笑顔の花は孤高の断崖にこそ咲き誇る

はんぺん千代丸

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31 愛情の在り処

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「もしかしたら俺の心の奥底には母に対する幻想の残滓くらいはあるのかもしれない」

 ラングリフ様は言われました。

「現実を知ることで、今度こそそれを除くことができそうだ。どうせ、書かれているのは呪詛の言葉だろうからな」

 それは、あまりにも悲しい言葉。
 強くあろうとしてきた彼は、そうして深い諦観の中で生きてきたのでしょう。

 私は、何も言いません。
 これはラングリフ様とルリカ様の問題なのです。

 彼がそれに向き合うことを決めてくれたなら、私が言うべきことはありません。
 部屋の真ん中に立ったままで、ラングリフ様はルリカ様の日記を開きました。

「その日記は、陛下に見初められてこの国に来てから書かれたもののようです」
「そうか」

 言葉短く応じて、彼は日記を読み始めました。
 私もすでに読み終えた日記の内容は、前半は陛下との日々に関する内容です。

 陛下との間に育まれた愛情と、異国へ嫁ぐことへの不安。
 祖国に残した家族に対する未練などが、覚えたばかりの文字で綴られています。

「アンジェリカ様とは、仲が良かったようだな」

 ポツリと、ラングリフ様が零されました。

「はい、まるで姉妹のように感じられると書かれておりますね」
「それにしても汚い字だ。異なる文化圏から嫁いだから、仕方がないのだろうが」

 無表情のまま、彼はさらに先へと読み進めていきます。
 ペラリ、ペラリと、しばらくページをめくる音だけが部屋に流れていきます。

 ラングリフ様が日記を読む姿を、私とマリセアさんは黙って見ています。
 彼の様子に変化が生じたのは、読み始めて何分経った頃でしょうか。

 急に、ページをめくる手が止まりました。
 彼は日記を睨んでいるかのようで、傍から見ても鬼気迫るものがありました。

「……『今日、新しい命を授かったことがわかった。あの人との子だ。嬉しい。私のような人間でも母になることができるのだと思うと、幸福で胸がいっぱいになった』」

 そこに書かれている内容を、私はそらんじました。
 ラングリフ様がハッと顔をあげて、驚きの顔つきで私の方を向きます。

「リリエッタ、君は……」
「今、ラングリフ様が読まれたのはそのページですよね」

 私は、あの日記帳を見つけて以降、彼が戻る今日まで、何度も読み返しました。
 何度も、何度も、そこに書かれている内容を暗記してしまうくらい。

「…………」
「邪魔をして申し訳ありません。どうぞ、続きを読んでください」
「……そうだな。ここにある母の喜びも、すぐに悲嘆にとって代わるのだろう」

 そう言って、ラングリフ様は日記をまた読んでいきます。
 でも、そこに見える彼は、その表情を少しずつ変えていくのです。

 その瞳はまばたきを少なくし、ページをめくる手は荒っぽくなっていきます。
 肩の震えは全身へ伝播して、彼はその身を激しくわななかせました。

 ぺラリ。
 ぺラリ。
 めくられていく、日記のページ。

 さらに激しくなっていく、ラングリフ様の身の震え。
 ついにまばたきをしなくなった目は、左右に揺れて日記を読みこみます。

「何だ、これは……」

 愕然となって漏らす彼の頬を、幾筋も汗が伝い落ちていきました。

「何なのだ、何だ、何だこれは……、どういうことなんだ、リリエッタ!」

 弾かれるようにして顔をあげ、ラングリフ様は私にそれを尋ねてきました。
 もはや、半ばすがりつくようでもありました。彼は、私に助けを求めたのです。

「そこに書かれている通りです、ラングリフ様」

 だけど、私にはそう答える以外ありませんでした。

「バカな、俺にこれを信じろというのか、こんな、こんな……!」
「はい、そうですよね。あなたの心情を思えば、とても信じられるはずがありません。でも、そこに書かれている内容の通りです、ラングリフ様」

 私は告げます。
 彼にとって、全てを裏切るであろう一言を。

「ルリカ様はあなたを愛していらっしゃいました」

 日記に書かれていた内容のうち、後半は全てラングリフ様に関するものでした。
 そして、その中に、彼を呪うものなど一つもなかったのです。

 例えば、ひどくなるつわりが辛いという日記がありました。
 そこには、苦しみの果てにある我が子との出会いへの期待が綴られていました。

 例えば、大きくなったおなかのおかげで動きにくいという日記がありました。
 そこには、おなかの中で子供が順調に育っている喜びが綴られていました。

 書かれている全てに、ラングリフ様への愛情が感じられました。
 子を想う母の尽きぬ慈愛が、一文字一文字から溢れているかのようでした。

 我が子を想い、我が子の未来を夢見て、我が子の幸せを心から願う。
 日記に綴られていたのは、とてもありふれた、至上の愛の軌跡だったのです。

「君は、俺にこれを信じろというのか、リリエッタ!」

 ですが、ラングリフ様はそれを受け入れることができずにいるようでした。

「これが我が母ルリカの真情であったと、信じろと!? 今さらになって、母からの愛情を信じろというのか、生まれたその日に呪われた、笑えないこの俺に!」

 叫ぶラングリフ様の瞳が揺れて――、いいえ、潤んでいます。
 ルリカ様について諦め続けてきた彼には、受け入れがたいことなのでしょう。

 その痛みを、推察することはできても感じられるとは口が裂けても言えません。
 今、ラングリフ様が感じられている胸の痛みは私の想像を絶します。

 だけど、それでもまだ終わっていないのです。
 むしろここからが、ラングリフ様が知るべき真実なのです。

「ラングリフ様、まだ、あなたは日記を全て読み終えておりません」
「もういい、もうたくさんだ! これ以上、俺は、こんなものを読みたくは――」

「そこに、全ての答えがあるとしてもですか?」
「な、に……?」

 動きを止めるラングリフ様へ、私は告げるのです。

「あなたが抱えられている苦しみに対する全ての答えが、その日記にあるのです」
「俺の苦しみへの、答え……」
「読んでくださいませ、ラングリフ様。そして、ルリカ様を知ってください」

 会ったこともない、ラングリフ様の母君、ルリカ様。
 だけど私は、形こそ違えど同じく彼を愛する者として、そのお心を感じます。

「……今日ほど」

 ラングリフ様が、天井を仰がれました。

「今日ほど、君という人の頑なさを感じたことはないよ、リリエッタ。あのパーティーのときよりもよっぽど今の方が凛々しいじゃないか」
「私に強くあることを教えてくださったのは、ラングリフ様です」
「その言葉を嬉しく思ってしまうのだから、俺も大概、君に参っているな」

 あらぶっていた気配がすっと静まって、ラングリフ様は日記をまた開きました。
 残りページはあとわずか。
 そして、彼が全てを知るのも、もうすぐです。
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