付が変わり、僕はヘトヘトになって自室に戻った。すぐさまベッドに倒れ込み目を閉じると、あっという間に深い眠りに吸い込まれていく。
こうして、王都での新生活、第一日目の夜が静かに更けていった。
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