離した手の温もり

橘 凛子

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始動

ep.38

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「美愛、あのさ…」
『ん?』

二人の間に和やかな雰囲気が流れたその時。

蒼ちゃんが静かに口を開いた。

どこか言いづらそうにしている。

『蒼ちゃん……?』
「またこうやって美愛と過ごしたいって思うのは図々しい…?」
『………』
「美愛にその気がないのはわかってる。でも俺は美愛といたい」

蒼ちゃんは少し弱々しげに言った。

わかっていた。

彼がこう言ってくるのは。

私だって出来る事なら戻りたい。

何事もなかったかのように隣にいたい気持ちはある。

だけど、その資格は私にはない。

あんなことしといて元通りになれるはずはなかった。

『わたしは…』
「もしあの時の事気に病んでるんなら、気にしなくていいよ。
俺、焦ってたんだ…」
『え……焦る?』
「さっき美愛が俺の店の子に嫉妬してたって言ってたろ?」
『え、うん…?』
「俺もそうなんだ」
『え…?』
「彗と美愛の仲に妬いてた。いつか彗に奪われるんじゃないかって…
それでプロポーズした」
『そう…だったんだ』

そんな裏事情があったのか。

知らなかった。

今思えば蒼ちゃんと一緒にいた頃も彗くんとの関わりは変わらずにあった。

彼の店に呑み行ったり、絢子さん達に会いに行ったりと家族ぐるみの付き合いを。

蒼ちゃんの立場からしたらいい気はしないだろう。

今更気づいた。

自分の配慮のなさに私はため息が漏れる。

『ごめん、私気がつかなくて』
「いや、美愛にとって彗が家族みたいな存在なのは知ってる。育った環境が環境だし…」
『………』
「ただ俺がガキだっただけ」
「そんなこと…」

なんでもっと別れるとき話し合わなかったんだろう。

話し合っていれば、こんな道は辿らなかった。

自分の言い分だけ主張して蒼ちゃんの話も聞かずに私は県外へ逃げてしまった。

最低だ。

『蒼ちゃん、わたし…
ごめんなさい。話聞くべきだった』
「もういいよ。こうやって会えたから」

蒼ちゃんは目を細めて優しく微笑んで言った。

恋人同士だった頃よく向けてくれた笑顔。

今は直視出来ない。

『わたし…』
「すぐに答え出さなくていいよ。ただ…」
『?』
「今日っきりにするつもりないから。美愛の思い通りにはさせないよ」
『………』
「帰ろうか。明日も仕事でしょ」
『あ、うん…』

蒼ちゃんは重たい空気を一掃するかのように明るく振る舞って立ち上がった。

私もそれに続く。

レジに向かわれると思われたその足は出入口へと向かっている。

『ちょ…ちょっと!
蒼ちゃん、お会計!』
「ん?
ああ…払っといた。美愛がトイレ行ったときに」
『な…』

私は絶句して立ち止まる。

そうだった。

蒼ちゃんも払いたがりの人だった。

すっかり油断していた。

スタスタ、と店を出て行く彼の大きな背中を私は慌てて追う。

夜風が私達の頬を撫でた。
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